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七章『思い出の国のありす』

「……返事がない。ただの屍のようだ」

 鼻先がつままれて、呼吸困難となった彼は冷たい地面から身を起こす。

「っつぶふッ! 殺す気かよ、あんた!」

 日が暮れかけている。

「夕焼け……あいつと最初に会った森の中……あいつって……誰だ?」

 外人墓地という場所でもあり、さびしげな風景は喪失した夢の残照として、既視感を呼んだ。

「いまどき珍しく行き倒れしてたとこ、起こして悪いね少年」

 しゃがんでいた彼女がそう言う。

「それにしても……どこかで見たことあるような顔だね。もしかして夏冬のお祭りで、あたしのサークルに来たことある? 連載一周年目前ににして廃刊になったマンガ雑誌とかも愛読してた?」

「……夢の中だろ。たぶん」

「なかなか詩的な出会いね。ところで気持ちはわかるけど、ずっとそーやってると財布を取ろうとするのとか、BL的な意味で寝込みを襲うバカが来ないとも限らないし」

 ふち無しメガネの奥から、いたずらっぽい微笑がのぞき込んでいる。

「別にいい。たっぷり寝てた気……するからな」

「そっかそっか。このお墓でたっぷりと暗黒の力を吸収して魔力も回復したみたいだし、気を付けて闇の住人たちの隠れ家に帰るといいよ」

「はあ?」

「ありゃりゃりゃ? なんか、そーゆーマンガとかアニメとかラノベの影響で、ひとりたそがれて、リアル邪気眼モード発動させてたのと、ちがうわけ?」

「なんだよ、それは?」

「そーやってとぼけたって、あたしの観察眼はごまかせないんだけどな。わかる?」

「わかんねー」

「よーし! 説明しちゃうぞ! おそらく、きみは内なる心の衝動に身を委せて暗黒の魔力を求め、ここに引き寄せられ……そしてあたしという師匠に巡り会ったのだ!」

 どうやら彼と同学年か、あるいは年下の少女は、やけに楽しそうに見下ろしている。

「なあ師匠……」

 葬儀の場でよく見かける黒い礼服のドレスに身を包んだ少女に向かって、とりあえず彼はそう呼びかけた。

「何も言うな! 師の師と言えば師も同然! すべて、このあたしに任せなさい! 親御さんにも口裏合わせてあげるから安心していいって。ええっと……やたらと攻撃的で凶暴そうな、目付きの悪い少年!」

「確かにその通りだけど、はっきり言われるとむかつくぜ。特に、タヌキだかパンダみてーなタレ目のちびっこいのに言われるとよ」

「ふっ……ネコミミに、キツネ耳、その次に来るのはタヌキ耳! だから問題なし! これはもはや常識っ!」

 夕焼けの中で、こうしたちぐはぐな問答を誰かと交わしたような気はするが、少年は何も思い出せない。

「ところで師匠……あんた……誰だ?」

「他人に名を尋ねる時は、まず自分からというのが作法だぞ少年?」

「なんか頭でも打ったらしくて……マジで出てこねー」

 ばつが悪そうに頭をかきながら立ち上がると、それに合わせて少女も、しゃがむのをやめた。その背は、かなり低く思える。

「仕方な~い。これも六億年前からの宿命だしね。今度の転生でもあたしが名乗って、導いてあげましょ♪」

「六億年って……長生きし過ぎじゃねーか、それ?」

「うろたえるなーっ! 輪廻転生もカウントしての六億年なの!」

「……俺は別の意味でうろたえそうだけどな」

「あたしの名は中島クリス! これからきみに地獄を見せる女だーっ!」

 のちに、所持していたパスポートから自分の名を知る一条司波は、自分はまだ、夢を見ているのだろうと考えるしかなった。

 



灰色の濃霧に満ちた世界を歩いていくと次第にそれが薄れてくる。

「ここは……どこ……だ」

 見た事もない巨塔があってその周辺に隣接する施設群と、手入れが行き届いた広大な庭園が広がっていた。

「学校……なのか?」

 それもまた見慣れぬ制服の少年少女たちが行き交う姿に、漠然とした想像をする司波。

「たぶん、そうみたい」

 隣からの声に司波が振り返ると、そこには、ありすが立っていた。

 お互いの服装は銭湯に入る直前までのそれ。ありすはサンジェルマンのウェイトレス服で、例の懐中時計を胸に下げていた。司波もバイト時のウェイター服。ありがたいことに、入浴前までの肌のべたつきは無くなっている。

「俺たち、サウナ室に入って、出たその後は黒湯に浸かってたはず……だよな?」

「ありすも、そう思ってたんだけど、いつの間にか寝ちゃってた。誰かの夢に入ってるみたいだよ。おとーさま」

 少なくとも見覚えがない学園風景だけに、司波は自分の夢と思えない。

 二年以上前の喪失した過去でなら、という可能性は否定できないが、記憶が回復するような徴候は皆無だった。

「イギリスの時の夢幻境とルールが同じだとしたら、俺たちは、この夢を見てる誰かが起きてくれない限り、ここから出られない」

「がんばって、この夢のめざまし、しちゃおうね。おとーさま」

「そーだな。《蟹座》の《幻想代行者》様と《記述者》の最強タッグだぜ。そのくらい朝メシ前だって」

 現実世界に出現した《黒騎士》を撃退できた事実が司波に自信を持たせている。

「朝メシ前~♪」

 ありすは、はしゃいで、たたた、と前へ駆け出していく。

 が、小石につまづいて――

「ふぎゃん!」

 と、派手に前のめりに転んでしまった。

「うわああーんっ、おとーさま、痛いよー!」

「泣くな、ありす」

 司波は娘の元へと駆け寄る。

 その彼よりも早く、ありすの前にしゃがみ込んで助け起こそうとする誰かがいた。

「立て、立つのだ! 名も知らぬ金髪ちびっ子よ!」

 小柄なその少女が、ありすの腕を引いて助け起こした。

「ありがとーお姉さん」

「お姉さんの名前はね中島クリスチーネ。下世話な俗世間的に中島クリスというのだよ。金髪ちびっ子も名乗りなさい」

「え~っ? お姉さんがクリス?」

「あんたが……中島クリス?」

 ありすに輪唱するように司波も口に出してしまう。

「馴れ馴れしく呼んでくれちゃったね。金髪ちびっ子とガラ悪そうなのと二人で」

 二人が知る中島クリスとは印象が異なる少女だった。

 眼前の少女は、紅茶っぽい赤身かがった色の髪ではなくて、つややかな黒髪。

 そして、どこかタヌキを連想させる、かわいらしいタレ目ではなく、居丈高なツリ目。

 司波の法的保護者が見た目の幼さにプラスして鷹揚さと包容力を感じさせるの対して、このクリスは攻撃的な印象が強い。

「ありすは一条ありすだよ、別のクリス」

「……俺は一条司波だ」

 とりあえず親子二人は中島クリスと自称する少女に対して自ら名乗った。

「ガラ悪そうな方は転校生だとして――金髪ちびっ子は?」

「おとーさまの娘だよー」

 司波が適当な理由を口にするより早く、ありすが宣言した。

「そっか、そっか。その若さで子持ちだなんて、おませさんだね、きみ」

「諸般の事情ってのがあるんだ。深く追求しないでくれ、ええと、別のクリス」

 ぼやく司波は娘が使った表現を盗作して答える。

「あ~っ?」

 ありすの視界にその少女が入ってきた。

「クリス~その子たち誰~?」

 長い黒髪の少女には、司波のクラス担任の面影がある。

 背丈こそ今現在より低いが、豊かな胸のふくらみは往時も健在。

「マイだ!」

 竜宮城マイのペンネームを持つ龍崎舞。

 そして、もうひとり――

「お姉ちゃんの……知り合い?」

 紅茶っぽい赤身かがった色の髪をお下げにした小柄な少女もいる。

 それは今現在の司波が良く知っている法的保護者をもう一回りほど小柄にした姿だ。

「謎の転校生・一条司波と、その娘ありすだってさ」

 クリスが司波の肩を叩いて勝手に紹介する。

「あゆみ、あんたとマイが合作してる《J&J》の参考に取材したら?」

「取材って……何を?」

「《J&J》は、せっかくイギリスが舞台なんだから、金髪ちびっ子みたいなヒロイン出した方が男の子受けもするよ?」

 法的な後見人である女性の戸籍名を知る司波には、地味な印象があるお下げ髪の少女こそが、現実の人間世界において中島クリスと名乗る本人だと理解できた。

 ただ、これまで彼女の肉親については何も知らず、知ろうともしなかったのも事実で、歳の近い姉がいるというのは司波にとって驚きだった。

「おとーさま、おとーさま!」

 あわてた様子で、ありすが司波に呼びかける。

「どーした、ありす?」

「この別のクリス……おとーさまと同じ《記述者》だよ!」

 意味不明の言葉を耳にした中島クリスと龍崎舞は当惑気味の表情。

「この男の子……ちっちゃい女の子も……どこかで見たような?」

 そして、現実における司波の法的保護者の若き日の姿である中島あゆみは、警戒心と困惑を隠せぬまま司波たちを観察していた。

「クリス、俺だ。おまえの被法的保護者の司波だ」

 中島あゆみに対して司波はそう語りかける。

 肉親との過去を夢に見ている彼女を目覚めさせなければ、ありすも司波も、ずっと、この夢からは出られないからだ。それだけならまだいい。

 《幻想代行者》のひとりである《蟹座》のアリスと、その力を夢と現実の双方に導く《記述者》の司波が招かれているということは、この夢が、ある危機にさらされている証明でもある。

 夢幻境の住人が《悪夢》と呼ぶ、醜悪で異質な怪異によって心身を歪曲されてしまう可能性が極めて高い。

「クリスはお姉ちゃんのペンネームだよ。あたしは、あゆみ。中島あゆみ」

 迷惑そうに、というよりは、不安そうな声音で、あゆみが視線をそらしつつ答えた。

「これは夢だ。何年も前の……まだクリスが中学か高校の頃を舞台にした、そういう夢なんだ。だから起きてくれクリス」

「わけ、わかんないこと言わないで。あたし困る……」

 中島あゆみは、うつむいて視線をそらしてしまう。

「おとーさま、あんまり急かしたらクリスが逃げちゃうよ?」

「ありす、少し黙っててくれ」

「でも……」

「アリスの夢と同じだってんなら、またあの《黒騎士》が出てくる可能性だってある。クリスには借り……恩があるんだ。だから俺はクリスの夢を守りたい」

「……わかったよ。おとーさま」

 ありすは申し訳なさそうな顔になって、司波から少し離れた。

「ありすだって、メアリーやチェシャたち……守りたくて……こっちに来たから、わかるよ」

 だが――

「黙って聞いてたけど、あんた何?」

 この夢の中に存在する中島あゆみの姉が険しい表情で司波をにらみつける。

「あゆみにケンカ売る気なの~?」

 クリスのそれを真似ているが、生来のぽややんとした表情から、あまり怖くない顔で、龍崎舞もにらんできた。

 二人は、あゆみと司波との間に割って入り壁となった。

「ちがう! 俺は……ここで中島あゆみって名乗ってるクリスに、早く起きないとやばいって、わかってもらいたいだけなんだ!」

「クリスはあたし!」

「わかってもらいたいって何~? わたしの相方に告白する気? ストーカー?」

 龍崎舞の質問は、本人的には高圧的なのだろうが、妙に間延びして気が抜けている。

「クリス! 《記述者》の俺と《蟹座》の《幻想代行者》ありすが迷い込んでるってことは、何かやばい夢なんだ! 《黒騎士》が来て、悪さする可能性が高いんだ。すぐ起きてくれ!」

 懸命に司波は語りかけるが、あゆみは警戒を強めて後退る一方。

「やっぱり、だめだよ。おとーさま! クリス怖がってる!」

「けど、放っておくわけには――」

「おかーさまを起こした時は、どうやったの?」

「それは――」

 夢幻境を去るその前後の記憶は未だに司波に戻ってはいない。

 それを思い起こそうとするだけで甚大な頭痛が襲ってくる。

「くっ……うあああああっ!」

 がくりと地面に両ひざを着けて、頭を抱えて苦悶する司波。

「おとーさま?」

 ありすは唐突な司波の変化に狼狽して駆け寄った。




 最初それは、市街地や住宅内で照明の光度が減じるという形で発生した。

 まず普及しつつあったLED照明が機能しなくなり、その次には、電子機器の不調となってコンピュータ上で運用されるソフトウェアの不具合も生じた。

 それは結果として、先進国とされているこの国の交通網や、通信の大半が制御を失い、機能不能に陥っていくことをも意味していた。

 電子化された商取引システムの異変は経済活動の遅延と停滞を誘発し、国際的な金融市場の大混乱をも引き起こす。

 この異変の陰で、ルイス・キャロルというペンネームの死せる作家に言及した書籍と、彼の著作物が媒体を問わず自動発火現象で消えていく。

 デジタルデータに関しては文字通りに消滅だ。

 これは報道はおろか確認されることも無く規模を拡大させつつあった。

 そもそも報道自体が徐々に、できなくなっている。

 新しければ新しいほどに、あらゆる機械や道具、電子機器上のプログラム群が機能を停止していく異変のエリアは、関東地方を中心として国境を越え拡大していた。

 ルイス・キャロル関連の各情報媒体が消滅していく怪現象。

 それがこのエリア内部で発生して、拡大しつつあることを知る者は、ほぼ皆無。

 数少ない例外のひとり、竹内志門は店先にあるオープンテラスに陣取りってパイプを吹かし、あわただしく夕暮れの雑踏を行き交う人々の流れを見つめていた。

 服装と携行する機器類が、いつの間にか数年から数十年前の範囲で流行した同種のものへと置き換わりつつあることを認識できない人々、彼らを案じて見守るように。

「彼女か」

 素っ気ない黒電話の音が鳴り響き、テーブル上の携帯電話が振動する。

 いわゆるスマートフォンとされるそれを手に取り、志門は受話状態に移行させた。

 その前の街路を歩く男女たちは、数分前までは竹内のそれと同様の機能と外観を備えていたはずの携帯電話が、数年前の旧式モデルに変貌した事実さえ認識できず、妙にしっくりこない操作感に首をひねっていた。

「寄る年波には勝てないよ。私は介添人であって、当事者ではないのだよ。だからこれも着信拒否したかったのだがね」

『呼び出しをかけたい、と留守電に吹き込んで、何年ぶりかに連絡を取ってきたのは、あなたでしょう』

 電話の相手は志門をとがめるような口調だった。

『ですが確かにこのまま《記述者》と《蟹座》の《幻想代行者》の不在が続けば世界は大きく変化します。一八六五年に出版されたあの物語が存在しないことになって、それ以降の歴史も含めて再構築されるでしょう。彼は不完全ながらも《記述者》だから……それができる』

 通話相手の声音は若い女性――少女のようにも聞こえる。

 液晶画面には黒い喪服めいたドレスを着た長い黒髪の少女が映っていた。

「ありすくん以外の《十二幻宮》の誰かをこちらへ寄越す、というのは?」

『ここまで大規模に現実世界を侵食する《悪夢》を放置しているわけではありませんよ。それぞれが自分の受け持った領域への拡大を防いでいる最中のようです』

 知性を感じさせる落ち着いたその口調は冷静そのものになっている。

「最悪の場合は、ここら一帯を、現実も夢も、まとめて隔離して処分する準備も進めているというわけだ。酷似した状況に居合わせたことがあるので推測できる」

『……《十二幻宮》すべてが、穏便な帰結を望んでいないのは事実です』

 志門の推測を受け、そこで声に迷いという感情が生じた。

『何よりも《蟹座》の《幻想代行者》はあまりにも未熟ですから。《悪夢》と強く結びついた《黒騎士》の脅威を、彼女なりになんとかしようとあがいた結果が現状――』

 少女は、一条ありすが人間界へ来訪した真の理由を淡々と語った。

 《黒騎士》は一条ありす抹殺という目的のために執念深く追跡を続けている。

 ありすは自分に付き従う十二体の妖精たちを《黒騎士》から守るため人間界へと渡ったのだ。

 未だ成長途上にある不完全な能力で夢幻境から人間界へと強引に渡れば、従属する契約自体も解除される。結果として、危険から遠ざけられると考えていた。

 人間界へ――父であり《記述者》である司波に頼って《黒騎士》を倒そうとしての行動だ。

 だが、ありすは父に、ある事実を告げる勇気が欠けていたため、助力を乞えずにいる。

『一条ありすは自分勝手で、わがままで、そのくせ、がんばれば誰か助けてくれる、なんとかしてくれると思っている最低最悪の娘です。善かれと思っての言動すべては裏返るだけ』

 少女の述懐には深い煩悶と、そして後悔があった。

「老婆心ながら忠告しよう。感情を抑制して表現することは時として必要だが、度を過ぎれば何のために自分が戦っているかを忘れがちになる」

『何が言いたいんですか、サン・ジェルマン伯爵?』

 少女の声は、いらだちと怒気を隠しきれなくなっている。

「本来であれば私のような立場の者としては、無用の干渉は避けるべき、とでも言うのだろうが……場合が場合だ。最小限の干渉で、それが最大限に効果を発揮するように努力したまえ」

『十年前は止めたくせに! 二年前も一切、手を出すなと言ったくせに!』

 もはや少女の声は志門をなじる一方となり、演じていた冷淡さは霧消していた。

「だが可能な範囲のギリギリまでは積極的に干渉をしていたようだったね」

「いけませんか? わたしなりにあなたとの信義を守ったつもりです」

「私も約束を守ったのだよ。ギリギリにはなったが、無事に、あれを届ける事ができた。その対価に君も世界と世界を渡る界渡りのルールを受け入れた。それが約束だったはず――」

 志門は少女の名を口にして諭そうとするが。

『メアリー・スウです。たった今からそう名乗ります、わたし』

 少女が先んじてそう言い切った。

「これで私も、十三番目の《十二幻宮》を夢幻境の諸氏に紹介するに当たって説明が楽になる。差し支えなければ由来を教えてもらいたい」

『最後まで、わたしに付き合ってくれた彼女と……ずうっと夢を見ていた彼女が教えてくれた……都合良くずるばっかりする嫌われ者キャラクターの名前から決めました』

「了解した。では行くといい。蛇遣い座(オピュクス)のメアリー・スウくん」

 揶揄していたそれまでの口調とは打って変わり志門の声は優しげだった。

『言われなくたってそうします! 訳知り顔で自慢するだけでなんにもしないくせに、偉そうに指図しないでください!』

 直後、通話は終了し液晶画面からメアリー・スウの姿も消える。

「似て非なる……とは言うが、激情家なところは父親似……なのかもしれないな」

 志門はすっかり冷めたコーヒーをすすろうとカップに手を伸ばすが、取っ手との間に錐状のとがった馬上槍の先端が伸びてきて、動きをさえぎられた。

「ふう……どうやら間一髪だったらしい。綱渡りは怖くていけない」

 志門は槍の穂先からその根本へ視線を移し、持ち手を確認した。

「偽りの世界を消し去る浄化の邪魔をしているな?」

 軍馬の装いをした黒い一角獣の背に乗る《黒騎士》がそう呼びかける。

「さて、何の事やら」

 馬上槍を避けて取っ手へ指を伸ばし、冷めたコーヒーをすする竹内。

「妙な力だ……その干渉を受けて浄化の進行は予定より大幅に遅延している」

 《黒騎士》の表情は頭部すべてを覆い隠す兜に隠れて見えない。

 が、不愉快そうな声音ではある。

「簡易型の《時空停滞力場(ステイシス・ゾーン)》発生装置とでも言うべきか。この時空座標からは六億年ばかり過去に相当する時期、高度な文明が存在したという歴史を持つ平行世界で研究された産物さ」

「それもまた物語か」

「解釈はお好きに。この世界での科学の進歩からすれば、あと百年も経てば概念を説く仮説が見つかると思う。それを私の投資先のあちこちに空調装置だのコーヒーサーバーに組み込んで、寄贈していたという次第」

「……あと百年だと? それは、ありえない」

「あなたが今現在から続く歴史の流れを断ち切ってしまうつもりでいるからか?」

「その通り」

「ところで、あなたがチャールズ・ラトウィッジ・ドジスン先生ですな」

 どこからか手品のように葉巻を取り出した竹内は、指先で触れるだけで、吸い口部分を切り取って作り出し、次いで口にくわえる。

「《記述者》としての私はルイス・キャロルと名乗っていたはずだ」

 《アリス》の物語には、創造者を仮託した登場人物が存在することを複数の研究者が指摘している。《黒騎士》ならぬ老いた《白騎士》はその一体である。

「ではキャロル先生。陳情を聞き入れてもらえますか。私は愛煙家で酒好きでして。あなたのように酒もタバコも好まないという美徳の持ち主が再創造する世界では、不要とされる悪徳の数々を愛している。簡単にひとつの世界を見捨てないでいただきたい」

「それが理由か。だが例外は一切認められない。あらゆる腐敗と悪徳は新たに紡がれる世界の歴史では悪夢としてすら存在しなくなる」

 馬上槍の穂先が角度を変えて竹内の額に、ぴたりと固定された。

「しかしそんな退屈な世界、人間が生きるに相応しいとは――」

「黙れサン・ジェルマン伯爵。時空の放浪者という物語と役割など……無意味な夢だ。その特性ゆえ、おまえは不自然な力と知識を備えた。楽園に紛れた蛇、悪魔となった」

「結構。退屈で、お行儀が良い楽園などより、刺激的な地獄の方が好みには合うはず。しかし、かつてはあなたも……自由奔放な夢想を愛した。あなたの娘――いや孫はこう言ったそうだ。物語は常に新しく生まれ変わるのだ、とね。そしてアリス嬢は、他者に夢を強いることは禁忌。善きにつけ、悪しきにつけ、と言ったとか」

 その述懐は、先刻の通話でメアリー・スウと名乗った少女から以前に聞き及んだ知識に起因している。語りつつ、不可視の力が作用して、竹内がくわえた葉巻の先端に炎が灯った。

「孫だと? そんな者は存在しない。認めない。私とアリス・リデルの想いを宿した娘は汚らわしい俗世の悪意に責め殺された! 死んだ!」

 兜の面頬の隙間からは怒気を発散させる赤い凶光がきらめく。

「その愛娘が存続を願い、望んだ世界でしょうに……彼が生きるこの世界は」

 気の毒そうな表情で竹内は紫煙をくゆらせ、間近に迫る悪意を見つめた。

 

 

 

 角筈中学の職員室は大混乱に陥っていた。

 三年生は午後最初の時間に授業参観があり、その後で生徒・保護者・担任を交えた進路相談を兼ねる面談の予定だった。それを済ませ下校した親子も多い。

 だが面談の順番待ちをしていたそれ以外の三年生と保護者たち、そして一年と二年は、まだ平常の授業中にも関わらず、全員が校舎棟の内部に避難していた。

「これは、どういうわけなんだ!」

 口々に教職員を罵倒する父兄たちが職員室に殺到し、大多数の教師たちはその対応に追われ、しどろもどろな弁解をするのがやっと。

「わ、我々だって、何もわかっちゃおらんのですよ!」

 教育委員の会合に出かけた校長に代わり責任者となっている教頭が、ヒステリックに怒鳴るのも無理はない。

 校庭外周の通学路には、あまりにも非現実的な怪異が群れ集い、徘徊していた。

 時代劇さながらの武士たちであったり、洋装に不慣れな明治時代の者らしき紳士といった、穏当なものばかりではない。

 特殊効果の産物にしか思えない大小様々な百鬼夜行する妖怪変化などは、まだ大人しい方。

 不定型な毒々しい粘塊や、おぞましい化け物のたぐいは、建造物や停車している車を破壊し、腐蝕させ、治安を乱している。

「すぴひー……んにゃむ……」

 そんな中、龍崎舞は自席に突っ伏し、ひたすら惰眠をむさぼっている。

 舞は授業参観終了後に、一条司波の面談だけで終わらせると、残りは全部翌日以降に延期し、クラス全員の生徒と保護者を帰宅させていた。

「なんですかその女性教師は! この一大事に昼寝?」

 モンスターペアレント筆頭として恐れられる都議会議員の中年女性が舞を指差す。

「龍崎先生ッ!」

 よくも自分の体面を潰してくれたな、との恨みがましい叱咤を飛ばす教頭。

「は、はあ~い?」

 目をゴシゴシと、こすりながら舞は机から顔を上げた。

 舞が私物として持ち込んだ高解像度液晶モニターでは、かわいらしいドレスに身を包むファンシーな少年少女キャラクターたちが暴れ回るスクリーンセーバーが機能している。ドレスとはいっても単なる服飾品のそれとは異なっていた。

 いわゆるバトルもの作品の少女たちが身にまとう、華美でスタイリッシュな戦闘用の装いで、スカートの短さと胸元の大きな宝石が特徴的だ。

 画面の下には『ハイパーボレア☆まじかる騎士団(ナイツ)』とアニメか何かのタイトルらしきロゴが表示されていた。

 そのキャラクター群の中には龍崎舞自身と中島クリスの中学生時代を模した少女たちが存在している。

 舞を模したキャラはフィクションならではの鉄塊めいた超巨大な剣。

 クリスを模したキャラは現実世界での信号拳銃をカスタマイズしたような、大型で単発式のそれを手にしていた。この液晶画面上の世界には、中島あゆみの姉は存在していない。

「あ、あれえ? わたし……中学生に戻って、クリスたちとお昼休みに校庭に出て――そこに一条くんと、ありすちゃんが来て……」

 ぽややんとした顔で舞は周囲を見回す。

「龍崎先生!」

 教頭が焦れて怒鳴っていた。

「勤務時間中に居眠り! しかもこの緊急事態にだなんて信じられないわ!」

 先刻から怒り心頭の中年女性も激怒。

「都の教育委員会に連絡して、然るべき処置をお願いするしかないですね!」

 便乗して、中年女性の取り巻きをしている老婦人までもが舞を指弾する。

「緊急事態っていうと……外宇宙から来た知的生命体が地球人類に接触してきたとか、南極の地下から先カンブリア期の頃の超古代文明の遺跡が発見されたとかですかあ?」

 周囲からの言動など意に介さず、泰然自若の舞が逆に質問。

「あれを見なさい!」

 中年女性が職員室の外――窓ガラスの眼下に映る怪物たちの乱行を指で示した。

「よくできた特撮ですね~映画の撮影ですか?」

 やはり舞は動じない。

「そんなわけあるもんですか!」

「現実を見なさい龍崎先生!」

 中年女性と教頭が輪唱するように声を荒げていた。

「教頭先生も、父兄のおばさんも、あわてちゃって。んんーう♪」

 舞は背中で腕を組むと、眠たそうな顔のまま背をそらして伸ばす。

「いいですか。ああいうのは、マンガとかアニメとかライトノベルとか特撮の中にしか実在しないものです。そういうことになってるんです。一条くんとありすちゃんからも、さっきそう聞きました。《悪夢》っていうのが悪さしても、十二宮を守る最強な《幻想代行者》が光速の動きでやっつけちゃうんです」

「しかし龍崎先生! 現に!」

「ほら、その証拠にあの妖怪とか悪魔とかそれっぽい異世界の人とか、みんな校庭の外にしかいませんよね? 校庭や校舎には入ってきませんよね?」

 実際、舞の指摘通りだった。

 奇怪な化け物や異装の男女たちは路上にしか存在していない。

 目には見えぬ厳密な境界線が存在しているかの如く、それらは街路のみを自らの版図として徘徊していた。

 それが竹内志門の装置による干渉だということ、かろうじて保たれている現実と幻想との間の、もろく薄い壁であることを、誰も知らずにいる。

「あ、あらら、そう言われてみれば……確かにそうね。どういうことなのか説明をしてもらえるかしら龍崎先生?」

 風見鶏とのあだ名を持つ都議会議員の中年女性は教頭より目ざとい。

「つまりこれは夢。ぜーんぶ夢なんです。だから解決法もひとつです」

「お、教えてくれ龍崎先生! 今年度を大過なく勤め上げれば栄転の話もある。ここで問題を起こすわけにはいかんのだよ!」

「目を覚ましちゃえばいいんです。そーゆーわけで、わたしどうやら、夢の中で夢を見てるみたいですから徹底的にまた寝ます。ふわあああ……おやふみなひゃい……」

 龍崎舞は再び自席に突っ伏すと――

「すぴゃひ~」

 ほぼ、0.94秒ほどで、気持ち良さそうに眠りの世界へと没入していくのだった。

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