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六章『お風呂の国のありす』

「ひゃわはああっ?」

 炭酸飲料めいた無数の気泡が立ち上っていくと、肌をかすめる独特のこそばゆさにアリスが素っ頓狂な声でバシャバシャ水音を立て暴れる。

 およそ司波の主観では直径二メートル弱。

 大都市の小規模公園にならありそうな噴水を思わせる造りだが総大理石という造り。

 中央に立つ二頭の狼の像――その口からは炭酸温泉水が掛け流しであふれている。

 湯船の深さは七〇センチ前後。

「く、くすぐったあい?」

 男女別の入口からそれぞれ別個に温浴施設へ足を進めた司波とアリスは、身体や髪の汚れを落としていったが、最終的にこの温泉浴槽がある区画で鉢合わせしていた。

 そして、けたたましい言い合いの末に渋々と妥協が成立して、一糸まとわぬ二人は、背中を突き合わせるように座り込んで入浴していたのだが――

「やかましーぞ《蟹座》の《幻想代行者》様」

 現代日本で使用される家庭向け微発泡型入浴剤で馴染んでいる司波は炭酸泉の特質に、さほど動じる様子はない。

「こ、こんな時だけ! しかも馬鹿にしてそう呼ぶなど不愉快極まりないぞ司波!」

 からかわれたことでむくれてしまい、思わず状況を忘れて振り向いたのはアリスだけだった。

「あ――」

 彼女は直後に絶句していた。

「どーしたアリス?」

 その緊張をはらんだ息遣いを耳にした司波が姿勢を変えず問う。

「その傷……これほど熱い湯に浸かってしまったら、染みて痛むのではないか?」

 いわゆる体育座り姿勢で湯に浸かる司波の背中には無数の裂傷の跡が線を引いていた。

 背中の全面に渡ってあちこちがケロイド化して変色した肌。

 刃物による傷跡だけでなく鈍器やそれ以外の何かで手ひどく、しかも、延々と繰り返されて傷で傷を上塗りしたようになっている痛みの痕跡が沈殿し固着化していた。

「傷?」

 けげんそうな声音で司波が首を傾げた。

 とぼけていたり虚勢を張っているというのでもない。

 あくまで純粋に、司波はアリスが口にした言葉の意味を理解できていない。

「あ……」

 再びアリスが、今度は不用意な自分自身の発言に当惑して言葉を濁した。

 触れてはいけない禁忌に直面してしまったかのようなためらいが、次なる言動へ移るまでの間隔を大きく取らせてしまう。

『やはり、今のままのわたしでは……司波の傷と痛みのすべてを……たとえ、夢としてですら繕うことは無理なのか……』

 二人で旅を続けて約半年ほどになる。心理的プライバシーは確立できているはずだが、この時ばかりは動揺が激しかったのか久しぶりにアリスの心の内が司波に伝わった。

 どういう意味だ――そう質問を続けようとしたところで控えめな水音が立った。

「すまない司波……わたしが……おまえを巻き込んでしまった……」

 ひざ立ちになったアリスは体育座りしている司波の背中から抱き付くと大胆にも両腕で強く抱擁した。

「もっと上手に……わたしが夢でおまえの心と身体を繋ぎ止められさえすれば……」

 力なく頭を垂れてアリスはうつむいている。

「な、なあアリス」

 温泉よりは低いはずだが、素肌で直接触れているアリスの体温にドキマギしながらも司波は、眼下にある湯の水面に映る少女の表情へ目を向けている。

「おまえ……ウソついてるか……なんかごまかそうとしてるかの、どっちかだろ?」

 アリスの表情は水底から浮き上がってくる炭酸泉の泡に揺られ、はっきりとしない。

「なぜそう思う?」

 アリスの声音には日頃の覇気のかけらもない。

 まるでそれは死刑執行を宣告された囚人がすべてをあきらめた諦観のような穏やかさ。

「温泉風呂に入って、ぶるぶる震えてるやつなんか、いねーだろ」

 それはウソだった。

 水面に映るアリスの面影は揺れているだけ。

 猜疑心から数々の非礼を働いた賠償として偏屈な老人ジェイムズ・モリアーティーが使用を認めてくれた古代ローマ様式を模した風呂。

 その水面に、ちいさな涙のしずくが落ちたのを見てしまったから口にした優しい偽り。

「頼む……わたしは何も言えないのだ。いや、今は話せぬ……その時が来るまでは」

 涙の理由を隠したままアリスは質問を拒んでいた。

「いいさ……その時ってのが来るまでは、おまえをからかうネタにさせてもらう」

 沈痛な声の響きのアリスを励ますように司波のそれは陽気で快活だった。

「それにしてもこの風呂、温泉はいい感じだけど狭いよな」

「仕方あるまい。これはしょせんモリアーティーが趣味に明かせてこしらえたローマ風呂の複製なのだ。バースの地にあったという本物には遠く及ぶまい」

 司波に抱き付いたままだがアリスの声には平常時の横柄さが戻っていることに気付き司波は顔をほころばせた。

「なあアリス。十二体の妖精を全部捕まえて俺が目をさませるようになったら、その後は……おまえ、俺の国に遊びに来ないか?」

「極東の島国へか? あまり気が進まぬな。しかしまあ、一応は期限付きということになるが、人間界へ出ること自体に支障はないぞ」

 言葉とは裏腹にアリスは楽しげに語る。

「温泉じゃねーけどな、それなりにでかい湯船の風呂がある。それを少し思い出した。メシと銭湯代ぐらいはおごってやってもいいぜ」

「せん……とう? どうも認識が難しい概念だ。細かく説明しろ」

 すっかり羞恥心を忘れているアリスは自分の頬を司波の耳たぶに押し当てては、その感触を楽しんでいる。

「あー、はいはい。金を払って使う共同風呂だよ。わかるか?」

 赤面しかけている顔に熱っぽくならないでくれと祈りながら司波は平静を装う。

「……なるほど。それこそ古代ローマの共同風呂のようなものか。ようやく理解した。しかし、なんとも変わった風習なのだな司波の国は。未だにそんな文化を保つとは」

「和洋中華節操なく、なんでも取り入れる国だからな。キリストの誕生日っていう日に便乗して鳥の脚をかじったら、すぐに初詣で八百万いる神様に手を合わせて、で、またバレンタインにこじつけてチョコ贈ったりしてお盆には先祖の霊を迎えて供養だ」

「ふうむ……わたしにとっては、そこもまた不思議の国だな」

 興味深そうにアリスが述懐する。

「遊びに来れば、そういうでたらめなとこ、俺が案内して見せてやるぜ」

「本当か? それは楽しみだな」

 アリスにしては珍しく、混ぜ返すこともなく素直な感情がこもる言葉だった。

 だが司波はこの時、いつかどこかで、自分たちはこれと似たような言葉と約束を交わしていたような――そんな錯覚に囚われていた。

 

 

 

 サンジェルマン店内は厨房との仕切りを兼ねたバー・カウンター形式のスタンド席と、その横長な台形部分を取り囲むように配置された、いくつかのテーブル席に大別できる。

「アリスと俺は、いつ――」

 水浸しになった店内を突貫工事で清掃して、業者が交換用に運び入れた家具調度品のたぐいを再配置。そして地下倉庫に退避させてあった食材やコーヒー豆や、アルコール類を元通りに厨房内に戻すという大仕事はアルバイト勤務の域を大幅に超えていた。

「どこで最初に――」

 それをようやく済ませると疲れ果てた司波はテーブル席のひとつを占領し、汗だくのままで寝入っていたのだった。

「おとーさま! おとーさまったらあ! もう!」

 無遠慮に身体を揺さぶってくる、ありすの声で司波の意識は現実に引き戻される。

「アリス……じゃない……ありす、か」

 夢幻境での過去を夢として見ていた司波は客席ソファーで座ったまま寝ていたことに気付き、次いで、変わった服装になっているありすに目を見張った。

「あーんなに働いたのに、お着替えしないで寝ちゃうなんて! そんなんじゃ、風邪を引いて、へくしょい、へくしょーい、になっちゃうよ! おとーさま!」

「ありす、なんだその服?」

 ありすが着ているそれは、志門がこの日の朝に届けてくれたものではなくなっている。

 子供サイズのミニスカートにブラウス、そしてベストというウェイトレス服だった。

「志門さんが貸してくれたんだよ。前にここで、ありすみたいな女の子がアルバイトしてた時に着てたんだって」

 はしゃいでいるありすの首には金の鎖が掛かっていて、その胸元で、丸い懐中時計が振り子のように揺れていた。それだけは司波が寝入ってしまう前と同じままだった。

「かしこ~く、かわ~ゆい~無敵のあり~す~♪」

 と、ありすは午前中に観賞したアニメのエンディング曲を、ヒロインの名前のところだけを自分に置き換え、くるくると踊るように司波の前で跳ね回る。

「わーい、短いスカートがヒラヒラしてるー♪」

「アリスの――おかーさまのお下がりの服はどうした?」

「さっきクリスが帰る前にお着替えさせてくれて、志門さんがお洗濯に出してくれたよ~」

 三者面談ならぬ四者面談を経て帰宅前にアルバイト先へ直行したので、司波自身、この店の制服に着替えている状態だ。

「地面に転びでもしたのか、ひどく汚れていたからね。ああ、特急コースの仕上げを頼んでおいたから湯上がりには《大江戸湯》に届くよう手配してある」

 手にしたマグカップの中身からコーヒーをすすりながら志門が注釈を加える。

「そういうわけで司波くんの学生服一式もクリーニング行きだ。店の制服も汗まみれになってしまったし、一風呂浴びて着替えてきたまえ。今日のバイトは、中学校の制服にエプロン着用という変則スタイルと行こうか」

 肩をすくめて司波は立ち上がり、ポケットからハンカチを出して額をぬぐった。

「はいはい、わかったよ志門のおっちゃん」

「はいはい、わっかりましたー、志門のおっちゃん♪」

 ありすが父親を真似て輪唱する。

「おっちゃんは……やめてもらいたいんだがね……はは」

 たいていの愚痴や悪態をさらりと受け流す志門だはあるが、連続してのおっちゃん呼ばわりには抵抗があるらしく疲れた顔になった。

「んじゃ銭湯に行ってくる。戻ったら作るから、晩メシの材料はなんか適当に、冷蔵庫に突っ込んどいてくれよな」

「突っ込んどいてくれよなー♪」

「ありすくん。英国淑女たる者、優雅で上品な言葉遣いを心掛けたまえ……」

「は~い、ありす、わっかりましたー♪」

 しょんぼりした志門の忠告を背に司波はありすと手をつないで《純喫茶サンジェルマン》の店先から出ていった。

「へへっ、志門のおっちゃん珍しく、しょげてたぜ。お手柄だぞ、ありす」

「おっちゃん、おっちゃ~ん♪」

 ほめられたありすはご機嫌になって適当な節で歌ってスキップ。

「ありゃ? バイトどうした司波ァ?」

 司波たちが古いアパートや住宅へと通じる小道へ差し掛かる前に、サンジェルマンの店先で立ち止まった男が声をかけて歩いてくる。三十歳前後に見える野性的な風貌だ。

 長身痩躯と言えば聞こえはいいが、紫のシャツに濃紺のスーツ上下とネクタイという姿は、歌舞伎町のホスト崩れかヤクザ組織の構成員のどちらかにしか見えない。

「これから風呂さ。別にあんたとの勝負を逃げるってんじゃねえぜタカさん」

 司波やクリス同様に《ひまわり荘》に居住する知り合いだった。

「タカさーん♪」

 人名らしいとは察しているようだが、ご機嫌なありすは手当たり次第に、父親に輪唱。

「そのちびっこいコスプレ幼女の子守バイトしながら銭湯か?」

 タカという俗称こと伊吹髙仁(いぶきたかひと)は不審そうにありすへ注目する。

「そんなんだから、猫探しと浮気調査しか依頼が来ないんだよ。そうだ、ありすと俺の関係、当ててみてくれよタカさん。正解したら大富豪でハンデ付けて始めてもいいぜ」

「はじめましてタカさん、一条ありすだよ♪」

 ありすはミニスカートの左右両端を持ち上げて、貴婦人の礼であいさつ。

「司波に兄貴がいて、それでそいつが外人と結婚して、産まれた娘、つまりは姪だな。名字が同じで、そんだけなついてんならバレバレだ」

「ありす、この売れない探偵さんに俺との関係をでかい声で言ってもいいぜ」

「はーい。ありすはね、おとーさまの娘だよー♪」

「な、なあにいっ?」

「義理の娘とか親代わりとか、そーゆー不純な関係じゃなくて、こーりゃくフラグっていうのもある本家本元元祖、純粋な血縁関係でーす♪」

 クリス仕込みの用語を羅列し、ありすはえっへんと胸を反らして自慢げに言い切った。

 元気いっぱいな、いたずらっぽい笑顔に免じて、クリスからは何を教わっているんだという説教は後回しにすることに決める司波だった。

「お、おとーさまあ?」

「そう、俺はありすのおとーさまなんだ。じゃ、またあとでな。いくぞ、ありす!」

「はーい、おとーさま♪」

 顔なじみの常連客にして同じアパートの住人である高仁をからかうと、司波はありすと手をつないで駆け出していく。

「ネタだ、そうにに決まってる。司波は留年してても、まだ中学生……あの子は六つか七つだ。仮に本当だとしても司波が仕込んだのが八つか九つの時ってことで……それだと、児ポ法違反だろーが!」

 ぶつぶつ言いながら高仁は司波たちの後ろ姿を見送り、それからあらためて道を引き返すとサンジェルマン店内へ入っていく。

「やあタカくん、相変わらずヒマそうだね」

 カウンター内のいすに腰掛けてパイプをくゆらしながら竹内志門があいさつしてくる。

「司波が連れてるちびっこい女の子、ありゃあなんだ志門の旦那?」

「ありすくんのことかね? 娘さんだそうだよ、正真正銘の」

「世も末だねえ……俺が美人のお姉さんに手ほどきしてもらえたのは警察学校を出て配属先が決まる少し前だったってのに」

 志門の言葉自体も冗談半分に受け流して答えながら高仁はポケットからセブンスターを取り出して口にくわえる。ジッポーライターで着火し煙を吸い込みながらカウンター席に座った。

「私は男性にしか興味がないのでね、どうでもいい話だ」

 フランス直輸入の鉱泉水が満たされたグラスを出しながら志門は高仁の緊張した顔を見やる。

「か、帰るっ! そっちの趣味あるなら二丁目にでも行ってくれよ旦那!」

「と言ったりするとクリスくんが大喜びしそうだがね。あいにくと、私の性的嗜好はきわめて一般的なものさ。冗談だとも」

 片眼鏡ではない方でウインクしてから志門はコーヒーを淹れる支度を始めた。

 経済事情がよろしくない高仁が注文するのは、店内最安値のブレンドコーヒーだと、わかっているからだ。

「心臓に悪い真似はよしてくれや旦那……ただでさえ、さっき自分が正気か不安になったとこなんだから」

「白昼堂々と蛮刀を振り回すチャイニーズ・マフィアの刺客にでも遭遇したかね?」

 お気に入りのコーヒー豆であるマンデリン・トバコを手回しミルで挽き、香りを立てながら志門が軽口で応じる。それはブレンドコーヒー用の豆には使わないはずの物だが、常連客への、ささやかなサービスだ。

「便利屋稼業の方で依頼されて、猫用の専門誌を買いに、紀乃国屋の中をうろついてたら……いきなり、とんでもないモン見ちまった」

「万引き?」

「だとしたら犯人はさっさと転職した方がいい。本棚から勝手に本が何十冊も飛び出て、空をお散歩。直後に一瞬で燃え尽きた。あんな手品が使えるなら楽に稼げる」

 コーヒーミルを回す手が止まった。

「もしかして、その本は……どれも作者は同じで、その現象が起きたのは、だいたい四時間前だった……というところかね?」

「あんた冴えてるな。そうだ。全部ルイス・キャロルの童話の本だってんだから驚きだ。新作映画とかアニメの話題作りにしちゃ大げさすぎる」

「寓話と現実は表裏一体なのだよ。少なくともこのケースに関してはそうなっている。最悪、もう誰も、アリスという物語を認識することはできなくなるだろうね」

「それこそ大げさな気もするけどな?」

 志門が口にした言外の意味を知る由もない高仁は会話の少し後に出されたコーヒーをすすり、のんきに、捨て置かれていた競馬新聞を広げた。

 それからほどなく、店のドアが開いて喫茶店独特の軽やかなベルが鳴る。

「ごめんください。純喫茶サンジェルマンというのは、こちらですね?」

 入ってきたのは赤を基調として、それに白いエプロンを掛けたメイド服の少女。

 一昔前であればイベント会場か秋葉原以外では奇異そのものでしかなかったが現在では風俗店がある繁華街周辺でなら、物珍しくはなくなっている。

「一条ありすがこちらにお邪魔しているとプロスペロ様にうかがったのですが――」

「ちょうどいい。ひとつ、お使いを頼まれてもらおうか」

「は、はあ?」

 初対面のはずの志門から唐突に言われたメアリー・アンは、きょとんと目を瞬かせた。




 戦後すぐの焼け跡からスタートしたという銭湯《大江戸湯》は、新宿区の西端にして、中野区の東端、そして渋谷区の北端という三つの区の境にある。

 周辺は未だ再開発から取り残された昭和の気風が漂うさびれた商店街と古い住宅地で、道案内なしには見つけにくい場所だ。

 昔ながらの造りというのではない。十年ほど前の大改装以来、現代風温浴施設として近隣の客に好評を得ている。

 太古の植物に由来する有機成分が地中で温水と混じり合ったモール泉――黒湯温泉を楽しめるというのが人気の主な理由だ。いわゆるスーパー銭湯の小規模版であり、なおかつ料金は、東京都が定めた公共料金としてのものと同額なのも影響している。

「お風呂っ、お風呂っ、おとーさまと、お風呂~♪」

 リズミカルにスキップするありすと手をつないだ司波は改装前と同じ暖簾(のれん)をくぐる。

 番台でなくフロント形式となっているカウンター前で靴箱の鍵と千円札を渡し、引き替えにお釣りと脱衣所ロッカーの鍵を兼ねたリストバンドを二人分預かった。

「司波ちゃん、その子は?」

 すっかり顔なじみとなった番台を預かる老人が、ありすに目を向ける。

「俺の身内。大鳥のじっちゃん。よろしく頼む。ほら、ありす、ごあいさつだ」

 物珍しそうにフロント周辺を見回していたありすは、くるっと振り返って貴婦人の礼。

「はじめまして。一条ありすだよ、大鳥のおじいちゃま」

「おうおう、アリスちゃんかい。よろしくな」

「おじいちゃま、ありすはひらがなのありす! あ・り・す!」

「わかっとる、わかっとる。そうそう、竹内さんのとこから着替えを手配したっちゅう連絡はもらっとるよ。ゆっくり浸かってくるとええ」

「ども」

「どもー♪」

 相変わらず父親の言葉に輪唱して、ありすは司波に続き男湯側のれんをくぐった。

「おお、忘れとったわ。なあ司波ちゃん、あゆみちゃんも来とるぞ。女湯側のサウナ休憩室のとこで寝るって言ってた」

「しばらく寝かせてやってくれよ。ごめんな、じっちゃん。後で迎えに来るからさ」

「風邪引かんように、うちのババアに言ってバスタオルかけさせておくわ」

「サンキュー」

 引き留められた司波はきびすを返すと男子脱衣場に入っていく。ロッカー使用状態からすると、先客は四、五名ほどいるようだったが着替えている者は皆無だった。

「ねえねえ、おとーさま。あゆみって人は、だあれ?」

 整然とロッカー棚が立ち並ぶ男湯脱衣所を見回しながら、ありすが問う。

「なぞなぞだ。知ってるけど知らない。知らないけど知ってる。さて、これは、なーんだ?」

 いつだったかアリスが口にしていた――夢幻境での記憶が回復したからこそ思い出せた――その言葉を、司波はなぞなぞ問題として出し、質問に質問で返す。

「知らないけど知ってる? 知ってるけど知らない? う~、わかんないよ~!」

 借り物のウェイトレス服を脱いで、上半身はシュミーズ、下半身はオーバーニーソックスと下着だけという状態になっていたありすは、両腕を組んで、うなってしまう。

「ねえねえ、おとーさま。なぞなぞと、あゆみっていう女の人と何か関係あるの?」

 金の鎖と丸い懐中時計は、ありすの首にまだ掛かっているままだ。

「それはな、ありす。なぞなぞの答えじゃなく問題の方が、あゆみに関しての答えだからだ」

 トランクス一丁だけになった司波は、手早く洗面器を確保すると、そこにお風呂用具一式とタオル二枚を放り込みながら直接的回答を避けた。

「ありす、なんだか頭がこんがらがってきちゃった……」

「答え合わせは風呂上がりにな。ほら、素っ裸になっちまえ」

「はーい。ありすは素っ裸になっちまうね」

「ありす、ばんざーい、だぞ」

「ばんざーい♪」

 朝のお着替えと同様に両手を大きく上に伸ばしたありすから、女児用下着を脱がせる司波。

「あとは、ありすだけで脱ぎ脱ぎできるから大丈夫だよ~♪」

 それができる自分をほめてくれと言わんばかりに、ありすは悠然と残った着衣を脱ぎ捨てた。

 そうなると身に付けているのは首から下げた懐中時計だけ。

 無造作に投げ捨てられた服を司波が拾い集めて折りたたみ、ロッカー内にしまい込む。

「いいかありす。ここはいろんな人が来るとこだ。はしゃいで騒いだり急に走ったりなんてのはマナー違反だぞ。あと、おとーさまから離れるなよ?」

 娘に続いて自分も全裸となった司波はロッカーの鍵を閉めてからリストバンドを装着する。

「その時計も外せ。お湯で濡れたら錆びちまうぞ?」

 ありすの手首にも彼女の分のロッカー鍵リストバンドを着けてやりつつ、しゃがんだ司波は娘の胸元で揺れる懐中時計を見上げた。

「やーん。だってこれ、おかーさまが、何があっても外しちゃだめーって!」

 ぶんぶん、と派手に首を横に振って、ありすは時計を取られまいとする。

「錆びたら動かなくなっちまうんだぞ?」

「あのね、これはね、おとーさまが、おかーさまとありすのことを、大大大好きでいるなら、ぜったいにこわれたりしないんだって♪」

 うれしそうに、ありすは自分の胸元で揺れていた懐中時計をつかんで、司波に見せつける。

「だったら無くさないように大切にしとけよ」

「はーい。ありす、わっかりましたー♪」

 シャンプーやリンス、ボディーソープのボトルと、タオルを入れた洗面器を手にした司波は、ありすを引き連れて浴場へと進んでいく。

 小規模ながら温浴施設として改装した大江戸湯の浴室は脱衣所の先にある階段の上、つまり、二階フロア部分に存在していた。

「おとーさま、右なの? それとも左?」

 階段を上がるとその正面は壁。T字路状になっていて、進めるのは左右に限定される。

「左はサウナ料金を払ったやつ専用の休憩室。風呂は右だ」

 司波の説明を聞くと、ありすはくるっと右を向いた。

「わあああっ、お風呂がいっぱいある~♪」

 長方形のそのスペースには壁面に並ぶ鏡と冷水・温水・シャワーがセットとなった洗い場の他、長方形や正方形の浴槽、丸形の浴槽、シャワーブース、塩サウナ室等がある。

 先客の男たちが、それぞれ思い思いに湯を楽しんでいたり、鏡の前で髪や身体を洗っていた。

「ねえねえ、おとーさま。ありす、あのまるーいお風呂がいい! あれに入りたい! 真っ黒のお湯なんて不思議!」

 走り出そうとしたありすの肩を、あわてて司波はつかんだ。

「それは後のお楽しみだ。まずシャワーで身体を軽く流してから髪を洗う。次は身体も洗う。湯船に浸かるのは最後だ。それが銭湯のルールだぞ、ありす」

「はーい……」

 不承不承といった感じでありすは答えた。

「まずは場所取りだ。夕方前は空いてて楽なんだぞ」

「そんなの、ありす知らないもん」

 司波に手を引かれ、荷物が入った洗面器を隣り合った鏡の前に置いたありすは、いすに腰掛けてからも、ほっぺたをふくらませて、かわいくむくれている。

 司波が蛇口をひねり洗面器にお湯を満たし、ありすの手をそこに漬けて湯温に慣れさせても、父親から顔をそむけたままだ。

「黒いお湯のお風呂……早く入りたいのに……」

「その前に髪も身体もきれいにしてからだぞ。ほら!」

 レバーを切り替え、蛇口でなくシャワーからお湯が出るようにして、司波はそれをありすの頭上から降らす。

「ひゃわはああふっ?」

 適温のお湯を浴びせられて、ありすが悲鳴を上げる。

「最初に髪と身体にお湯をかけて流す。それから髪を洗って、身体を洗うからな」

「おとーさまにお任せする……」

 まだご機嫌斜めのありすは、むくれて答えた。

「終わったら、まーるい湯船で、黒いお湯の温泉風呂だぞ、ありす?」

「ほんと?」

「おとーさまは、ありすにはウソつかない」

 司波の一言で、ありすの表情が、ぱあっと明るく華やぐ。

「おとーさま、早く早く!」

 と、一転して今度は急かす。

「ありすは現金だなあ」

 シャワーで髪と身体の表面を洗い流すと、シャンプーの支度を始めながら司波が笑う。

「そーゆーところは、おとーさまにそっくりだって、おかーさまが言ってた!」

 ありすもはしゃいで父親に言い返す。

「お客様、かゆいところはございませんかー?」

 理髪店の店員を真似て、髪を洗いながら司波が言う。

「にゃいけど、なんか、耳たぶの後ろが、くひゅぐったあーい♪」

 はしゃいだありすも笑いながら返してきた。

「そこの二人連れ! やかましいぞ。公共のマナーというものを考えろ!」

 独立した密閉空間であるサウナルームから出てきた男児が、司波たちの後ろを通りかかり、そう怒鳴った。

「てめえ……ジェイムズ?」

 振り返った司波の目には、平行世界の未来で出会った偉そうな男児が洗面器を手にしている全裸姿が映っていた。

「ほう……この姿で会うのは初めてのはずだが。なぜ、ぼくの名を知っている?」

「そりゃあ、七年後の平行世界に呼びつけた張本人が、てめえだからだ」

「夢を介し時と場を、時空連続体を移動して、しかも戻ってきたとでも言うのか?」

「知るかよ。ありすが来てから、やたらと夢を見るようになっただけだ」

「さすがは……特異点。本来、片道切符のはずの世界と世界とを往復するとは」

「おとーさま。この男の子、知ってる子なの?」

 会話に混じろうとして強引に質問したありすは彼とは初対面らしい。

「知ってるけど知らないというかな……」

「あーっ、じゃあ、さっきのなぞなぞの答えはこの男の子なんだ?」

「いや、それはな、ありす――」

「答えはジェイムズくんでーす♪」

「話が見えない。論理を欠いた雑音に付き合えんよ。それと馴れ馴れしく呼ぶな」

 ジェイムズはそのまま二人の後ろを通り過ぎていき、丸い黒湯の浴槽に慎重に身体を浸す。

「おとーさまー、ありすも早く、まーるい黒いお湯のお風呂に入りたいよ~」

「変な邪魔が入ったからシャンプーが遅れちまったぜ。ああ迷惑迷惑、大迷惑だ」

 わざと聞こえるように言いながら、司波は手慣れた感じで娘の髪を泡立てる。

「開けてるとシャンプー染みるぞ。目を閉じとけ、ありす」

「はーい」

 言い付けを守って、鏡の前に座るありすは目を閉じる。

 わしゃわしゃと髪を洗いシャンプーを泡立てる司波。

「……子煩悩なことだな一条司波」

 黒湯に浸かるジェイムズはそうつぶやいてから視線を上に移した。

 天井から水滴がぽとりと落ちてくる。

「彼女の願いは……多少のブレこそ生じたが……かなったわけか」

 老成した感慨と共に目線の先は、ありすと司波に戻った。

「ねえ、おとーさま、おとーさま。ありすもおとーさまにシャンプーしてあげるね♪ 身体もきれいきれいにしてあげるー♪」

 朝と同様、お湯とボディーソープで念入りに身体の隅々まできれいにしてもらうと、ありすは意気込んで宣言した。

「いいって。ありすじゃ、まだ、座ってる俺の背中に立っても頭に手が届かない」

 そう返す司波だが、すっかりきれいになったありすからの提案自体には上機嫌だ。

「そんなことないもん。ほら、こーやって――」

 ありすは自分が座っていたいすを司波の後ろに置いて踏み台にし、それに乗る。

「ほら、これでありすもシャンプーできるー♪」

「一本取られたぜ。んじゃ、おとーさまをきれいにしてくれ、ありす」

「はーい。ありす、がんばるねー♪」

 と、ありすは意気込んで、まずシャンプーを慣れない手付きで終わらせてから司波の背中を流そうとしたが――

「ねえねえ、おとーさま。背中のこれ、やけどの跡か何かなの?」

 ジェイムズが狼狽して湯船の中でバランスを崩し派手な水音を立てた。

「やけどの跡? そんな物は……一条司波の背中のどこにも……見えない?」

 ジェイムズには何の変哲もない司波の背中が見えている。

「ホクロとかの見間違いじゃねーのか、ありす?」

「ウソじゃないもん。たくさんあって、あんまり、きれいな色じゃないの。ちょうど、おとーさまの背中にアルファベットの《X》が書いてあるみたいになってるよ?」

「なんでもいいよ。ありす、おとーさまの背中を流してくれ」

 実際、司波には、ありすの当惑やジェイムズが大げさに驚く理由がわかっていない。

 せいぜいアリスと出会う前――思い出す事ができなくなっている二年前以前の時点で事故か何かあって、ケガでもしていたかと考える程度だ。

「んしょ……よいしょ」

 ありすには、いや、ありすにだけ、その傷跡と呼ぶには凄絶すぎる醜悪な刻印が見えている。

「ありす、がんばるよ。おとーさまの背中、真っ白いテーブルクロスみたいにする」

 勢い良くボディーソープを泡立て、ありすはタオルで司波の背中をこすり続けた。

「力入れすぎだって、ありす! おとーさまの背中の皮が破けて血が出るって!」

「だってこれ……《X》みたいな跡……ぜんぜん落ちないんだもん」

 がんばってるのにー、と、ありすはむくれてしまう。

「なあジェイムズ。そんなに俺の背中の汚れ、ひどいのかよ?」

 正面の鏡を介して、自分への視線に気付いた司波が話を振る。

「ぼくには見えていない。だが、ありすには見えている。そういう代物らしいな」

「なんだよ、それ?」

「アリスに夢幻境で出会う以前の記憶……欠けているのだったな」

 アリスの名が聞こえた瞬間、まるでおびえるように、ありすの手が止まった。

「案外、その喪失した記憶と関係があるのではないかな?」

『知らぬ。わたしは一切知らぬぞ一条司波。おまえはたまたま偶然この夢幻境へと迷い込んだのだ。わたしとも初めてここで会った。それが唯一無二の真実となる』

 初対面時の……司波にとっては喪失して以降の最初の記憶でアリスはそう言っていた。

「過去を取り戻したい……そうは思わないのか?」

「別にいいさ。そのうち気が向いたら思い出すだろ。ありすが来てくれて、アリスと過ごした夢幻境での記憶を取り戻せたようにな」

 それは司波自身にとって、気負ったり内心の葛藤を垣間見せるような深い言葉ではなくて、ごく自然で、さも当然という感じの受け答えだった。

「一条司波……少し前になるが、機会があって、ぼくは最近の心理学を学んでみた」

「話が見えない。論理を欠いた雑音には付き合えねーな」

 話の腰を折ってしまうと、司波は手早く自分の身体を洗い、お湯で流すと立ち上がる。

「ごめんね、おとーさま。ありす、無理だった。背中の《X》きれいにできなかった。消せなかった……」

 隣りの席に戻っていたありすも、いすから立ち上がった。

「気にすんな。それよりありす、まるーい黒いお湯の温泉に入る前にサウナだ」

「それが終わったら、黒いお湯のまるーいお風呂?」

「ああ。たくさん汗かいて、水とか飲んで、それで黒いお湯の、まるーいお風呂だ」

「おとーさま、早く、早くサウナー♪」

 伏し目がちになっていたありすだが、司波の言葉に大喜びして、はしゃいでその手をつかむ。

「じゃあな、ジェイムズ坊ちゃん。長湯してぶっ倒れるなよ」

「サウナ~サウナだ~♪ ねえねえ、おとーさま。サウナって、なあに?」

「たくさん汗をかくとこだ。おっと、その前にフロントまで降りて大鳥のじっちゃんにサウナ代払っとかねーと。ついでにジュースの出前も頼んどくか。ありすは冷たい紅茶でいいな?」

「ありすは、何か果物のジュース♪」

 ありすを連れて司波は階段を下りてしまう。

 しばらくして一条親子が戻ってくるが、あいさつ抜きにジェイムズが浸かる黒湯の浴槽前を通り過ぎてサウナ室へ直行していった。

「過去の忌まわしい記憶を喪失したいと願う者は多い。だが記憶を喪失した人間が、もっとも強く希求するのは捨てたいと願ったはずの過去の記憶」

 司波たちの姿が見えなくなってから、ジェイムズは打ち切られた語りの続きをひとりごちる。

「そうした自然な心……自己同一性を保とうとする作用すら封じるとは。アリスが伏せた一条司波の過去……記憶。なぜ、そうまでする必要がある?」

 浴槽に浸かりながらジェイムズは疑念を口にする。

「ロッカー番号十一のお客様~グレープフルーツジュースをお持ちしました~」

 声と共に階段を上がって男湯に入ってきたのはサンダル履きのメイド少女だ。

 手にした丸いトレイには氷入りプラスチック製コップと缶ジュースが載せられている。

「……メアリー・アン。なぜ、おまえがここにいる?」

 憮然とした顔でジェイムズが少女を見る。

「あれ……この感じ……教授ですよね? いつからそんな姿に?」

「力の強い《二次創作者》が近くにいる。その影響だ。先に質問したのは、ぼくだぞ」

「ありす様の件でプロスペロ様のところ、次にその関係で教授のお屋敷に行ったんです。そうしたら人間界にお出かけだって言われてですね、それでサンジェルマンっていう喫茶店に行ったら、ついでだからと、またお使いを頼まれて……このお風呂屋さんに来たら来たで、人手が足りないから、手伝ってくれと――」

「よこせ」

「あっ?」

 ざばり、と水音を立てて浴槽から上がったジェイムズが手を伸ばすが、メアリー・アンは、トレイを掲げるようにしてしまい、ジェイムズの手は空を切る。

「だめですよ教授。これはロッカー番号十一番のお客様のご注文なんですから」

「だから、それがこのぼくだ」

 不愉快そうにジェイムズが手首のリストバンドを示して番号を提示する。

「あははは……」

 メアリー・アンはぎこちなく笑うと、運んできたグラスと缶ジュースを差し出した。

「まったく……しつけのなっていないメイドだな」

「アリス様と、ありす様はアバウトなご主人様ですから♪」

 仏頂面のジェイムズは大儀そうに缶ジュースを開封すると中身をグラスに注ぎ込んだ。

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