五章『輪廻の国のありす』
暗転した司波の視界はすぐ平常に回帰した。
足場も、しっかりとした地面の感触なので現実感があって落ち着く。
「ここは?」
見慣れた角筈中学のグラウンド。
午後からの授業参観に集まってきた父兄たちの姿がちらほらとあり、校舎棟の昇降口付近へと流れができている。
いや、それが不自然に動いて校庭の中央を遠巻きにするように囲んでいた。
「もう……ここまで来ちゃったんだ」
ありすの声が少し離れた場所から耳に入る。
そして一時停止を課された黒い一角獣が不服そうにいななく声と大地を打ち据える、蹄の音。
「ありす!」
無我夢中で走った司波は目にする。
ありすと《黒騎士》は司波の存在に気付かぬまま、平行世界の七年後だという場所で見せられた光景そのままの応答を経て対峙していた。
もう走っても、馬上槍の先端が、ありすを蹂躙する瞬間には間に合わない。
アリス!
ここが夢でも現実でも、どっちでもいい!
ありすを――俺たちの娘を守る力を貸してくれ!
急迫した切実な祈りが、夢の世界――夢幻境で託された力と記憶を呼び覚ます。
「記述開始ッ!」
切羽詰まった声を受け、司波の右手の甲で明滅していたAは強い光を灯す。
ほどなく、Aの文字は青白い閃光を発すると消失。
光は無数の瞬きに拡散していくと、半透明の帯状になって司波の周囲を取り囲む。
この帯は上下にスライドしていき、最終的には球状の積層構造を形成する。
電子基板の微細な回路図の線にも似たそれらは、すべてAから始まる言葉の羅列。
球状の積層構造から、その言葉の連なりを選んでつかみ取る。
出現時とは逆回しとなって積層構造は消失。
自分自身の周囲に展開した明滅する呪文の束。
そこから、ひとつの章句を選び取った司波は握り潰しながら叫ぶ。
「純白の巨神ッ!」
右腕全体が激しい光を帯びてゆく。
直後、縮尺比にして司波の右腕を一とすれば千に価する巨大な白い腕が《記述者》のそれと半透明に重なり合って出現した。
どことなく《黒騎士》がまとう漆黒の全身甲冑の腕部分と酷似した意匠を持つ装甲。
燐光めいた輝きで覆われた腕が伸び、一角獣の突進と馬上槍の命中をその拳が阻む。
「ありすっ、下がれ!」
「お、おとーさま?」
背後からの叫びに、ありすが振り返った。
彼女の父は渾身の力で右腕を持ち上げ、それと同期した巨神の姿を部分的に顕現させている。かつてアリスの導きで最初に発動させた力を。
「《黒騎士》っ! ありすから離れろっ!」
馬上槍の先端部と巨神の拳とが激突し火花が散る。
《記述者》として与えられた司波の力――それはAから始まる言葉を具現化させて、世界を変容させるという代物だった。その意味では龍崎舞が揶揄したように魔法使い、すなわち呪文使いという表現は正鵠を射ている。アリスはこの能力を思考具現化と呼んでいた。
トランプのスペード・クラブ・ハート・ダイヤ。
それと対応するAの数だけ――合計で四回だけ使える魔法。
現実世界であろうと夢幻境であろうと、司波が一夜の眠りを経ることで、まっさらに使用回数がリセットされ、再使用が可能となる限定された奇蹟。
「なぜ邪魔をする、最後の《記述者》?」
狼狽というよりは戸惑いにも似た驚きの叫びが鉄仮面の下から発せられる。
「おまえは契約を交わしたはずだ! 《白騎士》であった、この私と!」
あわてて向きを変えた馬上槍の先端は巨神の拳に亀裂を作り衝撃を一瞬だけ緩和した。
「この世界は憎むべき、滅び去るべきだと願っていたのは、そもそも――」
「ごちゃごちゃ、うるせえッ!」
司波にとってそれは、初めて耳にした《黒騎士》からの肉声だったが、巨神の豪腕は漆黒の戦馬と騎士の抵抗を打ち破ると文字通り木っ端微塵に粉砕、吹き飛ばしていた。
無数の破片は宙を乱れ飛び、キラキラした光の破片となって四散する。
ただひとつ、結果的に観戦していた龍崎舞と中島クリスの足下に転がってきた、その黒い兜だけを除いて。
「い、一条くんたら、行方不明してから復活の直後早々にクリティカルヒットだなんて、すごいのね~」
上履き用スニーカーのままで、舞は兜を軽くつま先で小突く。
《黒騎士》の頭部でもあった兜はサッカーボールのように転がり始めた。
「まさか……マジに……うちの司波が……主人公体質だったなんて。たははは……」
クリスは目にした現実の光景に衝撃を受けて言葉が途切れがちだ。
「さ、さっすが司波! あたしの被法的保護者! この一年で、思い付く限りのありとあらゆるエリートオタク教育を施した甲斐があった♪」
短い驚愕と苦笑はすぐに終わり、クリスは再認識を経た上で平常運転に戻る。
「ところでクリス~」
「なによ舞」
「これって夢……よね?」
「当ったり前でしょ! これは夢っ! 誰がどう言っても夢! フィクションと現実を混同するなんて、創作でごはん食べる人間が間抜けになるって!」
と、クリスは舞の他にも存在する父兄や教職員、生徒に言い聞かせるように大声。
まるでそれが呼び水になったように、大人たちや生徒たちは、口々に夢だったのか、そうだよな、当たり前か、などと、ささやいたり、ぼやいたりして、うなずく。
「ふう……」
半透明に輝く巨神の腕は徐々に薄れていったが、それでも右腕は異様な質量を帯びたままであり、加重でバランスを崩した司波は片膝を着けて地面にしゃがみ込んでいた。
「おとーさまっ!」
涙目のありすが考え無しに走り寄ってきて正面から父親にしがみつく。
「ありす、ありすはね――」
「話は全部、明日の朝だろ。おまえが無事で、おとーさまは、ほっとしたよ」
司波は加重を受けていない左手で、ありすの髪をくしゃくしゃにしてなでる。
右腕は地面に陥没しつつあり上半身もそれに引きずられ気味となっている。
「うん……ありすも……ほっとしたよ」
泣きそうだった表情はやわらかな笑みに変わっている。
「あとでまた、ちゃんと、ありすの髪とかしてね? おとーさま」
「へいへい」
夢幻境でのアリスとの間でも似たような問答があったことを思い出しながら司波は、呪文の効果を打ち切るための行動を取ろうとする。
白銀の甲冑を身にまとう巨神騎士。
その四肢を術者である司波のそれの動作に重ね合わせて発現させる純白の巨神の呪文は、術者が打ち消さない限り永続するからだ。強力で使い勝手もいい反面、体力の消耗は激しい。
「おとーさまの右手……地面に落っこち続けてるの?」
「まあな。すぐ呪文を終わらせるから、普通に動けるようになるって」
が、その前に彼と娘の前に、就活中の女子高生めいた少女が歩み寄ってきた。
「やっほー、あたしの被法的保護者と、そのお嬢さん♪」
「あー、クリスだ」
「その格好……BLマンガ家を廃業して就活する気にでもなったのかクリス?」
少し大人のありすが見せてくれた動画で知っていたものの、直接目にすると就活スタイルな印象が際立つクリスだった。
「あたしが描くジャンルは、何もBLだけに限定されないっつーの!」
「いちばん稼げてるのは新撰組ネタのソフトなBLだとか言ってたくせに」
「おとーさま、おとーさま、だからBLって、なあに?」
「……ありすは知らなくていいことだ」
「と、とにかーく、さっきから、ほっぺたつねっても痛いし、般若心経とか唱えても、まるっきり効き目ゼロなんだけど説明してくれる?」
いつになく珍しく真剣な目を見せたクリスが問いかけてくる。
司波はクリスと初めて会ったときにそんな表情を見ていた。
「あ、あのねクリス、おとーさまはね」
おろおろしてしまったありすを左手で制して司波は同居人を見上げた。
「朝、昇降口に入ったとこで足下が割れて神隠しにあった。そんで、ここの平行世界の、その七年後ってとこに飛ばされてヤバい話を聞かされた。携帯に電話しただろ?」
「新宿から避難しろとか言ってた寝言のこと?」
「少なくともウソじゃないってのは、さっきの見て信じてくれたよな」
「これが、っていうか、ここが夢の中じゃないならね」
クリスの一言で司波は自分がいるこの場が夢か現実か疑念に駆られてしまう。
「ありす、ここは夢じゃなくて現実……夢幻境じゃない人間界だよな?」
即答ではなく、一瞬だけ間を置いてありすがコクコクうなずく。
「人間界とか夢幻境とか、あたしの大好きな単語で喜ばせてくれるんだから~♪」
クリスは小柄な身体で両腕を大きく開いて、自分もしゃがみ込み司波とありすとを、まとめて抱きしめる。
ふぃらめんてーしょん会の集まりや同人誌即売会のイベント、出版社主催パーティーに出かける時にクリスが愛用する柑橘系コロンの穏やかで優しい香気が司波には心地良かった。
「一条くん、それと、ありすちゃんよね。大丈夫……なの?」
担任教師である舞が歩み寄ってくる。
「なあ龍崎せんせー。質問なんだけど、仮にさっきからあったことが夢じゃなく現実ってことになったら俺……どーなると思う?」
平行世界の、その七年後で見せられた映像を通じ、彼女がクリスと旧知の仲であり、趣味も似通っていることは理解した上で司波は気休めを欲しがっていた。
これが夢でなければ間違いなく面倒なことにはなる。
少なくとも約一年前、司波が横浜の外人墓地近くで目覚めた後は大変だった。
薄汚れた学生服で所持品は死亡宣告が出て失効したパスポートだけ。
入国管理局や公安警察の人間の面通しやら医療チェック、心理テストや不毛な現代日本知識のテストを繰り返したような、身元の確認よりはややこしいはずだ。
なにしろ、人前で堂々と派手な魔法を使って一戦やらかしたのだから。
「大昔のSFとか超伝奇バイオレンス小説だったら~未知の能力に目覚めた戦士として仲間が迎えに来るとか~政府の秘密組織のエージェントが確保に来るとか~あやしげな研究所に拉致監禁されて実験体にされるとか~かしらね~?」
ノリがいいのか真剣に案じているのか、どちらにも取れる神妙そうな顔で舞が答えた。
「舞は小説も漫画も映画も古いの好きで、いつもジュヴナイルっぽいのばっか書いてたもんね。考え古すぎ。最近は終わり無き日常タイプの方が受けるってば」
「甘く見ないでクリス。わたしだって国語教師としてライトノベルの百冊や二百冊には目を通してるんだから。その上での発言なのよ~。ちゃんと、大昔のその手のお話だったらって~前置きも付けてあるわよ」
「じゃあ最近風だと、どんな感じなわけ?」
「不自然に主人公の男の子のそばに美少女がたくさん現れて~異世界でも現代でも未来でもお構いなしで~節操なく不自然にエッチな展開ばっかりあって~深夜アニメ化されて~成人向け同人誌のネタにされるような、そういう感じよ~」
そういった風潮や流行りは許し難い、と考えているのがありありとわかる語りだった。
「否定からは何も産まれないって」
しゃがんで司波たちを抱きしめていたクリスは立ち上がって舞に向き合う。
「クリスの節操なし~」
「舞の堅物!」
不毛な言い合いと、にらみ合いが始まるが、その間に司波の右腕は地面に沈み続けていた。
「クリスもマイもケンカしちゃ、だめー」
ありすも立ち上がって司波から少し離れると、二人の間に立ち、仲直りさせようと、ぴょんぴょん飛び跳ねる。
「ったく……龍崎せんせーもクリスもガキみてーだぜ」
苦笑した司波は呪文の効果を打ち消すべく苦労して右腕を引っ張り上げた。
「よっ……と」
恒常維持されるタイプの呪文の効果は、司波が左手で右手の甲に触れ呪文適合と唱えれば停止する。
左手の人差し指と中指を右手の甲に置き、停止の詠唱を始めようとした瞬間に異変は生じた。
「……ありゃ?」
司波の目に映ったのは先刻、舞が軽く蹴飛ばした鋼の兜――《黒騎士》の頭部だった物体。球形にほど遠いそれがコロコロ地面を回って司波たちの方へと転がってきていた。
風に揺れるには重量感がありすぎるそれがだ。
「しつこいぜ《黒騎士》ッ!」
本能的な嫌悪感が、片膝を着いたままの司波に右腕を上げさせ、再び顕現した巨神の腕が伸びていく。
「あ――」
ありすが最初にそれに気付いて後ろを振り返り、クリスと舞もそれに続いた。
鋼の拳が指を広げて即座に確保し、黒い兜を握り潰す。
だが、金属がひしゃげる音の代わりに心臓の鼓動めいた不気味な脈動が響いた。
巨神の指と指の隙間からは粘液めいた漆黒の流体が逃げ出していき天高く飛翔した。太陽をさえぎるように空中で陣取ると、ぶくぶくと泡立っては増殖を開始する。
「あちゃー……SAN値が激減しそうな感じの敵ね~?」
夢なのだからと割り切っているのか、あるいは天然気味な性格ゆえか舞は動じない。
頭上のそれは透明な鉄板の上に落とされたクレープのように薄く――しかし透明度はゼロで漆黒の沼となって――平面的に拡大していく。
「1D100ってとこかな?」
同様なクリスも旧友と似たような述懐で手をかざし上空を見上げる。
「おとーさま!」
危機感を抱いて呼びかけてきたのは、ありすだけだった。
「なんかそれ、増えておっきくなりそう! 早く!」
「お、おう、おとーさまに任せろ!」
とは言ったものの、恒常的に維持してしまったせいで司波は右腕が痺れかけている。左腕で右手首近くをつかんで持ち上げ、ようやく支えている始末。
巨神の腕――その部分的な幻像は司波の右腕をトレースして規模を拡大する性質上、司波のそこがまともに動かなければ操作精度も威力も半減以下。
「何回とどめ刺せば成仏すんだよ、てめえは!」
夢幻境でのアリスとの冒険の間にも、この《黒騎士》とは幾度となく敵対してきた。
そのたびに、完全に撃破しているはずだが何度となく姿を現す不死身っぷりで司波をイラつかせている。
「これで吹っ飛べえッ!」
大振りなアッパーカットの動きで司波は右腕をかかげるように空へ突き上げた。
燐光めいた輝きをまとい、巨神の豪腕が天を砕く。
が、空中で不定形に薄く広がっていた黒い塊は巨神の腕に透過を許すだけ。
「くっ?」
強烈な粘性を帯びているのか、白い巨神の腕は手首のあたりで上空のぬかるみに拘束されて微動だにしなくなってしまう。
「こいつ……この野郎っ!」
逆に司波は巨神の動作をトレースさせられていて、掲げている右腕からの加重に耐えかね脂汗を流し、懸命にこらえるだけとなっていた。
「ぬおおおおおっ!」
使える呪文はあと三回残っている。
何か……こういう状況を打破するAから始まる英語を何か!
とてつもない加重に苦しめられながら、司波は呪文に適した言葉を考える。
「記述開始ッ!」
再び環状の言葉の群れが司波の周囲に展開する。
が、先刻とは異なり、呪文をつかみ取って発動させるべき右手は頭上高くへ突き上げたままであり魔法を決定できなくなっていた。
しくじった!
と後悔しても遅い。
上空で薄膜状の黒い平面と化した何かは、その一部分を鋭利な先端を持つ円錐形へと変じさせ落下――というよりは撃ち込もうとしている。
「おとーさまっ!」
走り高跳びの要領で、ありすが突進してきて司波に抱き付こうと飛び跳ねた。
だが、無数の《A》で構成されている呪文の束が障壁となり接近を阻む。
「ふぎゃんっ?」
電気ショックで痙攣したかのように、ありすは司波の足下で転び校庭の土でドレスを派手に汚してしまった。
「何する気だ! 上から、やばそうなの降ってくる! さっさと逃げろ!」
「ありす、あきらめないもん!」
立ち上がってスカートを払うと再度、ありすは距離を取って後退していく。
「おかーさまの代わりに戦うよ!」
助走を付けて司波に向かい、走り高跳びのように突っ込む。
「ありすっ!」
巨神の右腕を支えているも同然の右腕、その手首を保持させ支えていた左手を離し、司波は呪文の束を押し破って左手をありすに差し伸べた。
『わたしとおまえ、二人を合わせた分、ひねくれた娘だ。頼むぞ、わたしの司波』
アリスの声がささやいて、世界はその瞬間スローモーションに切り替わる。
停滞した世界でも司波の認識はそのままだった。伸ばした手はありすのちいさな腕をしっかりと握り締めた。
《A》の文字で構成された呪文の束は消失し、ちびっこいありすの身体は、そのまま司波の胸元へ引き寄せられて左腕に抱きかかえられる。
「AはありすのALICE!」
ありすが叫ぶ。
《蟹座》の《幻想代行者》の右手の甲には父と同じく《A》の文字が光って爆ぜた。
まばゆい光と共に二人を新たな文字の群れが呪文の束となって包んだ。
《A・L・I・C・E》の、それぞれから始まる言葉の海。
ここで、ゆっくりと流れていた時間は徐々に本来の早さへ戻っていく。
「おとーさま、これ、これ!」
ありすが指し示したその言葉を見て司波もうなずく。
「ありすと一緒に!」
「おう!」
黒い円錐の先端が、その頂点を回転させ校庭の上空十メートルにまで達したその時に、ありすが手を伸ばし呪文を引き寄せ握って潰しながら、司波と二人で叫ぶ。
「爆裂剛拳っ!」
巨神の腕が白い炎に包まれて、拘束していた黒い薄膜を融解させ自由を取り戻す。
撃ち込まれる寸前だった円錐形ごと爆炎に包まれ、《黒騎士》であった奇怪な存在は、跡形も残さずに消滅していた。
「やったあ! ぜーんぶ消し飛んじゃったよ、おとーさま♪」
「こ、こら、ありす! はしゃいで抱き付くな! おとーさまは、まだ右腕が重たくてやばいんだぞ!」
「じゃあ、ありすが代わりに――」
ありすは司波のほっぺたに、ちいさな顔を寄せて――
「呪文適合♪」
と言いながら短くキス。
拡大していた呪文の束は司波の右手の甲へ吸い込まれていき右腕の加重も消えた。
「ふうう……つ、疲れた」
司波は地面に目を向けるが、そこには何もない。
一角獣は……《黒騎士》の手下のまま……か。
一角獣は本来、アリスに付き従う妖精たちの一体であり、夢幻境での旅の途中では、司波が苦労して捕まえ仲間にしていた。
校庭でカードに化身したグリフォンと同様にだ。
《悪夢》の影響下に落ちた妖精は今回のように一度、打ち倒すことで強制的にカードに還元させ《蟹座》の《幻想代行者》と再契約という手続きで正気に戻せる。
だが今回は《黒騎士》もろとも吹き飛ばしたというのに一角獣のカードは出現しない。
それは、やたらと多情で女性にだけは愛想が良い陽気な純白の一角獣が未だ《悪夢》の影響下にあることを意味していた。
そして、その特殊能力である回復治療によって《黒騎士》も含めて、いずれまた再生し攻撃してくるであろうことも想像できた。
いいさ……次に《黒騎士》が出てきたら、また。助けてやる。おまえもアリスと俺の……旅の仲間だったもんな。
「おつかれさまでした、おとーさま♪」
再度、今度は反対側の頬にありすがはしゃいでキス。
「さっすが、あたしの被法的保護者。美幼女と力を合わせて、謎の敵を撃退。締めは、勝利のほっぺキスなんてねー♪」
途中で気が緩んだとはいえ繰り広げられた一連の展開に見入っていたクリスが戻ってくる。
「ハッピーエンドっぽいし、そろそろこの夢からさめる頃かな、司波?」
「だといいけどな。龍崎せんせーが言ってたみたいに、研究所に捕まって実験とか勘弁だぜ」
「大丈夫だよ、おとーさま。ありすに任せて♪」
司波に抱きかかえられたまま、ご機嫌顔のありすが言う。
「ねえ、ありすたちのこと見てたみんな――」
ありすの声は特に大きくなかった。
にも関わらず先刻から《黒騎士》出現以降の経緯を目の当たりにしていた者すべての脳裏へ響いている。
「不思議な夢だったでしょ?」
遠巻きにして司波たちの戦いを野次馬していた面々は、それを聞いた直後に、一瞬の立ちくらみに襲われて目を閉じ、すぐ回復した。
そして目を閉じたことで感じた、視覚が閉ざされた瞬間を眠りとして認識する。
彼ら彼女らは一様に、自分はひどく眠たくなり、あくびをして目を閉じていたほんのわずかな間に、妙な長い夢を見ていたのだと考えるようになっていた。
「ありす、その力は……アリスのと同じやつか?」
「うん、おかーさま譲りの《夢繕い》だよ。おかーさまも上手って言ってた♪」
だらーん、と手足を伸ばして、ありすは司波に身体を預けてリラックス。
角筈中学校庭に入り、昇降口を目指していた父兄たちは司波とありすの姿を目にする。
そして、さっきの白昼夢は、この女の子を視認したことでエキゾチックな想像力を刺激されたのが原因だと合理的に考え、それぞれの行き先へと向かっていく。
「ね、ねねねっ? 今のありすのそれは精神操作? 認識阻害? 記憶の書き換え?アカシックレコードへの干渉とか?」
「な、なんでクリスは、そんなこと言うの? 今のはぜーんぶ夢――」
にじり寄ってきたクリスに、司波の腕に抱かれたままのありすが驚く。
「そんなわけないでしょ! 黒い一角獣を駆る謎の黒騎士。そいつと戦おうとして大ピンチの金髪美幼女ありす! そしてそして、ついに秘められたその能力に覚醒した司波! ぜ~んぶ記憶してる!」
「《夢繕い》が効かない人がいるなんて……どうしよ、おとーさま?」
「……本当にアリスは上手って言ってくれたのか?」
「十回に一回くらいは……で、でもでも、そのあと、たくさん練習したら十回に七回は、まあまあになったんだよ! ほんとだよ!」
「わかったわかった……まあ……さすが俺の法的保護者だなクリス……」
言い回しを真似た棒読み調で司波はあきれた。
「ふっふっふう~この中島クリス花の独身二十六歳を甘く見ないでちょーだい!」
「それなりにはクリスに説明するしか無さそうだ。いいよなありす?」
「キラぼしミカちゃん見せてもらったし……悪い人じゃないし、いいと思う」
「現金なやつ……」
「そーゆーところは、おとーさまに似すぎたって、おかーさま言ってた!」
「あー、はいはい。どうせ、おとーさまは現金なやつだよ」
「やった! 記憶操作に抵抗できた! こんなこともあろうかと、ああいう一件落着な感じの時は精神集中して、夢じゃなくてあたしは世界の秘密に触れたから記憶を消される、消されるな抵抗しろ、忘れるなこの痛みって念じた甲斐があったー♪」
「クリスも、そんなこと考えて念じてたの~?」
にこにこ笑う舞の口調は、司波に平々凡々で退屈な日常への回帰を意識させる。
「舞も?」
「うふふふふ~わたしってセービングスローとか、魔法ダメージへの抵抗って、いつもダイス目がいいのよね~♪」
「白兵戦闘キャラばっか使うくせに、命中の時はファンブルしまくりの反動かな」
「そ、それは言わないでよ~」
どうやら《夢紡ぎ》の効果から逃れたのは、クリスと舞の二人だけらしいと察して、ありすと司波は親子そろって疲れた深呼吸をする。
「おとーさま、お腹減った。お着替えしたい。髪の毛も、とかしてちょうだい?」
「そうだな。おとーさまも腹減ったし、帰ってソースやきそばでも作って喰おう」
銭湯が開くのは午後三時からだからそれまで余裕はあるなと安心し司波は言った。
「やったあ! おとーさまのソースやきそばー♪」
「一条く~ん、クラス担任の前で、堂々と自主早退するなんてこと、先生は言わないで欲しいなあ~」
「そうよ司波。なんたって、これからあんたには、三者面談で進路指導っていう、人生の重要イベントがあるんだから、すっぽかすの禁止!」
クリスと舞は息をぴったり合わせて司波に、にじり寄ってくる。
「子連れで良ければ……あと、なんかとりあえず、食い物と牛乳を希望」
「事情が事情だから先生、特別に認めちゃいま~す」
「舞のやつ教師になったからって、先生、なんて一人称を楽しげに使ってくれちゃって!」
「うふふふ~素敵でしょ~?」
すっかり旧交を温め終わって再沸騰に近付きつつある二人。
「ええええー? 帰らないの? ありすは、おとーさまのソースやきそばっていうの食べたい食べたい~!」
「また今度な」
「ううーっ! ソースやきそばああああっ!」
駄々っ子状態に突入したありすをなだめながら司波は、またしても、いつだったかアリスやありすではない誰かに『また今度な』と、そんな言葉をかけたような既視感に見舞われていた。
一条司波とその娘が《黒騎士》の残骸から生じた黒い不定形の存在を消し去る少し前――
「ここへ来れば《記述者》に会えると聞いているのだが」
西新宿の駅前一等地にあるサンジェルマンのドアが開いて、来客を告げるチャイムが鳴る。半ズボンをサスペンダーで吊り上げている欧米人らしき容貌の男児だった。
「パイプは? それとも葉巻をやるかね?」
テーブル席のひとつで競馬新聞を読む視線は変えずに竹内志門が応じる。
昼時だがオーナー兼店長である彼の他に客はいない。
「あいにく、今の姿と能力を決定した《二次創作者》の設定上そぐわない」
迷惑そうに男児が答え志門が陣取るテーブルの対面に座した。
「これを《記述者》か、あるいはその娘本人に届けてくれとのことだ」
男児は大儀そうにカートに載せて持ち込んだ荷物をテーブル上に苦労して持ち上げた。
「依頼主は?」
赤鉛筆を手でもてあそびながら志門が問う。
「代替わり前の《蟹座》の《幻想代行者》アリス・フランシス・ラトウィッジから」
志門の前に置かれたそれは、この日の朝、ひまわり荘まで彼が送り届けたものと完全に同じ段ボール箱。
「なるほど……このタイミングで……か」
「意味ありげに適当な言葉で人を煙に巻くのは相変わらずのようだな伯爵」
不愉快そうに男児は顔をしかめた。
「せっかく百年ぶりに、きみが私の店を訪ねてくれたというのに出てくるのは小言か。仲良くしようじゃないかジェイムズ・モリアーティくん」
「断る。ぼくとしては、純粋な知的探求にのみ存在を費やしていたい。そんな時間など不要だ。依頼に応じたのは、かりそめとはいえ、一度は仕えた彼女への弔意と理解してもらいたい」
「だがジェイムズくん。今の姿と能力、試すつもりになる程度ではあっても、気に入りはしたのだろう?」
「紅茶をくれ。できればアールグレイで、砂糖をひとさじに、ダークラムを六滴ほど。代金は《記述者》のツケで」
ジェイムズの注文に志門は黙って首肯し席を立ち、カウンター内側にある厨房へ戻っていく。
やや間を置いて、注文通りのティーセットを志門が運んでくるが、トレイに添えられていた銀製のシガレットケースを見て男児はまたしても顔をしかめた。
「悪趣味だな伯爵。酒やタバコを絶った相手への嫌がらせとしてはこの上ない」
「なかなか味も悪くないと思うがね」
志門はシガレットケースを開け紙巻きタバコを一本取り出し、包み紙を破き中身を無造作にかじる。
「もぐむぐ……ん、こう甘いつまみにはやはり、これが合う」
トレイに便乗させていたウイスキーモルト入り輸入ビールの瓶をラッパ飲みすると、志門は再びシガレットケースに手を伸ばすが、機先を制され引ったくられてしまう。
「悪趣味なことに変わりはない。むしろ大人げない冗談だ」
「シガレットチョコレートというやつだよ。今のこの時空連続体へと渡る前に、長いこと逗留していた世界で親しくした子の好物さ。彼は格好を付けてタバコを吸いたがっていたのだが、嘆かわしいことに紫煙をくゆらす快楽を理解できなかった。そこで仕方なくこれを代用タバコにしていたという次第さ」
「ぼくの宿敵という設定の名探偵どのが、アヘン窟に入り浸ったり、コカイン注射に耽溺していたようなものか」
「その点、この世界――この平行世界というか――時空連続体の特異点は、清廉潔白、早寝早起き、健康優良で申し分ない。学業成績は平均スレスレだがね」
「ひとつ聞くが、あの者が最後の《記述者》というのは事実か?」
紙包みを破き、シガレットチョコレートをかじりながらジェイムズが質問する。
「私なりに、この世界へ渡ってから調べてみたのだ事実だった。特異点でもなければ、本来滅亡したはずの枝分かれした世界――ひとつの時空連続体をだましだまし修復維持することなど、そうそうできはしない」
「修復が為れば、最後の《記述者》ではなくなる。だが修復維持することさえ難しくなれば、結果として最後の《記述者》となりおおせてしまう、というわけか……」
「さて舞台裏の幕間はこの程度で良かろう。ジェイムズくん、この店にはルールがあることはおぼえているかね?」
「代金はツケにしておけと言ったぞ、ぼくは」
「悪いが、ご賞味いただいたのは、曲がりなりにも異世界の産物だ。近似値の世界ではあるとはいえ金銭で支払うには難しい代物だと理解願おう」
「嗜好品にどれだけの価値を見いだすかは人それぞれだ。ぼくにとっては悪趣味な包装をされたチョコレートでしかない」
ジェイムズは席を立ち、ためらうことなく志門に背を向けた。
「厄介事に巻き込まれるのは、もうご免だ。波瀾万丈な冒険活劇の脇役などという立ち位置は、二年前からの一件で嫌というほど満喫させられて辟易している。ようやく一年前にお役ご免となって、今度はアリスの遺言で遠出させられた。関わりたくない」
「貸し借りすべてチャラ、というわけか。仕方あるまいな」
わざとらしいため息をつくと志門も席を立ちジェイムズを追い越して、なぜか店の入口近くにある傘立てから一本のワンタッチ置き傘を手に取った。
「見送りも不要だ。外は快晴。この国の言葉で五月晴れというやつか」
「荷物の受け取りに私が代理でサインさせてもらう必要がある。終わるまでアリス嬢の夢幻想衣は、きみの責任と管理下にある。何か書き付けなりあるはずだ。出して、私に一筆書かせてくれ」
どこからか、さっきの赤鉛筆を持ち出した志門がジェイムズを引き留めるかのように妙な要求をする。
「言っておくが……おかしな真似をするなら、こちらもそれなりの対応を――」
けげんそうに言い返した瞬間、ジェイムズは唐突な耳鳴りに襲われる。
それはまさしく、一条司波とその娘が《黒騎士》の成れの果てである黒い不定形の存在を消滅させた瞬間でもあった。
「アリスが地上に出現した? ありえない! 彼女はもう死んだ!」
言い終える途中でテーブル上に置かれていた段ボール箱が黒い炎に包まれ燃え尽きていく。
店内の屋上に設置されていたスプリンクラーが作動し人工の雨を降らせるのと、竹内志門がワンタッチ傘を開くのはほぼ同時だった。
「不壊不滅のはずだ……《夢幻想衣》は。それがなぜ?」
段ボール箱はテーブルそれ自体や放置されていた競馬新聞に一切の損傷を与えることなく灰となり、燃え尽きていった。心霊現象的には自動発火とも断定できる事態だ。
「それを創り出した……生み出した《記述者》自身が、消滅を望むとしたら、あり得ることではないかね」
悲しげな面持ちで傘を差したままの志門が問いに答える。
「なぜ、アリス――《蟹座》の《幻想代行者》の《夢幻想衣》が燃え尽きることを予見していた? 答えろサン・ジェルマン伯爵」
「やり直しではなくて、腹いせに悪あがきというか、嫌がらせをしたい、と言った別のきみに教わっていたからだ。あちらでは私は与太話の存在として語られていただけさ。実際に渡った先はこの時と場からは、時系列的には六年ほど後に相当するだろうね」
スプリンクラーの勢いが弱まり、志門はポケットから葉巻を取り出し吸い口を強引に口でちぎり、吐き捨ててから、くわえる。
「お気に入りの店の床なのだろう? 自分で汚すのか?」
当惑気味な顔で、ずぶ濡れのジェイムズが本題を避けて質問した。
「どうせこの後で大掃除するしかない。アルバイトに任せるには最適の仕事だ」
金属製ガスライターを取り出し、葉巻をそれで着火した志門が苦笑する。
「前世紀の序盤で……枝分かれして……あなたがいない、伝説で名のみ語られる世界もあるという話は前に聞いたが……そちらの世界のぼくは……どうしていた?」
「切り札が欠けて、きみや彼女は落胆していたよ。ありすくんへの贈り物を託すのは、やはり、きみの勤めだったそうだが、私が存在してはいない世界なので直接司波くんのところへ向かったらしい。大遅刻になって、あとになってから悔やんでも悔やみきれなかった……だそうだ」
「これ以上、あちらの世界の事情を聞いてしまえば、同期してしまう確率が増大する……そうだったな伯爵?」
「おぼえていてくれたかね。あれは私の主観時間では……かなり古い記憶になるな」
「では、これ以上は何も問うまい。あなたも何も語るまいがな」
「理解が早くて助かる。ところでこの店にはルールがあるという話の件と、依頼されていた荷物の管理トラブルに関してはもちろん責任を取るだろうね?」
「ぼくに働けと、そう言うのか?」
「今のあのパーティーにはリーダーこそいるが参謀が欠けている。別のきみと出会った世界では、それが逆で、しかも代わりが利かない状況下だった」
「……いいだろう。ただし、一条司波とアリスの娘の性根を見定めてからの話だ」
「無論だとも」
「ところで伯爵」
「何かなジェイムズくん?」
「この仕掛けは……いつ止まってくれるんだ?」
スプリンクラーの雨に打たれながらジェイムズは大きく派手なくしゃみをして志門の笑いを誘うのだった。