四章『未来の国のありす』
石炭を燃やす煙ですすけた市街の大気に、アリスは不快そうにゴホゴホと咳を繰り返してはハンカチで口元を覆っている。
「ふう……いつ来てもここは居心地の悪い街だ。そう思わないか司波?」
再契約を経て中型犬サイズになって同行するグリフォンも主人に同意するかのように、クチバシと頭を大きく縦に上下させた。
「おまえの夢の中なんだろ。きれいな空気に作り替えるとかしろよアリス」
「それはできない」
「また、俺への嫌がらせかよ」
即答したアリスに司波も言い返す。
「夢というのは不自然で論理を欠いた幻想だ。従って、大半の人間に好ましいものもあれば、際立って不愉快かつ下卑たそれもある」
風向きが変わりハンカチを使う必要もなくなると、十九世紀末イギリス都市部と同様に辻馬車が行き交う大通りをながめながら、アリスは淡々と語る。
「大いに不愉快ではあるが、わたしや|《蠍座》(スコーピオン)の赤ずきんなどは、ひどく下品で愚劣な夢の題材に使われる」
「十二支とか十二宮ネタでマンガになってるのは見たことある気がするけどよ」
「とにかく夢幻境を預かる役目を帯びた者である《十二幻宮》のわたしが、他者に夢を強いることは禁忌だ。善きにつけ、悪しきにつけな」
「ふうん、めんどくせえ話だな」
「夢というものは……時と場すらをも超越してしまう。夢に見た光景や物語を現実に持ち帰ることで、大いなる創作や発明をものにする人間は少なくない」
「俺なんか、いい夢を見たら正夢で、気色悪い夢を見たら、どうせ夢って片付けてるぜ」
占いやらおみくじの結果に関しても司波は似たような考えで臨んでいた。
「司波は無責任な《記述者》だ。おまえが作るはずの物語は、さぞかし矛盾だらけで、いいかげんな内容にちがいあるまい」
「どっちみち俺は物書き仕事に就くつもりねーよ。発明家とか学者ってのもごめんだ。現代の貴族・地方公務員にでもなって税金のおこぼれで地道に堅実な暮らしをするさ」
現代日本の知識を参照して司波は進路予定を口にする。
「だいたい、無茶苦茶な展開だらけの《不思議の国》と《鏡の国》の主役にそんなこと言われても俺は納得できねーぞ」
「わたしの物語は夢そのものだからな。お父様とお母様の願い、あるいは希望と言ってもいいが――どちらにせよ大いなる矛盾そのものだ。よって、無茶苦茶な展開でなければならない。それゆえ、おまえの指摘と批判は的外れとなる」
鉄壁の論理で司波は反論を封じられた。
「どうだ? ぐうの音も出まい司波」
それまで辻馬車や新聞売りたちを見ていたアリスは、勝ち誇った楽しげな表情で傍らに立つ司波を見上げる。
「……ぐう」
ささやかな抵抗としてそう言って司波はアリスから視線をそらす。
ジャガイモとタラのフライ――いわゆるフィッシュアンドチップスを売る店から流れてくる香気に食欲を刺激されている。
「ず、ずるいぞっ! そんな幼稚な反抗で論理を打ち崩すのは!」
ムキになったアリスはほっぺたをふくらませて司波の視線の先に割り込む。
「素直に、わたしの見識には恐れ入ったと感心しろ!」
「それより腹が減った。なんか喰おうぜアリス」
むくれた顔でもかわいいのは得でずるい、と思いながら司波は所持金がいくら残っていたかカウントする。
「働かざる者、食うべからず、だ!」
金貨が詰まった革袋の持ち主である《幻想代行者》は、すっかりご機嫌斜めらしい。
あいにくここでは日本円もイギリスポンドも使えないので司波は無一文だ。
「グリフォンにチェシャ猫、十二体の内、二つも復活させてやったのはどこの誰だと思ってる。働いてるだろ?」
「《記述者》が《幻想代行者》に貢献するのは当然のことだ。労働には含まれない」
「……おまえなあ、そういう態度ばっかりしてると、友達無くすぞ」
「あははは。そうですよアリス様」
司波とアリスとの会話に横から入り込んだ彼女は見る限りどこかの使用人だった。
「気難しくて怒りっぽいアリス様のお相手をしてくれる殿方なんて、どの領域の夢幻境を探してもそうそう見つかりません。大事になさってくださいませ」
司波よりも三つ四つ年上に見える少女だった。
アリスのエプロンドレスより装飾性は少ないが、それでも華やいだ雰囲気のメイド服。
「メアリー・アンか!」
顔見知りだったようでアリスは目を輝かせて名前を口にする。
「ご無沙汰しておりました。アリス様もグリフォンもお元気そうでなによりです」
優雅に一礼すると、長い黒髪を三つ編みにした少女はグリフォンにウインクする。
「一別以来ダナ、メアリー・アン。我ハ壮健ダ」
「あたしも元気でしたよグリフォン。チェシャ猫は? 他のみんなは?」
メアリー・アンの言葉を耳にして司波の目尻が、ぴくっと動く。
「猫ハ場所ガ場所ナノデ偵察ニ出テイル。現在ハ猫ト我ダケ、アリス様ニ仕エテイル」
「賢明ですね。なんといってもここは魔都ロンドンの影、悪徳と退廃の都トリノヴァントゥムですもの」
「アリス、こいつは知り合いなのか?」
「知り合いも何も、十二体の妖精の一体――わたしの姿隠しの力を象徴する娘だ」
憮然とした表情でアリスは答えた。
「ええっ? おまえの妖精ってのは、しゃべる化け猫とか、駄犬みたいな幻獣とかだけじゃなかったのかよ!」
「単にこれまで回収した中には、人間型が存在していなかったというだけのこと」
「アリス様。この人が《記述者》さん、なんですよね?」
「ああ、その通りだともメアリー・アン。わたしには迷惑と苦労ばかりかけてくれる一条司波という厄介な男だ」
「逆だろ、逆。俺が迷惑と苦労ばっかりかけられてる。あんたアリスと付き合い長いなら想像できるだろ?」
「はい、とっても簡単に想像できちゃいますよ。うふふふ♪」
メアリー・アンの笑顔はアリスへの友愛がこもった自然な表情だった。
「けどあいにく俺はあんたと初対面だ。十二体がバラバラになってから、初めて会うアリスのとこに戻ってるのが、グリフォンとチェシャ猫だと、なぜ知ってる?」
司波の表情はくだけた笑みから一変して攻撃的なものになっていた。
「グリフォンは、お供してるのが見えるから、わかるとしてだ。あの化け猫はここにいない。どうしてわかってた?」
「おい司波――」
「黙ってろよアリス。こういうお澄まし顔で背中からばっさり裏切るようなやつを俺は何人も見てきた。裏切られた。とっくの昔に、例の《黒騎士》の手下に成り下がってる可能性だってある」
アリスをかばうように前に出た司波はメアリー・アンと対峙する。
「ただ単に、さっきからのアリス様たちのお話を盗み聞きしていただけ、という説明では納得できません?」
「それなりに人通りがあるところだ。俺もアリスも怒鳴って話をしていたわけじゃないんだぜ?」
「そんなことより《記述者》さんは記憶喪失でしたね。いつ、どこで、誰に、どんな風に裏切られたかを思い出せたということですか?」
清純そうだったメアリー・アンの目が毒婦めいたあやしさを帯びる。
「お、俺は――」
不意に襲う頭痛が司波を苦しめる。
「司波!」
「アリス様。彼の想像通りで、あたしはもうあなたに仕えるメイドではありません」
「司波っ! しっかりしろしろ!」
「アリス様はご存じのはずですよね。彼の意識を苦しめる痛みの理由を」
「ど、どういう意味……だ。お澄まし不良メイド!」
苦痛を押し殺して司波は崩れた姿勢を強引に直し拳を握る。
右手の甲には《A》が弱々しく浮かび上がり明滅していた。
「メアリー・アン……どうしておまえが、そのことを……」
「往来でするような話ではありませんし場所を変えましょうか。アリス様たちが探している方も、そちらでおくつろぎになっていますよ」
「やはりこの街に潜んでいたのか。あやつがおまえの新たな主なのだな?」
「さあ、どうでしょう。ご異存がなければ案内させていただきます。参りましょうか、ジェイムズ・モリアーティー教授の別邸へ」
メアリー・アンはくるりと背を向け、路地裏へ足を向ける。
「不良メイドの親玉は超有名な悪党かよ。《黒騎士》の正体も、そいつで決まりかもな」
減らず口を叩くことで司波は虚勢を張り、メアリー・アンに続く。
「いや。そうではない……《黒騎士》はあやつなどではない」
グリフォンともども、司波に続くアリスが答えた。
「正体を知ってるとかいうオチか?」
アリスは即答せず、一拍だけ間を置いた。
「推測はできるが確証もない。だから口外できないのだ」
それはウソだ、と司波はなんとなく直感した。
「シャーロック・ホームズを雇って謎解きしてもらうってのはどうだ?」
名探偵の宿敵がいるならば、という単純な発想だった。
「あいにく彼は風来坊だ。わたしが管轄する領域の夢幻境には長らく戻っていない」
今度の述懐はウソであるようには思えなかった。
それこそ、頼りにできるものなら力を借りたいとでも良いだけな気配があった。
「地道に足で捜査しろってことかよ。大昔の刑事ドラマみてえな話だな」
傍らで心配そうに自分を見上げるアリスに空元気を振りまきながら、司波は暗くせまい裏路地に足を踏み入れていくのだった。
「おわああああああっ?」
昇降口の中に足を踏み入れた瞬間、足下の床が薄氷にでも変じたように加重を受けて破裂し、巨大な円筒状の縦穴に落ち続けている。
アリスとの冒険を垣間見る白昼夢は一瞬で終わっていた。
不思議の国のアリスの序盤でも、こんな風な展開があったことを司波は思い出す。
懐中時計を手にして、遅刻遅刻、と、あわてるウサギを見かけたアリスがそれを追いかけて、ウサギが飛び込んだ穴に自分も身を投じてしまうという有名なくだりだ。
「おいグリフォン出て来い! 飛びやがれ! 俺を背中に乗せろ!」
ポケットから取り出したカードに向かって呼びかけてみる。
どんなに両手両足を伸ばしても縦穴の壁面には届かない。
このまま落下が続けば死ぬのは確実だ。
「《記述者》ノ呼ビカケニ応ジテ我ハ――」
だがエメラルドの光を放ちながら巨獣として実体化を果たす過程で、司波はさらなる急降下に見舞われ、その輝きも遙か上空に消え去る。
「こんなめちゃくちゃなこと、まるで夢――夢?」
その愚痴めいた述懐が回答となった。
「つまりこれは夢か。アリス――のはずはない。ありすの夢ってことなのか?」
そうつぶやいた瞬間に、黒曜石めいた縦穴の表面に赤黒い無数の線が走り明滅する。
アリスとの夢幻境での探索でも、似たような経験をしていたことを司波は思い出す。
奸智に長けた悪の巨魁ジェイムズ・モリーアーティーの屋敷へ招かれた直後のことだ。
あの時はどうやって窮地を逃れたか。
それを思い出せと言わんばかりに右手の甲にAの文字が強く明滅する。
これは……アリスが俺にくれたものだ。
使い方は確か――
だが、電子回路めいたそのパターンを見ていると、これまで闇に閉ざされていた真下からは、目がくらむような光が差し込んできて――
「ちょ、ちょっと待てええええっ!」
ガコン、と自動販売機から転がり落ちる缶ジュースのような音がした。
見覚えがあるような芝生の上で司波はぶざまに転がっている。
「あら司波さん、ご無沙汰でしたね」
あおむけに転がると、しゃがんで自分を見下ろしているメアリー・アンの顔がある。
「……お澄まし不良メイドか」
「メアリー・アンですよ。いやですねえ、女の子の顔と名前はおぼえてくださいな」
助け起こそうと伸ばされた手を払い司波は自力で立ち上がる。幸いにもダメージはプールで飛び込みに失敗して水面で派手に腹を打つ程度で済んでいた。
「……ここ、どこだ?」
高原の避暑地にある洋風庭園と別荘といった感じの場所だった。
庭にはテーブルといすが置かれていて、イギリス式のお茶の支度がされている。
テーブル上には他に大型の将棋盤があり、二人の対局者がテーブルをはさんで対峙していた。チェスではなく、まぎれもなく日本式の将棋である。
「ようやく来たか。遅いぞ《記述者》」
盤面をにらみながら、貴族の御曹司か何かに見える身なりの男児が言う。
見た目は十歳かそこら。半ズボンにサスペンダーというのは目立つが、それ以上に横柄そうで気難しげな顔つきが印象的だった。司波のように人相が凶悪そうというのではなくて、その瞳が持つ雰囲気だけ不自然に老成しているのだ。
「え? 《記述者》?」
もうひとりの対局者も将棋に没入していたようだったが、男児の声に気付くと盤面から顔を上げ、視線を向けてくる。
「……な、なんで、おまえが?」
司波の目には、アリスの姿が映っていた。
六歳児程度のありすよりは大きく十歳児程度には見えるし、娘と違い胸に懐中時計は下げていない。ただし髪はふわふわのハチミツ色で着ている服も黒と白。
それはまるで喪服としての装いのようだ、と司波は思った。
「あ、ああああ――」
アリスの方も驚いて声を上げそうになるが、その後ろからメアリー・アンが抱き付き、口をふさいでしまう。
「持ち時間は終わったぞ《蟹座》の《幻想代行者》。また完璧にぼくの勝ちだ。従って、さきほどの条件は呑んでもらう。いいな?」
「……うん」
将棋で戦っていた相手にそう宣言されて、アリスは顔をガックリと伏せてしまう。
「ありす?」
アリスのはずがない、という違和感が司波にそう言わせた。
彼はもう、夢幻境で出会い、強い絆で結ばれた少女とは二度と会えなくなったという事実を、数々の状況と言葉から推測している。
「あ、ああああ、ありすじゃないよ! ありすはアリスです!」
それなりに大人びた少女らしさも備えたような印象は、ちぐはぐな自爆で吹き飛ぶ。
「ふう……これでは意味がありませんでしたね」
後ろから羽交い締めにしていたメアリー・アンが離れる。
「ほ、ほんと? 本当に……ありすのおとーさま?」
たたた、と小走りで、ありすは司波の前に駆け寄ってくる。
「本当も何も俺は一条司波だぜ」
「だ、だって、おとーさまは、あの時に――」
今にも泣き出しそうな顔になったありすを、司波は自分の方へ引き寄せると軽く抱き、頭をぽふぽふなでてやる。
「うわあぁああああっ、えううううううっ!」
それが引き金になって、ありすは結局、わあわあと号泣してしまう。
「おとーさま、おとーさま、おとーさまぁあああっ!」
司波はわけもわからず、娘をなだめようとするが何を言っても、しても、泣きやんでくれる気配が無い。
「なあメアリー・アン。それとそこの老けた感じのガキ、どういうことなんだ?」
途方に暮れて、ありすをなでながらそう尋ねてみる。
「どうします? 司波さんにこちら側の事情を説明しちゃいますか?」
司波と男児とを見比べてから、最後にメアリー・アンは一方を見て判断を仰ぐ。
「この男から引き継ぎを頼まれたのは一応ぼくだ。ここへ逃げ込む前、伯爵から聞いた話の通り、歴史がある位置から複数無限大に分岐し異なって派生し存在するというのであれば、厳密には別人なのだろう。が、ひとまず一人物として扱ってやる」
「わけ、わかんねえこと言ってるヒマあるなら自己紹介ぐらいしやがれ。少なくとも十二体の妖精に、てめえみたいなガキはいなかったはず。誰だ?」
「ありすにばかり、条件を呑んでもらうのも不公平であるし――そうだな。ぼくはきみの娘に雇われた軍師だよ一条司波。名前はジェイムズと記憶しろ」
男児は鋭い視線で司波を射貫く。
「で、そのジェイムズ坊ちゃんが、俺の娘とお澄まし不良メイドと、仲良くお茶してたわけか? 穴を落っこちた後は巨大化したり、ちびっこくなったりして、変な屋敷の中を動き回るのが《アリス》の話の正しい筋書きのはずだぜ?」
負けじと司波も眼光を突き返した。
「手っ取り早く説明をしよう。地球上の現実――人間界に、実体化した《悪夢》が出没して、恒久的に暴れ回るようになってからもう七年ほど経過した」
「黙示録的と言っていいくらいに、たくさん人が死んじゃいましたし、目に見えない毒で水も食べ物も空気も汚れちゃいましたしね」
「お、おい、何の話だよそれ?」
「黙って聞け。きみがあの時しくじったせいで我々は大いに迷惑を受けている。ぼくの計画が台無しだと言っているんだ」
「わけ、わかんねーよ! ケンカ売ってんのか、てめえは!」
「やめてえ! やめてジェイムズくん! おとーさまは、なんにも悪くないんだよ。悪いのは……悪いのは――」
「ありす様。条件を呑んだのですから、ここに来た、まだ生きている司波さんに伝えていいのは最低限のことだけですよ」
「う、うん……ありす、わかってるよメアリー」
「頼むからおまえらだけにわかる話をするのはやめて、わかりやすく説明してくれよ。ここはどこで、どうしてありすが大きくなってる?」
「先代の《幻想代行者》と《記述者》の娘として産まれたありすは、夢の存在であると同時に、地上を生きる人間としての性質の双方を備えている。本人が望めば人としての生を選ぶこともできる。これが成長した理由だ」
ジェイムズはお茶のセットに置かれていたスコーンをひとつ手に取るとブルーベリージャムを塗りたくって頬張る。
「で、ここはどこだ?」
「地球人類最後のひとりの夢の中だ。そして、きみが死んで七年後の未来でもある」
ジェイムズはこともなげにそう言うと、まだ冷めていない紅茶を無理に飲み干そうとして、顔をしかめていた。
『覚悟しなさい暗黒グルメ帝国!』
白とピンクのフリフリヒラヒラとした可愛らしい衣装の女の子がフライパン型魔法のステッキを握りしめ、黒いシェフ帽と服をまとう筋骨隆々たる大男に向けている。
『このキラぼしミカがいる限りは、お残しも暴飲暴食も食材の買い占めも、ぜ~ったいに許さないわよ!』
液晶テレビに映る人気テレビアニメ《まじかる☆めいど☆キラぼし☆ミカちゃん》の勇姿に、ありすは目を輝かせて注目していた。
ブルーレイディスクは3枚めで、これがこのディスク最後の収録エピソードの9話め。
クリスはありすの隣で座ったまま、うとうと居眠り中だ。
『和食のもてなしに……中華の豪華絢爛さ……洋食のテーブルマナー……三つの心を、ひとつに合わせて、正しいおいしさ、本当の旨みをこの手に!』
使い回しのバンク映像でフライパンから七色の光がきらめいて、まじかるメイドが、テニスのスマッシュよろしく光のボールを怪人に撃ち込む。
『ひっさーつ! ぐるたみんあしっどしゃわーっ!』
「ぐるたみんあしっどしゃわー!」
興奮のあまり、ありすも立ち上がってポーズを真似て大声で右手を掲げ、振り下ろす。
『ぐげぶるはぁああああっ! う、うまいぞおおおおおおおっ!』
七色の閃光に包まれた怪人は、強制的に正しい旨みを認識させられ暗黒グルメ力の呪縛から解放され改心する。
『今日もおいしく、キラぼしレシピ♪』
「今日もおいしく、キラぼしレシピ~♪」
決めゼリフも復唱してご満悦のありすは、続くエンディングの歌も熱唱していた。
「あ、あれ……あたし徹夜アニソンカラオケ大会なんてやってたっけ?」
さすがに間近でのはしゃいだ歌声にクリスが眠りから目覚めかける。
『――大ピンチのミカの前に現れたのは、かつて戦った暗黒のグルメ戦士・ぱてぃしえナナだった! 次回・塩味スイーツ大勝利! 来週もごちそうよ♪』
ここでブルーレイの再生は終わってしまいテレビはお昼のニュースに切り替わる。
「クリス~続き、キラぼしミカちゃんの続きは~?」
足を崩して座っているクリスの肩を、ありすは遠慮無しにぐらぐら揺さぶる。
「今日はここまで。続きは帰ってからと、また明日ね。んう~!」
大きく背伸びをしてクリスは立ち上がった。
「クリスもどこかお出かけなの?」
「午後から司波の授業参観と進路志望確認の三者面談なんだ。一応は法的保護者だし、きちんと行かないとまずいわけよ。ありすはどーする? お留守番してる?」
「ありすも、おとーさまの学校に行きた~い!」
「大人しく、いい子にしてられるかな~?」
「できまーす♪」
元気に右手を挙げて返事をすると眠たげだったクリスの顔もほころぷ。
「うんうん。良い子は、クリスおねーさんが特別に連れてってあげましょう!」
「クリスありがと~♪」
「じゃあ、あたし着替えるから、ちょっとだけ待っててね」
「は~い♪」
といった短いやりとりと着替え時間を経て、クリスはひまわり荘の表へ出る。
朝、登校していった司波と同じコースを、同行するありすの歩調に合わせて進む。
スーツにタイトスカートという服装もあって、メガネ装備でお澄まし顔のクリスは、就職活動中の童顔な大学生、あるいは高校生にも見えなくはない。
「やあクリスくんにありすくん。仲良くお出かけかな?」
司波の時と同様、通りかかった店先のオープンテラスで、パイプを楽しむ竹内志門が、手をつないで歩く二人に声をかけた。
「志門さん相変わらずヒマそう」
「志門さんヒマそう~♪」
アニメという共通の話題で盛り上がったことで、なついたらしく、ありすはクリスの言葉を復唱する。
「ははは。こう見えても私は、なかなか忙しい身の上なのだよ。長い時間をかけた伝言やら世界を越えた届け物を頼まれることが多くてね。けさもそうだった」
「志門さんは、大家さんの他に郵便屋さんもしてるんだ?」
ありすが不思議そうに志門を見上げる。
「いいや、私は届け物や伝言をしたがる気の毒な友人たちの代理人、そして、いろいろな何かを託された若者の背中を押す介添人さ。一時期は不気味な予言や警告をすることばかり多かったので、今の在り方は気に入っているがね」
意味を図りかねてありすは志門の顔をまじまじと見つめる。
「こんなところで油を売っていないで行きたまえ。約束は果たしたのだから、彼の計算通りであれば、この時系列の流れにおいて、お支度は間に合ったのだからね」
手にしていたパイプを煙ごと遠ざけ、志門は空いた方の手でありすの頭をなでた。
「志門さん、彼って誰~?」
テーブルに置かれたチョコレートの包みに視線を移し、ありすは質問を続けた。
「ははは、もう少しすれば、いやでも会えるよ」
「志門さんってば、たまに意味深なこと言うよね。なんだかライトノベルとかBLな小説とかマンガに出てくる名脇役って感じ」
「ははは、衆道に走るつもりはないので、私はモデルは遠慮しておくよクリスくん」
「わかってないな志門さん。BLはBLっていう独立したジャンルであってガチで熱苦しくてムサいのとは別なの! まるで別物! きれいな耽美なの!」
「えっと……なんか、よくわかんない」
と、ありすが困惑気味な苦笑を浮かべていると、けたたましい音が鳴る。
「あーっ、キラぼしミカちゃんの歌だー♪」
「クリスくんは好きだねえ」
「かしこ~く、かわ~ゆい~無敵の~ミカ~ちゃん~♪」
と、歌い始めるありすに志門も合わせてハモる。
「ひっさーつ、ぐるたみんあしっどしゃわーー♪」
楽しそうに歌うありすを見て、志門も、お昼時の通行人たちも苦笑している。
「もしもし~?」
クリスはトランシーバー状の無骨な携帯電話を取り出して耳に当てた。
「つ、つながった!」
二つ折れ式の古めな携帯電話を耳に当てていた司波が叫ぶ。
「クリス聞こえるか! 俺だ! 司波だ!」
「相も変わらず、やかましい男だな。お茶ぐらい静かに飲ませてくれ」
仏頂面のジェイムズが、ふうふうとさましてから何杯めかの紅茶をすする。
『はいはい聞こえるってば。法的保護者のクリスおねーさんに何か言いたいことがあって電話してきたんでしょ?』
「急いでありすを連れて新宿から離れろ! なるべく遠くにだ!」
のんきに受け答えするクリスが今の司波には、うらめしい。
『隕石落ちてくるとか、そーゆーニュースやってたっけ? このあたし、中島クリスが粛正しようというのだ! 司波!』
「エゴだよ、それは……」
と、小声でありすが即座に反応し、ジェイムズに不快そうににらまれ、しょんぼり顔を伏せてしまう。メアリー・アンも、ふう、と、ため息をついた。
「非常時に遊ぶな! そんな優しいのじゃねえ! とにかくだ、化け物がうじゃうじゃ湧いて出てきて人類が滅亡するらしいから、逃げろ!」
『な、なんだってー?』
司波の携帯のスピーカーが音割れしそうな勢いの驚きが返ってくる。
『とか驚けばいいんでしょ。あたしはちゃあんと、司波の授業参観の日ぐらいおぼえてるよ。素直に来てちょうだいって頼めばいいのに、ほんと照れ屋さんなんだから♪』
クリス側から終話スイッチを押され、ツーツーと途切れる音だけが残った。
「き、聞いちゃくれねえ!」
「クリスさん、そーゆー人ですもんね」
なぜか、こくこく、とメアリー・アンがうなずく。
「どうしてあんなちゃらんぽらんな人が、素敵なお話を描けるのか謎ですね」
「ありすね、クリスが才能と人格は反比例するって言ってたのおぼえてるよ……」
「まったくだ。しかし一条司波などより《記述者》の適性はあるように思えるな」
「俺は知らねーよ! クリスが言いそうなことだし、適性ありそうってのにも賛成はしてやるけどよ」
憮然とした顔で司波はコメントに応じる。
「で、七年後のおまえら、この先、俺たちはどうなる? おまえらの七年前に俺がここへ来てたなら、なんか俺から聞いてたことは無いのか?」
ありすとの出会いで夢の論理を受け入れることに抵抗がなくなっていた司波は動じることもなく、妙に慣れた感じで会話に加わる。
「ここにいるありすたちの七年前だと、おとーさまはここに来てないよ。だからこんなことになっちゃってるの」
「すでにこの世界は終末を迎えている。時間軸の流れの、ひとつの位置からは、無限大の異なる分岐が派生するという。これから帰還するおまえが何を為そうと、ぼくたちの今現在に変化は生じない。平行世界という言葉を知っているか」
「クリスのやつが言ってたぜ。別の可能性の世界だと、自分は六億年前から輪廻転生を続けてて、そんで九尾の狐の化身と戦う、ハイパーボレアまじかる騎士で、しかもその前世ってのが、心優しい殺し屋少女なんだとさ」
「その理解で結構。エリートオタク教育とやらにも、それなりの意味はあるようだな。ぼくとしては認めたくはないが」
「おい? けど俺が戻ったとして、その戻った七年前って、また別の平行世界とかいうことになるんじゃねえのか?」
ジェイムズが語り、司波がクリス仕込みの知識で認識できたのは、タイムパラドクスを否定した時空――世界のありようだ。
仮定として、ある時間から過去へ戻る方法があったとして、それを実行したとする。
そして過去へ移行した者が、自分の知る過去において発生していない行為を実行する。
この場合、時間と空間――世界が単一で固定されたものであれば、歴史は書き換わる。
過去への旅行者が、もともと属していたはずの時代は、書き換えられた歴史とは矛盾しない上書きされた世界に修正される。
この過去への旅行者が、幼い頃の自分自身、あるいは自分の両親のどちらかを殺してしまえばどうなるか、そもそもそれは可能なのか。
歴史を書き換えるためには、その人物が、過去へ戻り、なんらかの行動を取ることが必要である。だが、戻った過去で幼い自分やその父母いずれかを殺してしまえば、彼は存在しなくなる。生まれなくなる。過去へ戻って歴史を書き換えることができなくなる。
このタマゴが先かニワトリが先かと言いたくなる矛盾をタイムパラドクスという。
タイムパラドクスに悩まされる心配のない考え方もある。
それがジェイムズが示唆し、司波が危惧した複数の時空――世界が無数に存在するというもの。フィクションでは珍しくも無くなったパラレルワールドという考え方だ。
ほんの少しずつ、異なる様相で歴史を経験する世界たちが隣り合って存在している。
ある世界では司波が五分ほど寝坊をして遅刻したとする。
別の世界では寝過ごしたのは三分だけでギリギリ遅刻は免れる。
その結果、教科書やノートを読み込む時間が変化しテストで取る点数も微妙に異なってくる。
この変化と差異が徐々に広がっていくことで、彼がたどるべき、迎えるべき未来・将来も、大きく異なってくる。
こういった、ささいな違いだけであっても、それぞれは異なる時空――世界だ。
つまり、過去への旅行とそこでの干渉が発生したとしても、それは新たな要素としてその世界に内包されていくだけとなる。
未来から干渉を受けたという歴史を持つ異なる世界へ分岐していくのだ。
司波の不安は自分が未来へ来てしまった以上、もはや、これまでに属していた世界へ帰還できなくなるのでは、という予想に起因していた。
仮に戻れたとしても、そこは、きわめて状況が似通っているだけの近似値の世界なのではという恐れだ。
クリスの趣味に付き合わせられて見たアニメの何かで、そうした展開の作品があったことを司波は思い出して不安を抱いたのだった。
「ご安心を。携帯電話でクリスさんとお話ができたでしょう? それって、司波さんが七年前のもともといた時間軸や場所とつながったままの証拠だそうです」
「戻ったら中島クリスにでも自慢してやれ。自分はワイルドカード、特異点という名の切り札なのだということを」
ジェイムズの語りには、さんざん否定的な言動で評してきた司波のことを、誇らしげに賞賛するような色合いがある。
「特異点? なんだそりゃ?」
耳慣れない言葉に司波は戸惑う。
聞いたことはあるような気もするが、はっきりとは、思い出せない。
「しゃべりすぎたようだ。いずれ中島クリスあたりが語るのを待て」
ジェイムズはそれ以上の言及を避けてか口を閉ざす。
「あ、あのね、おとーさま」
おどおどした様子で、少しだけ大人びたありすは司波を見つめる。
「どーした、ありす?」
突然、自分のふとんに潜り込んで寝ていた娘に対してと同じように、司波は和やかな笑みで応じる。
「今の内に教えておきたいこと、あるんだ。ありすが見てきてた……経験してきた……おとーさまのありすは、まだ知らないこと」
そう言うと彼女は、ジェイムズとメアリー・アンに目配せした。
「ここへ来て、そして去っていった伯爵の置きみやげがある。本来ならば、ぼくたちが物語として生まれた頃には残っていた幻灯機でも持ち出せば、らしくあるだろうが――」
「はい、これでしたね」
メアリー・アンはテーブル上に、どこからかA4サイズのノートパソコンを取り出し慣れた手付きで操作する。
「ありすたちも時代に合わせて、あっぷつーでーと、だよ♪」
ぎこちなくはしゃぐ、ありすを気遣いながら、司波は促されるままに再生される動画に目を移した。
午後からの授業参観を控え角筈中学の敷地内には、ちらほらと父兄の姿がある。
その中には手をつないで校舎棟へ歩いていく中島クリスと一条ありすの姿もあった。
「ここが、おとーさまの通ってる学校なんだ?」
キョロキョロ、せわしなく視線の先を移し、ありすは角筈中学校の校庭や建物に目を見張る。
「その通りっ! まだウブで純真な汚れを知らない男の子たちが甘く危険な世界へ堕ちていくのは今か今かと、あたしのゴーストが、ささやきまくってきて――」
そこまで口に出してしまったクリスは周囲からのけげんそうな視線に気付いて口元を手で押さえ、おほほほ、と作り笑いする。
「男の子たちが、なあに?」
「たははは……ありすがもう少し大人になったら教えてあげる」
それなりにドレスアップし小学生呼ばわりされにくい状態とはいえ、若すぎる容姿のクリスは父兄たちから奇異の目で見られている。
付け加えて、引率しているありすの存在も印象が強すぎる。不謹慎な発言というのは致命的だった。
「あああ……なんというブザマな……この中島クリスともあろう者が……」
「クリス~? ブザマって?」
顔を伏せて打ちひしがれたクリスの顔をありすが見上げる。
「それも、ありすが大人になったら教えてあげるね……ぐっすん」
疲れた声で返すと、クリスはありすの手を引いて父兄用に準備された案内ポスターの誘導に従い校舎棟に入っていく。
「し、しいまったああああっ!」
必ずご持参くださいと保護者向けプリントに書かれていたスリッパのことは、完全に忘れ果てていた。他の父兄たちが靴を脱いで履き替えるのを見て思い出す。
「くううううっ! 中島クリス一生の不覚っ……!」
「フカク~♪」
オーバーアクション気味に表情をくるくる変えていくクリスを、楽しげな目で追いかけながら、ありすは理解していないであろう日本語で輪唱してはしゃぐ。
「仕方ない。近くの百均にでも行ってスリッパ買ってくるかあ……ん?」
「一条くーん、一条司波くーん、どこですかあ~」
気の抜けた声を発して廊下を駆けてくる教員らしき女性が二人の注目を惹く。
「ねえクリス。あの女の人、おとーさまのこと探してるみたいだよ」
「そーみたいだけど、なんかあの顔、どっかで見たことあるような……」
けげんそうにクリスは女性教員を見つめた。
「一条く~ん、午後からは授業参観と進路相談――」
昇降口近くを通りかかった龍崎舞も絶句してクリスと視線を交錯させた。
「りゅ、竜宮城マイっ?」
「な、中島クリスチーネっ?」
互いに右手の人差し指を相手に向けて、二人は驚きの表情を隠せずにいた。
どちらも、互いの交流が深く、親しかった往時以来のペンネームである。
「実家に帰ってお寺を継いだはずのあんたが、なんでこんなとこにいるわけ!」
「そ、そっちこそ相変わらず趣味と実益を兼ねて、じゃなくて、趣味と現実を混同してゲリラ取材という名の美少年漁りに来たのね~」
旧知の間柄との対面であっても、舞のスローペースな口調に変化はない。
「せんせー負けない。あたしの目の黒い内は、教え子たちに指一本触れさせない」
「人聞きの悪いこと言うなーっ!」
驚きは当惑を経て険悪な表情での対峙に変わっていた。
「警備員のおじさん呼ばれる前に、とっとと出てってよクリス~」
「残念。今日のあたしは生徒の父兄という名のお客様なんだから。もっと腰を低くして、愛想良くしたら?」
父兄という立場を利用しクリスは優位に立つ。両腕を組み、背中を反らしてにらんだ。
「保護者って……クリスはわたしと同い年だから二十六歳? 中一で十二か、十三歳のはずだから……小六か中一の時に作った子供なんていたの?」
「えーっ? クリスにも子供がいるんだ? クリスもおかーさまなんだ?」
物騒な再会を果たした二人を、ハラハラして見つめていたありすが驚く。
「ねえねえクリス。ありす、おかーさまから教わったよ。子供は、好き好きどうしな男の人と女の人が結婚してキスして、おんなじベッドで寝てると自然に授かる宝物って。クリスは結婚してたの?」
「まさか。あたし花の独身だって言ったはずだけどな。それに、仮にその歳であたしがその気だったとしても、まだ妊娠できるような身体じゃなかったし」
「とにかく父兄だなんてウソってことでしょ? だったら出てって~」
「やだ~」
と即答でクリスが拒絶。
「あたしの黒歴史を暴露する前にこの場から消えて~もう二度とBL小説なんて書かないんだから~」
スリッパに履き替えようとする父兄たちがいることを忘れた舞は大声でわめく。
「ねえクリス、BLってなあに?」
「知らなくてもいいことよ。ううん、知りたくなんてなかった……」
ありすの質問に先に答えたのは舞だった。
「それも大人になったら教えてあげる……たはは……」
苦笑いするクリスの顔を、ありすはきょとんとした表情で見上げる。
「でも、ありすは大人になれないよ。だから今すぐ教えて」
「なりたくなくても、嫌でもおっきくなっちゃうのよ。ええと、ありすちゃん?」
さすがに教師らしく舞が、しゃがんでありすと顔を突き合わせて優しく語る。
「マイの言う通り。永遠の美少女――ありすの場合は美幼女だけど、そーゆーのはね、フィクションの中にしかいないんだから♪」
舞に続いてクリスもしゃがんでから、そう諭す。
「ありすは《お話》の中の存在だよ?」
「そうね。名前はルイス・キャロルのお話の主人公と同じね」
ありすの頭をなでながら舞が笑う。
「それに、ひらがなの《ありす》なんでしょ?」
クリスも手を伸ばして、ありすのほっぺたを軽くつねった。
「本物のアリスはアルファベットなんだしさ」
夢幻境についての知識などあるはずのないクリスは他愛のない言葉を口にした。
だがそれは《幻想代行者》としての責務を担う、ありすにとって重い一言だった。
「そうだよね。ありすは本物じゃないんだよね。おかーさまとはちがうもん……」
ありすは、しょんぼりとしてしまい、うつむいて舞やクリスからの視線を避ける。
舞とクリスが顔を見合わせ、どうやってなだめようかと思案していると――
校庭から聞こえてくる耳慣れない音が三人に違和感を与えた。
「これってば馬が走ってくる……音……よね?」
舞がつぶやくと、クリスもうなずいた。
「先月のふぃらめんてーしょん会で、時代劇専門BL同人誌企画が立ったの。手持ちのDVDやらブルーレイ総動員の上映会やったばっかりだから、まちがいない」
「ま、まだあのサークルやってるんだクリス」
「いつでも戻ってきてくれていいんだけど? 設立発起人の文芸部長さん」
二人が話していると、ありすはうつむいていた顔を上げる。
「《黒騎士》だ……ありす、行かなくちゃ。みんなが困らないように、ここで終わらせる!」
悲愴な決意を幼い顔に浮かべたありすは昇降口を飛び出して校庭へと走り去る。
「ちょ、ちょっと、ありす!」
クリスもそれを追いかけ、舞もつられて、上履き専用の靴のままで二人の後に続いていった。
ふだん通りのお昼休みであれば、校庭はサッカーやバレーボールに興じる男女の生徒たちで騒がしい校庭は、別の理由でざわついている。
授業参観に訪れている父兄や校庭で遊んでいた生徒たちは、その存在を遠巻きにしていた。
砂煙を上げ侵入し誰かを待ちわびるように停まっていた彼らを。
「もう……ここまで来ちゃったんだ……」
昇降口から駆け出してきたありす。その視界の先には漆黒の騎士があった。
乗り手たる騎士も、騎乗を許している軍馬も黒い鋼で身を包んでいる。
騎士の古めかしい甲冑の頭部も例外ではなく完全に兜で覆われていた。
そして、何より奇妙なのは、その軍馬の額部分には鎧の装飾ではない黒檀を磨き上げたかのようなツノが存在していることだった。
ヨーロッパで一時期隆盛した、馬上槍試合のための完全武装した騎士と騎馬の姿だ。
乗騎が黒い一角獣であるという一点だけを除いては――
「我が娘アリスの名を騙る不出来なまがい物は、例外なく滅し去るのが務めだ。そちらが夢幻境を逃げ回ったあげく、まさか人間界へと出るとは驚いたが……必ず追い詰めて仕留める」
視界と呼吸とを確保するためにある顔面のわずかな隙間から男の若々しい声音が響く。
「ありすは……アルファベットじゃないけど――」
2メートルはある長大な馬上槍の切っ先は童女の心臓に定められている。
「おとーさまにごめんなさいをしたくて……ここに来るために……十二体の妖精とは、お別れしちゃったけど――」
ありすは胸の懐中時計を、ぎゅうっと握り締めた。
「おじいさまがこれ以上は悪いことできないように。たぶん、それくらいなら、できるはずだもん!」
懐中時計がまばゆく光ると、ありすの右手にはトランプのカードが出現。
「我が娘から《夢幻想衣》を受け継いでいれば別であったろうが、見た目ばかりを真似たその姿で……何の象徴も力も宿さぬ白紙のカードで何ができる。妖精どもの力を欠いては《白紙》とはゆくまい」
嘲笑に対して、ありすはカードを持った右手を高くかざすだけ。
会話が打ち切られたと判断した黒騎士は戦馬を数歩だけ後退させると予備動作を一切感じさせずに突進に移り、馬上槍を突き刺す。
「おとーさまぁあああっ!」
《幻想代行者》として超常の力を発現させることもできず、ありすは凶悪な黒い鋼の先端に心臓をえぐられて――串刺し状態で宙吊りとなった。
ちいさな指先は力を失ってだらりと弛緩し、地面に落ちた白紙のカードに鮮血が伝い赤く染まった。
人間としての一条ありすの命はここで尽きた。
「ぼくたちが知っていた、ぼくたちの過去のきみは神隠しに遭わなかった。よって平行世界の七年後である、今現在のここに来てはいない」
再生が終わった動画から目を背けている司波にジェイムズは語りかける。
「ありす様は、あの時に亡くなったも同然でした」
メアリー・アンも目を伏せていた。
「おとーさまはね、ありすのために、おかーさまからもらってた大切な力をくれたの。だから、なんとか助かったの……」
しょんぼりとした口調で申し訳なさそうにありすが続けた。
「俺はありすの父親だ。娘が死にかけてたら、やれることはなんでもやるし、使える手は全部使うさ。別におかしくない」
《黒騎士》の馬上槍に心臓をえぐられた光景は衝撃的だったが、その後で助かったという、ありす本人の言葉に司波は心の底から安堵していた。
平行世界の、その七年後だという今現在のここが破滅を控えて、地球人類は、もう、ひとりだけだという事実は忘れ果てたも同然に。
夢幻境で何度か遭遇し敵対した《黒騎士》は見せられた動画と同じ姿ではあったが、ありすを攻撃した時のように騎乗してはいなかった。
「あの野郎が乗ってるのは、アリスの妖精だった一角獣とは別人か?」
黒い一角獣は、その色が純白のそれであれば、アリスとの旅で仲間にした白い一角獣と同じだった。
「司波さんもご存じの、あの一角獣です。アリス様が司波さんを人間界に送り返した後で《黒騎士》との戦いがあって……その時に奪われてしまったんです」
「そっか。じゃあ、また俺がぶん殴って正気に戻してやるしかねーのか」
恐怖が先にあり、いまここで、一角獣が存在を続けているかどうか質問できない司波。
「きみは父親としての務めを果たした。それは認めよう。だが、そのお陰で、肝心要の《記述者》としての責務は宙ぶらりんとなった」
「……クリスさんや舞さん風に言うのでしたら、自分のヒットポイントを上限値ごと、ほとんど、ありす様に譲り渡してしまったので――」
「おとーさま……長生きできなくなっちゃったの……」
泣きそうな顔のありすの背中を、メアリーが気の毒そうにさすってなだめる。
「タバコも酒もほとんどやってねーのに、世の中って不公平だよな」
と、軽口を叩いてはみた司波だが場の雰囲気は変わらない。
ぐるりと一同を見回し、何か会話を続けようと努力してみたが、その何かを思い付く前に、メアリー・アンの姿がノイズ混じりの映像めいた感じに歪曲し、目を見張る。
「あ、そろそろみたいですね。それじゃあ司波さん、クリスさんと舞さんに、そちらのあたしには《J&J》を完結させて最後まで読ませてくださいってお願いします」
ぺこり、と殊勝な態度でメアリー・アンが頭を下げる。
「じつはあたし、司波さんのこと、そんなに嫌いじゃありませんでしたよ」
メアリー・アンの頬は、わずかに紅潮していた。
「アリス様以外の誰にとっても……声と気配しかわからない、透明人間のあたしに姿を与えてくれた……初めての人」
「お、おいメアリー・アン?」
有無を言わさず明度服の少女が司波に迫って、その頬にキス。
「じゃあ、おとーさま……お別れだよ。たくさんたくさん、ありすのこと守ってくれて、助けてくれて、ありがとう……おかーさまからの大好きって気持ち……返すね」
そう言って少し大人のありすは司波の右手に自分の手を重ね合わせた。
「これ……返したくて……ありすたち、がんばっておとーさまを呼んだんだよ」
それからありすは父親を力いっぱい抱きしめて、いとおしそうにその背中をなでた。
「ありす?」
ありすの手の甲に浮かぶ淡い《A》の文字がゆっくりと明滅してから完全に消えて、司波の背中で逆位置となった《A》が明滅を始め、最後に大きな《X》となり消える。
「なんか、よくわかんねーけどさ。おまえらも俺のとこに――おまえらの七年前に近いとこに逃げてくればいいんじゃねえのか?」
夢であっても、そうではなくても、このありすも自分の娘だという確かな実感がある。それこそ論理に欠けた思い込みに近いものだが、司波はそれを否定できない。
「うちのアパートは《ひまわり荘》ってんだけど空き部屋まだあるし、慣れれば居心地だって悪くない。大家は家賃さえ払っておけば、ほったらかしだ」
「知っている。ああ、良くも悪くも混沌としたところだとな」
「エアコン、なるべく早く買い換えた方がいいってこともわかりますよ」
二人は遠い目でなつかしそうに述懐する。
「遠慮すんな。どうせその内、また穴が空くとかして苦労するだろうけど、最終的には目がさめて俺は元の世界に戻る。一緒に来いよ」
「ありすは行かないよ。ジェイムズくんとメアリーと最後まで働く。つぐなう」
一瞬、司波の手を取ろうとしたが、ありすは自分からそれを遠ざけて首を左右に振る。
「計算と送信は最後まで、ぼくが務めよう。名付け親としてはその程度の義務は果たさねばなるまい。行け、最後の《幻想代行者》」
「ありす様のお手伝いするのは、いつものことですよ。行ってください」
「でも、ありすは――」
「そうすることも、つぐないだと思うのだが?」
「遊びに行くわけでは、ないんですよ。ありす様?」
「……うん。だけどね」
「おまえらガタガタうるせえぞ! 日本語でわかりやすくしゃべれ!」
いらいらしてきた司波は、ありすとメアリーの手首をつかみ、それからジェイムズに近付き密着すると怒鳴る。
「こうすりゃ、またいきなり穴が空いて落ちる羽目になっても四人まとめてだぜ」
「一条司波。伯爵は約束通りに、おまえがめざめてすぐ《幻想代行者》に、母親譲りのお気に入りを届けてくれたか?」
「アリス様と同じ、いつものエプロンドレスのことですよ」
「ああ……伯爵なんてやつは知らねーけど、大家の竹内のおっちゃんがな、アリスからありす宛の宅配便だと言ってた。体をふいてからすぐに着替えてる」
「では、ぼくの計算は正しかった。この一条司波と、その娘には間に合ったな」
「ええ。良かったですね、ありす様」
「うん……」
三人の顔には温かなものが宿っている。
「一条司波。未来という可能性を知りすぎることは危険だが……許される忠告だけしておく。《黒騎士》の力の源泉はその《夢幻想衣》だ。そしてそれは――」
「だから、わけのわかんねえ話するな! 俺にもわかるように説明しやがれって!」
もどかしい焦燥感に襲われた司波は怒鳴ることしかできない。
「残ってたら、なんかやばいんだろ? それに、おまえらの七年前だと、具体的に俺がどう死んだかってのも教えろよ! 対策させろ! 教えろよ! 寝覚め悪いぜ!」
「あいにくだが、それはできない」
「うふふふ、やりかけで終わった嫌がらせができそうです♪」
示し合わせたようにジェイムズとメアリー・アンがニヤリと笑う。そして消えた。
「お、おいっ?」
ひとりは見知らぬ男児、もうひとりはあまり良い印象がない相手だというのに痛切な喪失感が胸を打つ。
「ねえ、おとーさま。ありすは……きっと、おとーさまのところのありすはね、自分で本当のこと、おとーさまにちゃんと言えるはずだから……待っててあげてね。でも甘やかしすぎてもだめだよ。厳しくしつけてね」
ありすは少し間を置いてから独白めいた語りを続ける。
「そうしないと……今のありすみたいにウソつきの悪い子になっちゃう……」
「なあ、ありす……おとーさまに、ちゃんとわかるように説明してくれ。頼む」
「だめ。きっと、おかーさまに叱られちゃうもの」
もう一度ありすはゆっくりと首を左右に振って断った。
「それにありすたちにできるのはここまでなの。これ以上、七年前から来たおとーさまのところと、ありすたちのここ、そっくりさんに近付けちゃうとね、こっちに巻き込まれて、そっちも消えちゃうことになるんだって」
「そんなの、どうでもいい! ここが消えて、ありすが消えるなら同じだろ?」
だが、ありすはうれしそうに、そして悲しげにもう一度首を左右に振るだけ。
「ありすは……おとーさまがどんなにたくさんの人に嫌われて、怖がられて、意地悪されても……ずっとずっと大好きだよ」
そうして、いたずらっぽい目でつま先立ちしてそれでも届かないと気付くと、司波の正面で跳ね上がって抱き付く。
「だから、どんなに悲しくても、自分の名前を忘れちゃやだよ。捨てちゃ、やだよ。ありすのおとーさま」
くちびるの温かい感触が何かわかったと感じたその瞬間に司波はその場から消え去る。
高原の別荘と庭園には空間ごと亀裂が生じ、無数の断片に変じて四散していく。
そこには何もないまったくの虚無だけがあり、星々の輝きを欠いた漆黒の宇宙には、ありすただひとりだけが漂っている。
「ごめんなさい、おかーさま。ありすも、おとーさまのこと、大好きなの……」
胸に下げられた懐中時計を握りしめて、ありすは泣きながらつぶやいた。