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二章『娯楽の国のありす』

 目の前を極彩色の閃光が走り抜け、閉ざしたまぶたを灼く。

「ッ?」

 テレビや映画で見たことがある大爆発の果てに待つ光景そのままだ。

 やがて熾烈な光芒が反転して徐々に薄い闇の衣をまとっていき、安らぎに満ちた黒が深傷を負った感覚を癒してくれる。

 どのくらい時間が経ったかわからないまま、おそるおそる目を開けると周囲は薄暮が落ちかけている暗い森の中で、司波の眼前に見知らぬ黒髪の少女が立っていた。

 木々の隙間からは、夕暮れの陽射しが、わずかに投げかけられている。

「最後の《記述者》一条司波……」

 確かに少女と面識こそなかったが、十歳児程度に見える彼女の服装を目にしたことがある。絵本やらテレビ、映画で見た《アリス》そのものを体現したような、薄い青と白を基調としたフリルいっぱいのエプロンドレスだからだ。

そういった記憶はあった。

 記憶、という思考が走ったことで別のことに意識が向く。

 一条司波という自身の名はつなぎ止めている。

 日本人でこの春に中学二年になったところ。

 五月の大型連休を利用したイギリス旅行の帰り。

 ロンドン郊外のヒースロー空港から飛び立った旅客機に乗っていたということも。

 だが家族は?

 父と母……そしてもうひとりいたはずの誰か――それらが浮かんでこない。

 日本人の平凡な中学生として一般的な知識こそ参照できるが、具体的に自分がどこに住んでどんな生活を誰と過ごしていたのかは完璧なまでに欠落している。

「知らぬ。わたしは一切知らぬぞ一条司波。おまえはたまたま偶然この夢幻境へと迷い込んだのだ。わたしとも初めてここで会った。それが唯一無二の真実となる」

 まるでこちらの思考を読み取ったかのように少女は言う。

 不機嫌そうな脅迫めいた声音には秘密かウソか、司波の追求を避けようとするふしがある。

「人様の心を読むんじゃねーよ、ちびガキが。サトリの妖怪か何かか? おまえは」

 つられたように司波も悪感情がこもった応対をしていた。

「仕方あるまい。こちらもそちらも、すでに互いの対価を費やし契約は為されたのだ。わたしとおまえの夢は同調しているのだからな。慣れぬ間はいやでも思考を共有してしまう。できる限り早く慣れてくれ」

 少女も負けじと高圧的な態度で自分より背の高い少年を見上げ、にらみつける。

「わたしはアリス・フランシス・ラトウィッジ。《十二幻宮》のひとりで《蟹座》の《幻想代行者》だ。あの悪趣味な鉄の鳥が爆発したのに巻き込まれ、散り散りになろうとしていたおまえの命と身体をこの夢で紡ぎ、救った恩人ということになるのかな」

 あからさまな恩着せがましい言い草に司波は反感を強め、にらみ返す。

「誰が頼んだ。俺は、おまえみてーな、ちびガキなんかに借り作るのは趣味じゃねーんだ」

 いかめしい口調こそ老成しているが、コスプレをしている子供相手にムキになるのも大人げないと考え直し、司波は視線を彼女の背後の木々へ転じる。

「なっ?」

 木の枝には妙な愛嬌のある眠たげな猫の――大型犬並みのサイズの顔だけがあって、司波をながめると大儀そうに、にゃあ、と人間じみたわざとらしい鳴き声を返した。

「チェシャ猫?」

 アリスの物語に登場する奇妙な動物。有名なそれを司波は絵本で知っていた。

「わたしの力のひとつ、遠隔視を象徴する妖精の一体だ」

 淡々とアリスは司波に意味不明な単語を交えて説明する。

「よく、わかんねーけど、つまりは、おまえの部下ってことなんだろ。顔だけ浮いてるなんて気色悪いぜ。丸ごと全部見せるか全部消えるか、どっちかにさせろ」

 不可解な目の前の現象にパニック気味の司波は無視すると決めたはずのアリスへ振り返った。

「それはできない」

 即答でアリスが拒絶した。

「いやがらせかよ!」

 悪態をつく司波をアリスは見つめていたが、やがて首を傾げて考え込む。

「ふむ、悪くない口実だ。そちらの方が優雅に思える。では、そういうことにしておくか」

 いちいち大仰な言い回しが、ただでさえ記憶の空白で戸惑う司波をイライラさせる。

「いーかげんにしやがれ! なんなんだこれは! どうして俺は何も思い出せない! ここはどこだ! 夢でも見てるってのかよ!」

 その怒鳴り声が警戒心を呼んだのかチェシャ猫の顔は消え失せる。

 アリスはそれを確認すると残念そうにためいきをして、それから司波に向き直る。

「これは驚いたぞ一条司波。無知蒙昧で愚劣な、しかも粗暴な東洋人だとばかり思っていたが、まさかわずかな間に真実に到達するとは……いやはや感心した」

 アリスの声音は嘲弄と冷笑をほどよいバランスで保っていた。愛らしく無邪気な表情を得ていることにより、それらは芸術品めいた透明な完璧さで司波の目を奪う。

「意味わかんねーよ! 説明しやがれ、ちびガキ!」

 意識を盗まれるほど注目をさせられたことを恥じた司波の怒りは不自然に増す。

「《蟹座》の《幻想代行者》アリスと呼ぶがいい一条司波。わたしはおまえの言う、ちびガキとやらではないのだからな」

「あー、はいはい、そーですか。ちびガキじゃねーってなら、ちびアリスだな」

「訂正しろ。ちびアリス、とやらでもない」

「カニ好きメルヘンなんとかアリス。ほら言ったぞ。お望み通りに呼んでやったな。さっさと説明しやがれ」

 怒りを鎮めようとして司波は軽口を叩く。

「仕方あるまい。愚劣な罵倒に応じていても、こちらの品位が下がるばかりだろうな。まず、おまえがいるここは夢幻境。平たく言えば夢の中だ。だからこそ、夢でも見ているのかという言葉は正鵠を射ているわけだ」

 司波をいじるのに飽きたか、あるいは彼が怒気の抑制に努めていると気付いてか、あっさりアリスは説明を始める――始めようとする。

「つまり俺は夢を見てる最中で……それこそアリスのおとぎ話みたいなメチャクチャなことが起きてもおかしくない?」

 口に出してみるとそれは不思議な説得力を有して司波の認識を支配していく。

「だが世の常の夢とは違うぞ一条司波。おまえは幸か不幸か、地上世界の住人でありながら、わたしたちに近しいほどまで深く夢を視ることができる。よって、これまで通りの秩序と力を失ったこの夢からさめるのは容易ではない」

 教師が手を焼かせる子供に諭すかのような、そんな面倒そうな雰囲気でアリスは語る。

「この夢って……誰の夢なんだよ」

「ここは集合的無意識の大海である夢幻境だ。そしてその最下層に限りなく近い。それこそ、民族・宗教・物語レベルを超えて種族的な域に迫るほどのものだ。この夢は、その……」

 わずかなためらいを経てアリスは続けた。

「ありていに言うと……その、つまり……《記述者》を得る対価として《十二幻宮》としての力ほとんどを失い、その象徴たる十二体の妖精をも失ってしまった……わたしの夢だ」

 憮然としたアリスの顔は司波から視線をそらしていた。

「十二体すべて取り戻さねば、わたしはもう夢を渡れない。同調した《記述者》の一条司波もこの夢に囚われたままとなる」

 アリスの視線は薄暮の空の彼方へ投じられる。

「一条司波。おまえには、わたしの下僕として、十二体の妖精を取り戻す手助けをさせてやる。光栄に思うのだな」

 冷たい風が濃いオレンジ色の空から吹き付けて司波の頬をかすめアリスの黒髪を乱す。

「関係ねーな。どうせ夢ならその内に目がさめて忘れる。付き合ってられるかよ」

 迷惑そうに吐き捨てると司波は森を出て開けた場所を探すため、今度こそアリスに背を向けようとするが、そこで動きを止める。

「あ、あれは?」

 悠然と降下してくるその生き物は映画やアニメ、ゲームに出るような怪物だった。

 牛や馬といった四足歩行の獣でいえば胴体の下半分まではライオンか虎。

 残る半分は巨大鷲のそれで構成される奇怪な幻獣の姿。

「グリフォンだな。知っているのだろう?」

 《アリス》の絵本やアニメで見たそれは、緑色で温和そうな雰囲気だったが、降下してくるそれの表面は漆黒で目は悪意にきらめている。

 同じフィクションでも、危険な幻獣や魔獣の類として登場する場合のそれだ。

 司波の視線を追いアリスも自分たち目がけて飛来する怪物を確かめた。

「お、おまえの手下なんだろ。良かったじゃねーか。取り戻すなら、さっさとそうしろ。わざわざ、あっちから来てくれたんだぜ」

 内心の動揺を軽口でごまかそうとしたはずだが上手い演技ではなかった。

「あいにくその手立てがない」

 風の勢いは強くなるばかりだがアリスの口調は平静そのもの。

「そして、わたしと分かたれてしまった妖精たちはもう、おまえも知るわたしの物語の役者ではなくなっている。最悪の場合《悪夢》に染まって《黒騎士》の手に堕ちた」

 騎士だとか白騎士という名のキャラクターのことは、司波も《鏡の国のアリス》で読んだり見たりした記憶はある。だが《黒騎士》という存在は司波がおぼえている限りアリスの物語に登場しない。

「おまえの話にはそんなやつ、出てなかったはずだぜ」

 夢だから、という妥協で司波は少女を自分が知る有名な物語のヒロインと同一視することを否定しなくなっていた。

「ああ、そうだとも。夢を蝕み、夢幻境を乱すだけで飽きたらず、地上世界にさえ《悪夢》を送り出す《黒騎士》のような者など……わたしも知らぬ」

 言葉とは裏腹に《黒騎士》をとがめるアリスは沈痛な面持ちをしている。

 そんな深い憂いと悲嘆に満ちた顔を司波はどこかで見たことがあるような気がした。

「行くぜ。とりあえずあのデカブツに喰われる前に逃げる」

 少女の腕をつかんで逃走を促すほど肩入れしたのはその不可解な同情が理由だった。

「逃げる? 冗談にしては笑えぬな。さきほどのおまえの言い草通り、あちらから、わざわざ出向いてくれたのだぞ。屈服させて正気に戻すチャンスだ」

 強風にさらされながらもアリスは司波の手を払いのけ、グリフォンを見据えて一歩も動こうとしない。

「なんか……あいつを戻す方法を知ってるってことなのか」

 落ち着き払った態度と言動は、それこそ、おとぎ話だから許されるなんでもありの魔法でも使えるからなのか?

 司波のその疑問にアリスがすぐ答えてくれた。

「わたしにはもはや何も残されていない。あるのは《記述者》というクズ手札ともジョーカーともつかぬ一枚だけだ」

 演技ができなくなっているのは司波だけではなかった。

 アリスの震えは肩や両足だけでなく声にまで及んでいる。

「《記述者》ってのは何か教えろ。とりあえず目がさめるまでは手を貸してやる」

 逆に司波はヤケになったのか、あるいは夢ということで度胸が据わったか対照的に落ち着きはらった態度でアリスを見る。

「み、右手を出せ。早く!」

「こう……か?」

 司波はアリスへ握手でも求めるようにてのひらを差し出すが、ちいさな少女の両手がそれをひっくり返して、手の甲が上になるように変えさせられた。

「お父様……どうか……わたしを……許して」

 司波たちの上空二〇メートルに迫るグリフォン。

 その翼が起こす、木々をもなぎ倒す暴風が荒れ狂う。

「V・O・R・P・A・L……」

 アリスの声以外の音が、その瞬間に鳴りやんだ。

 台風の目にでも入ったかのように風圧も霧散しグリフォンの降下も停まる。

 世界が一時停止をかけられた動画のように固定されていた。

 その隙間を縫うようにして、アリス・フランシス・ラトウィッジと名乗った少女は、司波の右手の甲へ、そっと顔を寄せ自身のくちびるで触れていた。

「お、おい?」

 鈍い痛みが右手の甲に残った。その感覚の痕跡は、アリスが顔を離したことで目に見えた。

 青白い霊気を帯びたアルファベットの《A》状の紋様となる。

「それがおまえの力……地上と夢幻境とが分かたれて、本来のそれのなごりへと変じても、今なお大いなる力の結晶として息吹くVirlの輝き」

 アリスが言い終える前に司波は右腕全体に異様な加重を受けて地面を拳で突き片膝を着く。

「なっ、なんだよこれっ?」

 世界の一時停止が解除されて暴風が吹き荒れるのは直後だった。

「この国の旧き名を冠した巨神の名を叫んで……討ち払え一条司波!」

 怒号としてでなければアリスの声は、接近するグリフォンの風にかき消され耳には届くはずもない。

「その名は――」

 アリスの声が悪意ある大嵐に巻かれて届かなくなる。

 頭上に迫る黒いグリフォンがくちばしを開けて鳴き、凶暴な爪を見せつけた。

「うおおおおっ!」

 鼓膜を介さずアリスが思念で伝えてきた呪文。

 魔法の力を秘めた文言に織り込んで、その名を叫びながら、司波は渾身の力で大地へ埋もれかけていた右腕を引き上げると拳を固め、天空を撃ち貫く――




 バタン、と廊下へ通じるドアが閉められた音で司波は目をさます。

 音の遠さからすると自室であるここのそれではなく周辺の住人の出入りだ。

「あれ……俺って……」

 朝食を済ませてから意識が断絶している。

 ありすに背中から抱き付かれながら冷蔵庫の中身を確かめた。

 自分も顔を洗ってから、黒い詰めえりと金ボタンの制服に着替え、登校できる支度を整えた上で手早く調理した。

 食事はそれから後だったはず。

 こたつテーブルに並べたベーコンエッグとサラダ、それとイチゴジャムのトーストに牛乳という食事でありすの空腹を満たした。

「夢か。初めてあいつと会った時の」

 夢幻境という夢の世界での記憶。

 それを約二年後の今になって夢として回想したという、二重の意味での夢。

 つまり司波は二度寝してしまったということになる。

 食卓というには手狭なこたつテーブル上の皿は、対面のありすが座った方のものは、どれもきれいに空っぽ。

「ありす?」

 アリスとは違いすぎるお行儀の悪い豪快な食べ方の痕跡は残っている。

 だが司波を苦笑させた彼女の姿は六畳一間のどこにも見当たらない。

「ありす~!」

 窓を開けて敷地の庭を見やると。

「あ、おとーさま~♪」

 呼びかけに気付いたありすが、ぶんぶん腕を振り、元気に飛び跳ねて応じた。

 贈り物に含まれていた黒いフォーマルな靴を履いている。

「ありすね、おとーさまが、こっくりこっくり居眠りしちゃったからね、おとーさまのおうちを探検してたんだよ~♪」

 ひまわり荘の正面門扉から玄関までの間を右に回れば、物置と自転車やバイクを置く駐輪スペースがある。

 ありすがいるそこは玄関前を左に折れて進んだ先にある、共有の洗濯干しスペースだ。

 物干し竿には住人の誰かが早起きして干した衣類がこれでもかと展開している。

「お日様が、ぽかぽかしてる。いいお天気だね~♪」

 窓辺に駆け寄ってくると目を細めてありすが笑う。

「ああ、いい天気だな」

 窓から身を乗り出した司波も笑う。

「で、ありす。隠し事を、おとーさまに話す気になったか?」

 叱ったりするわけでもなく和やかな態度のままで言っただけだが、ありすは途端に、しょんぼりと、うつむいてしまう。

「ありすがそのお話をしたら、おとーさま、たくさん怒って、たくさん泣いちゃうよ」

 できれば話をしたくないというのが、ありありな態度だった。

「おとーさまの勘が正しければだ、ありす」

 一呼吸置いてから司波は続ける。

「おまえは、その、したくない話をするためにここに来た。ちがうか?」

 長い沈黙はそのまま、司波に自分の勘が正しかったと確信させた。

「……あのね、おとーさま」

 辛抱強く司波は、ありすの次の言葉を待つ。

 アパートの敷地すぐ外の街路からは、通勤するサラリーマンや通学していく小中学生の足音や声が聞こえてきていた。

「明日……明日の朝ごはん……食べたら……お話する。それでいい?」

 泣きそうな顔で、ありすは父親を見上げる。

「明日の朝を過ぎたら……ありす、お仕事に戻らなくちゃいけないの」

「よーし約束だぞ。あと、おとーさまは打たれ強い男だから泣いたりなんかしないし、ありすが悪いことしてないなら怒ったりもしない。安心しろ」

 そう言いながら司波は身体を窓の外に乗り出させて右手を伸ばし、ふわふわの金髪と頭を優しくなでてやった。

「うん……おとーさまと約束する。お話が終わったら、ありすは、すぐに帰るから。もともと、このお話がしたくて、人間界にお出かけしたんだし」

 幼いながら神妙な面持ちでありすは宣言する。

「よし、いい子だありす」

 司波は娘の頭をなでると、さらに身を乗り出して腕を伸ばす。

「おとーさま?」

 顔の真ん前に突き出されて右手の指を見て、ありすはきょとんとする。

「ありすも指を出せ」

「こ、こう?」

 差し出されたちいさな指に司波は自分のそれをからめた。

「ありす、約束だぞ。明日の朝には、おとーさまに全部話すって。ウソついたら。針を千本も飲むんだからな」

「はーい。ありすはウソついたら針を千本飲むよ♪」

 冗談めかした父親の言葉と指の動きを受けて、ありすは笑顔を取り戻してはしゃぐ。

「たっだいま~司波~♪」

 妙に間延びした声で、赤い自転車を押してきた少女がアパートの庭に入ってきたのは、それからすぐのことだった。

「あ、クリス……帰りは昼頃って話じゃなかったか」

 司波の視線の先をありすも追う。

「ねえねえ、おとーさま。この女の人は?」

 ありすは自分に注目している小柄な少女を指差す。

 クリスというのは外国人めいた名前だが少女は純然たる日本人にしか見えない。

 メガネをかけていることで、かわいらしいタヌキを連想させる。

 薄く淹れた紅茶色の髪をふたつ結び――いわゆるツインテールに束ねていた。

「ん~?」

 眠たそうだった瞳が、ありすの姿を捉えるとキラっと輝く。

「わあああっ、なにこれ、なにこの子っ!」

 司波が回答するより先に彼女は駐輪用スタンドを立てぬまま自転車を放り出した。

 そのままありすの後ろに走り寄ると羽交い締め同然に抱き付いて、しゃがむ。

「かわいい~♪」

「ひゃ、ひゃめてー!」

 羽交い締め同然に拘束されたありすは一方的な賞賛にたじろぎバタバタもがいている。

「おとーひゃま~やめさせへ~!」

「は? おとーひゃま?」

 メガネの少女はありすの言葉にハッとすると窓から身を乗り出している司波へ視線を移す。

「ねえ司波、この子、あんたの何?」

「……イギリスにいた時、世話になった関係者だ」

 厳密には正しくないがウソでもない説明をする司波に、ありすは訂正を要求しない。ただ、微妙に不服そうではある顔をしている。

「は~い、あなたのお名前はなんていうのかな~♪」

 クリスは懲りずに抱きしめながら自分とありすとのほっぺたをくっつけて尋ねる。

「ありす! 一条ありすだよ。もういいでしょ、離して~」

 迷惑そうにありすはもがき、クリスの抱擁から逃げ出すことに成功した。

「ふーん、ありす、かあ」 

「そーだよ。ありすは一条ありす。ひらがなの……あ、あれえ?」

「どーした、ありす?」

「この人、ちゃんと、ひらがなで、ありすって言った!」

 珍獣でも見つけて驚いたかのような勢いで、ありすは目の前のクリスを指差す。

 その後で視線を移して司波に共感を求めてくる。

「この人、ただ者じゃないよ! おとーさま!」

「確かに、ただ者じゃないってのは賛成だけどな」

「《この人》だなんて、ひどいなあ。よーし、ありす。ちゃんとおぼえときなさい」

「はにゃん? 何を?」

「あたしの名前は中島クリス! 司波の後見人! 俗に云う、法的保護者ってやつね。早撃ち0コンマ3秒のプロフェッショナル。クールなマンガ家。その上、義理堅く頼りになる女♪」

 どう見ても高校生、下手をすると中学生あつかいされてもおかしくないメガネ少女は指鉄砲で拳銃を構えるふりをしながら言い切った。

「なあクリス。初対面の相手にぐらい、本名を名乗ってやれよ……」

「うるさあーい! マンガ家にとってペンネームは魂の名前! 戸籍名なんてのはね、確定申告の時だけ仕方なく使うモンなの! 被法的保護者の分際で法的保護者のクリスおねーさんにケチつけるなー!」

「ねえねえ、おとーさま。ほーてきほごしゃって、なあに?」

 きょとん、と、ありすは首を傾げる。

「まあ……ありすにとっての俺とかアリスとか、そんなもんだ」

 難しい法律用語を並べるよりも単純な親子関係で説明した司波の判断は正しい。

「じゃ、じゃあ、クリスは、ありすの――」

 目を丸く見開き、ありすはクリスを見上げる。

「うんうん♪ なにかな~ありす♪」

 司波の説明が適切と判断したのはクリスも同様。加えて、隠しておきたい本名に変わって、ペンネームが定着したらしいことでご満悦。

「おばあさまなんだ!」

 ありすはクリスを指差してそう言った。

「こ、このあたし……中島クリス、花の独身二十六歳、ちょっとコスプレすれば十四歳、いや十二歳でも通るあたしが……おばあさまっ? 老婆? ババア?」

 そしてクリスは予想外すぎたありすの言葉に衝撃を受けて妄言を吐き、動揺。

「そっかあ……これは……ロリババアってやつね? つまり、あたしはロリババアで、本当は過去の記憶を封印してて……でも実は六億年ぐらい前の超古代文明の頃から生き続けて、人類を邪悪な外宇宙知性体から守ってて、輪廻転生とかもついでにしてて、とにかく戦い続けてた愛と正義の美少女ロリババア戦士か!」

「おーいクリス、帰ってこーい」

 庇護下に置かれた最初の頃は、司波もクリスの妄言を、マンガ家の仕事をよく知らなかったこともあり、彼女個人の妄言癖を職業病のようなものだと誤解していた。

「黙れええっ! あたしは今、前世の記憶を白昼夢で見せられて混乱してるんだから、それっぽいセリフで相手しなさい司波!」

「あ、あんこくの力に、のみこまれるな……クリス。やみをふりはらって、ひかりの力にめざめろー……」

 現在ではクリスの友人やら編集者と面識ができたことで、本人に問題があると理解している。こうした受け答えも彼ら彼女らから教わった。

「司波ってばそれ乱用しすぎ! もっとこうさ、前世はちっちゃな頃から悪ガキで、とうとう殺し屋に身を落としたけど心は夢見る乙女なあたしを口説く感じで言うよーに!」

「そんな感じだなんて言われたって、俺にわかるわけねーだろ!」

「お、おばあさま~帰ってこーい」

 司波以上に混乱して状況に戸惑うありすは、とりあえず父親を真似て呼びかける。

「あたしをババアと呼ぶな! ロリババアと呼べ!」

 きいっ、とクリスがありすをにらむ。

「ん……ちょい待ってよ。ふだんは憎たらしいババアで、魔法の力を発動させて肉体が活性化した時だけロリ美少女化する……そっちの方がありかな?」

「いつもながら支離滅裂な妄言をわめいてくれるよ……」

 慣れてはいるが司波は彼の保護者の無軌道な言動に頭を抱えたくなった。

 ありすの出現や夢幻境での記憶が回復したことで、すっかり忘れていたが今日はこの厄介な保護者が中学に来て、授業参観と三者面談というフルコースの予定だ。

 ただでさえ司波は過去の経歴が理由で話題性が高い。おまけに素で目付きも悪く、ぼんやりしているだけでも表情が凶暴なことから敬遠されている。

 本来は一学年下の同級生たちの間では、それに加えて、いいかげんなウワサばかり先行しているので、クリスのお披露目はかなり気が重い。

「え、ええと……おとーさま、ありす、どうすればいいのー?」

 心底、困り果てたありすが、すがるように司波を見上げる。

「クリスは親代わりってだけで、俺の母親じゃないぜ。だから、おばあさま呼ばわりはやめてやれ、ありす」

「はーい。ありす、わかったよ、おとーさま」

 親代わり、という言葉を思い付くべきだったと後悔しながら補足すると、ありすは納得してくれたようだった。

 それでもまだ何かあるのか、しげしげとクリスを見つめている。

「どーした、ありす?」

「《記述者》みたいな……感じがするのは、おとーさまと暮らしてるから?」

 ありすはクリスの周りをぐるぐる歩き回っては観察を続ける。

「ありすとクリス、せっかく一文字違いだし、ここはロリババア設定で行こうよ、ありす?」

 未練がましくクリスが、ぼやく。

「ねえねえ、おとーさま」

 ぐるぐる回るのをやめて、ありすは窓際から身を乗り出している司波の下へ進む。

「どーした、ありす?」

「クリスのお仕事はなあに? 新聞記者? 探偵? 小説家? 絵描きさん?」

「マンガ家だって、さっきから言ってるのにー」

「と、本人も言ってるよーにマンガ家だ。マンガ、知らないのか?」

「ええっと、ありすは、おかーさまと、あと、おとーさまの心を半分ずつもらって産まれたの。ずっと夢幻境にいたから、どっちかというと、おかーさま寄りなの。一応、新しい《蟹座》の《幻想代行者》だけど、まだ知らないこと、たくさんあるんだよ」

 申し訳なさそうにありすは語った。

「ありす……新しい《蟹座》の《幻想代行者》ってことはアリスは――」

 一応は――の後に続いた言葉への疑問を司波がぶつける前にクリスが動いた。

「マンガ大国ニッポンに来たのが運の尽き! いいや、不幸中の幸い!」

「はにゃあああっ?」

 またしてもクリスはありすの背中でしゃがんで、がしっとハグする。

「この中島クリスが責任をもって、ありすをどこに出しても恥ずかしくないオタクとして教育してあげましょ~♪」

「おとーさまーたすけてえー!」

「……クリス、頼むからありすに十八禁なやつは見せないでくれよ……」

 げっそりとした口調で言うのがやっとだった。

 引き取られてすぐの頃に司波は、クリスが部屋に放置していた週刊少年マンガを見て、気に入った作品を愛読するようになった。だがそれから数日後、美化しまくりな、美少年どうしの濃厚なカラミがある二次創作BL本を偶然に読んでしまっていた。

「見せないけど、ありすの適性次第では、あたしがエリートオタクとして天才教育をしちゃうから、了解しといてよね。ありすのおとーさま♪」

 クリスは、ありすからの呼びかけを親愛の情がこもった、あだ名的なものだと認識してか、そう言ってきた。

「せめて幼児向きの無難なやつにしてくれ。声優の人の経歴とか解説とか注釈抜きで」

「おっけ~♪」

 クリスの底抜けに陽気な返事を確かめると司波は窓から顔と体を引っ込めてしまう。

 控えめな物音を立てて窓を閉めると、ほどなくして玄関先からカバンを手にした黒い学生服姿で、ありすたちの前に戻ってきた。

「おとーさま、どこかお出かけ?」

 あきらめて、クリスにハグされるがままになっていたありすは、不安げに父を見る。

「周回遅れの中学三年生だからな。そろそろ学校に行かないとまずいんだ」

「走れば遅刻しないで済む時間ってとこだもんね、中学四年生」

「あ、ありすも、おとーさまと学校に行くー!」

「悪いけど俺は中学生で、ありすは幼稚園か保育園だ。てなわけでクリス、ありすを頼む」

「あたし友達の原稿仕上げに駆り出されて、やっと終わったばっかりな徹夜明けなんだけど」

「ありすに変身魔女っ子アニメでも見せてやってくれよ、頼む。俺が戻ったら、好きなだけ爆睡してくれ。今夜はバイト休めるように、おっちゃんに相談しとくからさ」

「じゃあ司波、次はいつ《ふぃらめんてーしょん会》に来てくれる?」

「ふぃらめんてーしょん? 発酵のこと?」

「ありすはおりこうさんだねー。腐女子と書いて、腐る、腐るすなわち発酵ってーことでえ、あたしたち現役腐女子マンガ家で結成した同人サークルのこと♪」

 司波はその集まりに呼ばれると……流行りの男子キャラたちのコスプレをさせられては……ポーズを取らされたりする。

「俺がヒマな時なら、いつでもいい」

 あまり交流はないが、他の女性マンガ家の弟やら、編集者の弟やらの男子学生たちも、ぎこちない微笑で彼女たちの注文に応じていたのは記憶に生々しい。

「執事服、今度こそ着てくれる?」

「肩もみでも耳かきでも、なんでもやってやるよ。その代わり、ありすのことは任せたからな。じゃあ行ってくる!」

「いってらっしゃーい♪」

「待ってえ、おとーさまあ!」

「ありす、クリスの言うこときいて、いい子にしてるんだぞ」

 ちいさい子を相手の別れは、だらだら引き延ばしても時間がかかるだけということを思い出した司波は、躊躇無く背を向け、ひまわり荘の門扉から外へ走り出していった。

 自分は、いつ、どこで、就学年齢前後の子供との接点があった?

 そんな不意に湧き上がった過去の記憶の断片に司波は走りながら戸惑う。

 ありすが、おそらくは不用意に口を滑らせた先刻のある言葉。

 それで察した考えたくない事実のことは、戸惑いに揺れることで、ごまかそうとした。

「さーて、ありす。変身魔女っ子アニメ鑑賞会しよっか。お勧めは《まじかる☆めいど☆キラぼし☆ミカちゃん》だよ~♪」

「おとーさまあ! ありすを置いて行かないでー!」

 ありすの声を後ろに、司波は古い住宅が残る路地を走り抜けて大通りに進んでいく。

 その後ろ姿を街角の陰からそっと見守る黒髪の少女の存在に、彼が気付くことはなかった。

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