一章『ひらがなの国のありす』
「はにゃああ……う」
ひどく眠たそうな、寝言とも寝息ともつかない声音が近い。
まだ自分は夢を見ていると一条司波は考える。
「起きやがれアリス。朝メシ喰うぞ。たまには支度を手伝え」
寝言めいた返事をした司波は合理的に今を解釈。
つまり今はまだ夢を見ている最中なのだと。
自分はまだ十二体の妖精を捕まえてはいないと納得させる。
夢の中で彼は、物語の登場人物であると自称するアリスと共に旅をしていた。
そこは夢の中の世界――夢幻境であり、めざめて現実世界に戻るために、アリスが喪失してしまった十二体の妖精を取り戻す必要があったのだ。
「おとーさまにおまかせするう~」
彼女の乱暴な説明で単純化すると夢幻境は、人類すべてが睡眠時に垣間見る種族的な集合的無意識の大海そのものであり、無数に存在する夢の世界の土台や基礎建築に相当するという。
その夢の中でも腹は減るし眠たくなることも当然で、司波とアリスは少ないソブリン金貨を節約してなるべく清潔で安全に寝泊まりできる安宿を利用していた。
せまい部屋のこれまたせまいベッドでの雑魚寝が基本。だから司波はアリスの寝相の悪さや、ときどき彼女がひどく甘えて《お父さま》なる人物への寝言を口にしたことを知っている。
「起きろ。朝だぞ。メシ喰って聞き込み開始」
夢の世界での眠りと、そこでまた二重に夢を見ることの不思議を考えないようにするまでは大変だった。そんなことを思いながら司波はアリスに呼びかける。
「ええ~? ありす、まだ寝るう。おやふみなしゃ~い……」
帰ってきた返事が、らしくないと思いながら司波は夢の中での馴染んだ流儀に従い、小柄なアリスの身体に巻き付いた毛布を一気に引っぺがす。
「さっさと起きろ! ねぼすけ|《幻想代行者》(メルヘン・ダイバー)!」
真っ白な女児用袖無し下着一枚だけに身を包む身体が、ごろんと転がって、窓から差す四月下旬の陽光にさらされる。その首には見慣れないアクセサリーの金色の鎖が飾られていた。
黄金色でふわふわの長い髪が日を浴びてまぶしい。
「アリス?」
違和感があった。
彼女は、司波の知っているアリスに、縮小コピーをかけたみたいにミニサイズ化している。
「ねえ、おとーさま。まちがえてる」
髪の色が違う以外アリスと同じ彼女は、のんびり身体を起こした。
「まちがえてんのはそっちだろアリス。俺は司波でおまえのお父さまじゃねーよ」
それにしても妙だな、と司波は周囲を見回す。
散らかっていて殺風景な自分のこの部屋。
いろいろあって、その末に確保した場所そのものだ。
夢の世界――夢幻境のどこかの安宿の一室ではなかった。木造モルタルで、築三十年になる風呂・トイレ共同アパート《ひまわり荘》4号室の六畳一間だ。
自分は一条司波。十五歳で男。
一年前にパスポートを手にし、ボロボロの服で倒れているところを保護された。
過去の記憶が抜け落ちているのはともかく、不自然なまでに肉親や親類縁者もすべて死別。身内ゼロの根無し草。戸籍学籍その他から判明したプロフィールはそんなところ。
二年前に家族でイギリス旅行へ出かけ、帰路の航空事故で死亡したと思われていた。
ところが一年前に奇跡的に発見され、今では後見人の保護下に置かれている。
変わった縁で、その後見人兼・身元引受人兼・保護者を捕まえて、そこそこ無難に暮らす、留年した周回遅れの中学三年生であり、後見人が呼ぶところの中学四年生。
「アリス……あの夢……は」
意識が明瞭になってくるにつれて司波は現実の今を取り戻す。
「おっかしいぜ。アリスのことおぼえてるのに俺、起きてる?」
夢幻境に出没し、最悪の場合、現実世界にまで悪影響を及ぼす《悪夢》なる存在。
それを狩るべく選ばれた十二の物語の主人公《幻想代行者》たち。
アリスはそのひとりを自称し、自らの物語と十二星座のひとつ《蟹座》を象徴する力を行使していた。
そのアリスとの夢幻境での冒険はそれこそ夢や幻にふさわしく、眠っている間にだけ司波が思い出せる唯一の過去の断片だった。
日常生活を送る中で《アリスの物語》とキャラクターを引用した図画や書籍、映像に接する瞬間だけ作用する不可解な既視感。
それだけが日常へ回帰した司波に与えられた夢幻境のなごり。
少なくともこの時までは、ずっとそうだった。
「目の前にこいつがいるってことは、まだ元の世界に戻る前のはず……だよな」
やたらと高圧的で居丈高な態度が常、そしてなまいきで意地っ張りな少女の髪は、よくある絵本やアニメと違って黒髪だったはずなのに、このアリスはそうではない。
「おとーさまぁ!」
むくれて怒っているこの子供がアリスと似通っていても別人だというのはその目を見ても、はっきりわかる。
髪の色は見事なまでに豪華な金髪だし瞳の色も青だ。
十歳児程度の体格はあったアリスよりも、この童女は格段にちいさい。
黒髪のアリスは背伸びしていたとはいえ、達観した部分と数々の知識もあり、見た目的には年上の司波と同等か、それより大人びた精神性を持っていた。
が、この女の子は見た目も六~七歳児といったところで精神年齢も合致していそうではある。
だからこそ、金髪碧眼で小学校入学前後に見える西欧人の女児というそれは、アリスの服装さえ踏襲すればそのまま、おとぎ話としての架空のキャラクターそのままだ。
ある一人の女の子のために即興で紡がれ、最終的には物語として全世界中に流布した著名な《不思議の国のアリス》と《鏡の国のアリス》の主人公としての少女に。
「おとーさまったらあ! もう!」
女の子が司波をにらむ。
「な、なんだよ?」
かわいらしく、ほっぺたをふくらませて司波をにらみつけている。
「ありすはね、ひらがなの《ありす》だよ!」
「はあ?」
理解できない話の流れに司波は困惑する一方だ。
「おかーさまは、カタカナの《アリス》! ありすは、ひらがなの《ありす》!」
「お、おい、落ち着けアリス」
「ほらあ、またそう考えて言ってるう!」
読心の力でもあるのか、ありすと名乗る女の子は司波に訂正を要求してくる。
「ひらがなだよ! おとーさま!」
表情の険しさはアリスより控えめで穏当だが、やはり強気な態度と物腰はそっくりに、ひらがなのありすは座り込んだまま、上半身を押し付け気味に司波を圧迫してくる。
「ひらがなのありす?」
「はあい、よくできました♪」
当惑した司波が思考そのままを口にすると、ありすはアリスがそうであったように、一瞬で楽しげな華やいだ笑みを見せる。
「朝ごはんの前にお支度したいの。おとーさま手伝って♪」
「顔洗って歯を磨いて、着替えて、それで髪を櫛で、とかしてくれって……やつか」
「うん♪」
夢で知っていた――これまでは夢の中でしか思い出せなかった黒髪のアリスが出していたのと同じリクエストを試しにぶつけると、ありすはにこやかに答えてくれる。
「なあ、ひらがなのありす……教えてくれよ」
「なあに、おとーさま?」
疲れた顔の司波を見上げて、ありすは不思議そうに首を傾げた。
「おまえは……どこの誰で、どうして俺のふとんで、ぐうすか寝てたんだ」
すると、ありすは意外そうに目を大きくして、それから――
「ありすが、おとーさまの娘だからだもん♪」
満面の笑みで答え、はしゃいで司波へ抱きつく。
「娘って……俺のかよッ?」
「うん♪」
司波の脳裏にアリスと別れる直前の一幕が再演される。
だがそれは、アリスが二つ目のお願いを口にしたところで、ぶつりと断絶していて、その後からは現実世界で目をさます瞬間までの間に空白がある。
「ふっ、ふざけんな。だいたい、だいたい……だ」
夢の中だけに限定されていた知識がオープンになったことでアリスと過ごした冒険の日々は受け入れた司波だったが、自分の娘を自称する、ありすの存在は含まれていない。
「百歩譲って、俺とアリスがそういうことをしていたとして、だ」
司波はバイト先の喫茶店の店長を見習い、極力、重々しく言う。
内心では過去に自分が、目の前のおしゃまな女の子そっくりのアリス相手に、法律や条令にそぐわない破廉恥なことをしでかしてしまったのかという動揺と葛藤が渦巻く。
「ねえ、おとーさま。そーゆーことっていうのは、なあに?」
「た、単純な数学、いいや算数の問題だ。俺とアリスが会ったのは一年前より、もっと前だ。けど別れたのは一年前。これは思い出せた。だから仮に、そういうことがあって娘が産まれたとしても……まだ赤ん坊だろ!」
まだ、あのアリスの双子の妹だとでも名乗られた方が、ウソだとしても信じられる。
「ええっと、そうだった。まず、おかーさまからの伝言、聴いてね」
ありすは、自分の首にかかっている金の鎖をごそごそ引っ張る。そうやって胸元から取り出した琥珀色の懐中時計を手にしてフタを開くと、司波へ見せつけるようにかざした。
『久しいな司波』
懐中時計の盤面上に、てのひらに載る妖精サイズのアリスが立体映像めいた半透明で浮かび上がっていた。
「アリス!」
聞き慣れた尊大ぶっている声に反応し、ありすの懐中時計をかざす手に顔を迫らせた。
『とはいえ、これは一方的な記録で会話は無理だぞ。手短に用件を伝える。ありすは確かに、わたしと、おまえとの間の娘だ』
「つ、つまり俺は、アリスと、や、やや、やっちまったのかあっ!」
思いっきり動揺して赤面し、うろたえる司波とは対照的にアリスは冷静だ。
『本来、夢幻境の住人たるこのわたしが地上界の人間を相手にするなど、ありえぬことなのだが……できてしまったものは仕方あるまい』
「仕方あるまーい♪」
ありすが輪唱するようにアリスの真似をして笑う。
「おいアリス! いくらなんでも無茶すぎる! ありすが赤ん坊なら、ともかく」
0歳児からたった一年程度で就学年齢に達する姿形と人格が形成されるなどという、非常識なことは――
『わたしたちは夢の論理で成立する存在だ。厳密に言えば、わたしは人間界の娘たちのように大人の身体になど成長できぬ。それゆえ、そもそも子を宿すなど不可能』
まるで質問を想定していたかのようにアリスは説明を続けていく。
「だったら、どうして、ありすは?」
『あの時、わたしとおまえが強く望んだ。その夢の結実として、ありすを授かった』
「お、俺は直前のとこまでしか思い出せてない!」
「すごーい! これ全部、記録したの呼び出してるだけなのに、おかーさま、おとーさまの言うこと予想してる! お話してるみたい!」
ありすは感嘆して両親の変則的な応答を見守り続ける。
『なお、別れ際に納得してもらった通りで、そちらで邪魔になるような知識と記憶には封印を施しておいた。ゆめゆめ、思い出そうとしてはならぬぞ』
「納得したこと忘れてるから意味ねーだろ、それ! だいたい邪魔になる、ならないの区分はどうなってやがるんだっ!」
『もちろん、その基準は危険度が高い能力に関係すること。それとだ……そういうことばかり反復して思い出されると恥ずかしくて困ることについて……だ』
最後までクールに徹することができず、顔を真っ赤にしてうつむくアリスに司波もつられた。はっきりとは思い出せないが、やたらと恥ずかしいやりとりと、心地良い感覚があったという漠然とした意識が強くなっている。
記憶が不完全なのは理不尽だが、そういうことをしてしまったらしい、という明確な認識が司波に生じていた。
「あれえ? おとーさまも、おかーさまも、どうしてお顔が真っ赤なの?」
きょとんと不思議そうにありすが尋ねるが司波も答えられない。
『さて……では、くれぐれも娘のことを頼むぞ。わたしの司波』
赤面と狼狽が鎮まるまで時間を置いた末、どういうわけか一転しアリスはさびしげな微笑でつぶやいた。
『……何かもっと気の利いた言葉があればいいのだが、すまない』
立体映像めいた姿と声はそれで打ち切られる。
「こ、これで、おしまいみたい。最後のは記録を練習してた分の消し忘れなのかな」
ありすは手早く懐中時計のフタを閉じた。
「か、勝手なこと押し付けんなよなアリス。ったく……」
と司波はぼやくが、アリスが頬を染め、わたしの司波と呼んだことに気を良くして上機嫌だ。
「おとーさま、これで、ありすのこと、わかってくれたでしょ。お支度させて?」
「まあ一応はな。けど、ありす、ここにはおまえが着られるような服とか無いぞ。そもそも、こっちの世界に何しに来たんだ?」
起き上がり、ついでにありすの手も引き、ふとん脇の畳に立たせてから根源的な質問を口にする司波。
「か、観光だよ~♪」
ありすは妙にぎこちなく笑った。
これまでの無邪気な言動との落差が極端すぎる。
厳密には懐中時計のフタを閉めるところからの挙動が不自然でもあった。
「ありす、おまえ俺に何かウソか隠し事を――」
直後、アパート居室の玄関と廊下を隔てる薄いドアが叩かれた。規則正しいノックが続く。
「誰だよ、こんな朝っぱらから……」
築三十年・木造モルタル二階建て・六畳一間の七部屋が配置されたアパートを早朝から訪問する者は滅多にいないはず。
ここはおそらく新築当時の時点であっても珍しかったはずの、玄関や廊下、トイレや風呂と洗面所兼洗濯機置き場が共同という古い様式の建物だ。
一応は個々の部屋に水道とガスコンロは置かれているが、それと別に、共用の台所と食事や応接にも使える十畳のお茶の間もある。
その意味では下宿形式の建物の個室に居住しているという表現が正確かもしれない。
変わり者の住人たちの洗礼を浴びて、インチキ商品のセールスやらガラの悪い新聞の勧誘、宗教の押し売りが敬遠して久しいことは司波の認識にあった。それだけに、こんな早朝の来客というのは意外だ。
「新聞は変える気なしだ。宗教とセールスなら帰れ」
夢幻境から来た娘との会話を邪魔された司波は不機嫌さを隠すつもりゼロの回答。
「おはよう司波くん。大家の竹内だがね、こちら宛の荷物が店の方に届いているのだよ」
声は聞き慣れたそれだったので施錠を解いた司波はドアを開く。
「なんだ、あんたかよ。おはよーさん、志門のおっちゃん」
両腕で抱えていた段ボール箱をキッチン前の床に置くと、竹内は右目から外れそうになっていた片眼鏡の位置を修正し息をついた。
「おっちゃん、というのは、できればやめてもらいたいのだがね。竹内でも志門でも好きな方を呼び捨ててくれてかまわんよ」
司波が住むアパート《ひまわり荘》の大家でありアルバイト先喫茶店にもオーナー兼店長として陣取る中年紳士・竹内志門は、いつもながらの高級そうな背広姿だった。
「ガキの俺が大人のあんたにそんな呼び方できねーって」
「きみなりの親愛の情を込めた呼びかけというのは、わかってはいるのだがね、どうも自分が老けたことを実感させられたようでねえ……ふう」
オーストラリア系日本人を自称している志門は残念そうにため息をついて、それから部屋の奥にいるもうひとりに目を向け軽く会釈。
「ともかく、おはよう司波くん。それと――」
司波が玄関先へ出たことで、ありすは独り占め状態のふとんに、うつぶせのままで、頬杖をついていた。
「ありすだよ。ひらがなのありす」
ありすも起き上がると、一応はシュミーズの裾を持ち上げて貴婦人の礼であいさつ。
「ありすくんも、おはよう。私はこのアパートの大家でね、オーストラリア系日本人の竹内という。竹内志門だ」
司波の来歴と、隣室である5号室に起き伏しする彼の保護者のことを知っているからなのか、志門は見知らぬ童女の存在に動じるでもなく自然にあいさつを返してくる。
「一条ありすだよ、大家さん」
フルネームで名乗られた返礼なのか、ありすも神妙に礼を繰り返した。
「おっちゃん、こいつはさ――」
ありすをどう説明したものか、というところで司波の口は止まってしまう。
まだ日本人の子供ならともかく、どこからどう見ても西洋人でしかない、しかも夢幻境からきたという娘の素性を説明することは難しい。
「ああ、かまわんよ。説明できんのなら結構。私はがめつい守銭奴でね。毎月毎月、家賃さえ滞りなく納めてくれれば住人のプライベートには干渉しないさ」
鷹揚に答えて志門は宅配便の受け取り用紙を手渡してくる。
自分自身と法律上の保護者も含め、変わり者ぞろいの住人が徘徊するアパートだから司波も志門のこの返答には苦笑できた。
「助かるよ。まあなんていうかさ、身内の子なんだ。よろしく頼む。な、ありす」
段ボール箱を畳の上へ運んで置き直すと、司波は所在なさげにしていたありすの頭をなでて無難な言葉であいさつを締めくくろうとした。
「身内だなんて水くさいよ。あのね大家さん、ありすはね、おとーさまの娘――」
「ほう?」
「む、娘も同然だから、と、とにかく、よろしく頼むっ!」
親子関係の説明を始めたありすの口を、しゃがんで後ろから手でふさぎながら司波は志門を見上げた。ぎこちない苦笑なのは自覚できていた。
「むぐぐぐっ、なんれー? ありすはおとーひゃまのむふめらよー?」
「し、静かに、頼むからいい子にしててくれ、ありす!」
狼狽する司波と暴れるありすを愉快そうに見る志門だったがクラシックな黒電話の着信音にポケットから携帯電話を取り出すと視線をそらす。
「もしもし……ああ問題ないよ。間に合ったのだから安心したまえ。少なくとも、この名前の私は約束を違えたことはないと自負しているのだがね」
流暢な日本語で短いやりとりを済ませると通話を打ち切り、じたばた格闘する親子を楽しげな表情で一瞥すると、
「では司波くん、ありすくん、私はこれで失礼するよ」
そう言って志門はドアを閉めてアパートの共用廊下へ出て行った。
「ふう……」
大家の退去を確認すると司波はありすの拘束を解いて大きく息をつく。
「おとーさま!」
一安心した司波と対照的に、ありすはすっかりご機嫌斜めだ。
「なんで、おとーさまは、ありすのおとーさまってこと隠そうとするの?」
ほっぺたをかわいくふくらませて父親をにらんでくる。
「説明するとだな、こっちの世界には夢幻境のこと知ってるやつが、ほとんどいねーんだよ。それとあと、あと……お、俺の歳でありすみたいな子供がいるってのも珍しい」
たとえ神隠しのせいで一年ほど留年していても司波は中学三年生。
ありすが夢幻境から来た特別な存在ゆえに、実年齢と見た目が不一致だということを除外しても、まちがいなく世間的には問題がある。
「頼むから、人前で俺のことを、おとーさまって呼ぶのは勘弁してくれ」
申し訳なさそうに司波は娘に頭を下げる。
「やだ! ありすは、おとーさまのこと、おとーさまって呼ぶ! 呼ぶもん!」
強い意志を感じさせる声音に司波は困り果てる。その我の強さは確かに夢幻境でと共に旅をしたアリスと同質で、ありすが彼女と自分との絆であることが実感できた。
「参ったなあ……」
無造作に、志門から受け取った宅配便の紙をもてあそび、開いて――
「受取人……一条ありす様?」
目に入った受け取り用紙に書かれた文面が彼の目を見開かせた。
送り主の住所は印刷がにじんで消えかけて不明。
「服飾品一式その他……依頼主はアリス・フランシス・ラトウィッジ?」
チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンという稀代の《記述者》によって産まれた彼女は確かにそう名乗っていた。フランシスというミドルネームはルイス・キャロルという筆名を使ったその《記述者》の母の名から取ったのだとも伝え聞いている。
アリスの名に反応した司波はガムテープを引きはがし、段ボール箱を開封する。
「おかーさまから?」
ありすも怒りを忘れて司波を手伝い中身を取り出す。
「これって……」
司波にとって夢の世界での戦友であり、未熟すぎる恋の対象であったアリス。
彼女のそれと同一デザインで薄い水色と白のドレスからなる一式だった。
「おとーさま、お支度、お支度させて♪ ね、ね?」
ただし、ドレスも下着も靴も、すべて目の前にいる娘のためのサイズになっている。
「ありす、俺以外の誰かがいる時は、おとーさまって呼ぶのやめるか?」
取引材料としてはあまり有効にはならないと想像しつつも対価を要求する司波。
「ぜーったい、やだ! おとーさまは、ありすのおとーさまだもん!」
結局、想定通りの反応が返ってくるだけでしかなかった。
この先に起きるであろう混乱に頭を悩ませながら司波は、アリスに任されていた時と同様に朝の支度を始める。
夜型の住人が大半のアパートとはいえ、ひまわり荘の住人たちが起きてきた場合に、あれこれ説明をするのが面倒なので共用の洗面所は使えない。
司波はヤカンでお湯を沸かし洗面器の水と混ぜて冷まし、それとタオルやもろもろを使い、服を脱がせたありすの身体の汚れを落としていく。
最終的にありすの寝癖も、ここで沸かしたお湯とタオルで直すが、それは着替えた後でのことになる。
「ねーねーおとーさま、日本にはお風呂がないの?」
ばんざーい、と大きく背伸びさせられてからシュミーズを脱がせてもらったありすは、下肢を覆っていたドロワーズも脱ぎ全裸で司波にお支度を任せている。
「このアパートは共同風呂なんだけど、おとといからガスの調子が悪くて、エアコンとセットで、まとめて故障してる。晩メシ前に銭湯に行くからそれまでがまんしろ」
新宿区の西の外れにあるひまわり荘からは五分も歩けば古い商店街が現存している。大家の竹内も足繁く通う銭湯もその並びにあり、司波もたまに使う。
「せん……とう?」
日本語を完璧に使いこなしているありすだが、それは耳慣れない単語なのか、不思議そうな顔で振り返る。
ありすが振り返ったついでに、司波は熱したタオルで娘の顔を手始めとして上から順に首、肩、胸、お腹をていねいに浄めていく。
夢幻境での旅の最初期には、こんな風にアリスの命じるままお支度をさせられていたことをなつかしみながら。
そういうばあいつ……俺のことを下僕扱いで使い倒してたくせに三ヶ月もすると変に恥ずかしがって自分で支度するようになったっけ。
俺の出番はその後は、お湯の調達と着替え終わってから、髪をすいてやるだけに省略されちまってたな。
つまり、あいつはあの頃から俺に気があったわけか。
俺の方も……考えてみれば、かなりきわどいことを習慣でさせられてたんだな。
「おとーさま、ねーねー、おとーさまあ」
ひざ立ちになっていた司波は頭上からのありすの問いかけに自然と顔を上げた。
「せんとーって、なあに?」
アリスの面影を宿す無邪気な顔が自分を見つめていた。
この娘の母親であるなまいきな少女が『ああ、知っているぞ。古代のローマでもそういった文化があったと聞く。極東の島国だけあって文化の伝播が遅いのだな』と司波が銭湯に関して語った後で言っていた思い出がよみがえる。
「金を払って使う、でかい共同風呂だ。アリスに説明した時は古代ローマの共同風呂みたいなもんか、とか偉そうに納得してたぜ」
どうして、ありすだけよこした。
俺はおまえが『わたしにとっては、そこもまた不思議の国だな』と言ってた俺の国を見せるって約束したはずなのに……なんでアリスは来てくれない?
要約すると、会いたいのに、なぜおまえは来てくれないんだ、という愚痴になる。
それを心の内で発しながら司波は娘には優しく笑う。
「おとーさま、おとーさま、おっきいお風呂って、どのくらい、おっきいの?」
お腹から下も両足の裏に至るまで、余すところなく隅々まで熱したタオルで拭かれた後で、下着を身に付けさせられながらありすは尋ねる。
「そうだな。この部屋と同じくらいの広さで、深さもかなりあるってところか。ほら、また、ばんざーい、だぞ、ありす」
司波の言葉に促されてありすは両腕を高く伸ばす。
「おとーさま、ありがとう。ばんざーい♪」
慣れた手付きが動いて少し経つと、たちまち母親と同一デザインとなる薄い青と白のエプロンドレスという、普遍的なアリスの物語のイメージそのままな姿が完成した。
「靴はまだだぞ。そこのドアを開けると廊下があるけど、アパートの共同玄関はその先だから、外に出る時に履けよ」
櫛はアリスが送り付けた一式の中に含まれていた。
夢幻境でも彼女が愛用していた木製のそれは司波にアリスとの再会を強く切望させる。
あの冷笑的で皮肉屋な大人ぶっているなまいきな少女と無駄口を叩き合って、行儀が悪いと愚痴られながらサンドイッチをかぶりつきたかった。
疲れて歩けないぞ、と駄々をこねられ、泣きそうなところを背負ってやり、不承不承こちらへ伝えてくる感謝の言葉を聞きたかった。
誇らしげにイギリス文化を語って自慢する笑顔が見たかった。
記憶の封印が破られた今となっては、忘れていたこれまでの間、どうやってこの深い喪失感をごまかせていたのかと、司波は自問自答する。
「はーい、ありす、わっかりましたあ♪」
おどけたその仕草は、ありすのオリジナルだが、危険な戦いの場でも皮肉めいたユーモアを忘れなかったアリスを想起させる材料になってしまう。
「あ、おとーさま、これ、これをありすの首にかけてね。あとね、髪をとかしてちょうだいね。その後で、リボンもお願い」
ありすが差し出したのはあの懐中時計で、司波は言われた通りにそうする。
ちょうど彼女の胸の前に位置するように懐中時計が下げられた。
指し示された大きな赤いリボンはカチューシャに一体化しているタイプ。
「アリスは時計も持ってなかったし、リボンも付けてなかった。いいのか?」
そもそも、それを言うならアリスは瞳の色は紫で髪は黒髪。
どうしてありすではなく、アリス本人が――
「だって、ありすは、ひらがなのありすだもん。おとーさまとおかーさまから産まれた新しい《おはなし》の象徴だよ。時代に合わせて、あっぷつーでーと、だよ♪」
満面の笑みを浮かべて答えられた司波はアリスの幻影を求めて娘の個性を無視しようとした自分を恥じ、自主的に軽く自分の頭を小突く。
「おとーさま?」
不可解な父の挙動にありすが首を傾げた。
「なんでもねーよ。おとーさま失格になりそうだったから、反省したんだ。ずっーと、立ちっぱなしで疲れてるだろ。少し座って休め。髪をとかすのはその後だ」
ぽふぽふ、と金色の髪の頭をなでながら司波は櫛を手にする。
「はにゃん? よくわかんないけど、ありすは疲れてないよ。こんなの朝飯前で、へっちゃらだもん。だからおとーさま、ありすのあたま、きれいにして?」
何が、だから、なんなんだか、と苦笑しつつ司波は別に用意しておいた熱いタオルで寝癖を直しながら櫛を髪に入れてすいていく。
「ん~♪」
眼を細めて、うれしそうにありすは首を左右にゆっくりと振り反復させていた。
アリスも、こんな感じで髪をとかしてやると、うれしそうに目を細めてくれた。
違いは首を振らないことだ。
「こらこら動くな、じっとしてろ」
そのちいさな差は、ついさっき自分で自分を小突く前なら気になったかもしれないが、今はもう、そうではなくなっている。それを司波は穏やかな気持ちで受け入れられた。
「だって、うれしーんだもん♪ 楽しいんだもん♪」
一通りの支度が済むと最後に手鏡でありすに自分の姿を確認させた。
「おとーさま、リボン、リボンも付けて♪」
それくらい自分で付けられるだろ、と言いかけた司波だったが、ありすのはしゃいだ笑顔に勝てず結局はそれもセットして確認をさせ、ようやくお支度は一段落する。
「さて、おとーさまは、いろいろと質問したいことがあるぞ、ありす」
胸に下げた懐中時計と、大きな赤いリボン付きカチューシャ。
そしてかかとまでありそうな金色でふわふわの髪に青い眼の六歳女児。
そんな見た目の一条ありすは どう答えたらいいのか迷い、視線を宙にさまよわせる。
「え、えーっとね、ありすは――」
ぐぎゅるるるるー、と豪快に腹の虫が鳴いたのは直後のこと。
「ね、おとーさま。ありすお腹ぺこぺこみたい。だから先に朝ごはん食べさせて~」
空腹も事実ではあるようだが問題を先延ばしにしているのは明白だった。
「……わかった。朝メシ終わったら、ちゃんと説明しろよ」
きっと自分は親バカというやつなんだろうと苦笑しながら、司波は冷蔵庫の中身を確認するため、ありすに背を向ける。
「えへへへ~♪ おとーさま、お支度させてくれて、ありがとう」
「へいへい」
「ありす、おとーさまのこと、だいすき~♪」
飛び跳ねて俺の背中に抱き付いてきたありすは、きっと世界いち、うれしそうで、かわいい笑顔をしているんだろうな。
司波はそんな風に想像し、実際ありすはその通りに、はしゃいでいるのだった。