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終章『めざめの国のアリス』

 せせらぎの音が高揚した肌と鼓膜とを優しくなでる。

 透き通った小川の水面を渡る風は、二、三分も歩けばすぐ登り切れる

丘をそよいでいた。隣り合って座り大樹に背を預けている二人の活躍を

ねぎらうかのようだった。

「まったく……無茶をしてくれたものだな|《記述者》(スクリプター)」

 先に口を開いたのは、薄い青と白からなるエプロンドレスの少女。

「事前の打ち合わせでは、そちらが陽動、わたしがとどめを刺す。その

はずだった。忘れたなどとは言わせない」

 表情と物言いこそ大人びてはいるが、あからさまな不機嫌を隠せずに

いるところは、見た目相応の十歳かそこらの女の子らしくはある。

「黙っているということは、承知した上で事前の取り決めを無視した。

そう理解していいな?」

 隣り合って座るもう一人は肯定も否定もせず、だらりと四肢を伸ばし

目を閉じている。

「規格外、常識外だというのには、この一年ほどで慣れたつもりだったが、

まさか、ここまで愚かしいと思わなかったぞ! このバカ者が!」

 怒号と共にエプロンドレスの少女は起き上がり応えを返さない戦友を

直視する。

 青みがかった紫色の瞳には少年の寝顔が映っていた。

 あちこち焼け焦げて、切り傷だらけになった黒い学生服の上下を着用

している。

「うるせーぞ。安眠妨害すんなアリス」

 けだるそうに少年の口と目が開いてようやく応えた。

 変声期を経て、まだ、いくらも過ぎていない十二か三といった年齢に

見える。

 目付きは鋭い。人によっては凶相と呼ばれそうな雰囲気があった。

「あいにくだったな司波(しば)

 それまで不機嫌一辺倒でしかなかったアリスの表情に勝ち誇ったよう

な笑みが混じる。

「安全な眠りなどというものは、すでに存在していない。したがって、

わたしは安眠妨害などしていない。おまえの回答は的外れだ!」

 司波の眼前に、なまいきそうなちびっこい女の子が自分を糾弾し非難

する姿があった。

「どうだ言い返すこともできまい? 猪突猛進で無軌道、無謀、無策、

無思慮と、世界中のタロットから愚者のカードだけ集めてひとまとめに

したようなおまえには♪」

「あー、はいはい。妖精十二匹をとっ捕まえて正気に戻すまでは、仮に

元の世界で起きたとしてもロクに眠れやしねー、だったっけ」

「これは驚いた。三歩も足を動かせば、わたしどころか自分の名前さえ

忘れ果てるとばかり思っていたおまえが、そんな大事なことを記憶して

いたとはな」

 売り言葉に買い言葉で、アリスは上半身ごと司波に迫っては凄む。

「十二匹目だったぜ。さっきの巨大ロボットみてーな(カニ)で」

 司波の一言で今度は逆にアリスが黙り込んだ。

「これで俺は無罪放免か。おまけ付きで元の世界に帰れる。

そういう話だったよな確か?」

 くやしそうに、うつむいて視線を避けるアリス。それをながめつつ、

司波はそう言った。

 だがアリスはすぐ顔を上げると、怒鳴り出しそうな勢いで司波を凝視

して反応する。

「七月四日に存在を開始した、わたしという物語は|《十二幻宮》(ゾディアツク)では蟹座……巨蟹宮(きよかいきゆう)に属する。さっきのあれは、その象徴……本来の能力は回復した。

だから、終わりだ。おまえは現実の世界……地上へ……人間界へ帰還できる」

 予想に反して怒声ではなく、消え入るようなすすり泣きと、それを

抑制しようと必死になる嗚咽が待っていたことに司波は虚を衝かれる。

「お、おい……何も泣くことは、ねーだろ?」

「だ、黙れっ! な、泣いてなどいない……妙なことを……言う

……な……」

 言葉とは裏腹に、アリスの目から、ぽろぽろと大粒の涙が連なり、

こぼれていく。

「《記述者》なんて迷惑だった。わたしは、ひとりだけでも使命を

果たせたんだ」

 糸が切れたマリオネットのように、ぺたんと座り込んで泣きながら

アリスは強がりを口にする。

「憎まれ口を叩く時はもっと偉そうに、むかつく感じで怒鳴れ。

こっちも調子が狂うだろ」

 ぽふぽふ、とアリスの頭を軽く打つようになでながら司波はぼやく。

「子供扱いするなあ……わたしは……こう見えても――」

(よわい)は百を越えて、世界中の夢見るお子様とロクでもない

大人を魅了してやまない物語の中の物語、アリスだもんな」

 からかってこそはいたが、司波の言葉にも別離を惜しむ、さびしさ

がある。

「先に……言う……なあ……っ……う……えううっ……う……」

 泣きながら悪口雑言を連発して、ついには司波の胸を細い腕で

殴りつけながらアリスはむずがり続ける。

 司波はそれを受け入れたまま、ここ一年ばかりの間は寝る前に習慣

となった儀式のように少女の腰まである長い黒髪を指でとかしてやる。

「帰るっ……な……わたしと……いて……くれっ……ううっ……

えうううっ!」

 しばらくすると、アリスは危険に満ちた冒険を共にした少年の身体へ

しがみついて、そのまま泣き疲れてか眠り込んでしまう。

「いいぜ、こっちに残っても。わがままで、おてんばなお姫さまに

仕える騎士(ナイト)ってのにも、この一年で慣れたからな」

 眠りを妨げぬよう、細心の注意を払って司波はアリスの頭を

なでようとしたが――

「司波は……わたしのこと……嫌い……か?」

 どこか、おびえるようなささやきが耳に入り、司波は注意不足だった

ことに眉をしかめる。

「ここは気難しい妖精だの、やばい魔獣がウヨウヨ歩き回ってる

不思議の国なんだぜ。むかつくだけの相手に付き合ってるほど

お人好しじゃねーよ」

 ぶっきらぼうな言い回しだが失意と落胆の底にあった少女の顔を

上げさせるのには、充分な回答だった。

「《十二幻宮》のひとりとして立てた誓約は破れない。だから……わたしは、おまえが見せると言ってくれた……おまえの国へ行くことはできない」

「誰が決めたんだよ、そんなの。無視すりゃあいい。だいたいな、おまえみたいな、そそっかしいやつだけに責任押し付けてる連中なんかに義理立てすんなよ。心配すんな。ケチつけてくるやついたら俺がぶっ飛ばしてやるからよ」

 司波は右手の甲をかざしてアリスに見せつける。

「今まで、ずっとそうしてきたみてーにな」

 《記述者》として得た力は、手を空へ――上に向けることでアルファベットの《A》という文字状の青白い霊気のしるしとして浮かび上がっていた。

「わたしは未熟だった。他の者には別の務めがあった。司波の助けで混乱を終息させた今は、わたしも本来の務めに戻らねばならない」

 アリスの他にも存在する《十二幻宮》の者たちとは、そのすべてではないが、司波もこれまでの旅で共闘や敵対といった関係で巡り会っている。彼らは、それぞれ、自分自身の《物語》と、対応する星座の力を帯びて《悪夢》と戦い続けていた。

「だったらまた《記述者》の力が要るはずだ。遠慮すんなよ。付き合うぜ。一応は命の恩人ってやつでもあるんだぞ。俺にとっておまえはよ」

 だが司波の言葉をさえぎるようにアリスは首をゆっくりと左右に振り、うつむく。

「ひとつ……頼みがある」

「だから遠慮すんなって言ったろ? ひとつなんて、しみったれたこと

言わないで、三つでも四つでもジャンジャン言えよ」

「はは……そう言えばあの時も……壺から出た魔神はケチだなど言って――俺なら最初の願いで、願いを百に増やしてくれって言うなどと……ふざけたことを言ったな」

 力なく笑い、一年間の冒険の想い出を語るアリス。

「俺にできることでなら、なんだって願いをかなえてやるよ。だから

アリス――」

 その言葉を打ち切らせた司波は、しがらみなんか捨てて俺と来い、

と続けようとする。

「では三つほど、かなえてもらいたい」

 司波の言外の意志を悟りでもしたかのように、アリスは涙に濡れた

ままの頬で笑う。

「おし! なんでも言ってみろよ|《幻想代行者》(メルヘン・ダイバー)様」

 その可憐な愛らしさに視線が吸い込まれ、これまでに経験したことの

ない胸の鼓動に戸惑いながら司波はアリスの願いを請け負うと豪語した。

「こ、子供が……欲しい」

 恥じらいに顔を真っ赤に染めてアリスが司波を見つめる。

「は?」

 またしても不意を衝かれた司波は絶句した。

「だから、わたしと……司波との……子供……」

アリスは恥ずかしそうに、だがはっきりとそう告げた。

「ちょ? ちょ、ちょっと待てえ!」

 露骨なまでに狼狽した司波は真っ白になった思考を拾い集めて

口を開く。

「わたしのこと……嫌いではないなら……かまわないな?」

「い、いや、だから、その、ま、待て! とにかく待てアリス!」

「俺にできることなら、なんだって願いをかなえてやると……

そう約束したはずだぞ?」

「お、おまえ、だ、だいたい、作り方わかってんのかよ!」

 そのしどろもどろな言い返しに対してアリスは――

「では二つ目の願いだ。物言いからすると、そちらは認識しているようだから、その知識を、わたしにも伝授してもらおうか。いや、知らぬわけではないのだがな、ああいった行為には、相互理解が必要だと考えている」

 ふてぶてしい言動で彼女を子供扱いする《記述者》の顔が、生来のものだという凶相を崩してあたふたする。

「そうそう、名前は――ああ、それはもう、ずっと前に決めていたのだったな♪」

 それを間近で目にしたアリスは愛情と信頼とがこもったおてんばな抱擁とキスを与えながら、いたずらっぽい笑みを浮かべるのだった。

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