闇色の騎士-03
スッと腰が沈んだ瞬間、男は軽々と宙へと舞っていた。
大きな身体のどこにそんな敏捷性があるのが、剣や鎧の重さなどまるで感じさせもせず、宙で身体を捻ると遠矢の後ろへトンッ軽くと降り立つ。
慌てて振り返った遠矢が目にしたものは、そのまま前方へと走りながら剣を抜く男の姿であった。
『ギィシャ――――ッ!!!!!!!』
ゾッと背筋に怖気が走るおぞましい声が鼓膜へと突き刺さる。
泉の反対側に、二メートルはありそうな薄紫色をした百足のような虫蠢いていた。
男は一気にその虫へと走り寄ると、重さを感じさせない仕草で剣を横に振る。幅広の剣は易々と虫の胴を二つに切り裂いていった。
緑色の粘液をまき散らしながらも虫の動きは止むことが無く、切り離された下半身は尾の先にある二股の刺で男へと襲いかかった。男はそれを軽く交わしながら、頭の方へと近づいてゆく。
すると、虫の尾がいきなり左右に分かれ、鎖りのように伸びて地の中へと突き刺さった。男が地を蹴って空へと飛び上がる。次の瞬間、土の中から二本の尾が一斉に飛び出し、男へと向かって宙を走った。
右から襲いかかった刺を剣で弾くと、男を刺し貫こうと左下から刺が伸びる。
「リヒトシルト――ッ」
声と共に男が左を伸ばす。すると、六角形の光の文様が浮かび、襲ってきた刺を弾いた。
男は地に降り立つと一気に跳躍し、虫の頭へと迫った。
バスケットボールほどもありそうな頭は、ガチガチと顎を鳴らし敵を捕獲しようと毒を吐き散らす。
それらを交わしながら、男は虫の頭へと近づき、己の剣を深々と突き刺した。
『グギャァァァァァ――――ッッッッ!!!!』
全身に怖気が走る断末魔の声を上げ、虫がようやく息絶える。
頭の動きが止まると、暴れていた下半身もその動きを止めた。
男は突き刺していた剣を引き抜き、動きを止めた虫の胴体へと近づいてゆく。動かぬその腹に足をかけ、緑色の粘液に塗れた下半身を剣で切り裂いていった。
そうして深々と切り裂いた後、手で触れないようにしながら男は裂いた腹の中から紫色の綺麗な石を取り出した。
己のマントの裾を切り裂き、それで石を包み込む。
そこまで作業を終え、ようやく男は思い出したように遠矢の元へと戻ってきた。
男がこちらへと近づいてくるのが解っていても、遠矢はそこから一歩も動く事ができなかった。
ガクガクと足が震え、ガチガチと歯の根が鳴る。
どれほど遠矢が大人びてみえても、所詮は平和な日本に生きてきたただの高校生でしかない。
異世界の――それもあんな化け物みたいな虫を目の当たりにして、普通でいられるわけがなかった。
そうしてようやく、異世界という地球ではない別の次元の世界へとやってきてしまったのだと自覚したのだった。
――最初は、夢を見ているのかと…そう思ったのだ。
体育の授業だったから、もしかしたら暑さで倒れでもしたのかと……。
でも暫くすると、身体に感じる風も緑の臭いも、何もかもがとても夢だとは思えなくなった。そんな時に、草陰からちょこんと顔を出した角のある兎を見つけたのだ。角があるにも関わらず、その愛らしい仕草と表情に、遠矢は取りあえず周りをよく観察してみうよとその場に座り込んだのだった。
まさかすぐ近くに、あんな化け物じみた虫が存在しているとは知らずに……。
震える遠矢を見て、すぐに質問の答えを望むのは無理だろうと判断したのか、男は剣を地へと突き刺し呪文を唱えた。
地の王〝アンティウス〟
天空の王〝ティアマト〟
水の王〝ルフィーラ〟
火の王〝ジェライド〟
汝ら四大精霊の名に於いて
この地に静寂を求めん――
ティエラ=ルス・ファールアルゴ
言葉と共に、風が吹き地が揺れる。陽炎が立ち上り辺りの景色が一瞬揺らいだ。
次の瞬間、風も地の唸りも止み時が止まり、そして静寂が訪れた――。
ようやく震えが収まりだした遠矢は、鳶色の瞳で男を見上げた。
「何を――……?」
「結界を張っただけだ。これでベルナガに暫くは襲われる事もない」
「ベルナガ?」
「あれだ――」
そう言って男は先程の虫の死骸を指さす。男が倒した死骸はうっすらとした白煙を立てながら、少しずつ溶け始めていた。
「溶けて…る……」
「あれの核を抜いたからな。魔力がなくなれば…溶けて消える――」
核というのが、先程男が死骸から取り出した石であろう事はすぐに知れた。だが、魔力だのなんだのと言われたところで、何故死骸が溶けるのか…など、理解できない事ばかりである。
「――さて。それでは、先程の問いに答えて貰おうか……」
冷たい瞳に見下ろされ、遠矢はぎゅっと拳を握った。
「名前は――真白遠矢。ここに居る理由は、俺にもわかねぇーよ。体育の授業を受けてる最中に変な声が聞こえて……、俺を呼んでるって思った次の瞬間にはここに居たんだっ」
「マーシトゥーヤ?」
一気に捲し立てた遠矢に、奇妙なアクセントをつけて、男はそう聞いた。
「――っ。マ・シ・ロだよ。マ・シ・ロ・ト・オ・ヤ」
「マーロトーヤ?」
「それじゃ名字と名前が一緒だろ。名前はト・オ・ヤ。真白は名字だよ」
「トーヤ。ミョウジ…とは何だ? 家名の事か?」
「え? あ、そう。家名――」
「家名を持っているという事は…貴族の出か?」
「まさか…普通の庶民の出だよ。俺の国じゃ家名を持ってるのが普通だから……」
「そうか――」
納得したように頷き、男は己の名を名乗った。
「俺の名はルシャスだ――」
「ルシャス――?」
「ああ――」
「家名は?」
「今はない――…」
そう言って苦笑を浮かべる。
家名を名乗りたくないのか…名乗れないのか……。
遠矢が戸惑っている内に、男は手近な石を椅子代わりに腰を下ろした。
「お前が先程言った事が本当であるなら、お前はどこか別の場所からここへ来たという事になるが…間違いないか?」
「…ないよ――。ただ…場所っていうよりも、世界そのものが違うみたいだけどな……」
答えた遠矢に、ルシャスが座るように促す。一人立ったままでいるのも妙に思え、仕方なく遠矢も近場に腰を下ろした。
「異なる世界から人を呼ぶ…か――…。このアスティアでそのような事ができるだけの魔力を持つ者となれば、そうはおらぬ――…」
「誰が俺を呼んだかわかるのか?」
膝の上に手を置き、ルシャスはゆっくりと頷く。
「ああ。この世でそれができるとするなら四人だけだ。白銀の騎士〝ライル〟。死霊使いの〝リリティア〟。深紅の呪謳士〝リィース〟。そして…破滅の魔導士〝イ=ヴァル〟――」
最後の名を呼ぶ時だけ、ルシャスの声音が僅かに固くなった。
「そしてその四人の内、白銀の騎士と死霊の使いの二人は外していい――」
「なんで?」
「白銀の騎士は――神の都〝エントゥリアス〟の騎士だからだ。そして死霊の使いは、この森の外で俺が戻るのを待っているから――だ」
ようやくアップです。
次はもう少し展開が進むと良いのですが…。