拉致ったものの……
千鶴がSleepの呪文で寝ているため、拉致った男視点です。
さて、彼は何者?
メイサから王都シュバルにつながる街道をものすごいスピードで走る一台の馬車があった。
操作している御者を除けば、この馬車に乗っているのは、二人。その内の一人は暢気に眠りこけていて、残る一人はその人間を何とも忌々しいという表情で睨んでいる。
睨みつけている方の男の名前はランス・ジェド・ラ・ロッシュ。アシュレーンの大貴族ロッシュ家の長男であり、次期当主だ。
眠りこけている者の髪は、肩の少し上で切り揃えられ、軽くウエーブのかかってはいるが、艶やかな黒。瞳も先ほど眠る前に見たが、髪と同じく夜の闇のように黒かった。瞳からあふれるのは、その色に違わぬ強い魔力。
それに反して、軽すぎる身体。生みたての卵を思わせる薄黄色い肌。まだ未分化のそれは、乱暴に扱えば折れてしまいそうな位華奢で、庇護欲を駆り立てるのに十分だ。
「ああ、見れば見るほど腹が立つ」
治癒師である自分が恨めしい。もし自分が騎士であるならば、あの場で一刀両断に切り捨てていただろうにと、ランスは拳を爪が食い込むほど握りしめた。
それでも、この者をあの場に置いておく訳には絶対にいかないと取りあえず連れてはきたがどうしたものだろう。森に捨て置いて魔物の餌食にさせるのも寝覚めが悪かろうし……
ランスがそんなことを考えながら頭を抱えて悶々としていたとき、疾走していた馬車が馬の嘶きと共に乱暴に停まった。
「トマス、何事だ」
「聞きたいのは俺の方です」
ランスは御者に声をかけたが、返事をしたのは馬車を停めた張本人で、程なく彼はカーゴの扉を開いてずかずかと入り込み、
「おい、起きろチーズ。おまえも曲がりなりにも魔力持ってんだろ。そんなにカンタンに魔法にかかるな、バカ」
と言いながら眠りこけている者の顔をペタペタと叩いて起にかかるが、言っている内容の口の悪さに反して、その語感は甘い。その甘ったるさに、ランスは侵入者-彼の弟のフレン-を頭ごなしに怒鳴りつけるのをかろうじて抑えて、
「慌てて迎えに来たようだが、無駄だ。こいつは屋敷に連れ帰る」
と言って、チーズと呼ばれた者を我が身に引き寄せる。(それにしてもチーズと言うのか。なんと卵色の肌を持つこの者に似つかわしい名前だろうか。いやいや、感心している場合ではない)
「何故!」
しかし、弟はそれに対して聞く耳を持たず、強引にチーズを奪い返そうとランスの脇に滑り込もうとする。それを間一髪で躱しながら、
「何故と聞くのか、この恥知らずが」
とたまりかねてランスがそう言う。すると、
「誰が恥知らずだと言うんです。来て三日しか経たぬこいつを追いかけて走ってきたことがですか? それは兄上が強盗まがいのやり方でこいつを連れ去るからでしょう。大体、兄上には義姉上がおられるではありませんか」
と、ついに聞きたくもない言葉をフレンは吐いた。
「止めろ、気持ち悪いことを言うな」
ランスはプルプルと震えながらそう返す。
「気持ち……悪い?」
だが、ランスにそう言われてフレンは首を傾げる。(道を逸脱しているという自覚すらもうないのか。頭が痛い)
そのとき、双方から引っ張られて、チーズがようやく目を覚ました。
『ふぇ……なんでフレンが二人おんの?……あふっ』
チーズと呼ばれた者は寝ぼけ眼であくびをしながらそう言ったが、自国の言葉だったため、ランスには全く解らない。
「ややっ、こやつは何をしゃべっておる。もしや、少年の姿をした魔物か!」
(取り憑かれてしまう!)彼は青くなって手元に引き寄せていたチーズを震えながら突き飛ばした。
「魔物? こりゃ良い」
一方、フレンは、ランスの発言にそう言って、大きな笑い声を上げた。腹を捩って目に涙すら浮かべている。チーズは、二人を交互に見てから立ち上がり、口をくっと結ぶと、
「魔物って何よ! それ以前にあたしは男じゃなくて、女。お・ん・な! そこは間違うなってぇの!」
そう叫んで少々ビビり気味のランスに平手打ちを食らわせたのだった。
千鶴を拉致ったのは、フレンの兄、ランス君でした。長男らしい融通の利かない真面目君です。
次回はフレン実家へ参ります。