Act 6
ショウは塀一つ向こうは真山画伯邸というところまで来ていた。
「遅くなってしまったな。ユウに怒鳴られなきゃいいが……」
つぶやくショウに覚えのある少女の悲鳴が聞こえた。いや、正確には悲鳴ではない。それは音ではなく、恐怖のあまりに飛び散ってしまった心の小片のようなものだった。
「あれはユウの……!」
塀を軽々と飛び越え庭に降り立つと、明りがついている一つの部屋がショウの目に映った。争う物音がそこから聞こえてくる。よく見ると二つの影がもつれあっていた。
「ユウっ!」
ショウは相棒の名を叫んで、その部屋の窓に体当たりした。
ミシ……バリン!
思ったより地味なガラスの割れる音が響く。恐らくただのガラスではなく、強化ガラスを使っていたのだろう。しかしその強化ガラスも怒れるヴァンパイアの前では、役立たずだ。
「あんたが真山式雄、だな」
睨みつけるショウ。異形の者は明らかにおののきながらうなずいた。無理もない。ショウは今、魔界の貴族、ヴァンパイアとしての本性を少しも隠していないのだから。ごく下級の悪魔なら、その気配だけで消し飛ばされてしまうところだ。
「夕子をどこへやった」
うなるようなその声には、激しい怒りがこめられている。
「貴様は誰だ? 姪のなんなんだ!」
質問を発したのは人間・真山式雄の部分なのだろうか。身体全体を恐怖でがくがく震わせ、体中から怯えの気を発散させている。これが彼の報酬だった。
ショウがこの妖精救出劇に手を借したのは、善意からではない。そもそも彼は闇の眷属、吸血鬼なのだ。吸血鬼は元来、こういう怯えの気を好む。特に同族の怯えの気は絶品だ。ショウもその例外ではなく、いっそう甘美な『怯え』を手に入れようと、唇の端を歪めてシニカルな笑みをつくる。
「おまえの姪は、俺の女だ」
舌なめずりし、言葉の端々に卑猥さをたっぷり盛りつけてやる。
「そんな……!」
絶句する異形の者を、黒いマントをはためかせるショウの鋭い視線がとらえる。
「もう一度だけ、質問する。答えろ。夕子をどこへやった?」
応えるのを拒否することはお前の存在の消去を意味する……ショウの目が言外の意味をつけ加えていた。
震えながら、異形の者はかたわらの一枚のカンバスを指した。
「!」
そこには、ショウが知っている少女が一糸まとわぬ姿で描かれていた。痛々しいほどに白く細いその腕には幾筋かの掻き傷がつけられている。
瞬く間にショウの目が怒りに吊り上がった。
「少し眠っていろッ!」
ヴァンパイアのえぐるような右ストレートが異形の者の腹に喰い込んだ。多少の精神衝撃も拳に乗せておいたので、物理的のみならず精神的ダメージも負ったはずだ。しばらくは動けまい。
ショウは夕子が描かれたカンバスに駆け寄る。
「……夕子」
ささやくと、ショウは絵の中の夕子の唇を探り当て、自分の唇をそっと重ねた。まぶたを閉じる。唇に伝わる感触が徐々に柔らかく温かなものに変わっていく。
目を開けると、ショウの腕の中に、滴る銀色の月光の雫を浴びる夕子が抱かれていた。夕子の恐怖のためにささくれだった神経が、ショウの温もりを感じて鎮まっていく。
夕子からショウの唇が離れた。夕子は真っ直ぐにショウを見つめていた。その瞳には恐怖のためか涙がうっすらと浮かんでいる。しかし、それは零れることはない。
「ショウ……」
「立てるか?」
夕子はショウの問いに小さくうなずいた。そこで初めて自分が全裸であることに気づき、わずかながらに赤面する。ショウは仔猫を見守るような優しいまなざしを向け、自分のマントで夕子の体をくるんでやった。
「おまえの伯父さんなんだろ、少し任せるからやってみな」
ショウは夕子の後ろに退いた。弱っている今の状態ならば、狼人間の夕子に秘められた獣性で式雄から悪魔を追い出すこともできるはずだ、とふんだこともあったが、それよりも、魔界の者として、狼人間が悪魔にどこまで対抗できるのかを見極めたかったのだ。
夕子は、ショウのマントを胸で合わせ堅く握ると、異形の者の真正面に立って凝視する。
そして夕子は、ショウの思惑に反した行動をとった。威圧するどころか、夕子の視線が優しくなる。
「式雄伯父さん、もうこんなことはやめて。伯父さんならそんな筆を使わなくても、自分の力でいい絵が描けるはずよ」
異形の者の手を、夕子は自分の両手で包む。
「……描ける……?」
異形の者がぼそりと言った。
「ええ」
夕子はそれに力強く答える。
「絵が描ける? 筆に頼らなくても?」
救いを求めるように夕子を見上げる。夕子はその期待を裏切らない。
「そうよ。だから、筆から手を離して」
その瞬間、異形の者が二つに分かれた。式雄と、小さな悪魔に。
ショウは息を飲んだ。
これは高位の魔物が下位の魔物を追い出すというよりは、聖職者が行う悪魔払いだ。もっとも、彼らにはこんな短時間で魔性とヒトを分けることはできない。夕子が被害者の肉親だから成せる技なのか、それとも、これこそが狼人間の力なのか……。
式雄はその場にうつぶせに倒れた。
「知ったようなことを!」
分離された、夕子の掌にも満たない小さな悪魔が叫ぶ。
誕生時に呪いを受けたかのように、醜い顔。骨ばった黒い背中から突き出ているコウモリの翼に、尖った長い爪が生えた三本の指。体は小さいが、全体から邪気が発散されている。普通の人間ならばその邪気にあてられただけで、潜在する魔性が解放されて理性を失ってしまう。ましてや、こいつが自分にとって魅力的な望みを適えてくれると語ったならば、自らの魂でさえ簡単に売り渡してしまうだろう。
「こいつは悩んでいたんだ。それを助けてやったオレが、なんで追い出されなきゃならない! オレは手伝いをしただけだ。実際おまえや妖精を絵の中に閉じ込めたのはこの人間なんだぞ!」
悪意に満ちた目を夕子に向ける。絶え切れなくなったのか、夕子は思わず顔を背けた。
ショウは舌打ちした。悪魔を追い出したはいいが、魔界まで追い返すのは夕子の手には余るようだ。
「小悪魔の分際で大それたことを言うな! オレの機嫌がいいうちにさっさと失せろッ!」
悪魔はショウの一喝に体を震わせると、そのまま闇に融けるようにして消えた。
「ユウ、あんな小悪魔の言うことなんか気にするな。オレの方が格が上だ」
ショウは夕子の肩に手を置いた。
「ショウ……」
さっきの悪魔の一言-式雄が望んで妖精たちや夕子をカンバスに塗り込めたというのが効いたのだろうか、夕子の声には力がない。
「なんだ?」
「伯父さんは本当に悪魔に頼りたかったのかな……」
「そんなバカな」
ショウは笑って夕子を抱くと、夜空に浮かんだ。
「あいつらは人間にそういう心を起こさせるのが仕事だからな。それに、伯父さんは『黄バラの妖精』だけは自力で描いたようだ」
「どうしてそれが判るの?」
夕子は頬に月の光を感じながら、ショウの瞳をのぞきこんだ。すると笑っていたショウは、一瞬なぜか苦しそうな表情を浮かべ、無理やり作ったような笑みを浮かべて言った。
「俺は血を吸う他に生気も吸い取れる。逆に吹き込むこともできる。おまえにしたようにして、妖精たちも絵の中から出したんだが、あの絵だけからは妖精は出てこなかった」
夕子の無邪気な笑い声が風に流されていく。
「そうでしょうね。だって、伯父さんは私が一番好きな花は黄バラだって知ってたはずだもん」
一度口を閉じてしまうと、何も話すことがなくなっていた。嫌でも支えてくれるショウの腕に意識が集中してしまう。
やがて、夕子の家が見えてきた。ショウは夕子の部屋の開けっぱなしの窓をくぐった。
「おまえ、黄バラが好きなの?」
別れ際にショウが思い出したように言った。
「まあね。花言葉はあまり良くないらしいけど」
「ふうん」
気のないあいづちを打ちながら、ショウが窓枠に足をかけた。事は片づいたのだから、彼がこの場にいる必要はない。どこかは知らないが、彼がいるべき場所へ帰っていくのだろう。
「ショウ、また会えるよね」
不必要に口数が多くなってる、と夕子は思った。しかも淋しそうな口調ではないか。自分で驚いてしまう。心のどこかにショウを引き止めたいという気持ちがある……?
「おまえ、俺に惚れた?」
夕子の気持ちに気づいてないのだろうか、ショウが茶化す。茶化された方の夕子はムッとした。
「あたし、あんたに二回もキスされたけど、そのお返しをしてないの!」
ショウが大声で笑い出す。
「何よ!」
「ムキになりなさんな、俺はあんたにそんなことをした覚えはない。……いや、待てよ。初対面のときと絵から出してやったときのことか?」
「そう!」
ショウはにやっといたずらっ子のような笑いを浮かべた。
「初対面のときは騒がれないように生気を抜き取るため、絵から出したときは逆に生気を吹き込むため。まあ、人工呼吸と同じようなもんだ。まさかとは思うけど、ユウ、ひょっとしてオレが初めてだったのか?」
夕子の顔が真っ赤になる。
「悪うございましたね」
「それは……取り返しがつかないことをした」
あまりに素直にショウが謝るので、夕子はあっけにとられる。
その瞬間を突いて、夕子の唇にショウの唇が軽く触れた。生気を吸われることもなく、吹き込まれることもなく……それはまぎれもなくキスだった。
夕子が言い返す言葉を思いつく前に、ヴァンパイアは夜空にまぎれて見えなくなっていた。