Act 5
一日中なんとなく落ち着かない気持ちで過ごした。ごひいきのテレビ番組も頭を素通りしていく。いつもは夕飯の後しばらくリビングでくつろぎいでから二階の自分の部屋に上がるのだが、今日は食器をシンクに下げると、すぐにリビングを出ていこうとする。
「あら、もう部屋に上がるの? 今日はお母さん、クッキー買ってきたのよ、食べてからにしたら?」
「あ、うん、明日にする」
夕子が今までお菓子を食べるのを延期したことはなかったので、母親は首を傾げていたが、夕子はそんなことに構っている余裕はなかった。
階段を駆け上り、バタン、と賑やかな音を立ててドアを閉め、カギをかける。カーテンをひいて街の明りを部屋の中に入れると、電気を消してベッドに座り込んだ。
思えば、起きてからずっと夜が来るのが……窓から黒いマントのヴァンパイアが迎えに来るのが、待ち遠しかったのだ。
だが、ここまで準備して一時間も経つと、さすがに心配になってきた。
「やっぱり夢だったかなあ」
ぼそっとつぶやいた夕子は首を横に振る。そうは思いたくない。夕子は、もう一度、ショウに会わなければならない。肝心の「キスおかえし」もまだしていないのだ。時計を見れば、9時。まだ塾帰りの小学生でさえうろつくような時間だ。ヴァンパイアが空を飛び、狼少女が駆け回るにはまだ早い。
……そして、いつの間にか、眠っていたのだろう。
「こんばんは、ユウ。俺があまり遅いんで待ちくたびれたかな?」
夕子はベッドから飛び起きた。
聞き覚えのある声と風を打つ翼の音、間違いなくショウだ。
「ええ。体がとろけてバターになっちゃうんじゃないかって思ったわ」
窓枠に腰かけて苦笑するショウの前で、ポシェットを首にかけた夕子は、姿を、少女のものから銀色の獣に変えた。
「ショウ、伯父さんの家、判る?」
狼の口から発せられていると言うのに、夕子の日本語に不明瞭なところは全く無かった。夕子は気づいていないが、実は彼女は今、テレパシーのようなものを使ってショウと意思疎通をしているのだ。
「もちろん、調査は万全。俺は空から、おまえは……」
ショウのセリフを夕子が奪う。
「地面から、でしょ。ところでティナは?」
「帰ったよ。彼女がいるべき世界へ」
「そう」
素っ気なさを装って夕子は言った。そうでもしないと弱いところを、このキザなヴァンパイアに見られてしまう。それは、避けたいことだった。
狼になった夕子は、ショウに抱えられて窓から飛び出した。
「真山画伯の家の前で会おう」
地面に足が着いた夕子は、四本の足で走り出した。
どうやら夕子の方が早かったらしい。ショウの姿はどこにも見当たらなかった。
「……ったく」
目の前に立ち塞がる塀に向かって夕子は悪態をついてみたが、事態が変化するわけでもなく、とりあえず庭にまわることにした。白銀の狼では目立ちすぎるからだ。
塀を越えることは変身した夕子にとって簡単なことだった。空を飛べるショウにとっても同じことだろう。
庭木に体を滑りこませた夕子の狼の目に、まだ明りがついている部屋が見えた。
「確かあそこは伯父さんのアトリエだったはず……」
夕子は裏口に目をやった。都合良く扉が開いている。
「ラッキー!」
嬉しさのあまり声を上げると、夕子は体で扉を押して中に入った。
途端に体が元に戻る。さすがに今晩は満月ではないので、月の光が届かない所に行くと元に戻ってしまうのだ。
ポシェットから服を出して身につけ、アトリエの前まで忍び足で行く。扉がわずかに開いていて、部屋の光がもれていた。
夕子はそこから中をそっと覗いた。
「ひどい……」
声を上げずにはいられなかった。
髪と髭をぼうぼうに生やした男が、筆でカンバスに妖精を塗りこめているのだ。足をつかまれた妖精が必死に抵抗するが、人間の力にはかなうはずもない。抵抗はむなしく、妖精はカンバスと同化してしまう。
夕子は、その男が自分の伯父の変わり果てた姿であることに気づいた。
「誰だね、そこにいるのは」
低い声が響く。夕子に悪寒が走った。この声は伯父の声ではない。黙っていると男はこちらに近づいてくる。
隠れていても仕方がない。待つのが苦手な夕子は自分から行動を起こした。
「式雄伯父さん!」
扉を勢いよく開けて飛び出る。
「夕子かい……」
式雄は動きを止めた。間髪入れず、ありったけの想いを込めて夕子は叫ぶ。
「伯父さん、やめてッ!」
が、伯父はどうしてしまったのだろう。
「何をだい?」
ほうけたように聞き返してくる。自分が何をやっているのか、理解していないのだ。
「妖精たちをいじめるのをよ!」
式雄がパレットを置いているテーブルの上には、幾つかのガラスの小瓶がのっていた。よくよく見ると、その小瓶の一つごとに、妖精たちが一人ずつ閉じこめられている……。
「夕子、何言っているんだい? 伯父さんは絵を描いているだけだよ。妖精なんか、どこにいるんだい?」
「そのテーブルの上にいるじゃない!」
よどんでいた式雄の目が、ぎらりと光った。
「あ……!」
それは夕子が知っている式雄ではなかった。
異形の者と言うに相応しい。暗紫色に光る絵筆を持ったそれは、どんどん夕子に近づいてくる。
「そうだ、伯父さんが夕子の絵を描いてあげよう。ほら、こっちにおいで。じっとしているんだ」
「嫌ッ……」
バタン。
夕子の背中で、風もないのにドアが閉まった。ドアノブを回そうとする。
「……開かない!」
伯父を名乗る異形の者の指が、夕子の腕をからめとった。




