Act 3
『黄バラの妖精』。それが絵画運送専門の宅配会社の青年がおそるおそる運んできた、伯父が夕子にくれた絵のタイトルである。
黄色のバラの中央から妖精が生まれてくる場面を描いたもので、最近の伯父の絵にしては珍しく表情が明るい。夕子好みの絵だ。
その夕子の手元には、小さなポシェット。これは後から必要になる。入っているのは、小さく丸められた黒のタートルネックの薄手のセーターと、これまた黒のスパッツだ。
4杯目のコーヒーを飲み干し見上げれば、時計の針は11時半を指している。とんでもないバースディになっちゃったな、と夕子はため息をついた。例年どおりならばケーキとごちそうでいっぱいのお腹を横たえて、ささやかなプレゼントに囲まれながら夢を見ているところだ。まあ、両親が泊まりがけの仕事だからこそ、こんな時間までリビングにいられるのだから。
何の前触れもなく窓が開いた。
だが今度は夕子は慌てない。窓に背を向けたまま、ゆっくりと立ち上がる。
「出てらっしゃい、ヴァンパイアさん。あたしが相手になってあげる」
彼は、いつの間に入り込んだのだろう、部屋の中央に立っていた。
「またお会いしましたね、お嬢さん」
余裕たっぷりに微笑む。夕子も負けてはいない。
「最初に言っておくけど、絵は渡さない。これはあたしが伯父さまに頂いたものだもの」
「おやおや、剣呑なムードになってしまった。俺としてはまず再会を喜んで欲しかったのにな」
彼は何気なく夕子に視線を向けてきた。その瞳に力が込められる前に、夕子は危険を察知して、彼の目から、すっ、と視線を外す。
「その手にはのらない!」
彼は困った様子もなく、右手でちょっとウェーブがかった前髪をかきあげた。
「あんたには負けたよ、嬢ちゃん」
そう言って、右手をさし出してくる。ここで後退ったら気迫負けだ。そう思って、夕子は負けじと手をさし出す。
彼は夕子の手を乱暴につかみとるようにして握った。
「痛ッ!」
夕子の右手に痛みが疾った。足ががくがくしはじめ、膝が床に落ちる。
「何をしたの?」
反応が鈍い口を、なんとか動かして夕子が訊く。
彼は右手の親指を立ててみせた。爪の間から光るものが生えている。
「ここに仕込んだ針に痺れ薬を塗っておいた」
そして、まるでマニュアルでも存在しているかのように、この前とまったく同じ手順で彼は絵を手にしていた。
「さよならお嬢ちゃん。また縁があったら、どこかで会おう」
彼はわざとらしく手をふると、絵を抱えて窓から飛びたった。突如背中から生えたコウモリのような羽が空を切っていく。
辺りを見回し、彼が見えなくなったのを確認して、夕子は体を起こした。
「今のあたしに、痺れ薬なんてほんの一瞬しか効かないのよ。待ってらっしゃい、つかまえてあげる」
夕子は窓から身を乗り出した。月光が彼女を照らす。身長がみるみる縮んでいく。夕子が着ていた服の中から姿を現したのは、白銀の毛を持つ小ぶりな狼だった。狼はポシェットを器用に首にかけると窓から飛び出した。
白銀の狼の口から少女の声で日本語が発せられる。
「狼少女、真山夕子を見くびると後が怖いわよっ!」
白銀の毛を持つ狼に身を変えた夕子は、あらかじめ絵に吹きかけておいた香水を嗅ぎわけると、四本の足で駆け出していった。
さすがの、狼に変身した夕子も息を切らせはじめていた。もう一時間は走ったと思う。まだ夜は明けないが、夕子の家からは絶対見えない海が見えてきた。上空のヴァンパイアはあいかわらず速度を緩めない。たまに旋回するのは、人目を避けるのに遠回りでもしているからなのだろうか。
「あいつの隠れ家って……いったい、どこ……!」
グチの二つ三つも出た頃、彼はやっと港の一角にある古い倉庫の前に舞い降りた。
「ここなのね」
夕子は走るのをやめると倉庫の影に入った。
「グルル……」
くぐもったうなり声を上げる。狼は再び人間に変わった。
「これからが本番よ」
腕や肩に残る銀色の毛をはらい落とし、夕子は首のポシェットから服を取り出す。狼から人間に戻ると裸になってしまうのを知っていて、服を持ち歩いていたのだ。
髪をひもで結ぶと、夕子は倉庫の中に入って行った。
倉庫の中は月に照らされていた。
夕子は息を飲む。そこにはたくさんの妖精の絵があった。画風からいってすべて伯父の絵だ。花と遊ぶ妖精、風と戯れる妖精、光と舞う妖精、鳥と歌う妖精、水とはしゃぐ妖精……。そして中央には、彼。
夕子は彼の前に飛び出した。
「絵を返して頂くわ」
彼にとっては予想外の出来事で、充分なインパクトがあったろう。こちらの思った通り驚きを顔に浮かべはしたが、すぐ平静を取り戻す。
「俺の甘いキスの味が忘れられなかったのかな?」
彼が言いよどんだので、夕子は心の中で勝利の声を上げた。
「あたしをあまく見てたみたいね、あなたも見たでしょう、白銀の狼が追いかけてくるのを。あれがあたしよ」
「……狼人間!」
今度はさすがに驚きを隠せない。
「『光彩の中の妖精』と『黄バラの妖精』を返してもらうわ!」
夕子は彼につめ寄る。
「ダメーっ!」
突然声がして、ソフトボールくらいの光の玉が夕子と彼の間に割り込んできた。
「ユウコさん、ショウは何も悪くないのよ」
光の玉の中には人がいた。違う、人ではないだろう。人というにはあまりにも小さすぎるし、背中から透き通った羽が生えている。こういう生物を妖精というのかもしれない。夕子はその妖精に見覚えがあった。空気に溶けそうなフワフワした髪。そう、まるでタンポポの綿毛のような……。
「ティナは引っ込んでろ」
彼は不機嫌そうな声を小さな妖精にぶつける。苛立っているのは小さい彼女のせいではなく、きっと彼自身のせいだ。
「でも、ショウ!」
夕子の頭は目の前の事態を整理していた。
伯父の妖精画ばかりを狙うキザったらしいヴァンパイアと突然現れた妖精。吸血鬼や妖精の実在には疑問はない。なんといっても狼人間がここに実在しているのだから。この状況からするとヴァンパイアの名前はショウ、妖精の名前はティナ。
問題はティナが自分のことを知っていることだ。
夕子の頭にある絵がよぎった。
「ああっ、『光彩の中の妖精』!」
確かにティナは『光彩の中の妖精』に描かれていた妖精とよく似ている。
ティナは夕子に微笑みかけた。あの絵の微笑みだ。
「当たりよ、ユウコさん。私はあの絵の中に閉じ込められていたの。助けを求めていた私の声を聞いて、あの絵から私を出してくれたのが彼、ショウなの」
「ええっ!?」




