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Act 2

 問いかけに応えるように腕がすっと下ろされた。満月に近い明るい月の光が、顔を照らしはじめた。

 男だ。マントと同じ真っ黒のスーツとネクタイ。顔立ちは異常なくらいよく整っていて、ちょっとキザな感じがした。ちょうど部屋の中に流れているのはベートーベンの『月光』。ピアノのどこかもの悲しげな旋律が、男の愁いを含んだ表情とあいまって一つの世界を作り始める。

 夕子の男性に対する好みが並みだったら、その場でまいってしまったかもしれない。けれども「筋肉質でスポーツマンでない人が好み♪」という世間一般からちょっとハズれた感覚を持つ夕子は、その妖しい男の魅力にとらわれることはなかったのである。

 ただ。

 彼が普通の人間とは思えなかった。夕子のボキャブラリーで彼を表すとしたら……そう、吸血鬼という言葉がぴったりだった。

「これは……なんてお嬢さんなんだ」

 ほめられている、のだろうか。息を飲むように男は言った。夕子は黙ったまま口を一文字にして彼を睨みつける。

「そんなんじゃ、せっかくの可愛らしい顔だちが台なしだな」

 男は目を細めて笑った。どこまでもキザな奴だ。が、厳しい表情を夕子は崩さない。彼の目は笑いの形を保ってはいたが、その奥には鋭い眼光が秘められていたからである。

「ここはあたしの家よ、出ていって」

 できるだけ不機嫌そうな声で低く言う。喉は父親似らしい。声色を変えるのはお得意だ。

 男は笑わせていた目をすっと元に戻した。夕子のこの抵抗は彼にとって予想外のものだったらしい。作戦変更とばかりに、今度は優しげな光を瞳にともす。男は、夕子の目をことさら、じっとみつめ、なだめるように言った。

「判ったよ、お嬢さん。すぐ立ち去るからさ」

 その言葉に夕子の気が一瞬、緩む。張りつめっぱなしの気持ちはもう限界だ。そこにちょっと油断が生まれてしまった。しかし、それは罠だったのだ。

 気づいた時には、体が固まってしまっていた。ぎゅっと縮んだ夕子自身の筋肉が、彼女を動かすまいとでもしているかのようだ。

「よし、いい子だ」

 男は、今度は心から笑っていた。満足そうに口の両端が上げられている。

「<魅惑の双眸>が効かなかったのにはさすがに焦ったよ。お嬢さん、一体何者?」

(あんたこそ何者よっ!)

 言い返そうとしたが、唇はぴくりとも動かない。

「と言っても動けないんだから、答えるのは無理か」

(あんたが動けなくしたんでしょうに)

 夕子は胸の中だけで毒づく。

「まあ、お嬢さんに恨みはないんでね」

 そういって男……ヴァンパイア? は、部屋の中にずかずかと上がりこんできた。

 テーブル上のカップラーメンのカラに冷たい視線を浴びせ、壁にかけられた『光彩の中の妖精』の前でぴたりと止まる。

「この真山画伯の絵は頂いていく」

 宣言して、彼が絵に手を伸ばす。裏返して額縁からカンバスを抜くと、どこに持っていたのだろう、黒い布を出した。その布で絵をさっと包んで脇に抱える。

 夕子はなすすべなく、ただ、その様子を静かに見ているしかなかった。気に入っている伯父の絵を盗まれるという悔しさで涙がにじんでくる。

 彼は懐からナイフを取り出すと、空になった額縁の中に、華麗にアルファベットを綴った。

 『VAMPIRE』

 それが終わると彼は夕子に向き直った。顔を近づけてくる。好みの顔ではないがなまじ整っているので、むかつくよりも、どぎまぎしてしまう。

 息づかいが夕子にも感じられる距離まで近づいてくると、彼は夕子の耳元で甘くささやいた。

「またお会いしましょう」

 そして、彼は夕子のあごに手をかけ上向かせると、一方的にキスした。

 気づくと、彼は部屋にはいなかった。金縛りがとけた夕子は窓から辺りを見回す。一応、空の方まで見てみたが彼はどこにもいなかった。

 だが、なくなってしまった絵と何よりも唇に残った感触が、今の出来事が夢ではないことを思いしらせる。

 夕子は体が震えているのを感じていた。

「あんな理不尽なやり方で、あんなハレンチなことするなんて、さいっていっっ!」

 この言葉から判るように、恐怖のために震えているのではない。これは、武者震いというやつだ。なぜなら彼女には、彼に対抗できるであろう<力>があるのだから。

 ふと夕子の頭に、しばらく前に父と伯父が話していたことが浮かんだ。


「最近、俺の絵を狙う泥棒がいるらしくてね」

 夕子の父はタンブラーに満たされたブランデーに浮かんでいる氷を、カランと鳴らして答えた。

「兄さんの? ひょっとして、その泥棒ってのは少女趣味か何か……」

「馬鹿言うなよ」

 苦笑交じりで弟の言葉を受け流す伯父の手元を、夕子はじっと見つめていた。父のすらりとした指とは違って、まさに何かを作り出しているという雰囲気をまとう、ごつごつして節くれだった指が夕子には好ましく思えていた。

 そう、あれは1ケ月くらい前。夕子の父親の誕生日の時だ。

「これでも最近、俺の絵、売れてるんだぜ。それを時間を割いて夕子ちゃんのために描いてやるって言うのに」


 ……ひょっとして、さっきのヴァンパイアってのは式雄伯父さんの絵を狙う泥棒……!

 彼はしっかりと言っていたではないか。「真山画伯の絵は頂いていく」と。

「だったら、チャンスはもう一度ある」

 そうである。3日後の誕生日に伯父の新作が宅配便で届くことになっている。そうすれば、伯父の絵を狙うあのヴァンパイアとかいう奴も来るはずだ。

「3日後はちょうど満月だし。あたしの<力>も存分に使えるしね」

 頭の中では、彼が土下座をして謝っている。

「ふふふっ」

 不敵に笑う夕子は、満月というにはちょっと欠けている月に向かって腕を振り上げる。

「みてらっしゃいっ!」

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