第一話「二人の家」
梅の咲き誇る小路を歩くと、微かに香りが漂っている。一杯に吸い込むには、贅沢過ぎて、僕はバックパックを背負い直す。
仰々しい桜の美しさよりも、慎ましい梅を好むのも僕だけではないはずだ。
梅の小路は長くは続かず何処かで見たような廃屋がそのままの姿で、そこに放置されていた。
人間の作り出した文化であるその小屋が、結局は自然と同じである事を思い知らされる。
苔がみっしりと覆い、蔦が護るように小屋を包む。 塞き止められた何億年が僕の目の前で放たれる。文明崩壊と自然復古の姿。
僕は、そのあばら屋を記憶の隅で帰る家として記したのだ。二人が冬を越した記録であり、キミの迎えなかった春の象徴である。
キミの墓標。僕の道標。キミは今でも、春の眠りの中でまどろみ、夢を見続けるのだろうか。
湿気は思ったよりも浸透していない。 それはよく日の当たる、この小屋の特性であった。春の陽気は穏やかで、僕の心も幾分か静まっていた。
しかし、ふと何かを思いだそうとすると、深い溝に思考が落ち込んでしまいそうになった。 それを現実に繋ぎ止めたのも、やはりキミの残した、この墓標のおかげかもしれない。
少し早めに咲いたタンポポの花が僕を迷わずに生かした。記憶は、色は、時が経つほど鮮明に鮮やかになるけれど、キミの顔は反対に朧げになる。
ポケットの中に摘めた小さな名もなき花の種を小屋の周囲に蒔いた。時がくればやがて、この小屋は形を失なう。だが次に、この小屋を訪れたなら、名もなき花達が僕を迎えてくれるかもしれない。
形ある物は全て時の流れの中で失われる、と誰かは言ったけれど、たとえ曖昧な記憶になっても、忘れることのできない出来事もある。
散文は静止している。そこは時が停まっているかのように緩やかに時間が流れている。
「おかえり」
真っ白い髪は艶やかな光沢を放ち、ブラウンの瞳があの時を留めて僕を射る。
僕は呟く。もう戻らない時の中で、闇が君を投影する。
「ただいま」
すぐ側に、君を感じていた。手を伸ばしたら、そこは、ただの何もない空間だった。




