9 日常
緋色の髪が、私の記憶を刺激する。
あれは、いつの出来事だったろう。懐かしい、優しい、そして哀しい。
泣きたくなるくらい、愛しかった。
「どうした?」
「え? あ、いえ。ちょっとぼうっとしちゃった」
ルウは慌てて見舞いに来た、本来の目的を思い出す。ポケットにしまっていたリングを取り出す。差し出されたリングを見て、グレイは一つ頷いてから受け取った。
「ありがとう」
「いいえ、本当なら直接押し掛けるべきではなかったと、思って。迷惑ばかりかけて、ごめんなさ……」
ルウの言葉を、グレイは遮る。
一方ルウは口許に差し出された手に、ハッとする。事件の後のやり取りを、再び繰り返すところだったのだ。
「そうでした。何も出来なかったのがとても辛かったけど、あなたが守ってくれるって信じてた。ありがとう、グレイ」
グレイは視線をルウから外し、差し出していた手を自らの顔を覆う。指の隙間から、ルウにはその表情ははっきり見えなかったが、どうやら照れているのだと分かる。
「仕事、でもあるし。何より引き止めたのは俺だ。それに……」
「それに?」
「次に会う口実を、探していた」
「っ!」
ルウの頬には、一気に熱が集まった。
そんなルウの様子に、グレイが微笑みながら大きな手を差し出す。
その手に自らの手を乗せて、ルウは言う。
「わ、私も。探してた」
「よかった」
ぎゅっと握られた手と、初めて見るグレイの笑顔に、ルウの心臓はこれ以上ないくらい、早鐘を打っていた。
必ずまた連絡する。そう約束され、ルウは夢心地で病院を後にした。
それから三日。事件の影響も少なく、一部のゼミ以外では、何の変化もなく毎日大学の講義が続いていた。ルウは再び好奇の目で見られもしたが、今回の事件は一般に公になったのは一部のみ。逃走犯を作ってしまった管理についてと、被害の規模に留まったせいもあり、ルウや教授については全く報道されなかったのだ。
身支度を整え、朝イチの講義に出席するため、家を出ようとしたところで、呼び止められる。
「もう行くの? 気を付けてね」
「ママ」
心配そうな母親に、ルウはあえて元気な笑顔を見せる。
「大丈夫よ、今日もシェラと同じ講義だし、終わったらすぐ帰るわ」
「そう? シェラさんにはよろしくね? 今度お家に連れてらっしゃい。ママ、お礼がしたいわ」
「うん、話しておくよ。じゃあ、行ってきます」
公用ポーターから最寄りの駅に着くと、改札で友人のシェラと待ち合わせだ。親友と呼べるのは彼女しかいないと、ルウは思っていた。それがたとえ、一方通行であったとしても。
ルウの姿を見つけたのか、明るい巻き毛をなびかせて、シェラが歩いて来る。厳しく引き締まった表情は美しく、彼女はとても人目を引く。成績も優秀で、隙がない彼女は、学内では皆が一目を置く存在だ。そんなシェラが、じつはルウはとても自慢なのだった。
「おはよう、シェラ」
「おはよう、ルウ。なあに、にやにやして?」
「やだ、そんなににやけてた?」
二人並んで改札を通り、電車に乗り込む。大学までは、ほんの三駅ほどだ。
「あのね、シェラが美人だなぁって。シェラがお友達なの、すごい自慢だなぁって思ってたら、つい嬉しくなっちゃって」
ルウのまるで告白のような言葉に、シェラが吹き出す。そして照れたのか、わざと眉を寄せて見せると。
「恥ずかしいこと、言わないの」
「照れてる?」
「ルウ!」
お互い、笑い合う。
大学構内は朝から賑やかで、学生たちが行き交う。ルウとシェラの二人は、目的の教室まで向かう途中、いつものごとく呼び止める声に振り向いた。
シェラなどは、冷たい目が既にうんざりだと言わんばかりだった。
「シェ、シェラザード・ペリエ! 話がある!」
「私はないわ、ごきげんよう」
顔を真っ赤にした男性を一刀両断にし、シェラはさっさと歩き去ろうとする。
「……いいの、シェラ?」
「問題ないわよ」
とりつく島がないというのは、こういう事を言うのだなと、ルウは苦笑いを浮かべる。シェラはその美しい容姿ゆえに、こういう出来事が多い。シェラ自身は恋愛など興味がないし、そもそも人付き合いも嫌いだと、公言して憚らない。だけどこうして声をかけてくる男性は多かった。
項垂れる男性を尻目に、ルウはシェラを追う。
「そもそも、名乗りもせずに失礼よ。初対面なのに」
「シェラ、彼は同じ講義を受けてる人よ?」
「へえ、そう。でも他人よ」
ルウは彼女に言い寄ろうとする、全ての男性に同情したくなる。だが、その一方で嬉しくもあった。この孤高の人の側に、自分が友人としていられることを。
「そんなことより、ルウも気を付けるのよ?」
「え? なにを?」
「あいつらの半分は、ルウ目当てなんだからね」
「……まさかぁ」
ルウは笑って受け答えているが、シェラは真剣だった。
「私が張り付いててジャマだから、呼び出しているうちにあなたに話しかけるつもりの奴が、その辺に潜んでたわよ」
チラリと周りを睨むシェラ。
「考えすぎじゃない?」
「そうだといいけど」
彼女は、まるでナイトのようにルウを保護する。それは嬉しくもあり、また残念にルウは感じていた。
シェラと初めて出会ったのは、大学に入ってからだった。最初はとても、お互いぎこちなかった。
ルウが十七の誕生日を迎えたその日、全てが変わってしまった。当たり前のように感じていた事が、何もかも嘘で塗り固められていて、ルウはどこにも居場所がなくなって、全てに絶望した。
そんなとき、ただルウの側にいてくれたのが、シェラだった。たとえそれが役目であっても、ルウはシェラを信じると決めたのだ。
今日は寄り道もせず、シェラ駅で分かれると、ルウは自宅の門をくぐった。ほんの少し気が重いせいか、庭に咲き誇る花の前で立ち止まる。今日は月に三度ほどある、特別な日。
ふと玄関口を見れば、執事が待ち構えている。
ルウは初老の彼に少しだけ微笑むと、そのまま歩き出した。
「あと十分ほどでお時間です、お嬢様」
「分かりました、すぐ行きます」
ルウは自室に戻り、チェストから宝石箱を取り出す。中に入っているのは、細工もののペンダント。表面には花が象られ、中央からはフォログラフとオルゴールが仕込まれている。
ルウが手のひらに乗せると、可愛らしい音楽と、少年の横顔が浮かび上がる。淡い金髪の十歳くらいの少年は、少し屈んで微笑んでいる。
ルウはそのペンダントを胸にかけ、部屋を出る。
「どうぞ、お待ちになられています」
執事が開ける扉は、パナエ家の地下。小さな部屋には似つかわしくない、鋼鉄のしこまれた頑丈な扉。そこにルウは入り、執事が外から扉を施錠する。
小部屋の中央には、小さな円形の台座が据えられていた。ルウがその前に座ると、台座に光が落ちて画像を結ぶ。
「変わりはありませんか、ルウ」
立体化した画像は、一人の凛とした女性。
ルウはすっと背筋を伸ばし、頭を下げる。
「はい、お母様」
無機質な色彩と電子音の中に、ブルム・アルソン中尉ことブルーは座っていた。時折交わす通信の中に、彼らしい皮肉や冗談が入り、そこが軍部指令室であることを忘れさせる。それもここ、第三衛隊の日常風景である。
「よ、もう調子はいいのか?」
アルソン中尉が振り返り、緋色の髪の男に話しかける。
「仕事は?」
「つれないねぇ、ま、いいや。ちょっと待ってろ」
中尉が手元の資料をいくつか仕分け、手渡す。その間にも通信が入り、ブルーが声をあげる。
「おいおい、それくらいで根を上げるな。あと一時間で中将殿がそっち行くぞー、こってり絞られやがれ」
くくくと、人の悪そうな笑みで通信を切る。
「後方部隊か?」
「ああ、この前の失態で、大目玉。ブラッド中将も、お前がいなきゃ甚大な被害がでてたと、お怒りってわけ。で、特別しごきコースの最終チェックだとさ。ところでグレイ?」
資料から目を離すグレイ。
「その後、デートくらいした?」
間髪を入れず、グレイの腕がブルーの背中を押す。
「ぐっ、いてててて! 止めろ」
「もう少し、病院に入るかブルー?」
「嫌です、もう言わない!」
ようやく傷口を解放され、机に突っ伏すブルー。グレイは最上に不機嫌な表情ではあったが、それ以上は何も言わない。今更、この昔馴染みの軽口に、乗せられるのも面倒ではあった。
グレイは再び資料に目を通し、仕事を請け負う旨を告げる。
「誰が空いている?」
「トモエでどうだ?」
その名を聞いて、グレイは暫し考えて頷く。
「猛獣使いになれるよな、お前。あいつと組めるの、お前かリョウだけだ」
肩をすくめるブルーに、グレイが忠告する。
「死にたいのか」
第三衛隊所属の特別捜査官、通称ハンターには、特に変わり者が多い。そのうちの一人、トモエもまたかなり苛烈な人物で知られている。獰猛を絵にかいたような、女だ。
「聞こえたんだけど、猛獣って誰のことよ、ブルー?」
「トモエ」
「何よグレイ! あんたも同類?」
「いや、違うが。そろそろ止めておけ」
背中を膝で押され、腕に間接技を決められたブルーが、声も出せずに机を叩いている。
「あら、軟弱」
すっと何でもなかったように降りたトモエは、合わせの裾をはたく。容姿ははどこから見ても、人形のように細く華奢である。長くて真っ直ぐな黒髪は、腰まで伸びて艶やかだ。切れ長の目は、いざという時には、大の男すらひと睨みですくませてしまう。
「へえ、今日はグレイがパートナーなの。いいわよ、引き受ける」
仕事は個別に分配するのが、ブルーの役目だ。ハンターは軍属ではあるが、正確には軍人ではない。その高い能力を監視される代わりに、特別な待遇を受けられる。
その日の仕事は、先日の大学での襲撃にも関わるものだった。能力を増幅させる、違法な装置の闇取引を摘発するものだ。捜査事態は警察が動くが、その補助を軍部が請け負う。広範囲の探索で拠点を絞るのは、摘発時の抵抗を押さえるのに、有効であるからだ。こと能力者の摘発には、味方の被害が甚大になりがちである。まずこれを防ぐためにも、こういう事件に関しては、警察も軍も協力体制にある。
グレイとトモエは、必要な装備を整え、司令部を出る。
これもまた、いつもの日常である。常に危険と隣り合わせ。それがハンターの生活。
ふと、グレイは思う。
あまりにも違うであろう日常を送る、日溜まりの似合うルウのことを。