2 脱出
「早く、こっち!」
ルウは座席の下に手を差し出し、小さな手を取る。
少女は恐怖のあまりイヤイヤと首を振り、泣きながら縮こまって震えていた。
「大丈夫だから、ね? ママが待ってるよ」
「──ママ?」
五歳ほどだろうか、少女がようやく大きな瞳をこちらに向けてくれたことに安堵しながら、狭い座席の間にさらに身を乗り出す。
背もたれのクッションがあるとはいえ、椅子に背を挟まれ痛みに顔をゆがめながらも、おずおずと差し出された小さな手を、ルウはしっかりと握り直す。
そして力の限り引き寄せた。
「おねえちゃん!」
ようやく腕の中に少女を収め、ルウはひと息つくと、真っ暗な周囲を見回した。
「大丈夫よ、必ずママに会えるから。お姉ちゃんと一緒にお外に出ようね?」
ススだらけの顔で、ルウは少女に微笑んで見せた。
それが少々滑稽だったのか、ようやく少女は笑顔を浮かべてくれる。
「怪我は、痛いところはない?」
こくんと小さく頷く。
それを見てほっとしながらも、ルウの胸の不安は拭えない。
──そもそも、どうしてこんな事になったのかさえ、ルウにはさっぱり分からないのだ。
今日はこの『アナ劇場』に、大学のレポートの為に観劇に来ていた。
同じゼミの仲間たち数人と訪れ、ちょうど帰宅の途につくころだった。突然の爆発音に建物が揺れ、退出しきっていない客達がパニックを起こし、慌てて外に出ようとしたところで二回目の爆発が起こる。そこでルウは崩れた二階部分とともに落ちたのだ。
幸いに崩れた座席に乗るかたちで着地したため、怪我は負わなかったが、これで出口が遠のいた。
二回目の爆発によって照明が落ちたため、ルウは手探りで周囲の状況を確かめるしかすべがなかった。声を上げても返事かないのは、幸か不幸か。少しだけ考えて、落ちた自分と瓦礫の下敷きになった者がいないのなら、たったひとり残されたとしてもこれは『幸』だと思っておくことにした。
一回目の爆発の前に友人達と別れたルウは、買い忘れた観劇のパンフレットを買いに戻ったところだった。少なくとも友人たちは脱出したはずだから、このままルウが戻れなくともきっと捜索を警察に頼んでくれるだろう。
少しだけ落ち着きを取り戻したところで、かすかに子供のすすり泣く声に気付く。
まさか、とルウの鼓動が跳ねた。
「落ち着け」と耳でドクドクと波打つ鼓動を抑えつつ、辺りに気を配る。
どうやら声がしたのは、ルウのいる場所から少し離れたところのようだ。
ルウは声を頼りに手探りで進み、近づく。そして座席の下でうずくまるようにして泣く少女を見つけたのだった。
少女を助け出し一安心するとようやく冷静になり、ルウは思い出したように手首にはめられたメモリーリングを起動させる。小さめなモニターが現れ、目を開いているのかさえ分からなくなるほどの暗闇を照らす。そうして少しだけ足元が明るくなった。
明かりに反応したのか、身をすくめ不安そうな少女の顔が振り返る。
「少しでも安全な場所まで移動しましょうね?」
モニターの明かりで劇場内に舞い上がる埃とは別に、かすかに煙が漂いはじめたことに気付く。そしてルウはハンカチを取り出し、少女の口元にあてて後ろで縛り、簡単なマスクとする。
少女を手招きして、二人で四つんばいで移動を始めた。
早くしないと、いつ本格的に火の手が上がり煙にまかれるか分からない──ルウは焦りはじめる。
少女はその只ならぬ状況が察したのだろうか、素直について来る。
「……確かこっちに」
扉があったはず、と手首の明かりを前にかざす。
するとそこには大きく崩れた壁と瓦礫。そしてその向こうに扉があったことに心底ほっとしながら手をかけるが、びくともしない。
「お姉ちゃん、出られないの?」
「大丈夫よ、きっと出られるから待ってて」
ルウは扉の前に散乱する瓦礫を持ち上げ、手伝おうとする少女を制止して、微笑んでみせる。
「危ないから、ダメよ。手を切ってしまうわ」
だが、少しでも急いだ方がいいことはわかっていた。必死に瓦礫を移動させながらも頭にもたげる最悪の事態。
もしこれがただの事故による爆発でなかったなら。
もし『誰か』が意思をもってこれを引き起こしたのだとしたら。
もしその『誰か』が、必死に脱出しようとしているルウたちに気付いたら……。
次の瞬間、ルウの背筋が凍り、ドクンと心臓が跳ねる。
得体の知れない恐怖心に縛られ固まった身体を、なんとか息をしてほぐし己の耳にあるピアスに触れる。
──なんとかしなきゃ。
ルウは傍らの少女を引き寄せ、腕の中に収める。
──能力者、だ。
空気を震わせるその波動に、ルウの全身の毛穴が開く。
最悪の事態。
重犯罪者の能力暴走による破壊及び殺傷行為──
逃げなきゃと思うのだが、足がすくんで動けなかった。
この暗闇の中、わずかな明かりがあるとはいえ瓦礫と煙を避けて、あんな爆発を起こせるような能力者から逃げ切れるのだろうか。
不安と焦りで身体がこわばる。
焦るルウの目の前、瓦礫の上に力場の渦が小さく巻き起こった。
息を詰めて見守るルウ。すぐにそれが能力の磁場であると分かり、身構える。
──見つかった
次の瞬間、ふわりと羽が舞い落ちるかのごとく人が降り立つ。
──瞬間移動!
目の前に背の高い黒尽くめの男が、背を向けて立っていた。
細身だが防護服につつまれた身体のそこかしこに武器が収められている姿は、まさに軍人のそれに近かったが、いくぶんか軽装であった。見上げると淡いブラウンの髪には幾すじかの印象的な緋色が混じる。
唖然と見守るルウと少女を、男はゆっくりと振り返る。
整った顔立ちは、厳しい状況を見て取ったようだ。切れ長の鋭い赤紫の瞳が、射るように向けられた。
男は何も言わず、己の手首に収められた通信機を起動する。
「最後の生存者二名を確認。そちらに送るから、受け取れ」
よく通るその声に、なぜかルウの身体が震えた。
男は二人に近寄り膝をつくと、怯える様子を無視して言う。
「王軍領域護衛部隊、第三衛隊所属特殊捜査官だ。ここは危険だ、今から安全な場所に転送する。PMを見せろ」
それだけ告げると身分証を提示し、返事も聞かずにルウと少女の腕を取り、そこに付けられている個人情報を引き出す。
──ハンター。このひとが。
ルウは驚きを隠せない。彼らハンターは軍に所属しているが、軍人ではない。今回のような能力による暴走や犯罪を取り締まるために、特別に訓練を受けた能力者たち。こうして彼らがやってきたというのなら、疑いは確信に変わる。やはりここにいるのだ。さきほど感じた、恐ろしい気配の能力者が……。
唖然としてされるがままだったルウは、彼が情報を読み取って眉を寄せるのに気付く。
すると男は再び通信器に触れる。
「リョウ、転送は一人だけだ。のこりは直接連れて行く……ああ、そうだ。了解した」
通信を終えた男が、ルウの腕の中から少女を引き取ろうとした。ルウは咄嗟に力をいれ、自分でも考える前に少女を抱きこんでしまった。
ハッとしたルウを、男は責めるでもなく真っ直ぐ見つめる。
「あ、あの……」
「あんたは転送できないから、この娘だけ先に送る。大丈夫だから、離してくれ」
ゆっくりと言い聞かせるようなハンターの男にルウは小さく頷くと、強ばる手を何とか開く。
そして抱え込んでいた少女に、安心させるように微笑んだ。
「お姉ちゃんは後で行くからね、先に行ってママに会っていて?」
大きな眼を不安にゆらしながらも、少女はこくんと頷くとしがみついていた手を離す。
赤毛の男はほっと安堵したような表情を一瞬だけみせると、少女を受け止める。
「眼を閉じて」
立たされた少女がぎゅっと目を閉じると、磁場の風を巻き起こしながら一瞬で消えた。
ルウは心底ほっとする。これで彼女は安全だ。あとは軍が母親を捜し、引き渡してくれるだろう。どうか母親も無事であってくれと、祈る。
現れてからほんの一、二分で少女を送り返した男が振り返る。
「あんたは俺とともに脱出する──来い」
ルウは差し出されたその手を取り、歩きだした。