11 友情
夕暮れ迫る大学キャンパス内を、ルウは走っていた。
必ず連絡を取り合うと約束したグレイと別れ、シェラを探して学内をさ迷う。もうここにはいないかもしれない。ルウはそう思いつつも、勘はどうしてかそうではないと告げていた。
ルウにとって、シェラザード・ペリエという女性は特別だった。友人という枠には収まりきれない。それは一方通行なのではないだろうかと、以前は時折思っていた。だが、そうではなかったのだと、今なら思うことができる。
なぜなら、グレイに近づく自分を気遣い、感情的になるシェラを見たからだ。今まで心配をかけたことはあるけれど、頭ごなしの反対をされることもなかった。それは裏を反せば、遠巻きに見られているのではないかと、寂しい思いをしたこともある。
ルウもまた彼女に反発をすることもなかった。それはルウにとって、シェラは尊敬すべき友人であり、全幅の信頼を寄せているからである。
そんな二人だからこそ、初めての『仲違い』だった。
「シェラ!」
講堂の階段を登りきった扉を開けたそこは、屋上に繋がる通路。息を切らしてたどり着いたそこに、友人の背を見つけたルウ。
呼び掛けに肩を揺らしたものの、シェラは振り返らなかった。
「シェラ、ご免なさい。あんな酷い言い方して……」
「違う、本来なら私こそあんな物言いをしてはならないのだから……」
シェラは驚きに言葉を止めた。
背中に暖かい温もりを、両腕を包み込むように回されたか細い腕を、感じたからだ。
ジェラを抱きしめてルウは首を横に振る。
「違うの、そうじゃない。私は、まだルウ・パナエだから。そう言ってくれたのはシェラじゃない!」
「……そうだけど」
「いつか私は私でなくなる。だからその時が来るまで、私はただのルウでいたい。シェラともちゃんと向き合いたい。友達でいて欲しいの」
シェラが振り向くと、そこには泣きそうな笑顔を浮かべたルウが、必死にジェラを離さんと捕まえている。
簡単に転移してしまうシェラを、我が身を人質に封じ込めているのだ。そこには決して不安の色はない。ルウは信じているのだ、自分を傷つけるかもしれない転移を、シェラが決してしないことを。
「シェラが言いたいこと、全部話して。今度はちゃんと聞くから」
「……ルウの望まない事を、言われると分かってる?」
「もちろんよ! でも理解してるよ、シェラが私の事を大事に思ってるからって。だけどね、それをちゃんと聞いた上で、私は相談したいの、シェラに」
「……相談」
「そうよ! だってシェラ以外、誰に相談すればいいの、私たち友達でしよう?」
今度はシェラの方が、頼りない笑顔を浮かべたのだった。
二人は誰もいない講堂の片隅に、肩を並べて座っていた。ルウが促すと、シェラは言葉を紡ぐ。
「彼は、特別だった。例の特別な能力を持つ一族であるのは勿論だけど、学力も申し分なかったし、社交的で人当たりも良かったから、いつも友人たちに囲まれていたわ。教師たちからもとても受けがよくて。それから」
「えっと……シェラ?」
「何?」
「それ、本当にグレイの事?」
能力の事はいい。だが、決して社交的で人に受けが良い部類には見えなかった。どちらかと言えば、寡黙でとっつきにくい、怖い部類の人にしか見えなかったのだ。当然、今ではそれだけではないとルウは知ってはいたが、どうにもシェラの言葉を鵜呑みには出来なかった。
「……そうね、でも続きがあるのよ。私とグレイはたまたま同じ所で学んだわ。だけど、特別親しい訳ではなかった。でもグレイは有名だったから、嫌でも彼の行動は耳に入ってきたの」
誰よりも優秀で、皆の期待を一身に受けたグレイ少年。またルウは、グレイの新たな一面を知る。
「それは彼が十歳くらいの頃までの事よ。ある日を境に彼は、変わった。人を寄せ付けなくなり、その目には絶望のような暗いものしか見えなかった。何があったのかは誰も知らない。彼は何も言わなかったから」
「具体的にどう、変わったの?」
「排他的で威圧的。いつも何かに挑んでいるかのように、恐ろしいほど貪欲に学び、他を圧倒していったわ。自分にも他人にも、容赦なく冷徹になった。誰かを憎んでいるようで、でも……」
まるですぐ側に立ってきたような、言葉だった。シェラは、自分でもそう思ったようで、苦笑いを浮かべる。
「とにかく、誰にも手がつけられなかった。良い意味でも悪い意味でもね……悔しかったわ。私はそれまでトップを走れると自負していたの……彼が本気になる前までは。良いライバルだと思っていた私は、甘えた子供だった」
「シェラが? まさか」
「グレイが死に物狂いで何かと闘っている間、私はただ彼を馬鹿にしていただけだった。その後、彼は私より早くSCSを出た後、二年で大学を出て、いつの間にか軍へ出入りしていた。その三年後にようやく私は内閣府へ」
そうして二人の道は分かたれた訳だが、シェラにとってそれだけではなかったようだ。グレイほどの才能があれば、軍だろうと政府筋だろうと、それなりの待遇で迎え入れられた筈だ。なのに彼が選んだのは、危険で恨みを買う最前線の現場。特殊捜査官だったのだ。
「職務を蔑むつもりはないわ、だけどルウ、彼らの仕事は最も危険なものなの。彼ら自身も、様々な制約を受け入れることで身を守っているくらいなのよ?」
「……分かっているつもりよ、でもだからといって最初から遠ざけらるなんて」
「いずれ会えなくなったとしても?」
「……!」
ルウはそっと唇を噛む。
目を伏せ苦悩する姿を、シェラはあえて目に焼き付けようとしていた。
「深入りして、もっと傷つくルウを見たくないの」
「違うよシェラ、だからなの」
「ルウ……?」
「私は、後悔したくないの。今の自分の気持ちを大切にしたい。いずれ消えてしまうからこそ、私は……グレイとはまだ何も始まってすらいないけれど、シェラ、あなたともよ?」
「私?」
「シェラとももっと、たくさん遊んで笑って、こうしてケンカして、仲直りして、美味しいものを食べたり、悩んだり……それと一緒よ?」
シェラはその言葉に、ルウとの出会いを思い起こしていた。そしてルウもまた、同じだった。
二人が出会ったのは、そう昔ではない。ほんの数ヶ月前のことだった。その日はルウの十七歳の誕生日。ルウにとって、嬉しく楽しい一日になるはずだったその日は、結果としてルウを不安と絶望の底へ突き落とすこととなった。
今まで信じていた幼少の頃の記憶が全てまやかしで、唯一自覚できる今の自分さえも、この先数ヶ月で失われてしまう事を知ったルウ。
本来の自分を守るため、作られた人格。それがルウ・パナエだった。十八歳の誕生日を迎え、成人となると同時に、本来の記憶を取り戻すことになっている。それを知らされたのが、十七歳の誕生日。母も父も血の繋がりはなく、共に生きてきた記憶さえ、自分のものではなかった。それでも実際にパナエ家で過ごした九年分だけは、自分のものだ。誰にも渡したくはないと、ルウは嘆いた。だが、与えられたのはたった一年の猶予だけ。
突然の宣告に足元が揺らぎ、立っているのもやっとだったルウに、その日引き会わされたのがシェラザード・ペリエだった。シェラは内閣府高官の秘書官をしていた。事情を全て分かった上で、彼女はルウに言った。
「あなたが再び私を忘れても、私はずっと側にいます。何度でも、最初から始めましょう。初めまして、ルウ」
シェラは身分を書き換えて、大学へ編入した。毎日ルウの側にいて、ルウの悩みや不安と向き合ってきた。それだけではない。話していれば歳も近いのもあり楽しいし、性格が違うにもかかわらす気が合った。ルウにとって彼女が遣わされた補佐から親友へと変わるのは、さほど時間はかからなかったのだ。
「だからね、初めから可能性を捨てたくないの。もっと彼を知りたいし、私のことも知って欲しい。知って、覚えていて欲しいの」
「ルウ……」
覚えていて欲しい。
本来の記憶を思い出した時、ルウが失われる可能性を否定出来ないシェラは、その言葉に胸を抉られる。今や失いたくないのは、シェラも同じだった。
「もしかしたら、シェラの立場が、悪くなる?」
「……っ、そんなこと気にしなくていい」
「報告、してくれていいよ」
二人の間が例え友情で結ばれていようが、互いの立場はそうはいかなかった。シェラは定期的に、元上司である高官に報告を義務づけられていた。そしてルウ自身も、それを承知したからこそ普通の生活を保証されているのを、理解している。
「ねえ、ルウ本気なの? また、危ないことに巻き込まれるかも知れないわ。そこまで彼が好きなの?」
シェラが真剣な眼差しを向けた。
「……分からない。でも、分かりたいの、この胸にいつも彼がいる理由を、どうして彼を思うと切なくなるのか、まだ数回しか会ってないのにどうして、また会いたくなるのかを」
確かめたい。もう、そうしなきゃ自分が定まらない気がしたのだと、ルウは言った。
そしてルウは、はにかんで付け加える。
「それは私だけかもしれないけど」
そこまで聞いて、シェラは深くため息をついた。恐らく彼もまた、ルウと同じく互いが気になっているのではないかと、シェラは感じた。噂に聞こえる『死神』は、未だ昔のものとそう印象が変わらない。ならばわざわざルウに会いに来るのは、グレイの方こそ戸惑っているのかもしれないと。
「分かった。ルウがそこまで言うのなら、私は何も言わない。だけど、約束して欲しいの」
「シェラ……!」
「何でも包み隠さず私には教えて欲しいの。相談には必ずのる。そうしてくれれば、報告はしない」
「……もちろん、シェラに秘密は作らないわ。でも、報告はしないとシェラが!」
「大丈夫、ある程度の裁量は認められてるし……それに多分、言ったら反対されるから」
ルウが大きな瞳を見開く。そしてシェラの手を取り、首を振る。
「私からもお願い。シェラが側にいられなくなるのは、嫌。もし、そんなことになるようなら、私も諦める。だから、必ずシェラも無理しないで」
「……わかってる」
シェラはそっとルウを抱きしめ、そのふわふわした髪をそっと撫でた。
「我が儘を聞いてくれて、ありがとう、シェラ」
「くれぐれも、気をつけて」
覚悟が決まった二人の間に、穏やかな笑みが浮かぶ。普通の娘に許される恋が、ルウにも訪れるように。そう願ったこともあるシェラだった。だがそれは思いもよらない相手ではあったのだが、それもまた、ことルウの短い限られた時間を美しく彩るのに、相応しくも思える。例え幸せな思い出か、または悲恋に終わろうとも、全てルウのものだ。ルウが得る全てを、シェラは最後まで見守る覚悟を決めたのだった。