城壁の向こうの想い人(4)
地下のひんやりとした空気が頬を掠める。冷たい壁に触れながら歩き、時々軽く叩いてみる。ひとしきりフロア内を歩き尽くすと、誰もいない一室に入り、平たく積まれた材木に腰掛けた。
「お、見つけたぞテメー」
「……何しに来た」
ドアは元々ついていなかった。部屋の入り口に、銀色の数本の尾をゆらゆらと揺らす生き物がいる。少し前は睦月という人間、いや神だったらしい、犬のような何か。自分をいつのまにか追って来ていた彼を見て、ライトは深くため息をついた。
「けっ、本当愛嬌もクソもねー奴だなお前。なんだそのため息は」
「一人で考えたいことがあったのにわざわざ邪魔しにおいでになった神様への牽制だ」
「ほっほう……ッご丁寧にどーも……!」
表情を変えることなく毒を吐くライトに睦月はあからさまに苛立ちを見せた。この男の皮肉っぷりはダニエルと張り合える、そう睦月は思った。皮肉屋が二人いても面倒なだけだが。苛立つ気持ちをなんとか宥め、ライトの横まで歩いて来る。
「ったく……俺はなあ、なんか思い詰めてるっぽいテメーの話を聞いてやりに来たんだぞ」
「恩着せがましいにも程があるな」
「あーもう素直じゃねーな! 人間が困ってんのに神がほっとけるかよ!」
涼しい顔で一向に態度を変えようとしないライトに痺れを切らし始める。思わず声を荒げて出た言葉に、ライトは少し驚いていた。一体どんな意味を持ってそんな表情を見せたのかはわからない、睦月は彼から話を聞くまで変わらず説得するだけだ。
「……大したことじゃない。俺はこの世界が嫌いだ。だからさっさと脱出する方法を考えてただけだ」
今度は睦月が驚かされた。視線はまっすぐ前を向いているが、どこか遠くを見ているように感じられる。こちらに一瞥もくれず、彼が語ったのはそれだけ。言い終わると彼はまた黙り込んでしまった。
「……そっか。酷えよな、人間の中に優劣なんかつけるから」
ぽつり呟く睦月。ライトは何も言わなかったので、しばし沈黙が流れる。人間の中の優劣。その言葉の意味を噛み締めていた。人が皆平等な世界などなかなか実現できるものではない。大衆を統率する指導者とはいつの時代も必要とされてきた存在である。そこまではいい。統率者と大衆の中に優劣を付けたら、この世界のように問題が起こる。
「……お前は何で人間を助ける? お前に何の得がある」
「人間を助けるのは俺の生きがいで、俺が生きてる意味でもある。助けることで喜んでくれたら、俺も嬉しい。得しかねーぞ? あとさ、何でも損得で考えるの……なんか、寂しいだろ」
黙って睦月の言葉を聞いていたわけだが、正直言ってライトには理解しがたい話だった。だからと言って真っ向から否定するつもりは毛頭ない。彼と自分では生きてきた世界も立場も違う。ならば当然ながら、価値観も違う。そんなことくらい理解していたから、何も言わなかった。
ただ一つ、ライトの中にどうしても理解できないことがあった。“寂しい”と言ったその言葉だ。ライトにしてみれば、そんなものは陳腐な感情論に過ぎない。それでは論理的な解決は不可能だ。感情論では生きていけない世界にいたライトと、それが通じる世界にいた睦月。この違いがこんな感覚のズレを生じさせたのではないか。
「……俺ちょっと寝るわ。飛ばされてから飯も食ってねえし、そろそろ疲れた」
そう言ってその場で横になり、小さく丸まった犬。彼の言葉を聞いてふと疑問に思ったが、自分たちが飛ばされてからどれくらい時間が経っただろう。ずっと動きっぱなしで一睡もしていないのは事実だ。
規則正しく上下する背中を一瞥して、ライトも目を閉じた。休息は取れるうちに取っておくべきだ。上手い脱出案も浮かばない。それにどうせ、ウェルが帰ってくるまでは動けそうにない。
**
無音だったはずの空間に、突然訪れた喧騒。それが原因で、二人とも目を覚ました。
「……なんか騒がしいな。直樹たちか」
睦月がライトのそばを離れ、のそのそと動き出す。部屋の出入り口から廊下を覗き込む。ライトも耳を澄ましてみた――確かに、聞こえる。おそらく人の声、ブレアや直樹に似た声が聞こえる。何事か確かめるべく小さな足を動かして歩いていった睦月のあとをライトも続く。
「あとがつっかえてるんだから、もっと奥に行って!」
「向こうの部屋に薬がまだあっただろ、誰か持ってきてくれ!」
泣き叫ぶ声、痛みに呻く声、指示を飛ばす声、罵る声。地下と地上へ続く辺りは騒然としていた。目まぐるしく動く人々、それは何時間か前に出ていったはずの反乱軍だった。怪我をしている者もたくさん見える、それも初めに見たときのようなものとは違い血を流している人もいる。
「ちょっと、どこ行ってたのよ! ぼーっとしてないで手伝う!」
「……ほら見ろ、だから言っただろ」
睦月とライトを発見したブレアが叫ぶ。見たところ、怪我人の手当などを手伝っていたのだろう。直樹やアロカの姿もある。最初に自分たちが通された部屋には誰もいない、ライラやダニエルもどこかで手伝っているのだろうか。ライトは苦々しい表情で小さく呟いた。見過ごすわけにもいかず、彼らの手伝いを始める。
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「悪いな、手間掛けさせて……」
「とりあえず、ああなった経緯を話してくれないか」
怪我人の手当もほぼ片付き、少し落ち着いてから部屋に戻った。怪我はたいしたことなかったものの、すっかり肩を落として意気消沈しているウェル。結果は文字通り、予想外の大敗だ。ライトは尋ねる。自信はあったはずだ、それなのに何故なのかと。
「何でかなんてこっちが聞きてえよ……あいつら、この短時間で兵士も武器も増やしてやがった。何で死人が出なかったのか不思議なくらいだ」
「……本気で、殺しに来たってことですか?」
「かもな。何人かは殺す気だったんじゃねえかな。制裁のつもりか知らねえけど」
そう、幸い死人は運ばれて来ていない。深い傷を負った者も何人かいるが、命に別状はないらしい。しかし、これ以上の戦いは不可能だ。今回で終わらせるつもりだった彼らは反乱軍のメンバーを総動員した。まさかとは思うが、それを見越しての増強だったとしたら恐ろしい。
「……早く、会いてえのになー……」
ウェルが小さく呟いた。あの城壁の向こうにいるであろう、王女を思っているのだろう。気の毒だが、何もしてやれない。直樹には、その気持ちをわかってやることも出来ない。
「――まったく、君たちにはただただ呆れる。何のために君たちの頭はあるのかね?」
「……あんたはまた、何が言いたいのよ」
「戦うことしか脳がない君たちに知者である私が教えてやると言ってるのだよ。もう少し平和的になりたまえ。わざわざ正面突破しようとするから負けるのだ」
突然口を開いたのはダニエル。相変わらずぺらぺらとよく動く舌で、何やら自信ありげにお得意の皮肉トークを始めた。苛立ち、噛み付きかけたブレアをものともせず、ダニエルはある一つの策を講じたようだ。
「この国の取り立て人とやらは一日一回、あの貴族どものところまで物資を運ぶのだろう? 移動手段は何かね」
「あ、ああ……いつも決まって馬車で来るけど……」
何故そんなことを聞くのか、と言いたげな顔をしたウェルの言葉を聞き、満足げに頷いた。期待通りに話が進んだのか、やはり自信たっぷりに言ってのけた。
「簡単な話じゃないか――――その馬車、奪ってやればいい」
自称知者は、とても平和的には思えない策を打ち出した。