用済みと離縁され、三年ぶんの木地も客も置いて出るところでした——束ごと片づけましたので、お宅の櫛だけ歯が飛びます
「離縁してくれ」
千景の指から、茶碗が半寸ほど滑った。割れば茶碗一つ。つげの木地なら、上物をひと月寝かせるぶん。そう数えたところで、胸の内側に引っかかったものも、ひとまず半寸で止まった。
惣十郎は茶にも手をつけず、隣の仲人へ顔を向けた。仲人は町一番の家から着てきたらしい羽織の袖を払い、めでたい話にふさわしい笑みを浮かべている。
「町一番の家から話が来た。悪いが、身の回りを片づけてくれ」
「まあ。今日でちょうど三年でございますのに」
「三年?」
「いいえ、こちらのことでございます」
千景が見たのは惣十郎の顔ではなく、店の奥だった。戸の陰にある寝かせ場。嫁入りの元手で買い足したつげ木地のうち、いちばん古い束が、今日で丸三年になる。
三年待って、最初に仕上がったのが離縁とは。櫛なら歯の一本くらい多く挽いてほしいところである。
「先さまも、店のことはよくお分かりだそうでねえ」
仲人は嬉しそうに言った。羽織の袖はもう一度払ったが、寝かせ場へは一度も目をやらない。あの羽織で木地が三年ぶん。三年を着込んだ方が三年物を見ない。町一番の家の縁とは、たいそう贅沢な目隠しであるらしい。
「千景なら話が早いと思っていた。店の書付と客のことは、俺に分かるようにしておいてくれ。それから講の掛け金もな」
離縁と片づけを、一息で頼めるのは立派な才覚である。櫛の歯なら詰めすぎだ。頭皮に当たって痛かろう。
千景は茶碗を膝の前へ戻し、畳に両手をついた。指先だけは、きちんと揃った。
「お望みのとおりに」
惣十郎は、ようやく茶を飲んだ。話が済んだ顔だった。
千景も微笑んだ。何を身の回りと呼ぶかまで、旦那さまはお決めにならなかった。頼まれた側に裁量をくださるとは、最後にずいぶん気前がよろしい。
* * *
翌朝、千景は板の間へ二冊の書付を並べた。店の売り買いを記したものと、自分の元手で買った木地、預かった木地、講へ納めた金を記したもの。惣十郎は一冊目を引き寄せ、二冊目には指も置かなかった。
「講の掛け金は、次まで払ってあります。以後の名は外していただきました」
「そこまで急がなくてもよかったんだぞ」
「身の回りを片づけてくれとのことでございましたから」
急げと言われなくても片づける。それが片づけ役の面倒なところである。日頃は目に入らず、いなくなる日だけ手際のよさを褒められる。褒美は離縁。羽織なら何年ぶんだろう。考えるだけ木地が惜しくなった。
最初に訪れたのは、二年前につげを預けていった女の家だった。千景は包みを開き、墨でつけた印と枚数を確かめてから、木地を畳へ置いた。
「九枚、お返しいたします。うち三枚は、あと一年ほどお待ちくださいませ」
「櫛にしてからではなくて?」
「これからは旦那さまがお挽きになりますので、木地のままのほうが間違いございません」
女は九枚を数えず、千景の顔を見た。それから一枚だけ持ち上げ、反りのない縁を指でなぞったが、引き止める言葉は口にしなかった。
次は、講でまとめて買った木地を分ける番だった。誰の金が何枚に変わったか、墨の筋を一本ずつ書付と合わせる。惣十郎の母が戸口から覗き、「そんな奥のものまで」と呟いた。
「奥のものほど、持ち主を間違えると困りますもの」
「店に置いておけば、いずれ使うだろうに」
「ええ。どなたのものでもよろしければ」
返事はなかった。そこで千景は続きを数えた。十三、十四、十五。腹立ち一回で数え直せば、十五枚が三十枚になってくれそうだが、木地は人の機嫌では殖えない。残念!
自分の元手で買った束には、嫁入り前から使っている紐がかかっていた。三年物、二年物、一年に満たないもの。千景は束ごと包み直し、阿久里へ預ける荷に分けた。
「それまで持っていくのか」
惣十郎が初めて二冊目を覗いた。
「わたくしの元手で求めたものですから」
「店で使うつもりだったんだろう」
「昨日までは」
千景は丁寧に答え、もう一束を持ち上げた。昨日までの三年と今日からの一日は、同じ紐では括れない。
夕方、最後の預かり木地が持ち主の手へ戻った。棚板には明るい筋だけが残り、空いた寝かせ場を風が抜けた。
惣十郎は戸口まで来て、足を止めた。口を開きかけたものの、仲人が新しい縁の話を持って現れると、すぐ表へ戻っていく。
千景は空の棚を乾いた布で拭いた。埃まで置いていけば、それも身の回りだと言われかねない。旦那さまのお望みは、いつだって仕上がりだけは美しいのである。
* * *
得意先への挨拶は、櫛を売るときより骨が折れた。売るなら髪を見ればよい。別れるとなると、どこを見ればよいのか分からないので、千景はいつもどおり髪を見た。
「これからは旦那さまが挽かれますので」
太くて量の多い髪を持つ女は、手にしていた櫛を止めた。千景が歯を少し厚く取り、根元を詰めすぎないよう頼んできた相手である。
「惣十郎さん、あたしの髪を覚えている?」
「書付に残してございます」
「書付が梳くのかい」
女はそれだけ言い、櫛を髪へ戻さなかった。
二軒目では、細い髪の女が鏡台の引き出しから三枚の櫛を出した。どれも家の印が棟に入っている。千景の名はない。
「次も同じように、と伝えておくれ」
「歯先を細く、間は狭めすぎず、と記してございます」
「そうじゃないよ」
何が違うのか、女は言わなかった。千景も尋ねず、櫛を布へ戻した。家の印は三つとも立派だった。印だけで髪が梳けるなら、職人は毎朝ずいぶん寝坊ができる。
三軒目は、娘と母が一本ずつ同じ形を頼む家だった。髪の癖が違うので、見た目だけ同じにして歯の厚みを変えてある。
「次からも、二本とも同じ形でお届けします」
「同じ形、ねえ」
母親は娘の櫛を取り、自分のものと重ねた。ぴたりと重なる棟の下で、歯の影だけがわずかに違った。
「千景さん。どこへ行くの」
「まだ決めておりません」
「決まったら先にお言い。櫛より先に」
その言葉だけは、書付へ書けなかった。書けば店のものになる気がして、千景は頭の中へしまった。こちらなら元手は要らない。寝かせる場所も取らない。ずいぶん扱いやすい預かり物だった。
店へ戻ると、惣十郎は新しい注文の紙を眺めていた。家の者は千景が客をきれいに引き継いだと思い、「やはりあの人は聞き分けがいい」と表で話している。
聞き分け。便利な言葉だ。木地なら乾いたかどうか確かめるのに、人にはその一言で済むらしい。
「客は何か言っていたか」
「これからは旦那さまがお挽きになると、お伝えしました」
「そうか。それなら困らないな」
「はい」
嘘は一つもなかった。千景は正直者である。相手が欲しい答えだけを拾うことまで、こちらの勘定には入らない。
* * *
寝かせの足りない木地も、挽いたばかりなら美しかった。惣十郎が仕上げた櫛は、油を吸って艶を帯び、歯もまっすぐ揃っている。
「見ろ。これなら前と変わらないだろう」
差し出された一枚を、千景は灯りへ透かした。木目の詰まりは悪くない。ただ、まだ動きたがっている。若い木は元気で結構。人の髪の中で元気いっぱいに曲がらなければ、なお結構。
「きれいに挽けております」
「木地が何年だろうと、腕があれば形にはなる」
「左様でございますね」
形にはなる。その言葉も嘘ではない。今日のうちは。
千景は作業台の端に残った一枚へ手を伸ばした。店へ渡す分として、すでに勘定を済ませてあった三年物だった。持ち出すこともできたが、指が紐を解いた。
木目へ灯りを通し、向きを決める。細い墨を引き、鋸を入れた。惣十郎は隣で別の木地を挽いており、千景の手元を見なかった。
歯を一本ずつ立てる。数える癖が顔を出した。三年と半日。半日はおまけ。離縁祝いにしては地味だが、木は宴会をしないのでちょうどよい。
仕上がった櫛には、店の印だけを入れた。千景は布に包み、細い髪の女の家へ自分で届けた。
「まあ、もうできたの」
千景は布包みを女の前へ置いた。
女は何も尋ねず、髪へ一度通した。根元から毛先まで櫛が抜けると、布へ戻して引き出しの奥へ置く。
「次は、決まってからでいいよ」
千景は頭を下げた。帰り道では年数を数えなかった。数えれば、足が店へ戻りそうな気がしたわけではない。ただ、夕餉までに阿久里のところへ荷を運ばねばならなかった。三年物は意外に重い。感傷より腰にくる。
日が落ちる前、千景は店の鍵を惣十郎へ返した。奥の棚は空で、作業台には新しい木地が積まれている。
「世話になったな」
「こちらこそ」
「先のことが決まったら、知らせてもいいぞ」
「何をでございますか」
惣十郎は答えず、鍵を懐へ入れた。千景も答えを待たなかった。
阿久里の荷車には、千景の木地が年ごとに積んである。三年、二年、一年未満。荷車一台に、嫁入りから今日までがずしりと載った。
阿久里は紐の印を見て、千景を見た。
「乗りな」
「わたくしも荷でございますか」
「木地より場所を取らないだろ」
「それは、褒めてくださっております?」
「早くしな」
千景は木地の隙間へ腰を下ろした。店の印は持たなかった。名もまだ、どこにも刻まれていなかった。
* * *
半年後、阿久里の店先へ、硬い音が一つ落ちた。
つげの歯だった。
千景は包みかけていた紅紐から手を離した。向かいに座る女が、櫛と一緒に持ち込んだ欠片を帳台へ置く。歯先が欠けたのではない。根から、一本まるごと飛んでいた。
「娘の髪を梳いただけだよ。落としちゃいない」
阿久里は櫛を持ち上げ、反りを横から眺めた。慰めも驚きも出さず、女へ櫛を返す。
「梳いてごらん」
女が髪へ入れると、残った歯が途中で引っかかった。無理に抜かず、顔だけが阿久里から千景へ向く。
後ろで待っていた二人の女も、持参した櫛を取り出した。一枚は歯の間が狭まり、もう一枚は棟がわずかに弓なりになっている。半年前、どれも店の印を誇らしげに入れて売られたものだった。
「前は、こんなことなかったね」
「惣十郎さんが挽いたんだろう?」
「形は同じだったよ。買ったときは」
阿久里は返事をせず、三枚を並べた。女たちは櫛屋の方角を見なかった。店の印も見なかった。
一人が飛んだ歯を指で押し、千景の前へ置いた。
「これは誰が寝かせた木で挽いたの」
千景は欠片を拾った。軽い。木地を一束持てば何年ぶん、羽織を見れば何年ぶん、柱の乾きを見ても何年。勝手に動いていた勘定が、その一欠けらの前で止まった。
木の根元には、乾ききらなかった色が薄く残っている。千景は指を閉じた。
「わたくしは、三年、ただ置いてまいりました」
誰もすぐには口を開かなかった。女の手の中で、歯の足りない櫛だけが傾いた。
「三年待った木は、どれだい」
太い髪の女が尋ねた。
「こちらにございます」
千景が奥の棚を示すと、三人の顔も一緒にそちらへ向いた。惣十郎の家名から、空の木箱を飛び越えて、まっすぐ千景の木地へ。
ああ、三年は消えていなかった。見えないからと勘定から外されていただけで、きっちり三年ぶん、ここにある。
なんだ。待つことにも、ちゃんと値がつくではないか。しかも今さら値切れない。ざまあみろ、と言うには相手が木なので、千景は口の端だけを上げた。
阿久里が三年物の束を一本叩いた。
「あんたたち、秋まで待てるかい」
「千景さんが見るなら」
「二枚頼むよ。今度はあたしの髪を見てから挽いておくれ」
「娘の分も。店の印じゃなくて、間違えない印を入れて」
千景は欠けた歯を帳台へ戻した。女たちはもう、櫛屋の嫁とは呼ばなかった。
* * *
秋の注文札を、阿久里は惣十郎の前へ一枚ずつ並べた。春までならすべて惣十郎の店へ回っていた札である。
「あいにく、おたくの秋は請けられませんので」
「待ってくれ。うちは代々、あの客たちの櫛を挽いてきたんだ」
「それで?」
「家の印を見れば、どこの櫛か分かる。今までだって、それで売れていた」
惣十郎の声は、出来上がったばかりの櫛のようにまっすぐだった。阿久里は札をまとめ、千景の前へ置いた。受け取る先を間違えない手だった。
「木地を見せな」
惣十郎の店へ移ると、作業台には挽きかけの櫛が積んであった。どれも形は整っている。阿久里は一枚を手に取り、置き、奥へ歩いた。
寝かせ場の戸が開く。棚には今年買った木地が数束あるだけで、その上は空いていた。半年前、千景が拭いた棚板の明るい筋まで残っている。
「秋の分は?」
「今ある木で挽ける」
「何年物だい」
惣十郎は束の紐を見た。答えはついていない。買った日も、持ち主も、待つ年数も、千景の書付と一緒に店から消えていた。
(櫛なんぞ、木さえ挽けば——)
言葉はそこで切れた。
阿久里が持参した包みから、三枚の櫛を出した。歯が飛んだもの、歯の間が詰まったもの、棟が反ったもの。最後に、傷のない一枚を置く。
「これだけ、苦情が遅かった」
惣十郎は傷のない櫛を裏返した。棟には自分の店の印がある。だが、あの日、千景が灯りへ透かし、最後に挽いた一枚だった。
「あれは……」
惣十郎の指が、櫛の上で止まった。千景へ顔を向けたが、その先は言わない。あの一枚には、三年と、半日が入っている。
「家の印は残ってるね」
阿久里は傷のない一枚まで包みに戻した。
「中身がなくなっただけだ」
惣十郎の口元が痩せた。普段なら頼み事を置く声も出ず、空の棚を背に立っている。
阿久里は注文札を千景へ渡した。紙の重さなど知れているのに、受けた手が少し下がった。
「あんたの寝かせに、うちは月いくら払えばいい?」
「木地代とは別でございますか」
「当たり前だろ」
「では、一月、銀二匁」
「安い。一月三匁。年ごとの札つき。動いた木はあんたの勘定で外す」
「二匁五分」
「三匁」
「阿久里さんは値切る方向をお間違えでは?」
「黙って三匁取りな」
慰めは一文もなかった。代わりに阿久里は三匁と書き、千景の名の下へ線を引いた。
千景は注文札を胸元へ収めた。町一番の家の縁がどうなったかは知らない。知らなくても、秋は来る。こちらの秋はもう、惣十郎の店を通らない。
* * *
千景の店には、寝かせ場が半分、作業台が半分あった。人が座る場所は残り半分。足せば一つ半になるが、商いを始める女は少しくらい場所をはみ出すものである。
棚には年ごとの札を結んだ木地が並ぶ。三年物は上段、二年物はその下。買ったばかりの木地には、これから待たされるとも知らず、明るい木肌が光っていた。お気の毒さま。三年後には働いていただきます。
最初の注文は、太い髪の女の櫛だった。千景は髪を見て歯の厚みを決め、木目へ光を透かし、三年物から一枚を選んだ。
「もう少し細くしなくていいのかい」
「細いほうがお好みですか」
「折れないほうが好きだよ」
「では、このままで」
「それでいい。千景さんがそう言うなら」
家の名は出なかった。女は代金を置き、仕上がる日だけ聞いて帰った。
千景は作業台へ戻った。鋸を入れ、歯を立て、磨く。阿久里は板の間で銭を数え、ときどきこちらへ注文札を滑らせる。
「二枚追加」
「わたくしの手は二本でございます」
「知ってる。口は一つだ。さっさと動かしな」
「手を増やす相談ではなく、口を減らす相談でしたか」
「減らしてほしけりゃ、飯を出さないよ」
千景は黙って鋸を動かした。夕餉一回で木地半月ぶん。ここは従うところである。
日が傾くころ、店の戸口に惣十郎が立った。新しい羽織は着ていない。目は千景ではなく、年ごとの札が並ぶ棚へ先に向いた。
「話がある」
阿久里は書付を閉じず、顔も上げなかった。千景だけが手を止める。
「秋の注文が戻らない。今ある木も、思うように使えなくなった」
「左様でございますか」
「戻って、寝かせを見てくれ。客の髪も、お前なら分かるだろう。前と同じようにすればいい」
前と同じ。千景が元手を出し、三年待ち、髪を見て、書付をつけ、出来上がった櫛には惣十郎の家の印を入れる。なるほど、頼む側にとっては簡潔でよろしい。
「お前の木地も店へ戻せばいい。挽くのは俺がやる」
千景は仕上げたばかりの櫛を布で拭いた。棟にはまだ何も入っていない。
「千景」
惣十郎が初めて、客の前でも家の者の前でもない場所で、その名を呼んだ。だが呼んだ先にあるのは千景ではなく、棚の三年だった。
千景は小刀を取った。
「お望みのとおりに」
惣十郎の肩がわずかに下がる。千景は続けず、櫛の棟へ刃先を当てた。
戻らないとも、助けないとも、説教しない。頼まれたとおり、身の回りはもう片づけた。店も、木地も、客の注文も、今はすべて千景の側にある。
細い音が一つずつ立った。最初の一画、次の一画。阿久里が銭を数える音の隣で、三年待ったつげの棟へ、千景の名が入った。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




