カメレオンは、隠せない
雲一つない青空が広がる王都の市場は、今日も朝から活気に満ちていた。
威勢のいい店主の呼び声。焼きたてのパンの香ばしい匂い。色鮮やかな果物や野菜が並ぶ露店の間を、人々が忙しなく行き交っている。
アンナは買い物かごを腕に下げ、そんな賑わいの中をのんびりと歩いていた。
前世では日本で暮らす、ごく普通の女子高生だった。
初めて自分がこの世界へ生まれ変わったのだと気づいた時は戸惑うことばかりだったが、今ではこの活気あふれる市場も、店主との何気ないやり取りも、すっかりお気に入りの日常になっている。
「今日は玉ねぎが安いなぁ」
夕飯の献立を考えながら歩いていると、不意に人の流れが左右へ割れた。
向こうから、一人の青年が歩いてくる。
仕立ての良い豪奢な上着を身にまとい、背筋は一本の剣のように真っすぐ伸びている。
無駄のない足取りには気品があり、堂々とした立ち居振る舞いは、見る者に自然と「高貴な人物だ」と思わせるだけの説得力があった。
すれ違う人々も、小さく道を譲る。しかし、アンナだけは気付いた。
(あ、今日は貴族なんだ。)
心の中で、そんな感想をこっそり抱く。
その青年は完璧に貴族の風体を演じている。だが、人が密集する場所を通り抜けるその一瞬、わずかに伸ばした前足がぎこちなく止まる。常人では分からないくらいのほんの数秒。
それはカメレオンの獣人である彼が、幼い頃から持っている無意識の癖だった。
どれほど完璧な貴族に見えようと、その正体が誰なのか、アンナには一目で分かる。
彼女の幼馴染――シルヴァン。
王国諜報部に所属する諜報員であり、その擬態能力は国内でも指折りと評されている。
今も任務の真っ最中なのだろう。だからアンナは、いつものように声を掛けない。
何事もなかったように、すれ違うだけ。
一方のシルヴァンも、アンナの存在には気付いていた。
視線だけを一瞬こちらへ向ける。けれど、それだけだ。任務中の彼は、たとえ幼馴染と遭遇しても表情一つ変えない。すぐに前を向き、貴族として堂々と歩き去っていく。
(うん、今日もちゃんとお仕事してる)
アンナは心の中でそっと応援しながら、その背中を見送った。
昨日は初老の商人。一昨日は衛兵。その前は旅の巡礼者だった。
毎日のように違う姿になっているけれど、不思議と見失ったことは一度もない。
姿も、声も、雰囲気も、全部変わっているはずなのに、アンナにとってはどれも同じだった。
(ふふ。また見つけちゃった。)
それは幼い頃から続く、二人にとって何気ない日常だった。
**
数日後。
王都でもひときわ格式の高い、高級住宅街へ続く石畳の通り。
シルヴァンは今日もまた、別の人物の顔で任務に就いていた。
威厳ある中年貴族。
仕立ての良い濃紺の外套に、胸元には由緒ある家紋の刺繍。
歩幅、姿勢、視線の配り方、指先の所作に至るまで、擬態した人物そのものだった。
諜報員の仕事は、姿形を真似ることではない。「その人物として存在すること」。
それができるからこそ、シルヴァンは王国でも屈指の諜報員と呼ばれている。
今日の任務は滞りなく終わった。
貴族に成り代わって情報屋と接触し、必要な書類も受け取った。あとは人目につかない場所でこの擬態を解き、報告するだけ。
――そう思った、その時だった。
「――これはこれは、クラーク様!」
背後から、よく通る声が響く。
「こんなところでお会いするとは!」
振り返ると、恰幅の良い中年男性が満面の笑みで歩み寄ってきた。
衣服の質からして、彼もまた相応の身分の貴族だろう。
シルヴァンは一瞬で状況を整理する。
(初対面ではない。こちらを知っている。……が、情報にない)
擬態対象の家族構成、爵位、口調、筆跡、癖、好物、よく訪れる店。必要な情報は頭に叩き込んである。だが、人の縁ばかりは際限がない。ある程度の交友関係は頭に入れていたが、最悪にも声をかけてきた人物に心当たりはなかった。
「クラーク様、先日の件は本当に助かりました!」
男は親しげに笑う。
(先日……?)
仕事か、社交か、金の貸し借りか、あるいは女か。
一瞬で可能性を切り分ける。不用意に合わせれば墓穴を掘るし、曖昧に流せば、この男は違和感を覚えるだろう。
ならば――。
シルヴァンは瞬時に最善手を探す。
しかし。ほんのわずか、返答が遅れた。
一秒にも満たない沈黙。普通の人間なら気にも留めない時間。
けれど、一流の諜報員にとって、その一瞬は十分すぎるほど長かった。
(まずい――)
男の笑顔の奥に、怪訝な色が混じり始める。シルヴァンは表情一つ変えない。
だが、外套の下で汗が一筋、背を伝った。
**
高級住宅街の外れには、小さな書店が一軒ある。
決して大きな店ではないが、貴族向けの歴史書や旅行記、さらには絵本まで幅広く揃っており、アンナのお気に入りの店だった。
「新刊、入ってるかな」
店先の平台に並べられた本へ目を向けながら、アンナはゆっくりと背表紙を眺めていく。
お目当ての紀行本を探していた、その時だった。
「――これはこれは、クラーク様!」
少し離れた場所から響いた声に、アンナはそっと顔を上げた。
道沿いにある街灯の前に立っているのは、中年貴族に化けたシルヴァンだ。
(あ、シルヴァン。今日も仕事中なんだ)
そう思って、すぐに視線を書棚へと戻す。
任務中には絶対に声を掛けない。それは幼い頃からの、二人だけの暗黙の約束だった。
だが。
「クラーク様、先日の件は本当に助かりました!」
男の熱烈な声に続くはずの、シルヴァンの返事が聞こえてこない。
ほんのわずかな沈黙。周囲の誰も気付かないような、一瞬の“間”。けれど、幼馴染であるアンナの耳だけは、その不自然な違和感を決して見逃さなかった。
(……困ってる)
もう一度対面している二人に目を向けると、シルヴァンの片目が、ほんの少しだけ細くなっていた。
それは、彼が深く考え込む時だけ見せる、何度も見てきた小さな癖だった。
(知らない人なんだ、シルヴァンにとっては……)
アンナは手に取っていた本をそっと棚へ戻すと、何気ない、ごく自然な足取りで二人へと近づいた。
「あら、ごめんなさい」
柔らかな声が、張り詰めた空気の中に滑り込む。二人が同時にこちらを振り向いた。
アンナはシルヴァンには一切視線を向けず、彼に声をかけていた恰幅の良い男の外套を見つめ、おっとりと微笑みかけた。
「そこの高貴なお方、お話し中にお邪魔してしまって申し訳ありません。先ほど通りの向こうで、紺の外套をお召しの方を探しているご婦人がいらっしゃいましたよ? ずいぶんお急ぎのご様子でしたから、お声をかけた方が良いかと思いまして……」
「紺の外套……私のことか?」
「ええ、おそらく」
「まさか、妻が……?」
男は目を丸くし、慌てて向かいの通りを振り返る。心当たりがあるのか、その顔がみるみるうちに青ざめていった。
「そ、それはいけない! クラーク様、申し訳ありません! 私はこれで失礼します!」
深々と頭を下げると、男はそのまま足早に通りを去っていった。
たちまち、大通りの一角に静けさが戻る。シルヴァンは、一度だけアンナへ視線を向けた。
その目の奥には、驚きと、どこか気まずそうな色が混ざり合っている。アンナは何も言わず、小さく会釈を返すだけ。
そしてシルヴァンは再び何食わぬ顔で歩き出し、アンナもまた何事もなかったように書店へ戻り、先ほど棚へ戻した紀行本をもう一度手に取る。
その口元には、小さな笑みが浮かんでいた。
**
その日の夜。
任務を終えたシルヴァンは、変装をすべて解いた本来の姿でアンナの部屋のベランダに現れた。
いつものように、手すりの上へ危なげなく腰掛けている。
高い場所が落ち着くらしい彼は、子どもの頃から変わらない。月明かりに照らされた淡いプラチナの髪が、夜風に揺れていた。
任務中に見せるあの圧倒的な威圧感や気品はどこにもなく、そこにいるのはアンナだけが知る、少し不器用な幼馴染だった。
「お疲れ様、シルヴァン」
窓を開けると、シルヴァンは音もなく室内へ降り立った。
それでもまだ落ち着かないのか、アンナとは頑なに目を合わせず、部屋のあちこちへ視線を泳がせている。やがて観念したように、ぽつりと小さく口を開いた。
「……今日、助かった」
「うん」
アンナはいつも通り微笑む。
しばらく、静かな時間が部屋を満たす。シルヴァンはポケットへ両手を突っ込んだまま、小さく息を吐いた。
「……なぁ」
「うん?」
「なんでいつも分かるんだ?」
その声は、いつになく真剣だった。今まで誰にも見抜かれたことはない。
任務中に一度だって正体を疑われたことすらない。それなのに、アンナだけは、自分がどんな姿になっていても迷うことなく見つけ出してしまう。
アンナは少しだけ首を傾げた。
「……だって。シルヴァンだもん」
「…………は?」
予想外すぎる答えに、思わず間の抜けた声が漏れる。
アンナはそれを見て、くすくすと楽しそうに笑った。
「困っていると、すぐ分かるし。今日だって、返事がほんの少し遅れたでしょ? それに、深く考え込む時だけ片目を少し細めるし、焦ると舌を鳴らす癖もある。他の人は絶対に気付かないと思うけどね」
シルヴァンは息を呑んだ。どれも自分では意識したことすらない、無意識の癖だった。
「それにさ」
アンナは懐かしそうに目を細める。
「昔、シルヴァン、木の上ばっかり登ってたでしょ? 夕方になると、おばさんに『迎えに行ってきて』って頼まれて、私よく探しに行ってたから。……だからかなぁ、見つけるのが得意になっちゃった」
照れたように少しはにかんでから、アンナは真っ直ぐに彼を見つめた。
「どんな姿になっていても。『あ、シルヴァンだ』って、分かっちゃうんだよ」
シルヴァンは、何も言えなかった。
任務では決して剥がれることのない完璧な変装も、誰にも知られないよう隠してきたはずの身のこなしも、アンナの前では、何一つ隠せないのだ。
それが猛烈に恥ずかしくて――けれど、どうしようもなく嬉しかった。
耳の先まで一気に熱くなっていくのを感じながら、シルヴァンは勢いよく背を向ける。
「……帰る」
「あ、うん。またね」
アンナが窓を開けようと歩き出した、その時だった。
不意に、シルヴァンの手が、アンナの手首をそっと包み込んだ。大人になった彼の、少し強めの力が肌に伝わる。
「……!」
本人が一番驚いたように、目を見開いた。
昔、感情が高ぶるたびに、小さな尻尾をくるりと巻き付けていた懐かしい場所。その愛らしい名残だけは、大人になって完璧に人型を保てるようになっても、消えずに残っていたのだ。
「……悪い」
慌てて手を離すと、シルヴァンは窓枠へ軽く足を掛ける。次の瞬間には、夜風の余韻だけを残して、彼の姿はかき消えるように消えていた。
アンナはしばらくの間、自分の手首をじっと見つめていた。そして、そっとその場所を愛おしそうに撫でながら、小さく笑う。
「……変わらないなぁ」
窓の外では、月明かりが静かに王都の街を照らし出していた。
**
王国諜報部本部、隊長室。
夜の静寂に包まれた執務室で、私は一枚の任務報告書に目を通していた。
シルヴァン。
カメレオン獣人の特性を生かした彼の擬態術は、文句なしに王国随一だ。
老若男女はもちろん、体格の違う相手にさえ完璧に擬態し、完全にその人物として振る舞うことができる。
これまで潜入任務の失敗は一度もない。正体を見破られた記録も――ない。
……たった一人、あの民間人の少女を除けば。
手元にある報告書の余白には、見慣れた細い文字で、短くこう書き添えられていた。
『――任務中、不測の事態が発生。民間人の協力により対応』
私はそれを見て、思わず口元を緩めた。
「民間人、ねえ」
書類には名前こそ書かれていない。だが、誰のことかなど考えるまでもない。あの娘だ。
報告書へ受理印をぽんと押したところで、部屋の扉が控えめに叩かれた。
「失礼します」
姿を現したのは、任務を終えたばかりのシルヴァンだった。
すでに擬態は解かれ、本来の姿に戻っている。
「入れ」
私が報告書をひらひらと軽く持ち上げると、シルヴァンは露骨に嫌そうな顔をした。
「また、助けられたそうだな」
「……たまたまです」
「ほう」
「偶然、近くにいただけです」
「なるほど」
私は彼の苦しい言い訳に頷きながら、椅子へ深く腰掛けた。
「ところで。今週の擬態は何人に見破られた?」
「……誰にも」
「そうか」
私は一拍置いてから、意地悪くにやりと笑う。
「一人を除いて、か?」
シルヴァンはしばらく黙り込んだ。
「……」
「何か言い訳あるか?」
「……ありません」
「そうか」
私はもう一度、手元の報告書へと目を落とす。
この男は、おそらくこれから先も敵には決して見破られないだろう。諜報員として、それ以上に頼もしいことはない。
だが同時に、あの幼馴染の少女にだけは、彼がどれほど技術を磨こうと、どれほど完璧な擬態を身につけようと、一生見抜かれ続けるに違いない。私は小さく息を漏らして笑い、パタンと報告書を閉じた。
「姿や声は変えられても、身体に染みついた癖までは変えられんからな」
シルヴァンは何も言い返さない。いや、図星を突かれて言い返せないのだ。
「まあ、安心しろ」
私がそう言うと、シルヴァンが怪訝そうに顔を上げた。
「お前の正体を簡単に見抜ける人間は、この国にたった一人しかいない。それは諜報員としては失格かもしれんが……」
私はくくっと喉を鳴らして笑った。
「男としては、案外悪くない」
「っ……!」
次の瞬間、耳の先まで真っ赤になったシルヴァンは、「失礼します!」とだけ弾かれたように言い残し、文字通り逃げるように執務室を飛び出していった。
勢いよく閉まる扉を見送りながら、私は一人、肩を揺らして笑った。
世界中を欺く男が、たった一人の少女には、一生敵わない。
――それもまた、悪くない話だ。
終
お読みいただきありがとうございました。
この世界は美醜逆転の世界で、シルヴァンの素顔はアンナにだけドンピシャハマりしている、という裏設定もあります。アンナは隠していますが、小さい頃からシルヴァンのことをめっちゃ観察してました。笑




