36話 攻略が通用しないダンジョンに入ろうとしている
前回の探索から数日後。
準備を整え、俺達3人は流動迷宮を攻略すべく、集まっていた。
流動迷宮はAランクダンジョンとされている。
攻略の再現性が乏しく、非常に危険だからだ。
探索者協会から探索許可をもらうのも一苦労だった。
探索者協会の転移陣を利用し、流動迷宮へ。
転移陣の光が薄れ、石床が静かに戻っていく。
着いた瞬間、空気の質が違っていた。
軽くない。
重い。
深層特有の圧とも違う。
もっと曖昧で、噛み合っていない感覚だった。
俺は通路の先を見る。
まだ踏み込んでいない。
それなのに、分かる。
ここは違う。
ひなたが周囲を見回して、小さく声を漏らした。
「……なんか、変じゃないですか?」
その言葉は正しかった。
見えている景色に、ズレがある。
通路は真っ直ぐ伸びているはずなのに、輪郭がわずかに歪んで見える。
直線が、完全な直線じゃない。
視線を動かすたびに、形が微妙に変わる。
一度見た形と、次に見た形が一致しない。
凛が壁に手を触れる。
ほんの一瞬だけ目を細めた。
「……違う」
短い一言だったが、意味は重い。
俺も壁を見る。
石の表面。
削れた跡。
そのすべてが、一定じゃない。
同じ方向に削られていない。
逃げるように、ばらついている。
戦闘の跡ではない。
崩れた痕跡でもない。
もっと単純に。
「位置が合っていない」。
ひなたが少しだけ距離を取る。
「なんか……気持ち悪いです。
見えてるのに、合ってない感じがします」
俺は頷く。
その感覚は正しい。
視覚と実際の位置が、
完全に一致していない。
ほんの数センチ。
だが、それだけで致命的になる。
普段なら誤差で済む距離が、
ここでは致命傷に変わる。
凛が通路の先を見たまま言う。
「ここ、入る前からズレてる。
中に入ったら、もっと酷くなる」
その言葉に、誰もすぐには返さなかった。
可能性の話じゃない。
確信に近い響きだった。
俺は通路の奥を見る。
距離感が安定しない。
近いようで遠い。
遠いようで近い。
視線を固定しても、
微妙に位置が揺れている。
奥行きが定まらない。
まるで、空間そのものが
常にわずかに動き続けているようだった。
魔力の流れも同じだった。
一定じゃない。
脈打つように変化している。
吸って、吐くように。
そのリズムに合わせて、
空間の歪みも揺れている。
ひなたが小さく息を飲む。
「これ……普通に歩いたら危なくないですか?」
凛は短く答える。
「危ない」
「見た通りに動いたら、外れる」
それだけで十分だった。
目で見た情報を信じると、
ズレる。
それがこの場所のルールだ。
俺は一歩、踏み出そうとして。
止めた。
まだ入っていない。
それでも分かる。
ここは、
踏み込んだ瞬間から条件が変わる。
外にいる今でさえ、
ここまで情報が歪んでいる。
中に入れば、
さらに精度は落ちる。
一度ズレたら、
修正できる保証はない。
ひなたが不安そうにこちらを見る。
「……どうします?」
声は小さい。
だが、はっきりとした不安が混ざっていた。
俺は答えない。
代わりに、もう一度通路を見る。
揺れる輪郭。
歪む距離。
安定しない空間。
一定の法則があるのか、
それとも完全なランダムか。
まだ判断材料は足りない。
凛が静かに言う。
「戻るなら今。
入ったら、同じ条件じゃいられない」
正しい判断だった。
ここまでは安全区画だ。
戻ることもできる。
だが、その先は保証がない。
同じ場所に戻れる保証もない。
同じ位置に立てる保証もない。
それでも。
俺は視線を外さない。
ここで引く理由はない。
未知。
未確定。
再現不能。
それだけで、十分だった。
俺はスマホを持ち直す。
カメラの向こうで、
コメントが流れているはずだ。
だが、今は見ない。
この場所は、
視線を外した瞬間にズレる。
集中を切った瞬間、
致命的な誤差になる。
それだけで十分に危険だった。
俺は短く言う。
「……ここが、流動迷宮」
一歩も踏み込んでいない。
それでも分かる。
このダンジョンは。
入る前から、
すでに狂っている。
ひなたが小さく息を吐く。
「入る前からこれって……中どうなってるんですか……」
凛は答えない。
ただ前を見ている。
俺も同じだった。
情報は揃っていない。
だが、方向は決まっている。
俺はゆっくりと息を吐く。
焦らない。
急がない。
一歩の誤差が、そのまま死に繋がる場所だ。
俺は静かに言った。
「――入ります」
その一言だけを残して。
足を止めたまま、前を見る。
まだ踏み込まない。
ただ、その境界を見据える。
ここから先が、
本当の開始地点だと分かっているからだ。




