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人波に沈む

 言ってしまえば、どちらでも構わないのだ。

 雪原の中心に落ちる一滴の墨であろうと、暗闇に立った短い光の柱だとしても。どちらだって構わない。その東西に依って発生する心理的傾斜などは、何の意味も齎さない。そしてこれらが華やかである必要も無い。葬儀という場に於いて、黒白は完璧に冴えていなければならないからだ。

 だからそんな下らない云々を突っ切って、脳の容器に添加しなければならない大切なこと、つまりは忘れてはならないこととは、さめざめと──しかし泣き叫ぶ外野の群れの中で、たった一人、涙を流すことは無く、けれどもその相貌に深い絶望が圧し掛かっていた彼女のことで、俺は刹那理解するのだ。この女性の影が、もうずっと泣き尽くした後の残響であること、そしてこの人の名を。

 絹嶋絃子さんは美しく、可憐で、万象の華であり

 酷くやつれていた。



 絹嶋新が死んで一か月が経つらしい。実感は無い。

 時という概念は、意識しなければしないほど、早く過ぎ去ってしまう。目を離した隙に世界は俺を置き去りに進む。彼は振り返らない。いつものことだ。ただ、そんな当然すら、その時の俺には厳しい寒風として吹き付けていた。

 厚手の布に身を包まずにはいられない季節が到来していた。その透明な暴力は、人の都合など一切構わずに荒れ狂っていた。

 俺の生活にも大きな変化が訪れていた。

 絹嶋亡き今、多大なる事後処理が──実務に関する事も、私情に依る事も──堆く積み上がっては俺を見下していた。

 畏怖に足るほど巨大なそれは、闇に呑まれたその顔面を、足元の俺へと深く下げた。それから、たかが興味の満足の為に、と言った感じの緩慢な動作で、こちらに向かって土管のように太い指を差し向ける。

 ──その辺りで俺は目を覚まし、あの日と全く同じ風景の中で夢の記憶を失ってゆくのだ。変わらないベッド、シーツの皺、壁の色、床の温度、緩慢な機械音。全てが変わらないままに残されていた。

 部屋の模様替えは何度も試みた。目覚めが最悪だと、その日はすべてが最悪だ。繰り返す様式に『終わり良ければ総て良し』などという慰めは当て嵌まらない。俺は生唾を呑み込んで、家具の位置を変えたり絨毯を買い替えたりだとか、端から見れば病人の仕草で、うろんな目玉に映る己の監獄の季節を貼り替えてやろうとした。

 だがそれはまるで『絹嶋が渡してくれた最期の記憶すら忘れようとしているようではないか』。そんな呪縛が俺の手足を突き刺した。あと一歩が踏み出せなかった。

 俺だけは覚えていなくてはならないのだ。絹嶋が死んだことを。あの日の絶望と悲観は偽りなく、彼が遺した最期の感傷なのだ。

 今の絶望など、あの一撃の後遺症に過ぎない。

 ただ──後遺症というものは、得てして中々、その疼痛を治めてはくれないのだ。

 俺はこの痛みと向き合いながら生きてゆく。

 それが、一瞬であれど友人の死から逃げた人間に果たせる最期の責務だと思う。

 けれども同時に愚かだとも思うのだ。

 たかが個人の部屋の内装の程度で、何か弔いの気分に浸っている自分を無意識に唾棄しながらその一月を過ごした。それは風よりも早く過ぎ去り、熱病のように俺を魘した。

 葬儀ぶりに絃子さんと再会したのは、もう冬の寒さも厳しくなってきた年末の少し前の日のことだった。

 絹嶋新の月命日だった。



 俺と絃子さんは会社の近くの居酒屋に入った。生前、絹嶋新とよく通った店だった。店長には、まだ彼が死んだことは言っていない。けれども店長は俺たちの間に流れる異様な空気を察して奥の個室に通してくれた。有難かった。

 両方酒は頼まなかった。そういう場ではないという暗黙の了解が重く垂れ下がっていた。

 平日でも、この店はいつも盛況で、店内には穏やかな喧噪が満ちていた。けれどもそれらは俺の凝り固まった肩回りをほぐすことなど無く、むしろ、向かいに座る女性のことを強く意識させた。

【強い静寂】とでも例えれば良いのだろうか? 意識しないようにするほど、むしろ頭の中でそれが占有する面積が増えてゆくような感覚で、つまりは俺は絃子さんから目を逸らしたがっていた。自分から声を掛けた癖に。話したい事が在った癖に。

 俺たちは会話することも無く、お冷やをちびちびと啜りながら沈黙を過ごした。

 無言の時間の中で、俺は己を思い出す。俺と、絹嶋新の会話を思い出す。正に同じ店、同じ席で語り合った命題について。

 人が人を好きになる理由には2通りがあって、それは自分とは異なる点を見つけた場合と、自分と同じ点を見つけた場合だ。これらは全く以て正反対の成分で、だから俺には理解できなくって、けれども絹嶋新は、こういう二つの道が通じているからこそ、愛とか恋とか好意とかには、様々なパターンがあって、それは色々な人と繋がり得る道標であると笑ったわけだ。

 あの時は、てっきりそれが正解だと思った。絹嶋新が俺に間違いを説くとは微塵も思っていなかった。

 けれども今になって思う。【その2通りの道は、決して交わらないのではないか?】と。

 俺は、自分に出来ないことの出来る絹嶋新が好きだった。彼には俺に見えない物が見えていて、俺の知らないことを話せた。そういうところが好きだった。自分に足りない部分を、コイツなら示してくれるんじゃないかって、心底信頼しちまっていて、些細な悩みも茫漠とした問答も、平然と相談していた。甘えていたのだ。自分に出せない答えを出してくれる彼に、俺はずぶずぶと甘えていた。けれどもそれを自覚していなかったから、俺はまるで、旅路の末に巡り合った仲間と語り合うような感覚で。

 それはきっと、絃子さんも同じで。

 俺も絃子さんも、絹嶋新が好きだった。でもそれは、暗澹たる己を照らす光としての道筋だった。俺たちはそういうタイプで、そういうのがタイプだった。

 ①俺と絃子さんは似ている。

 ②自分と違う誰かを好きになる人間だ。

 それらが何を示すのかと言えば、俺と絃子さんは、絶対に、互いを好きにならない。俺たちは絶望的に合わない人間なのだ。

 不思議だ。やはり不思議だ。俺は心中首を捻る。

 この論説に筋道が通っているとするならば、絹嶋新も俺たちと同じく【自分と違う誰かを好きになる人間】だったはずだ。だって彼は、俺たちとは違う。導く側の人間なのだから。

 彼が俺や絃子さんとよく付き合ったのは、自分と【違う】タイプだからで──だとすれば彼が持つ好意の形状は俺たちと【同じ】だ。

 酒も入っていないのに頭がクラクラしていた。こういう煩雑な問いを相談できる相手は、絹嶋新しかいなかった。

 脳の鍋で問が煮えていた。

 泡立ち沸騰する赤い水面から、一滴の中身が吹き零れた。

「どうしてアイツは、俺に貴女を任せるなどと言ったんでしょうね」

 空っぽの声が零れていた。

 話相手が欲しかった。誰でも良かった。絃子さんで無くても良かったし、むしろ絃子さんでない方が良かったかもしれない。だって彼女が、快刀乱麻とこの問いを切り裂いたならば、俺よりもずっと、絹嶋新を理解している証左になってしまう──いや、それは当たり前なんだけれども。めちゃくちゃに当然なんだけれども。たかが友人よりも、妻の方が理解が深いなんてことは、当たり前なんだけれども。それでも友人として見た側面と、妻として見た側面では、また違う【絹嶋新】が見えていたはずで、俺は友人として見た側面に敬意を抱いていて、けれども道筋が二つあるならば、それが色んな見方を肯定することに繋がる、だなんて絹嶋新的発想は、俺には出来ないから、気になる。どちらが本質に近づいていたのか、とか、そういうのが気になるのは当然で

 髪を掴む。強く潰す。

 俺は絹嶋絃子に、木阿弥の感情を覚えていた。

 それは嫉妬に近しいような、けれども敗けを認めているような。同時に敗けて然るべきだと思っていた。敗けたかった。だから彼女を試そうとしていた。その資格が自分にはあるのだと妄信していた。

「どうして新さんは、俺に貴女を任せるなどと言ったんでしょうね」

 同じ形状の言葉しか吐けなかった。緊張していた。

 この場、この日、この時間の停滞、その全ての諸悪の根源足る悪問だった。

「それは……」

 彼女は言葉に詰まり、俯いた。黒く長い髪が綺麗な顔を隠した。だと言うのに全く、その美しさに陰りは無い。顔などというものは、彼女の芸術性を丹保する、たかが一つの要因にしかなり得ないのだ。

 彼女が悲嘆に暮れようが落胆しようが、何も関係など無い。彼女にも、その美しさにも、当然俺にも。

 精神的な高揚を覚えていた。

 絃子さんが言葉に詰まり、俯く、その姿勢は、俺にとっては彼女の敗北宣言とも相違無いものだった。自分にも分からない問を他者へと投げかけて、答えられない様を見て恍惚とする。最悪の変態の姿がそこにあった。同時に安心していた。絹嶋絃子にも、夫の真意は分からない。それは俺たちが同じ問題に蹴躓いているということで、やはり俺たちは同じタイプで、レベルで、──嗚呼だったら、絹嶋新は生前誰にも理解されなかったのだな、とか思慮を巡らせることも無く──、生暖かい吐息が深い所から噴き出ていた。そして最後に、内心で絃子さんを見下していた。

 自分と同じ程度なのだと見下していた。

 俺たちは一生分かり合えない。絹嶋にはそれが分からなかった。俺は分かった。絹嶋に分からなかったことが俺には分かって、絃子さんには分からなかった。

 それでいい。いやむしろ俺にとっては

 それがいいのだ──

「彼はよく、自分には出来ないことが貴方には出来ると言っていました」

 などという一時の安堵は、鈴の声に搔き消されて真っ二つに割れて、死んだ。

 目を剥く俺とは対照的に、頭の中で言葉の道標を完結させた絃子さんは、涼しい風を纏うような精悍さを湛えていた。

「よく言っていました。俺たちは互いの足りないところを補えるんだって、自分に出来ないことは貴方なら出来て、貴方に出来ないことは夫が出来る。逆に、自分に出来ることは貴方には出来ない。貴方に出来ることは自分には出来ない」

 絃子さんの言葉は真っ直ぐだった。微塵も脇道には逸れない。一つ一つ丁寧に積み重ねられた、【彼女の見た絹嶋新】が、少しずつ、淡い輪郭を重ねて現れる。

「だからでしょう。自分に出来なかったこと……私と一緒に生きることも、貴方になら出来ると」

「馬鹿野郎ですね」

 絃子さんが目を見開いた。

 言葉というものは、意味と記憶を司るもので、兎角責任の重いものだ。言葉は人の心も、未来も、全てを簡単に左右する。

 その癖、それを制御する弁であるところの喉という奴はあまりにも軽くて愚かしい。

「だったら、俺には貴方を幸せには出来ないじゃないですか」

 自明の理だった。絹嶋新が絹嶋絃子を幸せに出来なかったならば、確かに俺には出来るかもしれない。お前の愚かな論理に則るならば、俺は彼女の手を引けるかもしれない。

 でもそうじゃない。

 お前のような馬鹿を想って、必死に向き合おうとしてくれる彼女が、不幸だったわけがない。

 彼女は言葉を失って、呆然と固まった。それから少しして、まるで緊張が氷解したみたいに小刻みに震えると、漠然と赤みの差した頬をやはり俯けて、蚊の泣く声で「はい」と微笑むのだった。



 それから俺たちは絹嶋の話をした。それぞれを知る彼の側面を語り合い、絹嶋新というジグソーパズルを完成させるために、互いが持つピースを晒し合った。会話には笑みが咲いた。絃子さんは結構笑う人だった。笑う時には口元を指で隠す人だった。結婚指輪は淡い店内の照明の下でも、星より眩く輝いた。その美しい笑顔に俺の胸は張り裂ける。

 意地の悪い己を自覚した。

 俺は無自覚に、この華やかな思い出話をゲームだと思っていた。幼少期、誰もが遊ぶトランプゲームの一種。

 俺の手札には【8】と【6】が、雁首揃えて黙っていた。

 おずおずと絃子さんは問う。

「彼は、私のことを何か言っていましたか?」

 彼女へ叩き付けるのは、末広がりの8でも良い。悪魔の6でも構わない。

 当然愚痴だって訊いていた。アイツにも、絃子さんへの文句が無かった訳じゃない。夫婦生活には悩みが憑き物なのだと思う。当然のことだ。

 俺は刹那悩む。その問に、何を返せば真っ当か。

 絹嶋新がどれだけ、絹嶋絃子を愛していたのか説くべきか。

 絹嶋新が最期まで言えなかった彼女への愚痴を伝おうか。

 俺は

 どちらも選ばない。

「仕事一筋でしたよ、彼は」

 絃子さんは黙った。簡単に。魔法みたいに。喉を絞められた小鳥みたいに、彼女は何も言えなくなる。


 俺は知っている。

 絹嶋新にとって、俺は所詮代替品に過ぎないということを。俺は、絃子さんと会えない日の代替品だ。俺は、絹嶋に出来ないことをする奴の代替部品だ。全部分かっていた。同時に了解していた。それでも良いって思えるくらいにアイツのことは好きだった。

 酒の席で絃子さんの話をされる度に感じていた。コイツは、絃子さんと予定の合わない時に俺を誘う。そして、俺が誘った時には絃子さんの予定と被っていない時だけ飲みに行く。

 当然のことだ。妻よりも友人を優先する男がいたら張り倒すべきだろう。分かっているし、それは世間一般で広く周知された愛の形だと思う。

 そして世間一般の形に当て嵌めるので在れば──絹嶋新が持っていた妻への感情を教えてやらない俺は、極めて非情だろうか?

 されど愛というものは、常に、外的圧力に屈することは望まれない観念ではないか?

 奴は愛する人のためならば分身だって出来る。俺はそれを知っている。でもあいつは俺よりも絃子さんを優先した。ずっと一人だった。俺も。お前も。

 絹島新は絹島新だけで、その代替など叶わない。

 だからどれだけ絃子さんの口から、俺を褒め称える絹嶋新の像が現れようと、それらの全ては意味を持たない。何故なら、俺の見た絹嶋新は、結局のところ、優秀で明るくて朗らかで明快で、妻を誰よりも優先する愛妻家であることには変わりなく、そしてその印象は決して覆らない。何せ彼は死んだのだから。

 絹嶋が絃子さんをどれだけ愛していたのか、俺は死ぬまで彼女に語らない。

 どれだけ貴女を優先し、他を若干の蔑ろにしてでも貴女を愛し、彼が最期まで、友人の残りの人生を愛する女に焼べさせようとした自分勝手で傲慢な男であったこと──それに対する俺の黒く煮える憎悪なんかは、決して語らない。墓まで持ち込んで俺は死ぬ。

 喉の鍵穴は軽く、簡単に呪いを吐き出した。

「背負っていきましょう。忘れないように生きていきましょう。──当然ですけどね」

 絃子さんは枯れ果てた涙の代わりに、瞼を閉じて顎を低く下げた。黙祷のように見えた。俺も目を瞑る。

 瞼の裏では薔薇色の回想が弾けていた。






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