後悔の大海原を死舟が征く
面識の無い女性と結婚することになった。
それは彼女の亡き夫である絹島新が、俺の親友であることに起因する。
『俺が死んだらあの人を頼む』だなんて、酒の席での冗談だと思うし、
『俺が死んだ後はあいつに頼んである』だなんて、構って欲しい強がりだと思うだろう。
しかし得てして真意というものは、取り返しが憑かなくなってから明かされるのだ。
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絹嶋の嫁さんである絃子さんの御姿を拝見したのは今日が初めてだった。だって絹嶋の野郎は彼女が好きで好き過ぎて、友達の俺にだって、写真すら見せてくれなかったからである。
別に彼奴が俺を盗人のように思っていた訳ではないと思う。宝をつけ狙うやも知れぬ盗賊に、わざわざお宝の素晴らしさを説く阿呆がいるだろうか。いいやおるまい。つまりは絹嶋が酒を飲む度に卓に項垂れ、しかし口角をだらしなく煮溶かしながら仕掛けてきた、絃子さんの自慢話とか、『ほんとうに可愛くて仕方がない』とか、『一生隣にいて欲しい』とか、『あの人は俺のすべてだ』とか
『俺はあの人の為なら──』とか。
そういう世間一般に惚気話と呼ばれるロリポップキャンディも真っ青になる虹色メロディを相手の耳に流し込む道理は無く、アイツが途方もない馬鹿であったという前提を取り除けば、あの肴にもならない長話は、俺への信頼と、少しの独占欲から発露した子供っぽいわがままであることは見て取れよう。
絹嶋は絃子さんを愛していた。愛している。
しばし恋愛に於いては、パートナーをトロフィー的視点で捉える愚か者が見られる。『あんなに凄い人と結ばれる自分は凄いのだ』という自己顕示欲に脳髄を乗っ取られ、己の価値を他人に求める不届きなる不道徳者が、稀に見られる。
だから絹嶋が絃子さんを褒め千切る様を端から眺めた人々は、何さ自慢し腐って、などと鼻息荒くしちまうたくなるのかもしれないが、絹嶋が恐ろしく愚かしいのは、世間一般の自己顕示欲とは乖離して、己を地獄の底ほど卑下して止まらなかったことだ。
絃子さんは自分には勿体ないほどの女性だと、奴は常々寂しく笑んでいた。
だからなのだろう。本当はメンタルが弱い癖に、好きな人の前では胸を張り過ぎてあばらを外に割るような、あの馬鹿が、やはり馬鹿な判断を下したのは。
『俺が死んだら絃子さんを頼む』などと。
冗談にしか思えない言葉を、笑って吐いたその顔面へと想像力の拳を叩き付ける。
水晶の砕ける音が爆ぜた。
感触は無い。
絹嶋は絃子さんのことを愛していた。愛している。この世の誰よりも愛している。二人の間に子供は無かったが、例えいたとしても、アイツは絃子さんに注ぐ愛情を半分にすることは無かっただろう。だが子どもにも100%の愛を注ぐ。分身するのだ。しゅぱっと。そういう奴だ。俺は知っている。絹嶋が、大好きな人の為ならば分身くらい出来る男であることを俺は知っている。
けれどもそんなびっくり忍者にも出来ないことはあって
それは死から蘇ることと、今すぐ絃子さんを幸せにすることだった。
それは冷えた早朝に訪れた、翻る別離だった。
至って普通の日だった。言ってしまえば当然なんだが(知人が死んだからと言って太陽は西から昇らない)、思い返すとなに故か、あの朝を【普通】と捉えていた俺が不愛想と言うか不道徳と言うか、なんとも唾棄すべき罪人に思えてくる。胸騒ぎがして目覚ましよりも早く目が覚めたとか、前日どうしても眠れなかっただとか──そんな脈絡無い懊悩は、是非在って然るべきでは無かっただろうか? 運命的な罪悪感を、せめて覚えて遣るべきでは無かったか?
乾いた唇を噛むが、食い千切る勇気は無い。絹嶋がそれを望まないことも俺は理解していた。
それは当然に進行する当たり前の一日のプロローグだったのだ。
目覚まし時計に急かされて定刻通りに起きた俺を、至って平常な世界が待ち受けていた。窓枠に嵌められた白い日が煌めいていた。ちちちとスズメが鳴いていた。凍った空気は瞼を重く弛ませていた。掛け布団のシーツを撫でれば、寂しい程に冷たい。ベッドから降りて何も無いフローリングに足の裏を付けた瞬間、思わずしゃっきり背伸びしてしまう。嗚呼簡単だ。簡単に思い出せる。尋常の風景にいつもの音色が重なって、あの日のことは完璧に思い出せる。だから目覚める度に思い出す。
当然の権利のように俺は歩き、当然のように暖房の電源を入れると、やはり当然、お湯を沸かして白湯を飲んだ。動き始めたエアコンの緩慢な機械音を無視しながら、吐いた息が透明になるまで、俺はぬくぬくと時間を喰い潰した。
そして気まぐれに携帯のメールボックスを開いた瞬間、日常は足元から砕けたのだ。
絹嶋が死んだと知って俺は悟る。誰かの為に死んだなと。
奴が絃子さんを置いてみすみす死ぬ訳が無い。だから、何か如何ともし難い理由が故に奴はぽっくり死んだのだ。
そういう理解は早かった。多分、まだ現実だと受け止め切れていなかったから。逃避の一種なのだ。頭の良いフリをするのも、普通でいようとするのも、どちらも所詮は逃避行為に過ぎない。
如何に齢を喰おうと、原初の心得は幼児期に形成される。だからどれだけカッコつけても、限界の状況で人間が取れる行動なんてのは、年端も行かない子どもと全く変わらない。
うちの親も、もういい年だ。親しい人との別離は覚悟していたつもりだった。
だが覚悟とは──結局は妄想に過ぎないのだ。
未来の出来事は全てが妄想だ。妄想で無かったら完璧に悪夢だろう。だって予測が絶対に覆らない訳だから。雨の予報に希望の陽射しは差してくれない。
そして自明ながら過去は変えられない。更に未来も変えられないってなってしまったら、命は何処で揺れると言うのだ。
などと連なる思考ゲームに没頭しながら、俺は無意識に逃避していた。取り返しの付かない過去が顕現したという事実から逃げていた。いつものように出社の準備をしていた。
顔を洗い、歯を磨いた。スーツに袖を通し、靴べらで踵を擦った。予め干しておいたマフラーと手袋を身に着けた。凍ったドアノブを傾げ、それから振り向いて閉めた。がちゃんと固い音が鳴った。鉄製のドアから早々に視線を外し、その縮こまった視界を広く外へと放出してやる。
初冬の空気と景色が在った。
日の出が遅くって、まだ何処か暗い。遠くの空が群青に染まっていて、その蒼さをぬるりと喪いながら燃え盛ってゆく方向へと、自然に。至って自然な心持で視線をゆっくりと滑らせてゆく。取り憑かれているみたいに──いやいっそ、取り憑いていてくれれば良かったのに──意識もしないゆるやかな動きが、彼方の末尾に結ばれて、フっと途絶えた。
その瞬間、内心に閉じ込めていた、ひどく恐ろしい怪物が俺のこめかみを殴り抜けた。
咄嗟にうずくまり、昇ってくる吐き気を抑え込む。つんざく耳鳴りを爪でほじくった。革靴の中で親指がしつこく暴れていた。踏み付ける。けれども身を覆い尽くす莫大な不快感はまるで消え失せない。そいつは巨大な一体では無く、目に見えないほどの細かな暗黒で、徒党に群れて、俺の脳裏の庭を喰い荒らしたのだ。考える行為が虚しかった。丸まった姿勢のまま壁にもたれ掛かった。きっとスーツは汚れただろうが最早どうでもよかった。時間を忘れて、全てを忘れて眠りたかった。
それらの煩雑な呪法を経て、やっと俺は
絹嶋が死んだことに気付いたのだ。
絹嶋新と知り合ったのは五年前の秋に、会社の懇親会で本社に集められた時のことだった。あの時はまだお互い学生で、春から始まる社会的労働に、俺はげんなりしていたし、絹嶋は目をキラキラさせていた。一目見てコイツとは気が合わないと分かったが、それは後に一瞬で打ち砕かれる。所詮先入観に過ぎなかった。人の目なんてものはマジで信頼に足らない。それは当然、自分の話だった。けれども今になって思えば、絹嶋も見る目は無かったのかもしれない。何せ俺に愛する人を任せると言うのだから。
つまりは見る目の無い奴同士が仲良くしていた訳だ。
俺たちは初めから間違っていたのかもしれない。
月日は経ち、入社式も終えて、俺と絹嶋は友人となった。主に酒をよく飲んだ。同期の中で気軽に飲みに誘える相手が、お互いにお互いしかいなかったからだ。
絹嶋と飲むのは楽しい。
奴は中々物知りで、知見が深く、様々な角度から他者や物品を眺めていた。あらゆる考え方に賛同し、同時に否定することが出来た。だが付和雷同に芯がないわけではない。むしろ意固地な軸があるからこそ、大きくブレずに様々な立場に立てているように思える。
絹島新が湛える、他者の理解に努めようとする姿勢は、彼が今までどのような人生を送って来たのかを俺に容易に、若しくは安易に想像させた。きっと環境に恵まれて不自由無く育ってきたのだろうと、俺は刹那絹嶋を唾棄するのだが、翻ってみれば俺も、そう不自由に生きて来たわけでは無かった。つまりは、たかが人徳だ。
俺に出来ないことが出来る絹嶋新を、俺は好いていた。
得てして人が人に好意を抱く場合には2パターンあって、一つは自分と同じ点を見つけた時、そしてもう一つは自分と異なる点を見つけた時だ。
不思議なのは、同じく好意のベクトルに類するというのに、それらが全く反転していることだった。俺にはその理由がよく分からなくって、己の馬鹿を誤魔化す為に、絹嶋に向かって『この事実こそが好意の形状が不定形である証左である!』と管巻き巻きの一環に臥した。
だが絹嶋は、笑ってこう返したのだ。
『それは、誰もが愛される理由になれる素敵な事実じゃないか』
と。




