020 ある意味穏やかな日常
2036年6月6日。
「あ~、人の脳には海馬と言って、側頭葉の内側、図にするとこの辺りに位置する器官があります」
伽藍とした教室の前方、アインシュタインを意識したのではないかと思わせるような髪型をした老爺が、左手でその白髪を掻きながら、右手に持ったペンで電子黒板に表示されている脳の絵の一部に丸を付けた。
こんな状態でよくもここまで熱心に授業ができるなと、俺は教師に感心しながら横目でちらりと窓の外を見る。
午前からパラパラと振りだしていた雨は11時過ぎには土砂降りになり、正午前となった今も、絶え間なく窓を叩く雨粒の音が教室内に響き渡っていた。
「この海馬とは、え~、記憶を司る器官という訳でして~、人の記憶には、感覚記憶と短期記憶、それから長期記憶があります。感覚記憶はほんの一瞬程度の記憶で~、短期記憶は、え~、その名のとおり、基本的にはほんの数十秒ほどの間の記憶となります。これらの記憶は~、時間の経過と共に忘れ去られていくこととなるんですな」
間延びした声で老爺は授業を続ける。
俺は視線を窓とは逆に移し、今度は隣の席を見やると、鳳凰天星火が一生懸命ノートに板書を移していた。
俺が見ていることにも気づかず、前とノートを行ったり来たり。
俺は欠伸を一つして、真っ白な自分のノートに目を落とした。
「対して長期記憶とは~、何十年単位で覚えている記憶でして~、大容量の情報を扱っています。この長期記憶にもいくつか種類がありまして~、え~」
板書を取らなければとシャーペンを走らせてみるものの気乗りがしない。
黒板を見るついでに、自身と鳳凰天星火の前にそれぞれ一つずつ置かれている机を見る。
座る者が居ないその二つの机は、片方が深海光一郎のもので、もう片方が七種なずなのものだ。
6組の教室からはそれ以外の机や椅子は撤去され、現状、この場に居る生徒は俺と鳳凰天星火だけ。
最初は居心地の悪かったこの光景も、一か月も経ってしまえばそれなりに慣れてくる。
「意味記憶やエピソード記憶、え~、それから手続き記憶などがあり~、短期記憶の中でも必要とされたものが、え~、大脳皮質と呼ばれる場所に貯蔵されることで~、これらの長期記憶と、こうなる訳です、はい」
老爺教師は、そこまで説明するとこちらに振り向き、満足げにペンを教壇へ置いた。
というか生物の授業と言うのは分かるのだけど、今やっている内容はどう考えても脳科学の分野で、これって、果たして高校生が勉強する内容なのだろうか。
16歳から20歳までが入学できる年齢となっているし、実際大学生相当の年齢の人もいるわけだから、そちらの方に合わせてカリキュラムを組んでいると考えると、まぁ妥当なところなのか? 知らんけど。
そう俺が考えていたところで、丁度時計の長針と短針が12のところに揃い、キーンコーンカーンコーンとお決まりのチャイムが流れる。
「では、今日の授業はここまで」
老爺教師はチャイムを聞き、それだけ告げると、教材をもっていそいそと教室から出て行ってしまった。
それを横目に、さて、と俺が立ち上がると同時に鳳凰天星火も立ち上がる。
「今日は食堂か?」
俺がそう尋ねると、鳳凰天星火はこちらにちらりと目だけ寄越し、コクリと頷く。
「たまには一緒にどうだ?」
再び俺から尋ねると、彼女は少し考えを巡らせた後、「あなたと噂になるのはごめんですわ」と素っ気なく断られた。
これは一見冷たく断られているようで、本当のところは「今は一人にしておいて欲しい」という言葉の裏返しである。多分、恐らく、メイビー。
デュラハン事件から一か月。
6組の状況としては、俺以外は、登校拒否児1名、停学者1名、勢いを無くしたお嬢様1名と惨憺たるものとなっていた。そりゃいくら俺でも気が滅入るわ。勉強も手に付かないくらいにはな。
お嬢様に遅れること数分。
6組の状況とは打って変わって、活況を呈している食堂。
俺はサバの味噌煮定食を注文すると、適当なところに陣取って、飯を口に運びながら、今の状況についてどうすべきかと考えていた。
生き残りその1、七種なずな。
現在自室に引きこもり中。親友を目の前で失ったショックが大きかったのか、それとも何か思うところがあるのか、授業は受けることができていないようだ。
ただ、全くコミュニケーションを取れないかと言われればそういう訳でもなく、最初こそほとんど喋れなかったものの、最近では、俺や鳳凰天星火が交代でご飯を運んだ時に、軽く雑談程度はできるくらいには回復している。
生き残りその2、鳳凰天星火。
あの日の事件以降授業には出席しているものの、どうも元気がないように感じる。言ってみれば彼女らしさが消えてしまったようなそんな感じだ。
彼女の場合、高慢や高飛車と言った言葉ではちょっと意味が違うと思うが、何というか、一種の自信のようなものが欠落してしまっているように感じる。
彼女が目を覚ましたのは事件から三日後のことではあったが、事の経緯を俺から聞いた彼女は、「そう」と一言だけ告げて、そこからは何も話さなくなってしまった。
もちろん朝練もそこからはなし。
死に瀕するほどの怪我を負って敗北したことが理由なのか、俺みたいなもんに命を救われたのが理由なのか。
彼女からは一切何も語ってはくれないので、ケアをしようにもどうすればいいのかが全く分からない。
七種さんのような状態にまで陥ってないことがせめてもの救いか。
生き残りその3、深海光一郎。
いくら自在創術士が自己責任とはいえ、無謀にも全員を先導しての魔洞探索を行った結果、多くの犠牲者を出したとして現在停学中。停学とはいっても、まだ彼の処分については審議中とのことで、最終決定までのとりあえずの処分と言うことらしい。まぁ、こいつがどうなろうと、とりあえず俺にとってはどうでもいい。
以上が6組の生徒の現在の状況だ。
七種さんと鳳凰天星火については、何とか心を開いてもらえないかと一か月間様子見をしているが、今となっては鳳凰天星火の方が期待薄かもしれない。
「あら、あなたは――」
ふと、顔を上げると、そこには青髪の女子生徒が立っていた。
クリアブルーの瞳をまんまるとさせて、こちらを見ている。
「えっと――、氷室さん?」
確か疾風の知り合いで、氷室アリスだったか。
一応名札にも「氷室」と書いてあるし、間違いないだろう。
「伊砂君じゃないですか。デュラハン事件の件聞きましたよ!」
彼女は興味深々といった様子で俺ににじり寄ってくる。
あの日の事件は、一応俺がデュラハンにとどめを刺していることにはなっているが、経緯としては、鳳凰天星火と七種さんで第一形態を撃破、第二形態については、守衛の自在創術士が何とかあと一歩のところまで追いつめるもののやられてしまい、偶然そこを通りかかった俺が、弱り切ったデュラハンを倒したと、こういう感じに疾風が創作してくれている。
「頑張ったのは俺以外の二人と守衛の人だけどな」
疾風が創作してくれた通り、俺がそう言うが、氷室さんは信じてくれているのかどうなのか、「そうですか」とどこか疑ったような感じでつぶやき、何故か、テーブルを挟んで俺の目の前の椅子に座った。




