002 人質
2036年4月14日。
「おはよう、天人」
心地よい夢の中を旅の終わりを告げたのは、一通の電話だった。
「所長……?」
電話口から聞こえる女性の声色から、それが自身の親代わりである存在であることが瞬時に分かる。
「そうだとも。ところで今は何時かな?」
俺はそう言われて近くにあったデジタル時計に目をやる。
「朝の……、9時半?」
「そうかそうか、天人の持っている時計が正確で良かったよ。ところで普通の学生諸子は今頃電話にでることはできないはずなんだ。なぜだか分かるかい?」
「そんなの今が授業中だからに決まってるだろ」
所長は朝っぱらから何を当たり前のことを聞いてきているのだろうか。
「うんうん。とりあえず思考能力にも問題はないようだね。さて、それじゃあ一つ尋ねるが、君は何故、今私の電話にでることができているのかな?」
「あっ、ちょっ、電波がっ」
意図を察した俺は、とりあえずそう言って電話を切り、ベッドの端の方へ携帯を投げた。
間髪を入れず携帯が震え始めるが、無視無視。
朝のこの惰眠タイムを誰にも邪魔させてなるものかと、俺は布団に包まる。
「私の電話を無視するとは、いい度胸じゃないか」
「わっ!?」
急に点灯したテレビから所長の声が大音量で流れ、思わず俺はベッドの上で飛び跳ねた。
「疾風から連絡があったぞ。お前、入学式から1週間も無断欠席しているらしいな。何なら入学式も参加していないそうじゃないか」
疾風というのは、俺の担任である漆原疾風のことだ。
昔所長の下で働いていたことがあるらしく、ホットラインがあるのではと薄々思っていたけれど、やはりチクられたか。
入学式を普通にサボっても何も連絡が無かったから、「これはイケる」と思ったんだけどなぁ。
「今更学校なんて行ってどうするんだよ」
この言葉は入学式までの間に何度も口にした。
とりあえず俺は寝ぐせで爆発した頭を掻きながら、ベッドに腰かけてテレビの方へ顔を向ける。
「言っただろう。お前には充実した青春ライフを送って欲しいんだよ」
これも所長から何度も聞いた理由だ。
「そう思うなら、せめて普通の高校に入学させて欲しかったけどな」
俺が入学させられた神撫学園は、魔物殲滅のエキスパートである『自在創術士』を育成することを目的として設立された機関だ。
魔物に関する知識や、戦い方などのカリキュラムが組まれているため、自在創術士を目指す者たちは必ずこういった専門性のある機関で自在士としての力を磨くのだけれど、所長の要求は、充実した青春ライフを送れである。
だったらわざわざこんなところに送り込まなくても、普通の学校だってよかったはずだ。
それに俺にはあの人が居る。俺が恋愛に現を抜かすなどあり得ない。
「そりゃ、今更普通の高校なんて行ってどうするというんだ。魔物との戦闘という唯一のお前の長所が活かせないではないか」
「唯一って言った? ねぇ、今唯一って言ったよね」
俺の良いところが一つだけってどういうことだよと抗議したけれど、「ともかく学校に行け」と一蹴されてしまった。
「でも俺にメリットがない」
ただでさえこの神撫学園の拘束時間は他の学校と比べて長いと聞く。
今更こんな機関で学ぶことなんてないし、それこそ魔洞の探索時間が減るというデメリットしかない。
「そんなことないぞ。これは何だと思う」
所長が画面越しに提示してきたもの、それは1枚のCDだった。
「そ、れ、は!」
しかし俺は遠くからでもその存在が何かが分かった。
「アオイたその幻のアルバム『勝手に刈ってね』のディスクじゃないか!」
アオイたそというのは、俺が猛烈に推し中のバーチャルアイドル、草薙アオイのことである。
緑色のロングヘア―が特徴的で、たおやかな話し方がチャームポイント。
最近その歌の上手さからメジャーデビュー後に人気急上昇し、絶賛うなぎのぼりで飛ぶ鳥をも落とす勢いのアイドルだ。
「インディーズ時代にわずか100枚限定で販売され、最古参のファンしか持ちえないと言われている幻のCDを、何故、所長が!?」
食い入るように画面に近づき、それが本物であるのかをしっかりと吟味するが、今のところ不審点はないので恐らく本物なのだろう。
「何をすればいい。何をすればそれをくれるワン!」
「相変わらずこのアイドルの事となると見境がなくなるな。一体誰に似たんだか」
おでこに手を当てて所長はため息をつく。
何と言われおうと構わない。この幻の品が手に入るのであれば、俺は畜生道にすら身を落とす所存である。
「毎日休まず学校へ通うこと。これを約束してくれればこれをお前に渡そう」
「へ?」
たったそれだけ?
せめてまじめに卒業してからとでも言われるかと思っていたけれど。
「ちなみにそれを反故にした場合は?」
今の条件だと約束さえすればこれが手に入るのならば、別に守る必要はない。
しかしそんな穴を所長が考えていないわけがないので、念のため確認しておく。
「お前が一度した約束を違えるとは思ってはいないが、そうなったときはこのアイドルが二度と日の目を見ることは無いだろうなとだけ伝えておく。ちなみにこれは私と約束をしてくれなかった時も同じことが起こると思ってもらっていい」
不敵な笑みを浮かべる所長に思わず俺の背筋が凍る。
それが冗談などではなく、本気で言っていることを俺は今までの付き合いから悟り、思わず奥歯を噛み締めた。
「あ、アオイたそに何かあったら絶対に許さないワン」
「それは天人次第だな。あとのその語尾は不愉快だからやめてくれないか」
こうして俺は、半ばアオイたそを人質にとられるような形で神撫学園に通うことになったのだった。




