お兄ちゃんの授業2
いやあ、今一つすっきりしないなあ、というのが本当のところではありませんか。その通りだと思います。では何故こんなにもややこしいことになってしまうのでしょうか。それは恐らく“私が考える”ということも、“私が存在する”ということも、それぞれもともとある種の行為であるというところから来ているものだから―――と思われます。何だって?行為だって?“私が考える”というのはまあ、身体は動かさなくても考えるという行為、ということもあるかも知れないからよいとして、“私が存在する”というのも行為なのか?と、新たな疑問です。ごもっとも、再び仰る通り、“私が存在する”というのが行為であるなんて全くおかしい。私もそのことは十分理解しておりまして、そのためにこそっと“ある種の”という言葉を挟み込んだわけでして―――いやいや、こりゃまたしても言い訳がましいですね。と言うよりもはっきり言って言い訳です。人間正直にならなければなりません。何事においてもとまでは言いませんが、少なくともここでこうして皆さんの前で喋っている、この時においては。この、やたらとでかいおっさんじみたこの兄ちゃんが、もしかしたら何か本当のことを話しているのかも知れない、と期待に満ちた眼差しで見つめてくれている皆さんを前にした、この時この場においては―――そうです、私は正直であらねばなりません。
“私が考える”というのはある種の行為である、と私は言いました。これ、実は端折ってしまったのです。近道をしようとして、つまり“ある種の”という言葉を挟み込んで簡単にやり過ごしてしまおうと企んだわけです。面目次第もありません。これはあまりよろしくないやり方でした。やはり近道などせず、多少まどろっこしくなろうとも、しっかり説明せねばなりますまい。
“私が存在する、というのは行為である”、というのは本当です。いや、本当だと私は確信しております。ただ、それではこれはどういう意味なのか、ということが問題です。この文の内容としましては、“私が存在する”ということは単なる言葉の表現ではない、つまりこの文章をあれこれ考えてみただけではその意味内容が明らかとはならないということ、そうではなくそれが明らかになるのは、この“私が存在する”ということを考えている自分が、その時その場において感じ、体験し、了解している状況においてのみである、ということなのです。すなわち理屈の上での解釈だけではなく、それに基づきその意味内容を経験、と言いますか実践しなければならないということ、だからこれは理論に対するところの行為、と名付けざるを得ない、とまあこんな具合になりましょうか。“私が存在する”という言葉の意味は、感じたり体感したりする行為のうちにしか見出すことができない。ですから有り体に言えば、ただの理屈ではなく実践してみなければならないものだから行為としか表現できないのだ、ということなのですが―――これではどこか言葉の遊びのように聞こえてしまうかも知れません。けれどもね、これは案外大事なことなのですよ。
では折角ですから、以上のあれこれに基づいてもう一度改めてあの偉大なフランス人の言葉を考えてみましょう。私は考える、というのは文章です。私は存在する、というのも文章です。それぞれ文章であるからには、それらは何かを意味していなければならない。それぞれの文章がそれぞれの意味内容を持っていなければならない。これは確かなことですね。その“意味内容”というものがなければ、私達、互いにお話をすることも出来ない。喋っている話に意味内容があって、そしてその意味内容が互いに通じるものだという場合にそのお喋りが会話になるわけです。会話を成立させ得るというのが言語にとって、私達の場合には日本語にとって最も必要である条件なのです。
それではこの二つ、それぞれの文章の意味はどんなものなのでしょうか。先ず、私は考える、という文章の意味はどうでしょう。これは、私が現に考えているというそのこと、とでも表現するしかありますまい。では。わたしは存在する、という文章の意味は?これはちと難しいですが、根本的で明らかな意味としては、私というものが“今”“ここ”にいる、ということです。この“今”“ここ”とはいつのことなのか、どこのことなのか―――私というものがいるという状態にあるところの“その時”であり“そこ”なのです。ですから“今”“ここ”と言いました訳です。文字通り、ほら、この今現在の“今”の正に“ここ”でよろしい。この私が立っているこの教壇であり、私の話を聴いていてくださいます皆さんそれぞれの“今”“ここ”であるわけです。ですから、先程は軽めに流してしまった、“私は考える”も、より丁寧に言えば、私が“今”“ここ”で考えている状態、という風に言い直せます。
こういう具合に考えてみますと、皆さん、先程私の言った“私は考える”や“私は存在する”とかいうのは実は行為なんだ、という話の意味が多少はご納得いただけたのではないでしょうか。どんな文章にも多かれ少なかれ同じことが言えますが、特にこの二つの文章の場合、行為というものが密接に関わっていると言えます。否、と言うよりも、行為というものと関わっていなければその意味を十分に了解することが出来ないものなのだ、と表現した方がよろしいでしょう。
手を替え品を替え長々とお話ししてまいりましたが、時間の方もかなり使ってしまいましたので、例の“私は考える、私は存在する”ということは行為であると、ここで前提とさせていただきます。おいおい随分と控え目だな、とお感じになられましたかね?実はその通りでして、私元々慎み深い性分なんですが―――そして今回は特別控え目にさせていただきます。はい、前提です。
このことを前提にいたしますと、今問題となっている文章はどうしても行為にからめて、何らかの具体的な出来事に沿って考えて行く必要があることになる。その文章を分解したり組み立て直してみたり、またどこかで調べてきたもので説明し直してみたり等々するだけではなく、その文章が意味している内容を何か具体的な状況に置き換えて、その出来事を追って体験しつつ考えるという方法を取らなければならないのです。
さて、ではそのようにするためにはどんな状況を設定すればよいか。まあどんなことでも結構なんですが、それでは話が進みませんよね。私は考えるとか、私は存在するとかいう“行為”に最も似通った、最も身近な、そうして最も単純で分かり易い行為をしているような状況、私がここにいて考えているという状態を最もよく表しているような行為、ただ瞑想しているだけではなく、ただ座ってぼーっとしているだけでもなく、確かにここにいて考えていて、そして自分の周囲と何らかの形で関わっているような状態、となるとどうでしょうか、皆さん、我々が周囲に注意を払っている状態ということになりはしないでしょうか。辺りのあれこれを見たり、周囲で響いている物音を聞いたり、空気の流れや暖かさ冷たさを肌で感じたり、色々な匂いを嗅いでみたり、もし手元に美味しいお菓子でもあったらそれを口の中に放り込んで味わってみたりということ、恐らくそんなような行為の最中に物事を考えたり、自分がここにいるということを実感したり、実にうまい具合に今問題となっている“行為”に当てはまるのではないでしょうか。これが一つの解答だと思われます。他にもあるかも知れませんが、しかし先程も“何でもいいんですが”と前置きをしましたし、一番最初に思いついたこのことを取り上げて考えて行くことにしましょう。ちなみにこのような、見たり聞いたり肌で感じたり香りや味を感じたりというようなこと、これを少々硬い言葉で言いますと“認識”ということになります。そこで皆さん、これからこの認識というものを何らかの具体的な体験を通して考えてみよう、というわけなのです。
“経験を通して”というのは或る経験を心の中で思い描き、皆さん自身がその或る経験を自分自身の感覚に置き換えて体験し直してもらうとういう、まあ特殊な用語を使えば追体験というやつです。追体験というのは追って体験する、他人の経験を追っかけてみるというもので、じゃあ何だ、実際の体験ではないんじゃないか、頭の中だけでのことなんて、それじゃあ行為でも何でもない、いんちきだ!とお怒りになる方もいらっしゃるかも知れない、ごもっともです。このごもっともという台詞、私今日何度繰り返したことでしょう。まあ、何しろごもっともなんですが、これも何とかご容赦いただきたい、これも体験の一形態だとお考えいただきたい。ただねえ、皆さん、人間の想像力というものは、これはなかなかに大したものなのです。或る体験を想像してみる、というのはその直接の体験にかなり似通った効果をその人に及ぼすものなんです。だからさっき追体験という便利な言葉を使わせていただきました。決して体験もどきとか、なんちゃって体験とか、そんな風には言わないんです。先程も言いましたように追って体験するものでして、あくまでも体験の一つの形、ある種の体験という意味を持つのです。しかしまあ、このことについてあまり長々とお話をしていますとぼろが出そうですので、ここいらで切り上げさせていただきましょう。
それでこの追体験、これをしていただくためには何か具体的な体験談が必要になってくるわけですが――――
さて、ではどんな体験を実例として持ってまいりましょうか。皆さんのどなたかの体験でもよろしいのですが、そうすると皆さんそれぞれの適当な体験を聞き取って、と言いましても何十人分もありますけれど、その中から最も条件に適いそうなものを選び出すということになります。しかし、これではいささか時間がかかり過ぎてしまう。そこで僭越ながら、この私、丁度皆さんの前で今こうしてへらへらとお話しをしておりますので、その流れのままにこの私のある体験を実例とさせていただきましょう。なに、別段特別な経験ではありません。美しい感動的な恋愛物語でもなく―――さて、お嬢さん方、ご期待に添えなくて申し訳ない、また血沸き肉躍る冒険談でもなく―――やはり、お坊ちゃん方には残念ながら、けれど安心していただきたい、決して説教じみた道学的な話ではありませんです。ではどんな話なのか‥‥‥。
実は昨年の初冬のことなんですが、私、ちょっとした不摂生から風邪をこじらせてしまいまして、高熱は出る、咳が止まらない、頭痛もひどい、おまけに―――どうも尾籠な話で申し訳ないのですが―――胃腸の方もやられてしまいまして、上の方はげろげろ状態、下の方は下痢状態、胃の中が空っぽになっても全く吐き気が止まず、腸なんかは絡まり合って両側からぎゅっと結ばれたようでその痛さと言ったら―――ああ、念のためなんですが、ここいらのことは追体験していただかなくて結構ですからね。その悲惨な状態であることだけを想像してみてください。さて、そんなぼろぼろな状態になり果てていた自宅での夜のことなんです。
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