創作歴史八年、とある大学生の半生と学んだこと
高2の冬休み、暇すぎて夕方に机に向かってなんにも考えずに書いた小説の第一話をこの場に投稿したのを覚えている。
「俺暇すぎてなろう書いたわw」
隣の友達にいうと友達はなろう出身であるとある大物youtuberを引き合いに出して一緒にネタにして笑った。それで話は終わり。
これからするのは現在進行系で芽が出ずとも創作活動を続けている大学2年生の半生を振り返るエッセイである。
日本のどこかなこんな可哀想な人がいるんだなぁ、という軽い気持ちで見てもらいたい。
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自分が創作に目覚めたのは中学生1年生から、スマホを与えられ現実とは違うネットの世界に魅入られてしまった。
以前からニコニコ(当時の自分は3DSで見ていた)を通して知っていた自分が大好きなコンテンツ、東方projectをより鮮明な画質で味わうことができたのだ。
その動画の中でも『手書き劇場』と称される動画群が特に好きだった。
すでに二万本近く投稿されているソレは絵にタイミングよくセリフや効果音、音楽を合わせて演出し見せる、さながら動く漫画といったようなシロモノだ。
ギャグからシリアス、エロからグロまで幅広く取り揃えているジャンルの大型百貨店、さらに絵柄も多種多様でヘタウマからガチのプロレベルまで。現在、イラストレーターや同人漫画家として活躍している人も多く知っている。
すごい人たちだった。今でこそ勢いは落ちてしまっているものの、その熱量は記録としてしっかり残っている。
彼らのプロフィールを見ていると大半がプロ作家ではなかった。仕事片手間に、学業の片手間に。悪くいうと一般人の人達だ。
私はそういう、仕事やお金ではなく創作に燃えた人たちが好きだった。
と言っても仕事やお金で創作する人を蔑んでいるわけではない。勿論、生きていくうえで必要なものだし、お金が発生するということはそれだけ多くの人を楽しませたということだからむしろ尊敬している。
それでも彼らは一人、自室で物語を生み出していた。
キャラの設定を、ストーリーを、絵を。表に出なかった想いや感情、内奥に潜む叫びが聞こえたような気がした。
では自分でも書いてみよう。そう触発されたのもつかの間、早速暗礁に乗り上げた。当時は中学生、画力も無いしそれをまとめるための能力もなかったのだ。
絵をたくさん描かないといけないし、いろんな角度や構図のモノを伝えられなければならない。しかもその絵にセリフや音楽、効果音を載せて編集したりしなければならない。
当時の自分はそこまでは頭が回らなくスマホひとつでどうしようかと思案した。
とりあえず自分ができること、それは。
・アナログで絵を描きまくること。
・デジタルでも時々描いてみること。
これに専念した。
どんなに面白いお話でも初見はまず絵を見て判断する。ドラゴンボールだって、最初の1ページが小学生の絵だとしたらここ先が面白いんだよと勧められても読み気はしないだろう。
授業中、暇になったらノートに絵を描いたり、家に帰るとスマホの画面に指をツイツイ動かしてデジタルで絵を描いたりしてみた。
絵として完成したものはとても見せられるものではない、それでもこうすればいいのか、と理解しながら進めていくのはとても楽しかった。
だが結局、この手書き劇場に作品を投稿することはなかった。
***
さて突然だが皆さんはサードマン現象というものを知っているだろうか。
wikiからそのまんま引用すると
(サードマン現象、英語: The Third Man factor、別名:サードマン症候群)とは、登山家や探検家、不測の事故や災難に遭遇した人などが生死を左右する危険な極限状態の苦境に陥った時に、霊のような目に見えない第三者(the third man)的な存在が現れて安心や支えをもたらし、生還に導かれたという体験報告の現象を指す。
とまぁここでは自分の低迷した人生を回天の如く変えてくれた人物を指すものだと思ってもらいたい。
自分にはそんな人物がいくつかいる。一人目はМちゃんだ。
彼女は中学生の頃のオタク友達で、よく他の友達と一緒にオタ談義に明け暮れていた。
そんなある時、英語の授業があった。授業では過去形や過去分詞を学ぶことになったのだが当時痛いオタクの私はmakeの過去形、madeにめちゃくちゃ反応してしまった。
あ、アキバのメイドさんやん!
はぁそうですか、と引かれたかどうかは知らないが、そんなテンションになっていたのは覚えている。
なまじ絵を描けた私は教科書の空白にメイドさんの生首を描いた。顔描いて頭のフリルを描いてさぁ完成。
これでおしまいと思った矢先、その絵を見たМちゃんは「え、うっま!」と褒めてくれたのだ。
お世辞かもわからないが当時誰にも見せずボソボソと絵を描いてきた私が初めて絵を褒められたのだ。あのときはソンナコトナイヨと謙遜していたが、思えばあのときが絵を描き続けようと決意した転換点だと思う。
それ以降も雰囲気で絵を書き続け、東方にハマりボカロにハマりネットカルチャーにハマった私の3年間が終わった。
この頃になるとオタク根性が染み付いて友達も減ってしまったが得られたものは多かった。
学校生活の事はあんまり覚えていないが、この時出会ったコンテンツと部活動の弓道だけは、めちゃくちゃに楽しかった。
頭があまり良くなかった私は県内の男子校に通うことになる。
教室の窓から横浜が見える丘の上の学校だ。ここでも二人のサードマンに出会ってしまった。
まずはМ君(まさかのМちゃんと同姓、別に珍しい名前でもないからまぁまぁある話)と出会った。
出会いは入学して数日。私は体育館がどこかわからずたじろいでいると同じように困っているМ君発見。
俺から「体育館ってどこだろうね」と恐る恐る話しかけた。
それが始まりだった。
これまで絵を描いてきたが、母校の中学生で絵を描いてる人は自分の知る限りではいなかった。
決まって少数の女子(しかも仲良くなれなさそうな雰囲気)、男で描いているのは俺ぐらいだったのではなかろうか。
でも高校で出会ったその子は違った。ワァオ絵が描けるではないか!
他にもその子はバンドを立ち上げようと私を誘ったり、音楽を作ったりで当時尻が青かった俺をより深いネットの世界へと引きずり込んだ。
彼がいたイラスト部に遊びに行って賭博黙示録のあいつを模写したのはいい思い出である。
男子校の日々は退屈と非日常の反復横跳びだった。
1年生の前期、私は進学先が被った中学の弓道部部員の一人とよく帰っていた。彼はタバコを持ち歩き、俺を連れて駐車場で喫煙したり、アダルトグッズを学校に持ち込んだりしていた。
彼はタバコがバレて後期で退学、よく一緒にいた俺は『喘息持ちだから』と言う理由で疑われず、お咎めはなかったのだろう。
(実在禁煙を断るには便利な言い訳である。中学の保健体育で喫煙を勧められたらどう断るか、みたいなことを考える授業があった。皆が苦悩する中、スラスラと喘息持ちだから吸えないと書けた時だけは持病に感謝したものである)
近くには女子校があり、その女子校の屋上にはプールがあった。夏になるとそこに水着姿のJKたちが上がって授業をするのだが、我々男子は横浜の景色を横目に女子と関わりの薄い日々で溜まった欲求を熱視線としてそこへ送り込む。
誕生日には別の高校に行ってしまった友達からローションとデジタルペンをもらったこともあった。
すぐに下着ごと脱ぐ問題児集団、授業中にスマホを隠れていじっていると音もなく忍び寄りこちらが気づくまで笑顔で注視し続ける副校長先生、通常『忍者』
特異な人たちが集う中、自分はというと特別目立たなかったが気の合う友達も多く、一緒にゲームをして過ごしていた。この頃SCP、ウマ娘、ミリタリーというごった煮に浸かっていた。
色濃い学校生活と共に相変わらず絵を描いていた私だったがここで奴が現れ始めた。画像生成AIだ。
ネットのアンテナ派を張っていた私はこの頃すでに登場し始めていた画像生成に触れていた。
セーラー服の女子高生を生成しようとしたが出来上がったのはそれはそれは恐ろしい異形の民。目らしき2つの赤い穴に歪んだ顔、かろうじて分かるセーラー服の色彩。まるで暗闇の中で描いた水彩画だ。
「こんな程度か」
だがすでにそんな笑っていた時代は終わった。様々な画像生成AIが出現し、自分の画力を上回る絵を生成し始めたではないか!
このままじゃ絵描きは死ぬ、なんて思っていたのはあの学校じゃ俺だけだったと思う。まだ世間に広まる前の話だからしょうがないといえばそれまでだ。
この出現により自分はイラストへと意欲が下がってしまった。絵師が要らなくなる、とまでは思わなかったが、少なくとも自分の絵よりも豊かで可愛く、そしてなにより数秒で生成してくれる。
絵というのは上達していくと時間がかかるようになる。はじめは線を描いてバケツで一気に塗って完成、だったものがラフ、下書き、線画、色塗り、加工となってくると時間も伸びるし筆を動かすのも億劫になる。それだけに短時間で量産できるAIの出現には大変驚いた。
さて、それはそうとそろそろ進路を決める頃だ。自分はイラストレーターになりたいと思い続けていたが、自分はこの世界で勝負できないとも思い始めていた。
じゃあ何するんだ。と考えていた時、この年の10月の秋にあのジャンプ作品の名作、チェンソーマンがアニメ化するらしいぞ!と自分の中で話題になった。
が、名前は知っているがどんなのかは知らない、タイトルのインパクトだけで覚えていた。じゃあ見る前に漫画読んでみるか、と電子版を授業中に隠れて読み始めてみた。
何だこれは!?
衝撃が来た。これまで自分は漫画というものを真剣に読んだことがなかった。父親の影響で手塚治虫や藤子・F・不二雄、楳図かずお、その他古い漫画しか読んでこなかった自分にとってもその面白さに衝撃を受けたのだ。(勿論古い漫画もとても面白いのだが)
努力、友情、勝利。ドラゴンボールやワンピースのような古いジャンプを想像していた私にとってこれが今のジャンプかと興奮したのだ。
腸は飛び出るわ血は出るわ四肢が飛ぶわ。人外、異能、ダークファンタジーで自分が中学生の頃に好きだった要素がこれでもかと詰め込まれ再び創作意欲が湧いてきた。そして勢いのままこんな事を思い立った。
漫画描こう、と。
冒頭で書いた通り自分はすでにこの時期、なろうで小説を描いていた。稚拙なところもあるが、物語のノウハウやキャラクター、展開など自分なりに練って作り上げていくのは楽しかった。
これと同時並行してpixivでシチュボ台本もいくつか投稿していた。嬉しいことに宅録声優さんにお声がけ頂いて何本か提供したこともある。首絞めだの腹パンだのキワモノ揃いの私の台本を読んでくれた声優さん方にはこの場を借りて感謝します。ありがとうございました。
話を戻して漫画なら絵も描ける!自分で作った物語を自分の絵で描いていけたらどんなに幸せだろうか。それを学べるところへ行きたい。そんな事を思い始めてしまった。
『漫画を描きたいならわざわざ習いにいかなくてもできるだろ』
ごもっともである。専門学校か大学か迷っていた自分。イラストの専門学校や漫画の専門学校にわざわざそこにいかなくともネットやYouTubeで調べればいくらでもやり方は学べる。行く必要なんかあるのか。そう思っていた。
でもそういう学校があるのは、同じ様な志を持った仲間たちと繋がれるからだと思うのだ。
ネットでいくらでも学べる時代に学校があるのはそこでの交流や活動、そしてともに夢へと向かう仲間と出会える、そんな素敵なことを味わうためであると思っている。
結局迷った挙げ句、漫画も学べる都内の大学へと進学した。専門学校をやめたのはAIの出現でこのまま創作で食べていけるか不安になり、とりあえず就職に多少有利な大卒が欲しかったことが主な理由だ。
大卒に無事合格し卒業したあと一度母校へ訪れる機会があった。
職員室に顔を見せて終わりだ。それで帰るはずだった。もうひとりのサードマン、現特の先生に帰り際、こう言われた。
「漫画家になりたいんだって?頑張ってね」
私の入学と同時に就任した若い黒マスクのちょっと大人しい先生。残念ながらちゃんと話したことはないが授業の閑話を密かに楽しみにしていたあの先生。
漫画家になりたいだなんて、あのМ君と一部の先生以外には話してなかった、でも誰かから伝わったのか私の夢を応援してくれた。
そしてなにより顔と夢を覚えていてくれたことが嬉しかった。お世辞かもしれないな、でも勇気で負けられたのは紛れもない事実。
絶対に漫画家になるぞ、なんて思いながら最後の通学路を帰っていったのを覚えている。
大学には才能のある人がたくさんいる。めちゃくちゃ絵のうまいアニメーター志望の中国人、フォロワー何万人のイラストレーター、音MADの名人。自分がなかったもの、なりたいけどなれなかったものに成っている人がたくさんいた。
そういう人たちと共にして、まだまだ学ぶべきこともたくさんできたし、これからもそうしていくことだろう。
***
さて長々とここまで読んでくださり本当にありがとうございます。
過去を振り返ることも多くなったが、それだけ思い出が増えてきたということだろう。
高校三年後期からノートに絵の練習をするようになりすでに9冊を超えた。環境が整い漫画も読み切り2作、現在3作目を制作中である。
なろう小説も消したり作ったりを繰り返して3作目を執筆中。
長いような短いような、である。
『で、結局お前はこのエッセイでなにが言いたかったんだよ』と言われたら答えはひとつ
『寄り道、脇道、回り道。しかしそれらも全て道』
はい、スマイルプリキュアのキュアビューティーのセリフですね。ガッツリ世代なのだ。
当時の私にはこんな事言われた記憶はないですが再びプリキュアマイブームが起こってからこのセリフを知った。
自分のなりたいもの、それは1年後になるかも10年後になるかも、はたまたなれないかもしれない。
自分はそんな事を内奥に抱えつつ、くねくね目標を変えながら進んできた。
東方手書き劇場→イラストレーター→漫画家。
矢印の間にもなりたいもの、やりたいことを考えては泡沫に消えていったが、全く消えたというわけではなく深くに沈んだ、という表現が正しい。
たまにプカプカとクラムボンのように浮かんでは消えていく。浮き沈みを繰り返すのが自分の夢の特徴だ。そんな大海にプラゴミが如く漂っている夢が沈まぬようにと今、ちまちまと生きている。
下手したら他のプラゴミに目移りするかも?その途中で溺れるかも。でもそれも道の一つだと思うと、人が口々に叫び恐れる失敗という失敗もあんまり苦でなくなるかもしれない。
キュアビューティーの金言がもしかしたら無意識のうちに刻まれているのかもと思うのであった。
とまぁめちゃくちゃ大雑把にまとめると。
『紆余曲折しながらしたいこと見つけてそこに向って進むのって楽しいね、結果が出なくとも別の目標に向かうときに役に立つから無駄な努力なんて案外ないのかもね』だ。
あとキュアビューティー可愛いので良かったらみんなプリキュア見ようね。自分はドキプリのマナが好きだよ。
あとあと良かったら小説も読んで下さい。ミリタリーとダークな物が好きな人待ってます。
以上。オタクの成れ果てからでした、最深部で待ってます。
ウマ娘からマンハッタンカフェにハマり、それをもじって名付けたペンネ、万田カフエからでした。
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創作者は誰かの人生に関われることを実感できると、とても喜ぶ生き物なのです。