プロローグ-文庫 三歩-⑥
これまでに何度か、「目の前に」という表現を使用したが、その中でも群を抜いて間近にいた。
少しでも動いたら接触してしまいそうなほど、文字通り目と鼻の先に。
なんで気が付かなかった?
疲れきっていたとはいえ、この静寂の中僕の背後にいたのか。
彼女からは音がしない。
彼女の目には光がない。
彼女には、生気がない。
対する僕は、怪しげな女性に引き込まれるように、頭蓋同士が接触した。
あ、意識が……。
夢をみた。
暗闇の中で、意識が逆立ちしている。
地面なんてない。
壁も、空もない。
でもはっきりとわかる。
こっちが下で、あっちが上だ。
というか、なんなんださっきから。
上とか下とか。
あれ、でもなんで僕、これが夢だって分かるんだ?
僕のすぐ近くで誰かの声がする。
「貴様に召集がかかっている。準備が整い次第、速やかに集合せよ」
いや、僕に向かって言っているわけじゃないな。
次は、遠くの方で音がする。
爆発音のような。
次の瞬間、浮遊していた意識が、急激に落下する感覚へと変わった。
落ちる。
どぼん、と。
水中?
でも苦しくない。
違う。
僕は息をしていない。
死んでいる?
不思議な感覚。
死んでいるのに、感覚が残っている。
ここが水中だとわかるし、目は見えないけれど、沈む感覚もある。
それに、匂い?
変な匂いが……いや、どこかで、知っている匂いだ。
懐かしい幼少の思い出がよみがえる。
「三ちゃんつかまえた!はい、鬼交代ね」
「■■■君早いよ」
名前も思い出せない近所の子と、公園で鬼ごっこをしていた。
一生懸命になってその子を追いかけたけれど、結局捕まえられなかったんだ。確か。
そうやって必死になっているうちに僕は。
「いてっ!」
「大丈夫?三ちゃん」
転んだ僕に駆け寄って来てくれて。
「あ、三ちゃん鼻血」
「……あ」
あ、そうだ、この匂い、血か。
自分が沈んでいるその場所が、血で満たされていることに気づいたとき、僕は現実に引き戻された。
それでも、血の匂いは消えない。
階段の踊り場で尻をつく僕は血塗れのまま、目の前の彼女を見上げていた。
「……あ、僕は」
そう言いかけて、文庫 三歩の意識は再び途絶えた。
意識が途絶えていた自覚はない。
いつの間にか気を失っていたとか、眠る瞬間を認識できないとか、そういうことなのかもしれないけれど、僕にとってはまるで時間が飛んだ気さえしたのだ。
「三歩君?」
「え?」
「どうしてこんなところで寝てるの?風邪ひいちゃうよ」
「どうしてって、課題をやるために」
「アパートの階段に座りながら?部屋でやればいいじゃない」
そこにいたのは怪しげに輝く彼女ではなく、アパートの隣人であるところの折居 仕草だった。
気が付いたら僕は、下宿先のアパートの階段で眠っていたらしい。
え?
いや。
いやいや。
いやいやいやいやいやいや。
は?
うあ?
へ?
待て待て、待って待って。
えっと、だから。
僕は昨日の晩出雲山へ行って。
てか昨日の晩!?
日上ってるじゃん!
いつ帰ってきた?
は?
血は?
「えっと、仕草ちゃん」
「何かな」
「僕血塗れじゃなかった?」
「いいや、いたって健康に見えるけれど」
「はは、そうだよね、それだけが取り柄だもね」
えーどゆことー。
「あれ、仕草ちゃんお出かけ?気を付けてね」
「うん。私はもちろん気を付けるよ。三歩君も何かあったら無理せず言ってね」
そういうと折居 仕草はまたもやにこやかに、手を振りながら出かけて行った。
僕に何があったのか、こっちが聞きたいね。
僕の最後の記憶は血塗れになって階段の踊り場にいるところだ。
それが次の瞬間アパートの階段で寝ていた。
最初に疑うべきは。
うん。
僕の頭だな。
「健康だね。はっきり言って健常者だ」
「そうですか」
「君くらいの歳の子でたまにいるんだよね。自分を病気だと思いたい子って」
「そうですか」
「それも心の病気と言えなくもないけど、それを言ったらきりがないしね」
「さいですか」
「それに今の時代、そういう部分も含めて、個性として受け入れようって話だからね」
「そうですか」
「君も自分のことを大事にしなね。今日は一日安静に」
「……はい」
焦って病院に駆け込んだ僕が馬鹿みたいじゃないか。
あのお爺ちゃん先生の言うことを無視してもいいけど、流石に疲れがでてるな。
帰って、早めに寝よう。
文庫 三歩は、混乱する記憶をよそに、ゆっくりと目を閉じた。
「背中いてぇ」
翌々々々々々々日。
都会には珍しい、小鳥のさえずりで目を覚ます。
皆さんおはようございます。文庫 三歩です。
私は、現在通っている国際芸術日比谷大学が先日夏季休業に入ったということで、こうして自室で一人夏を満喫している最中でございます。
体が痛くないというのは、なんて素晴らしいことなんでしょうか。
お陰様で、無事完治でございます。
「あれぇ!?三歩君が立ってる!もう大丈夫なの?」
1週間前、病院から帰ったあの日。
緊張が解けたのか、全身に痛みが現れた。
日常生活もままならず、こうして仕草ちゃんに看病してもらっていたのである。
「もう大丈夫かも。ありがとう仕草ちゃん。本当に助かったよ」
「元気になったのなら良かった。念のためもう一度病院で診てもらったら?」
「ううん。あのお爺ちゃん先生には健康って言われたんだ。多分もう診てもらうことはないけれどね」
「お医者さんだって見逃しちゃうことはあるわよ」
「あるかもね。もしかしたら」
「信じてないじゃない」
信じてないよ。
「じゃあまぁ、元気なら良かったよ。じゃあね、行ってきます」
ほんとに様子を見るためだけに寄ってくれたらしい。
「いってらっしゃい仕草ちゃん。気を付けて」
「はーい」
そういうと彼女は、静かに扉を閉めて出かけて行った。
完治した今。
何よりも確かめなくてはいけない。
あの日何があったのか。
あの日出雲山で出会った、あの女性にもう一度会わなくてはならない。
行こう。
出雲山へ。
今度は正面から。
お邪魔します。
階段をただひたすら上っていく。
昼と夜とじゃ雰囲気がまるで違うな。
これでは階段のどの地点で彼女と出会ったのかがわからない。
確かあの時、抜け穴を使って階段に出たはずだ。
抜け穴を探そう。
それ以外に目立った目印なんて……。
捜索の算段を練っていると、後ろから強風にあおられた。
急な突風でつまずきそうになる。
「あっぶな!また転んで怪我しましたじゃ仕草ちゃんに笑われちまうよ」
突風を睨めつけるように後ろを振り返る。
「あ」
そこに広がっていたのは、普段から三歩が過ごしている町であった。
そうだ、あの時も僕はこんな風に町を眺めた。
夜で風景が違うとはいえ、高さ勘は同じはずだ。
それも目印にしよう。
僕は度々後ろを振り返り、町を確認しながら進む。
が、その甲斐虚しく、僕はその現場を見た瞬間、ここだと確信することになる。
「ここだ。ここで……!」
記憶を辿る。
「こっちの抜け穴から…………は?」
抜け穴がなかった。
跡形もなく。
おいおい。
またこれかよ。
場所は間違っていない。
合ってるはずだ。
現場はここなのだと、確信を得るために、町の景色を確認する。
「いや。合ってる。間違いなくここだ」
じゃあなんで、穴がふさがってるんだよ。
念には念を押し、そのまま山頂を目指すことにしたが、山頂には山の名称と年号の記された石碑が設置されているだけだった。
下山後。
完全に手詰まりだ。
どうすることも出来なくなった。
せいぜい課題をこなすくらいだけど、そんなことしている暇はないよな。
目的もなく歩いていると、通りがかりの公園から子供の怒号が聞こえてきた。
「てめぇこらおい!」
「おいこらてめぇ!」
子供たちが殴り合いをしていた。
おーおー。
いいねー。
青春だねー。
子供の爪がもう片方の子供の頬をひっかく。
「それはだめだ」
気づけば僕は、子供の腕を掴んでいた。
「いたいよ!」
「なんだお前」
先ほどまで喧嘩していた二人の子供に睨まれる。
「あ、ごめん」
腕を掴んでいた手を放す。
「いや、ほら!血が出てるじゃないか。やりすぎはよくないよ君たち」
わずかな反省と警戒を孕んだ眼差しでこちらを見る。
「わかったら今日は帰れ。こんな調子で遊んでても楽しくないだろ」
大丈夫。
僕は冷静だ。
「わかったよ」
「いこーぜ」
ふう。
やっぱり喧嘩はよくないな。
行き過ぎた青春は黒歴史と言うんだぞ。
さて、どうしようか。
意識を課題に戻す。
実際に出雲山を見てみたけれど、はっきり言ってまだ理解が浅い。
調べものと言えば、図書館だろう。
「え?ないんですか」
「申し訳ありません。ただいま図書の整理中でして。ここにはないんですよ」
さて、振り出しに戻る、だ。
またもや目的地を失った僕は、町をまかり歩いていた。
どこを目指そうか。
目的は図書ではなくその中身だ。
早い話、出雲山のことを知っていいる人間から話を聞ければいいのだ。
本と知識、両方を熟知している人間を一人知っている。
「仕草ちゃんに聞くのが正解っぽいな」
こうして自分のアパートに進路を決め……。
「おや、ずいぶん久しぶりだねぇ三歩ちゃん」
「あ、お久しぶりです辻谷さん……。辻谷さん!」
辻谷 事は、この町で小さな古本屋、辻谷書店を営む老人である。
いやー、すっかり忘れていた。
そういえばここは、古本屋だったじゃないか。
インターネットを除けば、図書館の次に情報が集まる場所。
そしてその店を営むのは長年の知恵を身に着けた辻谷さんときた。
今の状況にぴったりだ。
ごめん仕草ちゃん。
別に君をないがしろにするつもりはないんだ。
「元気だったかい?」
「はい。この前少し怪我しましたけど、健康ですよ」
「それはよかった、健康が一番だからね」
「あの、辻谷さん。今お時間よろしいですか?お聞きしたいことがあって」
「はは、私は構わないよ。婆さんも会いたいだろうから上がっていきなさい。少し準備してくるから、店の中で待っていてくれるかい?」
「分かりました。お邪魔します」
そういうと、辻谷さんは店の奥へと消えていった。
準備というのはお茶菓子のことだろうか。
申し訳ないなあ。
久しぶりの辻谷書店を見て回る。
懐かしいな。
つい1か月前に来たはずなのに、こう雰囲気を出されると、まるで僕が大昔からこの店を知っているみたいな感覚になる。
この店を知ったのだって、大学に入ってからだし……。
僕は立ち止まる。
店の角、入り口からは死角になっていて見ることができない場所。
そこに立つ女性へと目を奪われた。
目を、疑った。
一週間僕を悩ませた原因である、女性がそこにいた。
出雲山では音がなく、光がなく、生気がなく、輝きを放っていた彼女が。
なんの変哲もないただの一般人のように立っていた。
出雲山での出来事は忘れて、課題に着手しようと思い立った途端にこれだ。
勘弁してくれ。
僕は彼女へと近づき腕を握る。
「ぼ、僕に……!あの夜、一週間前、出雲山で、一体僕に何をした!?」
鬼気迫る僕に対して彼女は、驚きつつも冷徹な声で言うのだった。
「何ですか?」
これにてこの物語のプロローグは終了です。少し長くなってしまいましたが、これからも楽しんでいただけると幸いです。よろしくお願いします。