プロローグ-文庫 三歩-⑤
眠りにつく数分前。
文庫 三歩は本を読む。
だが今夜に限り、その予定はキャンセルだ。
何故なら、僕は夏期の特別課題に取り組むため、そして完遂するため、出雲山へ行かねばならないからである。
わざわざ夜に登山することもないだろうと、変人の僕でも思う。
自分で自分を変人と言うことに違和感はあるが、多少は自覚しているさ。
けれど変人である僕の身近な所にも、同じく、いやそれ以上の変人が息を潜めていることも知っている。
芦村 吉奈は、着いて来ると行った。
彼女がそう言うのだから、彼女は変わらない。
では僕が変わるしかないということで、今夜出発します。
時刻は23時40分。
まだ日付が変わってないとはいえ、真夜中である。
すでに寝ている人は寝ている時間だ。
そろりそろりと。
外に出る。
アパートの敷地を抜けて、道沿いに出雲山を目指して歩く。
順調である。
このまま何事もなく課題を終えることができればいいが。
芦村のことだから、こうして僕が対策を練って夜中の内に飛び出していても、前の晩から待機してる可能性も、ある。
常に全力の芦村に対して、僕も全力をもってこれを躱す。
だから出雲山の正面からではなく、裏の細道から山頂を目指すとしよう。
わざわざ、彼女がいるかどうかを確認する必要はない。
いるかもしれないのが問題なのだ。
ていうか確認なんかしたら見つかってしまう。
捕まってしまう。
奴は動体視力、運動能力共に一級品だ。
と、どこかで聞いた。
そんな怪物と正面から戦って、生きて逃げられるほど僕の体も、メンタルも頑丈じゃない。
それにしても、真夏だと言うのに静か過ぎる気がする。
夜中なのだから当然のようにも聞こえるが、昨日まで聞こえていた蝉の鳴き声が一切しない。
遠くの方で車の音が、なんてこともない。
こう静かだとまるで時が止まっているようで、なんだか不気味だ。
そしてその静寂を切り裂くように。
「Help!」
『Help!』は1965年7月にシングル盤として発売されたビートルズの楽曲である。
その名曲が、僕のスマホから鳴り響いた。
「うおおオオオオオオアアアアアアアアアアアアアーーーーーッッッッ!!!!!」
ピッ。
「はい。もしもし」
『あ、出た!お兄ちゃん?もしもし妹です』
あ?妹だ?僕に妹なんて1人しかいないが。
あぁ、その妹か。
驚かせるなよ全く。
「もしもし兄です。なんですか?こんな時間に」
『あーいや、お兄ちゃんってお盆休み帰ってくるの?』
この妹が僕の予定を聞く時は、大概が僕にとってプラスになることはない。
曖昧に答えてはいけない。
「どうだろうな。帰る理由も無いし、お金もないし。当分はこっちにいるよ。ゴールデンウィークに帰ったばっかりだしな」
よし。これで完璧だ。入り込む隙もなかろう。
『じゃあお兄ちゃんの部屋使っちゃっていいよね?人泊めるのに』
おっと、それは変化球だ。
部屋か。
まぁ大事なものはこっちに持ってきているし、荒らされて困るようなものでもないか。
ん?ちょっと待てよ。
「うん。それは構わないんだけどさ走葉。お前今外にいるのか?」
『そうだよ。それが何?』
はっはー。
それが何ときたか。
「何って。いやまぁ、僕が言えた義理じゃないかもしれないけど、あんまり母さんに心配かけるなよ。田舎だからって油断してると補導されるぞ」
『大丈夫だって!もう高校生だよ?』
「高校生だから言ってるんだ」
『説教をありがとうお兄ちゃん。私の事を思って言ってくれてるんだよね。分かる、分かるよお兄ちゃん。大切な妹だもんね。私も大切に思ってるよお兄ちゃん』
なんなんだこいつは。調子のいいやつめ。
「そういう事は彼氏の桟原君にでも言ってやれよ。きっと泣いて喜ぶぜ」
『桟原君のことは今関係ないでしょ!まさかとは思うけど桟原君に変なこと言ってないよね!?』
「なんだよ変なことって。会ったこともねぇよ。いや、もしかしたら知らずに会っているかもしれない。特徴を教えてくれないか」
『まず私の言うことはなんでも聞いてくれるの。普段は頼りないけれど、いざという時には守ってくれる様な気がするし、ここぞという時には命だって投げ出して、私の所へ会いに来てくれるはずなの』
なんだか歪んでるなぁ。
後半なんて、気がしてるだけじゃないか。
というか。
「まるで僕みたいな奴だな」
『どこが!あのねお兄ちゃん。お兄ちゃんはもっと愛想よくした方が良いと思うの、私』
照れ隠しが下手くそだぞ、我が妹よ。
「囁かなアドバイスをありがとう。参考にしないよ」
『それよりお兄ちゃん、よくこんな時間に起きてたね。いつも通りなら寝ていると思ったよ』
「よく分かってるじゃないか。いつもなら寝ている時間だよ。ちょっと急遽で課題が出てな」
本当に急遽ね。
『ふーん。夜じゃなきゃだめな課題なんだ』
「夜じゃなきゃだめだな。絶対」
『あんまりお母さんに心配かけない方がいいよ。じゃあね』
プッ。
相変わらずひねくれた妹だな。
でもおかげで恐怖心もどこかへ消え去った。
元々怪談とか、そういう類の話が苦手というキャラクターでもないんだよ。僕は。
ちょっと雰囲気に飲まれてただけで。
用済みとなったスマホをポケットへとしまい、歩き出す。
間もなく、出雲山が目の前に現れた。
山からすれば現れたのは僕の方だが、山主観の話なんて微妙もいいところだろう。
いいや、それはそれで面白いのかもしれない。
でも今話しているのは僕なのだから、その席は譲ってくれよ。
挨拶もこれくらいに。
お邪魔します。
麓(山の裏口)の草木を掻き分けて、出雲山へと侵入した。
舗装された登山道なんてあるはずもなく、当然の様に。
「迷子でーす!」
山なんだから道なんてなくても、傾斜を上に向かって進み続ければいずれ、山頂に着くだろうなどと、そんな腑抜けた考えを持ってしまった僕も悪いが。
こんなに複雑なことあるか!?
限度があるだろ。
右に4回曲がって同じ場所に戻らないっておかしくないか。
ここ異空間ですか?
落ち着け。
まずは落ち着いて深呼吸だ。
地面を見て、空を仰ぐ。
スーハースーハー。
あ、そうだ。
空だ。
今日の日付け、月の位置から自分がどの方角に体を向けているのかを推定して、山頂を目指せるはず。
どれどれ、月の位置はと。
うん、真っ暗。
「今日に限って新月かよ!」
そのタイミングで懐中電灯代わりに使用していたスマホの充電が0パーセントになった。
詰んだなこれ。
よし、とりあえず。
「Heeeeeeeeeeeeeeeeeelp!!!!!」
無理か。
結構深い所まで入ったから、ここからでは住宅地まで声は届かない。
作戦変更。
課題は中断、生存し帰還する事を第1目標とする。
さっきまでとは逆。
傾斜を下る方向に進もう。
そうすれば場所はともかく、山は抜けることが出来るはずだ。
枯れ葉が土に食い込む。
ぐしゃりとした音だけが響く。
視界はほぼ無いに等しい。
それほどまでの暗闇の山中、手すり代わりに使っていた木の幹や枝が、忽然と途絶えた。
「うそーん」
躓き、駆け落ちる僕。
重なる非常事態に対し、僕は冷静かつ最適な対処をして見せた。
足を下にして仰向けになり、両の手は頭を抱える。
衝撃を和らげるために徐々に膝を曲げ……る途中で、足首が木の根に突っかかり、そのまま3連続前方宙返り。
逆効果だった。
背中から木に衝突した。
「痛すぎぃ!」
幸いながらも、後頭部は両の手で守られていたためダメージは少なかった。
それでも10メートルほどと思われる落下には耐えきれず。
たまらず悶絶していた。
「アガアガッ……。フゥフゥーフィィィ」
痛みが落ち着いてきた。
落ち着いてきたとは言っても、かなり痛い。
もう今日はまともに運動するのは難しそうだ。
おっと。
落ち着いて周りを確認したところ、そこには枯れ木と枯れ葉だけの空間が広がっていた。
そうかここが、昔山火事があったっていう……。
思い違いをしていた。
てっきり山頂なのかと思っていたけれど、なんてことはない。
飛び火に飛び火を繰り返して、こんな感じの広場がそこらじゅうにあっても不思議じゃない。
痛すぎる背中を抱き抱えながら、広場の中心へと近づく。
「この辺りでいいか」
おおまかに場所を決め、腰を下ろす。
課題は中断とは言ったが、断念するとは言っていない。
第1目標を帰還にしても、第2目標は課題なわけで、元々は課題をしにこの山へとやってきたのだ。
こんな絶好の機会を逃すはずもなく。
「さて」
主題は『ありふれた町の風景』だったな。
ふむ、こんなに痛手を負ってようやくたどり着いてなんだが、これのどこがありふれた町なんだ?
僕はどうしてここに来たんだっけ?
確か二律背反がどうとか。
まぁどうでもいいか。
とりあえずこの景色と僕の今の心象をできる限り書き留めておこう。
ポケットから土まみれの手帳とボールペンを取り出し、ひたすら殴り書きしていく。
風は吹いていない。
自然もただ静かに存在しているだけ。
音はしない。
ガリガリとただ手帳にボールペンが転がる音のみ、僕の聴覚神経を刺激する。
たまに体勢を変える際に、枯れ葉と土の音がぐしゃりと鳴る。
その音さえも、僕の神経を調律していた。
うーん。
最近戦争ものの小説を読んでいるせいか、語彙が大分物騒になってしまうな。
それは仕方ないにしても、もう少し丁寧に書くか。
これまでの大学生活を惰性で送っていた三歩にとって、自分自身と向き合う時間というのは、彼に大きな刺激と平静を与えていた。
先程の落下で昂っていた心に一時の安らぎが訪れる。
普段ならば、自室で本を読み眠っている時間帯である。
本のページをめくる音と、手帳のページをめくる音が記憶の中で重なる。
習慣化されたその行為が、僕の眠気を引き立てていた。
「まずいよな。流石にここで寝る訳には」
そもそも僕は、課題の着手には成功したが、山の脱出には成功していないのだ。
先程のように、闇雲に進んでもまた同じ目にあう気がする。
運良くこのダメージで済んだが、今度こそお陀仏だ。
詰んでる状況なのは変わってない。
走葉さん。電話じゃあ帰らないとは言ったけど、お盆休みは帰れそうです。
あの世から、故人として。
「いや死んでたまるか!」
死んでる暇なんてない。
こうなったからには、僕史上最高傑作を作り上げて、あのにやけ面(先生)に叩きつけてやる。
先生への鬱憤で心を奮い立たせる。
まずは枯れ木と枯れ葉の広場を抜けるべく、最も安全そうな場所を探す。
暗くて境目が分かりにくいが、この広場はわずかに円の軌道を描いている。
傾斜を上に向かって進み失敗して、傾斜を下に向かって進み失敗した。
逆転の発想として、傾斜を平行に向かって進むのはどうだろうか。
もちろんこの方法では、山頂には行けず脱出も不可能だろう。
しかし怪我のリスクは限りなく低い。
こうして危険を回避しながら山の正面を目指す。
正面にたどり着くことさえ出来れば、舗装された登山道を下って町に戻れる。
舗装された登山道があればの話だが。
今はわずかな希望にも縋りたい思いである。
時間もかかるだろうが、命には換えられない。
広場を半周に差し掛かった頃、大人が二三通れそうな抜け穴を見つけた。
やはりここも暗くて奥の様子はわからないが、かなり続いているのは見て取れた。
「ここを通るのか?まじで」
すでに転んで土塗れとなった身からは、これ以上汚れることはどうとも思わないけれど、それでも不安要素の方が大きい。
覚悟を決める。
息を整えて腰を落とす。
近くに落ちていた木の棒きれを使って、前方を確認しながら進む。
同じ轍は踏まない。
意外と長いなこの穴。
なれない足場で自分の進みが遅いのかもしれないが、それを差し引いても長い。
こう長いと時間の感覚も、平衡感覚もおかしくなるな。
あれ、今上向いてるのか?下向いてるのか?
体のダメージと眠気も相まって、脳が混乱し始めた時、木の棒きれを伝って右手に感覚が走った。
ガサガサと。
壁?ではない。
まさか行き止まりか。
目の前には茂みが広がっていた。
木の棒きれを突き刺してみたところ、奥に何やら空間が広がっているようだ。
「よし」
棒きれを脇に置き、両手で茂みをかき分けた。
そこに現れたのは、左から右へ、下から上へ続く石造りの階段であった。
「はは……。僕の勝ち!」
僕は階段に立ち、下を眺める。
上から差し込む月明りが、階段を下まで照らしている。
遠くの方でも、町の明かりがちらほら窺えて、僕は安心感を覚えた。
この安心感にはたまらず溜息をつき、笑みがこぼれてしまう。
「さっさと帰って寝よう。そして早いとこ課題を終わらせて、驚く先生の顔が今から楽しみだぜ」
と、階段を下ろうとしたとき、違和感を感じた。
は?月明り?
本日の天気。晴れ。
新月である。
とっさになって、後ろを振り返る。
そこには、この世の終わりみたいな輝きを放つ女性が立っていた。
目の前に、立っていた。