表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雲太郎  作者: 古村桂太郎
1/2

雲太郎(前編)

「・・・・・・・・」

ぼおーっとしていた。

むかしむかし、遥かな昔の物語。これよりずっと後の世の「駿河の国」と呼ばれる場所の出来事。

少し小高い草むらにおじいさんが寝そべっている。雲一つ無い、晴天だった。「この夜は楽しみだな・・」そんなことを思っていた。

名前は孫吉といった。身寄りはなく、ひとり、静かに暮らしていた。朝であろうと昼であろうと天気の良い日はいつもの場所でぼうっとするのが特徴であり、趣味であった。その村では、ぐうたらな性格から、「ぼうっとじいさん」などと呼ばれた。


ぼうっとじいさんはおもむろに腰を上げ、畑仕事へ足を向けた。

「あらあのじいさん、今日は動いているわ。美味しいとう菜を作ってくださいな。」

耳にしながら孫吉はこの日は珍しくせっせと働いた。

「今日の夜は、見れるな。」

畑仕事が終わるとじいさんは草で作った毛布のようなものをこしらえた。日が沈むと冷たくなる。村の人間は夜になると外へ出る者が誰もいなかったが、このじいさんは違った。

朝や昼だけではなく、暗闇の中でも、いつもの所定の草むらの位置で、ただぼうっとするのだった。ここまでくるともはや薄気味悪い。村人の中には心配する者もいたり、疑う声も少なくなく、様々だった。

普段からほとんど言葉を発せず、のらりくらりと動くこのじいさん、自分の作った最高の場所、草むらの上に寝転んだ。夜空が広がっていた。


ここには満天の星の世界がある。闇の中、幾つも幾つも重なる光と光の玉、光の帯の様々。それは幾重にもなる無限の黒と光のシンフォニー。空中の中にどんどん引きこまれ、自身の身体が仰向けのまま浮かび上がっていく感覚、空と星が目の前に迫り、一面の宇宙に吸い込まれるようだ。そこへ無数の流れ星。瞬間と瞬間が無音の中光の筋で繋がっていく。

永々無窮の中にありながら一瞬の輝きのマーチ。

孫吉の目に映るそれはこの時代の、この時代にしか手に入らない究極の三次元アートだった。孫吉を照らすその光は、彼をどこへ導こうというのか。星の光はこの村の人達にどんな願いをもたらすのだろう。



寒い日だった。孫吉は畑を後にしてねぐらへ向かった。何となく空を見上げていると入道雲と入道雲の間に小さな玉のような雲が見える。ふわふわと浮かぶその玉の雲は孫吉のねぐらの方へ流れるように進みだした。呆然としていたが雨が降りだした。孫吉は走った。久方振りに駆け、転んでしまった。ころころと転がった先に何かにぶつかる。

ようやく立ち上がり見下ろすと、丸い赤ん坊が草むらの上にふわりと浮かんでいる。よく目を凝らすと孫吉の作った草の毛布にくるまるように寝そべっている。とにかく、孫吉は赤ん坊を抱いた。まずは名前を聞いてみる。答えるわけもなく、玉のような赤ん坊はふわりと孫吉の胸に収まった。



季節が一つ過ぎ、また季節が一つ過ぎ、村の景色は緑から雪の白い世界へ。そしてまた草木の葉の色の田園風景へ。

孫吉が草むらで拾った赤ん坊は丸々と大きく育った。孫吉は産みの親を探したが一向に見つからない。手掛かりもつかめない。そうしているうちに親心が芽生え、赤ん坊も孫吉に身体を寄せた。


おじいさんはこの男の子を「雲太郎」と名付けた。何となく身体は丸々として大きい。駆けっこは特段速いことはない。力比べも勝ったり負けたり。性格はおとなしく、穏やかだった。村の子供たちの輪の中にも溶け込んでいった。子供の世界は、時代を問わないだろう。


家訓。物心ついたときから受け継がれる言葉が、この世にはあった。代々伝わる戒めのきまり。雲太郎のおじいさんのそれは、「人の悪口を言わない」というものだった。相手の面前はおろか、陰口しかり、誰もいない時でも、いかなる場所でも、悪口は言わない。おじいさんが無口たるゆえんは元来の性分なのか、この教えを守り通した悟りの境地か。

雲太郎もまた、この言い付けを受け継いだ。

悪い言葉を発しないことは、邪悪な心を封じる現象をもたらす。


丸い男の子は夢中で遊んだ。くりっとした目と愛嬌ある笑い顔は子供たちの間だけではなく村の大人たちにも好まれている。

「あのじいさんの孫とは思えないねえ。」

一日遊んだ泥んこの手に芋が握られた。

物静かだがどこか得体の知れない暗さと不気味さが漂うおじいさんと、あどけなさと節度を兼ね備えたはつらつとした子供。相反する二人組の違いの差は、生まれてからの年数の違いからなのだろうか。

どこかで輝きは光を止める。それは知識がそうさせるのか経験がそうさせるのか。

雲太郎の握った芋を見ると孫吉は目を細めた。


太陽が照り付ける暑い日のことだった。

朝早くから村の子供たちは川で遊んでいた。雲太郎はいつものようにひとつ年上の勝男(かつお)のかたわらに姿が見える。勝男は雲太郎に遊びを教えてくれる。駆けっこや鬼ごっこ、隠れん坊や影踏みなど、遊び相手であり、先生でもあった。

ひとつ年上の先生は今日は泳ぎを教えてくれた。雲太郎はその後を見様見まねで付いていく。勝男は蛙のようにすいすいとよく泳いだ。そのすぐ後ろを子犬のようにばしゃばしゃと手足を動かしたが、やはり川を渡るのは容易ではなかった。川下の方へ流れると身体よりも深くなってしまう。やがて雲太郎は泳ぐのを諦めて元の場所に戻り、水遊びをしながら勝男の泳ぐのを眺めた。

勝男の泳ぎは上手だった。川の流れにも負けず自由自在に進んでいく。風がしばし止まると彼の泳ぐ川音だけが耳に響き、魅了された。


そろそろお腹がすいた子供たちは水遊びを切り上げ、歌を歌うのを止めてそれぞれの家に帰っていった。しかし勝男は泳ぐ練習を止めない。雲太郎は川岸でひとり眺めていたが眠ってしまった。

太陽が真上にくる頃、風の音と川を泳ぐ音がのどかな景色の中で反響する。

雲太郎の一番の遊び相手、勝男の家訓は「泳ぎは誰にも負けない」というものだった。勝男の父は流れの急な川下でも対岸へ泳ぎ渡るという。川は、この時代の最も危険な場所の一つとして認識される。この家訓には危険を顧みず勇敢に立ち振る舞う尊さの意味も含んでいるようだ。


と、目が覚めた。お腹がぐーと鳴った。おじいさんの元へ帰らなければ。

(かつ)さーん。おいらも帰らねばいけねえぞー。」

川から返事は来ない。その短い時間太陽は雲に隠れ川の流れがより鮮明に映る。その短い時間川音の険しい振動が耳に刺さる。強い風が身体を揺らす。雲太郎は全身に恐怖を覚えた。そのまま後退りしながらもう一度川を見たが、勝男の姿はなかった。

周りに目をやるが誰もいない。辺りを見渡すがやはり人の姿はなく、川を流れる水の音だけが雲太郎の心に迫る。

はっきりしてくる怖さと不安の前に、彼は本能に抗わずおじいさんの元へ足を向けた。何も考えず頭は空のまま目一杯に走った。

おじいさんはいつもの小高い草むらに寝そべっている。雲太郎を見るなり帰ってご飯を食べようと腰を上げるが、雲太郎の様子が違う。

「勝さんが居なくなった。川の流れが速くなって流されてしまったら大変だよ。助けてよおじいさん。」

「それは大変だ。すぐ助けに行こう。」

二人は川へ走った。雲太郎の耳には川の冷たい水の音が離れない。その中に、微かに自分を呼ぶ勝男の声がこだました。


日は山の向こうに沈み、刻々と暗がりが村を包み込む。川の上流にいた鮎捕りたちの姿もなく、夜の世界が空気を繋ぐ。

勝男は見付からなかった。

「もう帰ろう。探しても探してもいないということは、お前さんの分からない間に帰ったということじゃ。」

「勝さんが家に?そうだろうか。」

雲太郎は及ばなかった。勝男はどこにもいない。川や川の周りだけではなく雲太郎が知りうる限り全ての場所を回った。残すのはどこまで続くか先の知れない川の下流の方だった。

「雲太郎や、わしたちも帰るぞ。夜は魔物が出るゆえ、わしから離れてはならん。」

完全な夜の世界は暗い。景色は闇に葬り去られ、一寸先も見えなくなる。月の明かりだけを頼りに、おじいさんの背中を追った。

雲太郎と遊んでいる最中(さなか)に勝男が声を掛けずに家に帰ったことはなかった。はじまりと終わりの合図は年長の役目だった。

雲太郎は川の下流の先、遥かな暗闇の方へ意識を残しながら孫吉の後ろを歩いた。目が慣れてくると月の光は不思議と青白く先を照らす。埋もれていた暗黒の中の景色は形を変えて目に映る。コバルトの世界が音もなく浮かび上がる。空は、無数の夏の星座がひしめき合っていた。


次の日、勝男の父が孫吉を訪ねてきた。息子が帰ってこない。呼吸が荒い彼に対して孫吉は怪訝な目で応え、分からないと言った。勝男の父は不安に声を詰まらせそのまましばらく考え込むと、後ろを振り返り川の方へ歩いていった。

雲太郎がそれに続こうとするが孫吉は静かに制止した。子供の出る幕ではないということか。やがて勝男の父親の背中は見えなくなり、日常の時間が進む。

孫吉は事情を説明することはしなかった。勝男の話はしない。それは落ち着かない様子に包まれた雲太郎に対する優しさなのか、単純に不合理な話が無用なのか。その心の内の割合は分からない。ただ雲太郎の寂しさは膨らみ、心細く苦しい。おじいさんは、この子供を救えなかった。


夜、雲太郎は生まれてはじめて途中で目が覚めた。隣りを見るとおじいさんが起き上がるところだった。くしゃみが出て身体を起こし、目が合うと先におじいさんの方が、

「ちょっとせっちんに行ってくるでな。ゆっくりお休み。」

と言って外へ出ていった。

雲太郎は目をつぶり寝ようとしたがなかなか眠れない。そしておじいさんはなかなか帰ってこなかった。

この夜はとても月が奇麗だった。

孫吉はこの日も神秘なる一面の世界へ向かうのだった。



何時(なんどき)の時代も水は人々の命に直接関係している。川の水は生きる上で一日も欠かすことはできず、生活用水や田畑に引く水は暮らしを優位にさせる。川の近くに位置する者たちの川の水を巡る争いは絶えなかった。

大雨や雪解けなどの為に起こる洪水の恐怖と隣り合わせのまま、それでも豊かさを求めて川筋へ居を定めた。そうして上流の村と下流の村の優劣関係が形成されていった。

勝男の行方知れずは上流の村でも話題にのぼった。勝男は下流に位置する村の中では家柄が良く、名家の長男の子供だった。

川の上流の鮎捕りたちは下流の名家の子供の捜索に乗り出した。大切な幼い子供の命。まして将来を有望される名の知れた家の跡取りになろう。村同士の会合に連れてこられ、可愛がられることもあった。何としても見付けだし、救わねばならない。動かぬ理由などなかった。或いは、下流の者に対して示しをつかせ、或いは恩を作り、或いは自らの地位を確固たるものにとどめておく事項になる。思惑が交錯する。小さな村の有力者たちの姿は時代を越えて受け継がれていた。


鮎捕りたちが勝男がいなくなった当日の彼の足取りに着眼すると、一人の男の子の名前が挙がった。「ぼうっとじいさん」と呼ばれる男と一緒に暮らす「雲太郎」という男の子。出生が知られておらず、実体がよく分からない子供だった。

その日は、太陽が真上にくる前から二人で居るところを目撃されている。川の中に入り泳いでいる様子、カジカを捕まえて遊んでいる姿、小石を投げる姿、勝男の方はもっぱら泳ぐことに打ち込んでいるが雲太郎は魚や石を投げたり川の中を走ったり、勝男の行く手を遮り邪魔をしていた、そんな声も聞こえてきた。

近頃勝男はこの雲太郎という名の子供と行動を共にしている。年が一つしか違わず気心が通じ合い、仲も良く、兄弟の様相だった。勝男に本当の兄弟はいない。

上流の村の鮎捕りの一人は不吉な予感を言葉に出した。得体の知れない者と近づきすぎるのは危険であった。

猜疑心が渦巻く中孫吉じいさんと雲太郎は呼び出された。

「ここに孫吉殿、其の子供、雲太郎は勝男の行方が分からなくなった同じ時、確かに一緒に居た。とあるが抗いの言葉はあるか?」

孫吉は沈黙で答えた。

「では勝男はどういう理由で帰ってこないのか。どういう理由で行方が分からなくなったのか。どこへ消えたのか。」

「それは分かりませぬ。」

「勝男が最後に目撃されたのは川の中だった。傍らには雲太郎が居た。それが何を意味するか。」

孫吉の声色は怖れに染まる。

「その日は、雲太郎と川で泳ぐ訓練を重ねておった。だが勝男の泳ぎについていけず見失ってしまったそうですのじゃ。訳も分からずどうしていいものやら、わたしにも分かりませぬ。知りませぬのですじゃ。」

鮎捕りたちの陣取るその奥にいた勝男の父の床を踏む音が耳に直接突き刺さる。

「孫吉殿の考えはどうだ?勝男は、泳ぎに負けて流されたのか。それとも対岸へ泳ぎ着き、見知らぬ土地をさ迷っているのか。」

孫吉は言葉がでてこない。口も、目も、心も、障子をゆっくり閉める様に塞いでいく。


次の孫吉の言葉が出るまで、この床の間の座敷の空間はしばし、いや、ずっと、逃げることを許さなかった。孫吉の疲弊と焦りは彼を包み、この座敷の中を覆う。彼の呻く声が冷たい静けさを際立たせる。暑さは、邪念の熱へ変わる。

雲太郎は震えていた。村の大人たちが集まって勝男の行方を案じている。勝男は見付かっていない。そして孫吉のおじいさんが大人たちに責められている。勝男は、本当に所在が分からなくなっている。勝男は、本当にいなくなった。もう帰ってこないのか。二度と会えないのか。勝男は、死んでしまったのか。

幼い子供は現実を見た。足は硬直し動かない。息が詰まり胸が苦しい。蒸れたい草の匂いが臭い。際限の無い苦行の時間は続く。

「わしには、わしには・・・・分かりませぬ・・・・分かりませぬ・・・・。」

孫吉は生気を失い、うんうんと苦しそうな声を続けるばかり。そこへ、上流の村の別の一人が声を上げた。

「ところで孫吉。その雲太郎はお前の孫であろう。しかしお前には女房がいないと聞く。親類のない天涯孤独の身に、何があった?説明せよ。」

孫吉の動きは止まった。それまで微かに息付いていた身体の震え、目の動き、呼吸までが瞬間を拒絶する。心は、終わりを告げた。閉ざされてしまった。

孫吉はただ、黙っている。そこへ無数の氷の刃が突き刺さる。これ以上、孫吉の一言半句も見逃さない。わずかな吐息さえ嫌疑の耳をたてた。座敷の間の空気は張り詰め息は止まる。西日は床の間の隙間をかいくぐり孫吉の頬を残酷に照らす。あらゆる現象はこのおじいさんを罪人に仕立て上げる。

次に耳に入ったのは勝男の父親の声だった。

「わたしが聞いた話によると孫吉さんの遠い遠い親族の名を持っていない一人のおなごが、何とも身籠ってしまい、その子供を引き取ったということです。それより奥の話は聞きますまい。」

「そういう訳か。なぜ言わん。なぜ黙っている。口を開かねば済むと思うか?」

「それは言いたくないのでしょう。ですが孫吉さん、わたしの勝男のことは話して下さい。知っているのなら本当のことを申して下さい。」

孫吉は、視線は焦点が合わず、首を垂らし、うなだれている。ただ疲れ果てているその姿は、憮然な態度にも見える。罪人に仕立てられた男の所作は、そのすべてが悪行と化してしまう。

「では聞き方を変えましょう。勝男は、川に溺れてしまったのか。勝男は、流されたのか。教えてくれ、じいさん。孫吉のじいさん、勝男は、戻ってはこないのか。」

瞬間、雲太郎は声を上げた。孫吉に座敷の中では口をきかぬ様諭されていたが、それを破って声を上げた。

「違う、違う、おいらもおじいさんも分からない!知らない間に見えなくなったんだ。」

「川の中で見失ったということか?」

「うん。泳いで向こうの方まで行って、帰ってこなくなったんだ。」

「それは・・。」

「その後でおじいさんと二人で探したけれども、帰ってこなくなったんだ。」

雲太郎にとってははじめて経験する極度の緊張した場面。身体は村人たちの冷たい視線の寒さに堪えきれずがたがた震えているが、口は真一文字に結ぶ。呼吸は苦しく息は絶え絶えだが目から涙は出さない。小さな子供の精一杯の勇気。そう。本当に何も分からないおじいさんを助けなければいけない。

身寄りの不確かな出生不明の哀れな男の子。このまだあどけない声が響いた時、いじらしい波長がわずかに空気に混ざり全体の想念の濃度が変わる。太陽の光は山の向こうに隠れ、孫吉の顔の半分は影になって現れる。

上流の村人たちに疲れが見えはじめ、思考の体力が低下したとき、この雲太郎の息遣いに反応したのは床の間の座敷の刀自だった。

「ぼうや、ぼうやの家の家訓は何かしら?分かる?おじいさんに、かならず守る様に教えてもらった言葉を。言いなさい。」

急な問いに目を丸くする雲太郎。

「悪口は言わない。人の悪いことは、言っちゃいけないんだ。」

言葉に力を込めて、雲太郎は答えた。段々と雲太郎の方も憮然とした呼吸音に変わる。しかしその時最初に孫吉に詰問した鮎捕りが目を見開いた。

「それは愚かな。悪い行いを看過することが美徳だと言うか。それは卑怯者だ。なんと心無い愚物であるか。良いか孫吉殿、胸に納めるのはなにゆえであろう。それが善行を施すというのか。はなはだ違う。自己欺瞞に満ちて苦しかろう。お前に人の心があるとするならば。」

孫吉の表情は陰になって分からない。暑い暑い屋敷の中、この鮎捕りの言葉はひとりでに続く。

「相手のことを考える精神があるのなら、胸に納めるのではなく、胸を割ることこそが真実の姿であろう。心の中にこそ、慈しみの根源があるのだ。その尊い心の内、心の中身を、白日の下にあらわにせよ。さすればその時こそ、その者の偽りない信念、信条を知ることになる。此れがわしの心思だ。孫吉、お前のように黙るのは偽っていることと同じ始末よ。愚かな行いじゃ。改めよ。」

鮎捕りは吐息をついた。気が済んだのか。

村の者が感嘆の声を上げる中、孫吉と雲太郎は何の反応も示さなかった。雲太郎にしてみれば言葉が頭に届かないでいる。それを知ってか続けざまに座敷の刀自が雲太郎の顔に目をやった。

「良いかいぼうや。口をつぐんで黙っていることは悪いことなのよ。良いことも悪いことも、勇気を出して、相手に伝えないとだめ。それが本当の思いやりなのよ。分かったわね?」

「でも、勝さんの居なくなったのは本当に分からないんだ。おじいさんはなんにも嘘はついてないよ。どこへ行ったのか、分からないんだ。」

その時、鮎捕りの一人が言った。

「いずれにせよ勝男の最後の行方を知っているのは雲太郎だ。居なくなった時、一緒にいたのは間違いない。ならば、その責任は雲太郎と孫吉が背負うことだ。」

別の鮎捕りが尻馬に乗る。

「何としても勝男を見付けだしてもらう。それが叶わなければ、孫吉に報いを受けてもらわねばならん。」

「地の果てまで、川の中を流れてもらう。」

「そうだそうだ。厄災は川に流せ。それが良かろう。」

孫吉の処分は決まった。上流の村とそのすぐ下を流れる川の村の総意として、ここにアナウンスされた。

「十五夜までに勝男が戻ってこなければ、その明日(みょうにち)の朝、川流れを決行する。それをもってけじめとしよう。」

耳に聞き、孫吉は無言のまま雲太郎の手を引いて屋敷から出ようとした。歩を進めるが村の者たちの罵声が刺さる。様々な毒蛾が飛び交う。「ろくでなし。」「人さらい。」「うつけ者。」「陰険なじじいめ。」そして、遂に、「この人殺し。」ーーこの言葉以降の声は耳に届かなかった。屋敷の中は、変な不思議な一体感に包まれていた。


帰り道、二人は放心したまま重い夕焼けを歩いた。しばらくして少し我に返った時、うるさいセミの鳴き声が急に耳に一斉に反響した。これほどうるさいと思ったことはなかった。これほど煩わしいと思ったことはなかった。孫吉は、雲太郎の隣りで足を進めながらセミの鳴き声に何度も、何度も、何度も、舌打ちをした。雲太郎は胸がざわざわする。風の音と、容赦無い虫の騒ぐ音と、耳元で鳴る舌打ちの音が不規則にループを起こし、不安と恐怖が心の中を侵食していく。

この時、雲太郎の胸の中で新しい鼓動が一つ、ドクンと鳴った。


(前編終わり)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ