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一富士、二鷹、三茄子②

「せーの、でジャンプしてよね」


「……ジャンプ?」


俺の言葉に、彼女は頷き微笑んだ。先程の垣間見えた苦しそうな笑顔は、いつの間にやら跡形もなく消え失せている。


冷たい街灯の光は、深い闇の中の俺と彼女をぼんやりと照らし出し、真っ黒なキャンバスに無秩序に散らされた星々は、そんな俺達を嘲笑うかのように小さく瞬いた。


「じゃあ、いくよ?せーのっ」


「……っ」


言葉と共に引き上げられた腕につられ情けない体勢になりながら、俺は地面を強く蹴る。密かに力が込められた手を緩く握り返し、ふわりと浮かび上がる感覚に体が強張った。


視界の隅で赤い着物の袖が揺らめく。地面に引きつけられるのを感じながらちらりと盗み見た彼女の表情は、未だかつてないほどに穏やかだった。



「ハッピーニューイヤー!!」


着地した瞬間に大きな声を上げた彼女に、俺は思わず小さく悲鳴をあげ、慌てて繋いでいた手を解く。


着地の衝撃は俺の思考を元に戻すのには十分なくらいに現実的で、彼女の携帯から流れた間の抜けたメロディーは、俺の頭を一気に冷めきった通常のものにしてくれた。


ああ、何やってるんだ俺は。

彼女と一緒にいると、どうも調子が狂う。知らない内に流されて、普段の自分であれば絶対にしないような事でも、体が勝手に動いてしまうのだ。


何だ、今のは。


「新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」


わざとらしいたおやかさで深々とお辞儀をする彼女に、ほとんど反射的に会釈をする。機械みたいな反応を返してしまう自分に、しみじみと日本人の悲しい運命を感じながら俺は眉を寄せた。


「おめでとうございます、は置いといて……今の何ですか?」


彼女が何がしたかったのか、俺には皆目見当がつかない。苦しげな表情や真摯な視線に流されて言われた通りにしたものの、今更ながらに意味をはかりかねてちらりと彼女を窺った。


「何って、一緒に地球から逃げたのよ」


「意味が分からない」


即座に返した言葉に、彼女は苦笑してみせる。だから、地球から逃げたのよ。同じ事を繰り返す彼女に、俺は口をへの字に曲げた。


だから、その意味が分からないんだよ。


「宇宙に行ってたのよ」


「……は?」


私が私である事や、キミがキミである事。私がスクールカウンセラーである事や、キミが高校生である事。あらゆる事が意味をなさない場所に、2人で逃げたのよ。


彼女が紡ぐ言葉は、時に理解の範疇を大きく逸脱している。


「ずっと『自分』っていう型に嵌められたままに生きるのって、辛い事だと思わない?」


彼女は笑う。彼女はいつも余裕を見せているけれど、俺としてはその飄々とした様子や予測の出来ない言葉に身構えるのに必死で、頭は常にフル稼働を要求される。


恐らく俺は、まだまだ彼女を知らない。


「……辛い。前の俺なら、それが辛いと思っていました」


今の俺だって、全く別の理由ではあるが、現在進行形で自分の肩書きやつまらない常識に捕らわれて苦しんではいるのだけれど。


俺の言葉に彼女は目を細めた。


「そうだったね。でもね、私だってそんな事で悩んだりする時もあるんだ」


逃げたいと思う事だって、ね。


何が彼女をそんなに疲れさせているのか、俺はその時初めて彼女の弱さを見た。小さく開けられた口から漏れたのは、確かに溜め息。


「私達、新年を一緒に宇宙で迎えたのよ。確かに私達、既存の『自分』から解放されたの」


そう言ってゆっくりと歩き始めた彼女に、慌てて動かした足が軋んだ。冷え切った爪先に感じた小さな痛みは、じんと骨まで染み渡ってくる。


「たった1秒に満たない時間でも、とっても意味がある事なのよ」


私にとってはね。


ふわふわと視界を漂った1枚の花弁の様な雪を、彼女は両手で包み込み溶かして見せた。


「毎年やってるけど、1人なんて寂しいじゃない?」


手のひらで光る水滴をちろりと舐めとり、彼女は子供の様に無邪気な笑顔を向けた。隠し切れていない負の感情を感じ取り、素直に笑顔で返せない。


何が、彼女をこんなにも悩ませているのか。


「……俺で良いんなら、いつでも一緒に肩書きを捨ててあげますよ」


心を病んだ人のはけ口である彼女の、はけ口になれるなら、それはそれで嬉しい事ではないか。思っても口に出したりはしない俺なりの思い遣りは、止めるタイミングを見失い流れ出た。


何て恥ずかしい台詞だろう。


「違うのよ。……違うの」


一頻りの沈黙の後、彼女は弱く頭を振った。歩く度にチリチリと鳴るキーホルダーの小さな鈴だけが、流れる静けさを繋いでくれる。


「でも、ありがとう」


そう言った彼女の表情見る勇気は、俺には無かった。いつもと違う雰囲気に戸惑いながらも、俺は今回の本当の目的地への道のりをただただ歩く。


結局、彼女は何も言ってくれないのか。


それが寂しくて、悲しくて、けれど心のどこかでは安心をしている。その口からどんな言葉が紡がれるのか、期待も不安も孕む感情は、俺の物でありながら理解が出来ない。


頭が混乱している、きっと。

恐らくは、彼女自身も。


頬に感じる風は、冷たく乾いていた。


「ああ、やっぱり混んでるのね」


割に有名な近所の神社の石畳を殆ど擦り足ような形で前に進みながら、彼女はうんざりしたように口をへの字に曲げた。わいわいと賑わう境内は、常日頃の静けさが漂う神秘など微塵も感じさせない。


「なかなか進みませんね」


あまりにも高い人口密度に、人混みが苦手な俺も思わず顔をしかめてしまう。一体いつになったら拝殿の前まで行けるのか。ここからでは鈴の緒が揺られているのが見える程度で、まだまだ遠い。


「ごめんなさいね。やっぱり昼間に来た方が良かったのかしら」


はぐれてしまわないようにと俺のコートの裾を掴んだ彼女は、申し訳なさそうに苦笑する。その様子を頭1つ分高い位置から見下ろしながら、俺は内心首を傾げた。


俺のなけなしの国語力で判断する限りでは、どうも今日の彼女の目的というものは初詣ではないような気がするのだ。恐らくは先程の『宇宙への逃亡』、それこそが目的なのではないか、と。


何が彼女にとって意味のある事なのか。それはとても難しい事のように思えた。


「昼間でも大して変わらないでしょ。先生が構わないんなら、別に俺だって気にしませんよ」


「……キミ、何かあったの?」


怪訝気な顔を向けられて、俺は首を傾げた。何んでそんな表情をされるのか、俺には全く見当がつかない。確かに、少々口が脳と直結したように発言が暴走しているが。……かなり、よくない傾向だ。


彼女はそんな俺を真似て首を傾げ、小さく笑った。


「今日は何だか、優しいね」


彼女の大人の女性というよりは幾分少女じみたくすくす笑いは、俺の心臓をいとも簡単に乱れさせる。それが彼女に伝わってしまわないように必死になって、俺は努めて無表情を保とうとばかりしている。


「……いつも優しいの間違いでしょう」


けれど、少しだけ隠しきれない口元の笑みは、ご愛嬌だ。


「じゃあ、今日は特に、ね」


彼女がコートを掴む位置が右腕の裾に変わった事を感じて、俺はその控え目な重さに顔が熱くなった。ああ、気持ち悪いな、自分。乙女全開な自分に嫌気がさしながらも、この変な思考回路を停止する事は不可能で、俺は今年初めての溜め息をつく羽目になった。


「後少しですね」


やっと5、6m先まで迫ってきた賽銭箱に、ぐいぐいと背中を押される不快も緩んでいく。確認のような俺の言葉に、彼女は小さくそうだねとだけ返した。


「金がないとお願いも聞いてくれないなんて、神様のクセして人間臭いと思いませんか?」


ご縁があって見通しが良い5円玉、ありったけ財布から取り出しながら兼ねてからの思いを吐き出してみる。彼女はといえば、ぴらぴらと1万円札を揺らしながら俺の様子を見つめていた。


あんたの神様は、随時と高給とりなんだな。


「なーに失礼な事言ってるの。神様だってボランティアじゃないんだからお金くらい欲しいでしょ」


他の宗教なんかの神やら仏やらは、人間らしさを微塵も感じさせない程に慈悲深かったり、はたまた残酷だったりと、崇められるのも納得できる。


けれど、日本の神様ってちゃっかり見返りを貰おうとするし、親近感が湧くほどに人間的なんだよな。


「……まあ、小銭なら全然大したことないですけどね」


決してケチなわけではないとぼそりと呟くと、彼女は本当に愉快げに肩を震わせて笑った。


合わせて揺れる諭吉さん、本当にあの賽銭箱に吸い込まれていく運命なのか。俺の財布には随時と長い間ご無沙汰している彼から、どうしても目が離せない。


「神様、今日はがっぽがっぽの懐うるうるね」


それは主に、あんたみたいな事をする人のおかげだ。


口には出さず視線に乗せたツッコミに気が付く事はなく、彼女は愉快げにがっぽがっぽと歌っている。


俺の右手の中で小さく音を立てる5円玉4枚と、彼女の右手で揺れる諭吉さん1枚。この500倍の差はいったい何なんだろう。信仰が経済力に左右されるような物であれば、間違いなく俺の願い事は叶わない。


「では諭吉さん、お元気で!」


鈴の緒を揺らし、古臭さを感じさせる重い鈴の音が降ってくる。ひらりと賽銭箱に吸い込まれていく諭吉さんと、それに敬礼をした彼女をちらりと横目で確認してから、俺は目を閉じた。彼女のふざけた行動に周囲がくすくすと笑うのが聞こえた気がして、勝手に顔が熱くなる。


暗闇の世界の中、落ち着いていく心とは裏腹に聴覚だけは研ぎ澄まされて、何ら関係のない話も律儀に情報を送り込んでくる。


さて、取り敢えず、志望校に合格したいです、か?


今年1年の家族の健康やら繁栄、ついでに日本の景気回復までお願いをして、俺は目を開けた。


やっぱり、20円で願い事を聞いてくれるなんて、神様は寛大だな。俺はにやりと口元で笑って鈴の緒を見つめ、神様に少しばかりの圧力をかけておいた。


おみくじは中吉という微妙な結果。学業の欄には幸い悪いことは書かれてはいなかったが、おみくじでいっぱいになった境内の木の枝に結びつけておいた。彼女は大吉。子供のような笑顔は、純粋に嬉しそうだった。


「ねえ、何をお願いしたの?」


彼女は俺の顔を覗き込みながら、首を傾げてそう言った。


ゆっくりゆっくり、俺の普段の歩く速度からいえば4割ほど減な歩調でもと来た道を歩く。月は相変わらず高い位置で冷たく輝いている。


宇宙なんて、届くわけないじゃないか。一番近いあの衛星でさえ、こんなにも遠い。


既存の自分から逃れる事や、建て前を脱ぎ捨てる事など、簡単であるはずがない。


「……まあ、色々と」


ぼんやりと別の事に思いを馳せながら、曖昧に返事を返した。図々しい程に幅広い願い事を山積みにして来たのだ。いちいち事細かに説明する気など、全くもって湧いてこない。


何が可笑しいのか、彼女は隣で小さく音を立てて笑う。


「志望校合格は、勿論お願いしたのよね?」


「それは、まあ受験生としたら必須です」


その受験生が日本の情勢回復まで願ってやる義理は無いのだけれど。

「先生は何をお願いしたんですか?」


俺の500倍も価値のある願い事とは一体何なのか。単純に気になってかけた言葉に重なるように、チリンと鈴の音が響いた。


突然に脇の塀に現れた猫に、彼女は驚いて露骨に肩を震わせた。目を細めて俺が差し出した手に擦り寄る白い猫は、もこもこと柔らかそうな長い毛で、何とも上品な印象を受ける。


「……まあ、色々と」


まじまじと俺の手の動きを見つめながら彼女はそう返した。驚きも治まり可愛らしい猫に過剰反応を示すかと思いきや、寧ろ俺の一歩後ろで静かになっている。


猫が苦手なのだろうか?


「それ、俺の真似ですか?」


先程彼女からの同じような質問に俺が返したのと全く同じ返答に、わざとらしく低いトーン。


猫から視線を移すと、彼女はふわりと微笑んで頷いた。


最近、めっきり彼女のこの手の優しい微笑みに弱くなったのかもしれない。むずむずとした恥ずかしさに、俺はすぐさま視線を外した。


「その願い事って、既存の自分から逃げる事?」


するりと俺の手に絹のように柔らかな感触を残して、猫は闇の深くへと去っていく。尾が描く瞼に焼き付くような眩しい白い残像は、自由そのものだった。


彼女は首を傾げ、考え込むように指を唇に添えた。指の白さと唇の赤さとのコントラストが激しくて、くらりと目眩がする。


末期だ。


そんな事を考えながら。


「うーん。既存の自分から逃げなくてもこの状況を打破できる方法を知りたいです、かな」


一頻りの沈黙の後、彼女は苦笑いをしながらそう返してきた。一体どんな状況に置かれているのかは見当も付かないが、彼女は尋常でなく今の状態が気に入らないらしい。


「へえ」


日本の情勢回復の500倍も価値がある方法とは、余程の物なのだろう。神様が彼女をどう導くか、大変気になるところだが、俺の口から出たのは全く興味を示していないような薄っぺらい2文字だけだった。


そんなに現在の状況を打破したいだなんて、まるで。


まるで、俺と居たくないと言われているみたいだ。


勿論そんなつもりで言っているわけではないと分かってはいるが、近頃随分と、取り分け彼女絡みの事になると被害妄想とも言えるほど悲観的に捉えてしまう傾向にある。


だめだ、溜め息をついてしまいそうになる。もう止めよう。


「……先生は、神頼みに何か意味があると思いますか?」


とにかく悲観的な思考から逃れたくてふった話題は、それこそ何か意味があるのかと思ってしまうほどに可笑しな物だった。


「お賽銭を入れてお願いをする事に?」


……ふむ。


話題の方向転換以外には大した意味もない俺の投げかけは、思ったよりも彼女にとっては興味深い分野だったらしい。妙に真剣な顔をして前を睨むように見つめ始めた。


神頼みに意味があるかなんて質問、本当に馬鹿げてる。意味がないわけがないのだ。


信仰が自由の日本にでさえ神頼みの習慣があるんだ。他国ではもっと神や仏への崇拝はきちんとしているのだし、神頼みに意味がないとすれば、殆ど全世界の人間が無意味な行動をとっている事になる。


ある意味、信じる事は人間の本能とも言えるだろう。


彼女が何やら百面相しながら考えている間に、自分でも思案をしてみた。


「……まぁ、お賽銭には大した意味がないかも知れないわね」


「やっぱり、そうですかね」


苦笑いでそう言ったのは、明らかに賽銭の金額に気合いが入っている自分に矛盾してしまうからなのか。


「となると、大事なのは、信じる力なのかなぁ」


「神様を?」


何だろう。今日、正確に言えば昨日から自分達の間に流れている空気が、妙に可笑しい。彼女の言動や俺の受け答え、ふとした瞬間に感じる歪み、息詰まるような雰囲気。


やわらかなオレンジ、ほのかな酸味を含んだ柑橘の香り、アーティフィシャルなど微塵も感じさせない暖色の世界。彼女への感情を自覚してから肌で感じていた暖かさは、何故だか今は感じられない。


恐らくは、単に周りの気温が冷たいからという理由だけではないだろう。これは一体何なのか。


ただ、怖い。


「それもあるけど」


一頻りの沈黙の後、突然に鼓膜を震わせた彼女の声に、完全に別次元へと旅立っていた頭が現実に引き戻される。少々強引で乱暴なその衝撃に、俺は肩を震わせた。


「どうしたの?……寒い?」


「いや、大丈夫です」


「そう?」


彼女はこの空気を感じているのだろうか。いや、寧ろ俺と同じ感情など抱いていないのだから感じ得るわけがないのか。


受け入れられるはずのない、この感情を。


「結局は、自分を信じる力なのかも」


「……自分を信じる力が大切なのに、なんで人は神頼みを止められないんですかね」


「なになに?今日はえらく質問責めにあってるような気がするな」


彼女は苦笑をして、こつりと拳で俺の肩を小突いた。ドアをノックするように軽く、清潔げな透明のマニキュアが丁寧に塗られた指先が、電灯からの密かな光を受けて弧を描く。


おい、そりゃ一体どういう意味なんだ。


叩かれた理由を汲み取りかねて思わずへの字に曲がった口を見て、彼女はもう一度、今度は強めに俺の肩を小突いた。


「……で、何だっけ?」


「自分を信じる力が大切なのに、何で神頼みが必要なのかって質問です」


「んー。それはやっぱり、自分の無力を悟っているからじゃないかな」


無力と悟っていても、実現したい事。

無理だと分かっていても、諦められない事。


「……自分ではどうしようもないと?」


そう。


ゆっくりとした歩みが止まり、代わりにぼんやりと足元を見つめていた俺の視界の端に映っていた彼女の足先は俺の方を向いた。


深紅の着物を辿って行き着いた彼女の柔らかい表情、その後方には見慣れた校舎が静かに佇んでいる。


もう、着いてしまった。


残念な気持ち半分、嬉しい気持ち半分で彼女を見ると、幸か不幸か彼女が別れを切り出す様子はない。


「自分ではどうしようもない事、もしくは、少しは望みもあるけれどお力添えをお願いしたい事」


「先生のお願いは、どっちなんですか?」


「……お力添えをお願いしたい事、だと良いな」


彼女が作り出した1秒に足らない短い間にちらりと垣間見えた真剣な眼差しに、心臓がざわりと波立つのを感じて、俺は密かに体を震わせた。


どうしてこんなにも過剰反応を示すようになったのか。その答えは、言わずもがな分かっているけれど。


「勿論自分の力も信じているけれど、やっぱり無理なのよ。だから信じる気持ちを神様に転化してるだけ」


「……転化」


そう。


ぽつりと呟いた言葉にも律儀に反応を返しながら、彼女は天を仰いだ。柔らかな月の光は朧気に横顔を照らし出し、彼女の黒目がちの目をきらりと輝かす。


「信じる気持ちを神様は買うものでしょうけど、付加価値でしかないお賽銭に気合いが入っちゃうのは人間の悲しい性かしら」


私みたいな人間の、ね。


首を傾げて見つめられ、俺は返答につまり曖昧に笑って見せた。はいともいいえとも取れる日本人特有の便利で使い勝手の良い反応、何故だかこんな時だけ日本人に生まれて良かったなどと感じてしまう。


「そこははっきりと否定してくれなきゃ」


俺の笑みを肯定と受け取ったのか、彼女は頬を膨らませた。


「でも、先生」


わざと中途半端な部分で区切り、相手の反応を観察するのは、目の前の彼女の癖。若しくは、色男が女性を翻弄するためか、単なるドSがなせる技なのか、我が兄様を彷彿とさせるもの。


そんな事を考えながら真似をした、2人の奇妙な共通点。続きを促すような、純粋に真っ直ぐな瞳を簡単に手に入れる事のできる方法は、思いの外クセになりそうな後味だった。


「でも、何?」


目を細めて唇を尖らせずいっと一歩近付く彼女の姿は、年相応の落ち着いた雰囲気よりも寧ろ、自信と希望に満ち溢れた若いとも幼いとも取れる俺らの年代の女性特有のものに似ている。


「でも、先生は俺がどう答えたって、揺るがせる事はできない程決めてかかっているような口振りだったと」


恐らくは、自分に否定的な方向に。


意識的に右の口角だけを上げて笑うと、彼女は眉を寄せて困ったように苦笑いをした。


「全く、キミには適わないな」


ほんの少し暖かさを取り戻した空気に安堵して、俺は小さく息を吐く。ふわりと白く揺れた息は、闇に溶けるように消えていった。



「おかえり、楓」


冷たい銀のノブを回して部屋に入ると、いつもの見慣れた景色の中に見慣れないベッドの膨らみ。説教をたれてやろうと口を開く前に聞こえてきた声に、俺は今年初めてとなる溜め息をついた。


「ただいま、新居 宏君」


どさりとローテーブルの前に腰を降ろすと、俺が後のお楽しみにとっておいたマンガ雑誌の最新刊をペラペラと捲る様子がよく見えた。


良いご身分だな、おい。


「さて新居 宏君、あんまんを召し上がりませんか」


「えっ?食う食う!楓ってば良い奴!」


「……さいですか」


ガバッと起き上がった腐れ甘党の輝く笑顔に冷たい視線を向けて、俺は近くのコンビニで買ってきた宏用のあんまんとイチゴミルクを投げつけた。


「へへ、ありがとー」


「どういたしまして」


これだけ好みが分かりやすくて機嫌を取るのも簡単な人間ばかりなら、世の中は幾分簡単なものになるだろうに。満面の笑みでもふもふとあんまんにかぶりつく男を頬杖をついて観察しながら、俺はピザまんを一口食べた。


ああ、今日も今日とてチーズは旨い。


「骨太になっても知らねーぞ、チーズ野郎」


「血がイチゴミルクになるよりはましだ、腐れ甘党」


大体、骨太は悪い事じゃない。


あんまんとイチゴミルクは、宏が冬になるとコンビニでいつも買う組み合わせだ。俺は決まってピザまんとブラックコーヒー。今日だって店員に顔を覚えられて、イチゴミルクの紙パックとコーヒーの缶をレジに置くと、あんまんとピザまんですかと向こうから聞いてきた始末。


「……お前見てると胸焼けがするよ」


「え?何々楓、俺を食べちゃうき?」


落雁やケーキの上のカラフルな砂糖菓子を想像して、思わず眉をひそめた。噛むとじゃりっと口の中に砂糖の甘ったるさが広がる感覚は、昔から恐ろしく苦手なものだ。


「死んでもごめん被りたいね」


「そりゃざんねん」


その残念の意味がさっぱり分からんな。


具が無くなり味気ない最後のひとかけらを口の中に放り込んでも、彼はまだ半分あたりでもふもふとやっていた。


その後2、3時間は他愛のない話をしたりもしていたが、いつの間にかマンガのページを捲る紙の擦れる乾いた音も止み、気づいた頃には緩やかな寝息が静かに鼓膜を揺らしていた。


全く、寝たいのはこちらの方だというのに。


良い具合に俺に馴染んだベッドで眠る腐れ甘党の観察にも飽きて、俺は重い腰を上げた。


無意味に窓際で外を眺めてみる。


「……寒いな」


ガラスの窓には白く俺の手の跡がついて、ガラスの冷たさも手の暖かさも溶け合い混じり合って馴染んでいく。


「既存の自分、ね」


ちらつく雪がこの街を洗う。俺も彼女も、学校も公園も、全てを洗い流していく。


透明な膜を一枚隔てて、確かに生まれ変わっていく世界。


段々と白んでいく景色をぼんやりと見つめながら、俺は彼女の手の柔らかさに思いを馳せていた。


「それを捨てる事ができたら、こんなに悩む事もないんだろうか」


まだ右手に彼女の暖かさが残っているような気がして、爪が手のひらに刺さる痛みを求め強く強く握り締めた。



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