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一富士、ニ鷹、三茄子

今年の紅白は、白組の優勝だろうな。


煌びやかに着飾った歌手やら芸能人やらは、テレビの中で目まぐるしく動き回っている。俺はそれらをぼんやりと見詰めながら、コートを羽織りマフラーを首に巻いた。


今年流行ったアイドルやバンドの聞き慣れた曲、テーブルの代わりに置かれた炬燵の中で食べる年越しそば、アイスにマンガ雑誌。そんな毎年恒例の大晦日は、今年は味わえないらしい。


「ちょっと出てくる」


台所でおせちの黒豆を煮るのに真剣になっている母さんと、みかんを頬張り流行りのアイドルの曲を歌う父さん、何やら怪しい背表紙のホラー小説を読む兄さんに、ファッション雑誌を捲りながらファミリーパックのバニラアイスを黙々と食べる姉さんに声を掛けた。


「いってらっしゃい」


皆が次々に口にする言葉を背に受けながら、履き慣れたスニーカーをわざわざ靴紐を結び直してきつめに履く。開いたドアから肌を刺すような冷気が暖かな家に入り込み、体が小さく震えた。


「いってきます」


小さく吐いた息は、冬の澄んだ空気を白く濁らせて月の光に煌く。ああ、今夜は空がとても高い。


空高く光る月や、美しく輝く星を見上げながら、だらだらと道を歩く。約束は11時。家を出たのは10時半。目的地までは徒歩15分。


「……寒いな」


首を竦めても両手をコートのポケットに突っ込んでも、大して意味がないように思える。風が吹く度に横に流れる前髪をいちいち元に戻しつつ、俺は溜め息をついた。


なんだってこんな事になるんだ。


「何考えてんだ?あの人」


夜の帳も深く下りた一人きりの道、呟いた声に応える者は居るはずもない。静かすぎて電灯のたてる鈍い機械音がやけに耳障りだった。


家から漏れる暖かな光や、時折思い出したように湧く笑い声に何故だか惨めな気持ちになりつつ、いつまでも経っても改善されない本日十数回目の溜め息をつく。


財布とハンカチ程度しか入っていないショルダーバッグからiPodを取り出し、ノイズキャンセラーのイヤホンを耳に取り付ける。流れ出すショパンのノクターンは、まるでこの状況で聴かれるためにあるかのように、俺の心を叙情していた。


見慣れた看板、小さな公園の遊具、いつもは猫が寝ている塀。何百回と通った道だが、こんな夜中に歩いたことはないので、雰囲気の違いに正しいのかどうかとても不安にさせられる。


「……早過ぎたか?」


想像していた通り、待ち合わせの15分も前に到着してしまった。いつもは開放的に開かれた門も、今はがっしりと重そうに閉まっている。昼間はありふれた様に見える校舎の白い壁も、月に照らされ淡く光る様子はまるでまるっきり別物の様に思えた。


無意味に携帯を開け閉めして、黒いディスプレイに表示される時間を秒単位で確認する。1分間とは、こんなにも長い物だったのか。


「……何そわそわしてんだよ」


小さな子供のように落ち着きを無くしている自分に呆れ、俺はまた溜め息を重ねた。ああ、こうやって俺の幸せは全力疾走で逃げて行くのか。


「落ち着けよ」


瞳を閉じて呟いた言葉は、周りの静けさに溶けて消えていく。最近何故だか独り言が増えているようだと、他人事のように考えた。


ディスプレイの示す時間が5分前になっても、俺の待ち人は現れない。恐らくやって来るであろう方向を見つめても、時間帯のせいか車も時折思い出したように通っていくだけだ。


悴んだ手をコートのポケットに突っ込み、門にもたれ掛かってみた。冷たい金属の感触は、俺を現実に縛り付けようとする。多少の寝不足でも、頭は妙に冴えていた。


5分前行動は、この世の決まりじゃなかったのか?


11時を回っても、俺の待ち人は一向に現れる気配がない。やりとりをしたメールを確認しても待ち合わせの時間を間違えていたというわけでもなく、単なる遅刻のようだった。


「待ち合わせの時間決めたの、誰だよ」


言わずもがな、聞くまでもなく分かりきっている事を呟きながら、俺は門にもたれ掛かるのをやめて小さく欠伸をした。頭は冴えているようだが、眠い。


どうしたのかとメールをするべきか。


10分を過ぎた頃、いい加減待つのにも飽きてきて、催促のメールを送りつけてやりたい衝動にかられた。イヤホンからはリピートにしたままのノクターンが流れてくる。いい加減そちらの方にも飽きがきて、俺はリピートを外した。


「……いや、やっぱりもう少し待つか」


遅いからといって、催促をいれて焦らすのは本望ではない。焦って事故にでも遭われたら、たまったもんじゃないし。打ちかけたメールを取り敢えず保存して、俺は携帯をポケットにしまった。


視界をちらつく粉雪が、ますます俺を惨めな気持ちにさせる。その白があまりにも美しくて、世界はモノトーンに霞んでいるように見えた。

「四百四病の外、か……」


溜め息混じりに昨日活字中毒の兄さんから言われた言葉を、呟いてみる。意味は分からなかったが、どうせ良い事ではないのだろう。あの日から、何故だか兄さんは意地悪だ。


「……寒い」


言うから寒くなるのだとは良く聞くが、言わずにはいられないのが人の心理というもの。こんなに冷たい真冬の風を受けて、強がって暖かい何て言うなんて、明らかに馬鹿げている。


「俺は自分に素直に生きてんだよ」


誰に言い訳するでもなく呟いた言葉を、風が絡めとり消えていく。独り言もここまでくれば重症だな。寒すぎて自嘲の念ばかりが湧いてきて、虚しさが加速した。


大遅刻じゃないか。仮にも受験生をこんな寒空の下で放置しやがって、あのカウンセラーは一体全体どういう神経してるんだ。


虚しさと共に密かな怒りもやってきて、割に短気な俺はすぐに眉間に皺がよる。


「……ああ、飲まなきゃやってらんない」


未成年が何を言う、と脳内でセルフツッコミを入れながら、俺は肩程度の位置の門を乗り越えた。恐らくとてつもなく冷たいであろう金属の固い感触は、悴んだ手には全くその威力を発揮しないようだ。

「……しょっ、と」


着地の衝撃は、思ったよりも冷えた足に強く響いた。目的の部室棟前の自動販売機は、闇の中でぼんやりと白く浮かび上がっている。


入ってしまってから何だが、この学校のセキュリティーは割としっかりしている事を思い出した。飲み物買って問題児扱いなんて、馬鹿らしすぎる。


「セキュリティーだって、大晦日くらい休ませてもらってるだろ」


自分でも呆れかえるほどに楽観的な考えで済ませて、のろのろと自動販売機を目指して歩く。夜の学校をうろうろとするのは文化祭の準備以来だが、一人きりだということに冬の冷たさも相俟って、しんと静かな心は不自然な音を立てた。


「……無難にコーヒーかな」


例によって紅茶に厳しい俺の舌を満足させる紅茶飲料など自動販売機に売ってはいないので、微糖と書いてあるくせに甘い缶コーヒーを買う。盛大に音を立てて落ちてきたスチール缶は、予想以上に熱く、コートの袖を巻き込んで取り出した。


「……まだ来てない」


元来たとおりに門をよじ登り戻ってみても、数分前と変わらず冷たい風が通り抜けているだけだという事実に、俺は溜め息をついた。いい加減、待つのにも疲れたというのに。


「あんたじゃなけりゃ、帰ってるよ」


プルトップを開け、甘いコーヒーの熱さを喉に感じる。じんわりと中から温められていく体に、ほっと感嘆の息が漏れた。先程までのように門にもたれ目を閉じると、うつらうつらと心地よい微睡みが訪れる。


「……早く」


俺が眠ってしまう前に、早く。その続きは、言わないけれど。





「ひっ」


突然に無機質な高い着信音を響かせ、ポケットの中で震え始めた携帯に、心臓が飛び出るかと思う程に驚いた。睡魔は駆け足で俺から遠ざかっていく。


「……ちょっと、ちょっと待って」


慌てて携帯を取り出しディスプレイを見ると、俺が望む人間からの電話では無い。震え続ける携帯、LEDランプは7色のグラデーションの光を放ちながら、早く早くと俺を急かす。


待たされすぎて少々腹が立っている俺は、このまま電源ボタンを押して切ってしまおうとも考えたのだが、暇潰しにはなるだろうと思い直して通話ボタンを押した。


「……もしもし」


「いやっほー楓!!元気してる?」


酒でも入っているのか普段の3割増しでテンションがハイな宏の声に、俺は眉を寄せた。ああ駄目だ、温度差が有りすぎる。

「お前、酒飲んでるだろ」


「まっさか~!未成年は飲酒だめなんだよ、楓くん。ノンアルコールフィーバー、いえ~っ!」


それはそれは、羨ましいことで。世の中が宏のような人間でいっぱいになれば、さぞかし健康的な世界になるだろう。頭は病気だけど。


あまりの煩いさに耐えられず、俺は携帯を耳から遠ざけた。返事をしなくてもぺらぺらと喋り続ける宏をよそに、手の中で冷めていく缶コーヒーの残りを煽る。口に残る甘さは心なしかべとついていて、爽やかとは程遠い。


「ちょっと、楓!聞いてんの?」


「聞いてはないけど、聞こえてる。こんな夜中に何の用事だよ」


こんな時間に宏から電話がかかってきた事など、今までの付き合いの中で一度も無かったように思う。色々とはっちゃけて何も考えていないように見えなくもないが、俺は彼を常識もあり礼儀も弁える事の出来る人間だと評価している。


「楓こそ、こんな夜中にどこ行ってんだよー」


「……お前、何で俺が外出てるの知ってんだ」


「へへ、お前んちに押し掛けちゃった」


語尾に星マークでも付きそうな程裏声全開でのたまった宏に、もれなく頭痛に襲われる。

「何で大晦日の夜中に来るんだよ」


「だって、昼寝してたらみんな居なくなっててさあ。インスタントのそばと置き手紙残して、初日の出見に行ったみたいで。1人じゃ虚しいじゃんかー」


泣き真似をする宏の向こうで、父さんの愉快気な笑い声がする。兄さんと姉さんの、恐らくは紅白どちらが勝つかの言い争いをしているであろう声も聞こえてきた。1、2回しか会った事ないくせに、もう打ち解けてるのか。つくづく羨ましい人種だ。


「美味しい年越し蕎麦もご馳走してもらったし、今は炬燵で暖まってるよ」


「……へえ」


どんなご身分だよ。俺はこんなに寒い中ひたすら待たされてるというのに。大体、俺が居ないのに家に上げたあの人達にもいらいらする。母さんか?母さんなのか?あの人は特に理解の範疇を越えているから。


「早く帰って来なよ。今年も後残り10分だぞ」


「……帰りたいのはやまやまだけど。外せない用事があるんだよ」


「外せない用事ねえ」


あんたじゃなけりゃ、帰ってるよ。

だから、早く。

早く。


「分かった。じゃあ、遠慮なく楓の場所占領しとくわ」


数分前からいえば随分と落ち着いた声色で、彼は優しく笑った。


「はいはい」


俺の返事を待たずに、電話が切れた事を知らせる無機質な音が耳に響いた。ディスプレイには、今年が後数分で終わる事を機械的に告げる白い文字が浮かび上がっている。


それにしても、俺の宏の解釈は間違っていたようだ。あいつは時として常識的な行動がとれない事があるらしい。大晦日の深夜に他人の家に予告なく押し掛けるなど、俺の家の人間でなければ受け入れられなかったに違いない。


「……1時間遅刻か」


今頃はどのチャンネルでもカウントダウンが開始され、より一層お祭り騒ぎをしているであろう。とはいえ、それはテレビの前で炬燵に入り、アイスを食べながら漫画雑誌を読みふける今までの自分恒例の年越しであり、深夜の冷たい学校の校門でカウンセラーが来るのを待ちわびる今年の俺には全くもって関係のない事だ。


「……遅いだろ」


すっかり冷たくなったスチール缶を駐輪場の前にあるゴミ箱に投げ入れ、俺は溜め息を重ねた。さて、今年の溜め息の総数は一体どれくらいになったのだろう。


溜め息つくと、幸せが逃げるよ。


聞き飽きた言葉を頭で反芻しながら、手に息を吐き掛けてみる。それは、逃げる幸せがあるならの話だろう?


「た、高橋くんっ!!」

鼓膜を心地良く振動させる澄んだ声に、俺は反射的に振り返る。激しく肩を上下させながら呼吸を整える、待ちわびていた人物がそこにはいた。余程急いで来たのか、こんなにも寒いのに肌が上気している。


「……先生、あんた1時間遅れって」


彼女は、いつものカチューシャもスカーフも着けてはいない。長い髪を結い上げ、深紅の振袖に緑の帯という見慣れない姿だった。よく見かけるファーマフラーのような派手な飾り物は一切なく、肩から白いレースの羽織を羽織っている。


この人は、大人だ。まだまだ子供でしかない俺とは違う。湧き上がる妙な実感が俺を焦らせた。


とても、似合っている。


「ご、めんっ。車、渋滞しててなかなか進まなくて、駐車場も見つからなくてっ!」


「別に良いですよ。先生が無事に来て、待ちぼうけにならなかっただけで十分だ」


申し訳なさそうに顔を歪める彼女に微笑み掛けると、彼女はへらりと笑った。受験勉強も最後の追い込みの段階に差し掛かり、以前ほどカウンセリング室に通う事も無くなった今、あんなに毎日見ていた笑顔がどこか懐かしく思えて、素直に嬉しくなる。


上手く、笑えていればいいのに。


言葉にするのが許されないのなら、せめて。

「そんなに急いで来なくても、連絡入れてくれれば待ちましたよ」


一昨日の夕方、部屋と庭の掃除を終えベッドに寝転び本を読んでいた俺に、彼女から初めてメールが届いた。メールボックスを開いた時の、眠気が劇的に吹っ飛んでいく感覚をお分かり頂ければ幸いだが、生憎俺はその伝え方を知らない。


当然の如くアドレス帳の『し』の欄に陣取るアドレスは、カウンセリング室を利用している生徒がメールでの相談をするためのもので、結構前から知ってはいたが使った事はなかった。


カウンセラーとは言え、先生である彼女から連絡など一体何事か。メールを開きその内容を確認した時の、心臓が口から飛び出さんとばかりに跳ねた様子を伝えられたらと思うが、生憎俺はその伝え方も知らない。


「初詣なんだから、別にゆっくりしたら良いじゃないですか」


寧ろ、大晦日から出向く必要すらないと思うのだが。


メールの内容は、初詣に一緒に行こうとの誘い。それがカウンセリングの一環であるのか、それとも、夏休みのフラワーフェスタの時のように彼女の『休日を共に過ごす人』に選ばれたのか、それは定かではなかったが、例に依って予定のない俺には断る理由などありはしなかった。

「まあ、それはそうなんだけどね」


小さなハンドバッグからハンカチを取り出し、彼女は額に浮かぶ汗を押さえる。彼女が側にいるだけで、途端に寒さを感じなくなる都合のいい体に、小さく溜め息をついた。


「ちょっと、挑戦してみたいことがあってね」


にやり。悪巧みを思い付いた子供のような笑みは、折角年相応大人の雰囲気を醸し出す着物に不釣り合いで、その鮮やかなコントラストに目眩がする。


「挑戦?何するんですか?」


ひとしきり汗を拭いた後、彼女はハンカチをハンドバッグに入れて、代わりに携帯を取り出した。ぱちりと小さく開閉をして、見慣れたオフホワイトの携帯をすっと俺の目の前で翻す。


じゃらりと音を立てる銀の十字架のストラップ、ディスプレイに浮かんだ時間は11時58分。俺の問いには答えず無言のまま笑顔を崩さない彼女に、俺は意味を汲み取れず首を傾げた。


口を閉ざした瞬間に訪れる静寂は、俺が良く知るものより濃く深い。


「ねえ」


彼女が口を開いた瞬間に、静寂が鮮烈に引き裂かれる音が確かに聞こえた。


あんたは、空気も俺の心も簡単に操ってしまう。それはまるで、魔法のようで。


「2人で一緒に、地球から逃げちゃいましょ」



「……はい?」


ちきゅうからにげちゃいましょ。


頭が各単語の意味を理解しても、口から言葉が出てくるのには大分の時間を要した。彼女の表情は柔らかく暖かいのに、向けられる視線の真摯さは俺を捉えて離さない。


黒真珠の闇は深く、纏わりつく熱は俺を雁字搦めにしたまま沈めてしまうから。このままでは、溺れる。


オボレテシマウ。


「逃げて」


私と一緒に。


差し伸べられた手を、暖かい掌を、俺は掴まずにはいられない。縋らずには、いられない。触れた指先は、刻まれた記憶と寸分変わらない甘やかさ。彼女は眉を歪めて、泣きそうな笑顔を口元に浮かべた。


救い出して欲しい、あの日のように。


ねえ、先生。あの日のように闇に深く身を沈めている俺を、その手で引きずり出して。目眩がするほどに眩しい場所へ、俺を掬い上げて。


助けて。


「さ、行こう」


「……どこへ?」


「何にもないとこよ」


「……何にもないとこ」


「そう」


「……どうやって?」


「簡単よ」


「簡単?」


「私の言う通りにしてくれれば」


一緒に、行ってくれるよね?


俺は小さく頷いた。




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