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Love or Like、勘違い?

あぁ、宏を呼んだ方が良いのだろうか。彼なら喜んで俺の胃に平和をもたらしてくれるだろうに。


たっぷりとクリームの付いたシンプルなイチゴショートを、俺は胸やけを起こしそうになりながら見つめた。100均大好きな母さんが色違いで全員分買い揃えた水玉模様の皿には、本日3つ目のショートケーキが陣取っている。ちびちびとデザートフォークでクリームをつついては舐めとりながら、腐れ甘党の顔ばかりを思い浮かべた。


「姉さん、俺、もう」


「ダメ。正臣は甘いもの食べないし、私はダイエット中。最後の1個でしょ」


あんたは鬼か。


さも当然のように呆れた表情を見せる10歳も年の離れた姉に、軽く泣きそうになった。姉さんこと加奈子姉さんは、菓子作りが趣味で、ひたすら本格的にケーキやら何やらを作るくせに、それらを全くといって良いほど食べない。兄さんも甘いものが嫌いだしで、ホールケーキの5分の3はいつも俺の胃に収められる。

うまいさ。確かに、そこらの洋菓子店で買ってくるよりはずっとうまいさ。ほんのり卵の味がするしっとりしたスポンジ、甘さ控えめのきめ細やかな生クリーム、お高そうな艶やかさで光る甘い甘いイチゴ。


だけどだね、甘いものが苦手なわけではないけれど、ホールケーキの216°を胃袋に収めきれるほど甘党じゃないんだよ俺は。本当に、チョコレートケーキじゃなくて良かった。イチゴショートならまだましだ。ティラミスの時は、生クリームに溺れる夢まで見た。


「……せめて、母さんと父さんと俺で3等分にしてよ」


「あぁ、そっか。わざわざ5等分する必要なんて無かったね」


あはは、だなんて笑っているが姉さんは絶対に確信犯だ。5等分とか言いながら、明らかに俺の分が72°より大きいの気付いているんだからな。今日からあんたは鬼じゃなくて、鬼神に昇格だ。


「……もう無理。後で食べるよ」


「そう?じゃあ貸して、ラップしとくから」


ラップをする前に余った生クリームを更にケーキに塗り付けているのを、俺の目は見逃さなかった。どこまでSなんだよ、あんた。そこまでSなら、兄さんにも無理矢理食べさせたらいいのに。


「ははっ。姉ちゃんも楓いじめるの好きだなぁ」


無駄な爽やかさを振りまきながら、リビングへと入ってきた兄さんを軽く睨んでも、結局は姉さんと似ている兄さんは全く気にとめてない風だった。なんだこのドS達は。


「あんたいじめてもつまんないのよ。全く、いつからそんなに可愛げが無くなったのかしら」


「25にもなって可愛げがあったら怖いよ」


大好きで憧れて背中ばかりを追いかけていた2人も、いつの間にか大人になってしまって。今俺の目の前には、少なくとも点数化される目標というものは無くて。セーラー服を着た姉さんや学ランを着た兄さんは、もう色褪せてしまった。


妙な哀愁に小さく溜息をついて、俺はポットから紅茶を注いだ。好きなメーカーの茶葉が切れて、仕方なしに買った安っぽいティーバッグのダージリンは、やっぱり安っぽい味がした。


いつから、こんなに紅茶の味が分かるようになったんだろう。缶のミルクティーでも満足していた自分が、あまりにも遠い過去にいる。


珍しく休みの重なった俺達兄弟は、ずっと前からしているように、リビングでのんびりと休日を過ごしていた。みんな学生だった頃、俺が小学生だった頃は、毎週末が楽しみで楽しみで堪らなかったのに。突然に訪れた懐かしい時間に、何故だか俺は戸惑っている。

「にしても、久しぶりだな。最後にこうやって3人で駄弁ったの、いつだったっけ」


今まで本でも読んでいたのだろうか、兄さんの見慣れない眼鏡姿は妙に新鮮だった。無駄な爽やかさを振り撒くのは忘れずに眼鏡を外すと、どしりと慣れ親しんだ赤いソファに腰を下ろす。兄さんの定位置は、昔から俺の正面だと決まっていた。


「さあ、2年ぐらいは経ったんじゃないの?3人揃うなんて、本当に久しぶり」


食器類を洗い終わり、手を拭きながら、姉さんも腰を下ろす。姉さんの定位置は、昔から俺の右隣だ。小さく鈍い音を立てて沈むソファと、記憶していたよりも幾分か小さく見える姉さんの体。


永遠を疑わなかった幼い頃が、懐かしい。お揃いのマグカップに2人の分の紅茶も注ぎながら、俺はゆっくりと染み込む温かさを噛み締めた。


「いつまで出来るのかな。今度はいつぐらいになると思う?」


考えるだけ無駄な未来の質問を受けて、ぼんやりと想像しようとしても、霧がかかったように曖昧で不安定なイメージはすぐにかき消されていく。ああ、今まさに俺はモラトリアム人間だ。


「楓も大学生になったら忙しくなるだろうしな。ま、俺は姉ちゃんが結婚するまでは続くと思うよ?」


やけに『結婚』を強調した言い方に、隣の姉さんが放つ雰囲気が一気に絶対零度に達する。満面の笑みを向けながらも、殺意を感じさせるほどに冷たい視線は、兄さんの爽やかな白く光る歯の覗く笑顔に相殺されて、何とも可笑しな空気が流れた。


うん、今確信した。SはSでも、俺は姉さん似だ。


「本当に可愛げがないわね、正臣」


「だから、25の男に可愛げを求めるのがおかしいんだって」


両者一歩も引かない攻防に半ば呆れながら、香りばかりが強調されて美味くも何ともない紅茶を機械的に嚥下した。


見た目はてんでばらばらだが、腹の底は似たような俺達兄弟は、歪ながらも奇跡的なバランスを保ち、今までやってきた。父さんと母さんを入れると、本当に血の繋がりがあるのかというほど似ていないこの家族が、俺にはとても居心地が良い。


どんなにボロボロでもヨレヨレでも捨てられない毛布のような。まあ、つまりはライナスと毛布のようなものだ。俺にとって家族とは、本当の意味で安心できる唯一無二の場所だ。


憂鬱にさせられる原因でありながら、恥ずかしくなるほど縋っている自分に笑えてしまう。


「それに引き替え、楓はいつまでも可愛いわよね」


「……姉さん、嬉しくないよ」


手に顎を乗せて優しく微笑む姉さんに、俺は溜息をついた。油断は禁物だ、気を抜いたらすぐにドS達のおもちゃになってしまう。いつからこんなに笑顔に恐怖するようになったんだろう。純粋だった幼き日は、もはや遥か彼方。


「楓こそ可愛げないだろー?ついこの間まで、お兄ちゃんお兄ちゃんって頼ってくれたのにさぁ」


こんなに無愛想になっちゃって。


大袈裟に肩を竦めて見せた兄さんに冷たい視線を向けながら、もう一口紅茶を口に含んだ。甘い甘いクリームの味が舌にこびり付いて、なかなか流れ落ちない。


「兄さんに愛想振りまいてどうなるんだよ」


「なになに?ツンデレか、弟よ」


ツンデレってあれか、ツンツンとデレデレのやつか。リアルツンデレなんて、ムカつくだけだと思うんだが。いや、むしろムカつくという意味で言われているのか。


「馬鹿ね。楓はツンデレなんていう安っぽいものじゃないわよ。リアル紳士属性よ」


ねえ、と笑顔で同意を求められても、非常に対処に困る。大体姉さん、紳士を可愛いと思うような人だったのか。属性ってなんだよ、属性って。

「紳士?姉ちゃんのちょっかいにも律儀に付き合ってくれるって意味で?」


「フェミニストって意味でよ」


非常に非生産的な議論を白熱させる残念な2人を後目に、俺はテーブルの上のユーストマに視線を向けた。バイオレットの優美な姿は、今日も今日とて元気そうで何よりだ。


2月に種蒔きをして9月に開花するまで、とても苦労をした。2回目の開花時期も、そろそろ終わりを迎えようとしている。難しい花なのに初めての栽培にしては上手く育てることが出来て、その美しい姿を見る度に口元が綻んでしまう。


18歳にして盆栽趣味の素晴らしさが理解できてしまっているのだ。お陰様で同年代の友人関係には必死だが。


「で、どうなの?」


「うえ?……あ、何?」


軽く宙をさまよっていた思考は、姉さんによって現実へと強制送還された。突然に肩を叩かれ緩んだ口から漏れた間抜けな声に顔が熱くなるのを感じながら、にやにやと笑う兄さんを睨み付ける。


「俺と姉ちゃん、どっちが好き?って話」


「あんた、好かれる要素があると思ってんの?って、違うわよ。学校はどうなのって話」


「姉ちゃんこそないだろ。いじめすぎだって」


「あれはスキンシップ」


質問に答えなくても、2人は相変わらずにこにこと笑い合いながら口論に精を出していた。ちなみに、好感度に大差はない。


「順調だよ。このまま行けば、落ちることはないと思う」


近くに受験生がいたなら殺されてしまいそうな台詞だとは思いながらも、俺は素直に答えた。11月に入り、センター試験へのカウントダウンが黒板の隅を陣取るようになったこの季節、クラスメートも目を血走らせて受験勉強に励んでいる。


今では日課となった宏と美月との勉強会も、いつもはおちゃらけた2人の放つ真剣な雰囲気に触発され、自然と勉強にも精が出ると言うものだ。


「ま、そんなところだとは思ってたけどね」


「簡単に俺達の偏差値抜きやがって。本当に可愛くない」


うっすらと笑みを浮かべる姉さんも、口では悪態をつく兄さんも、優しい目を向けてくる。結局俺に甘い2人が見せる表情は、いつまで経っても昔のままだ。


変わらない事への喜び、変わらない事への不満、そのどちらの要素も孕むモラトリアム人間の脳内は、1つの答えには程遠い場所で揺らめく。その遠さに耐えられなくなるのは、それが俺だからか、それとも必然なのか。


ひとかけらの実体も持たない大きなモノと戦うことを余儀無くされている俺達の心は、解放を待ちわびてただひたすらに堪え忍んでいるだけだ。揺さぶられるのは、楽じゃない。


そんな状況下に置かれ始めたのはいつだったか。俺は一片の武器も持たず、自立と自律、与えられる事へのある種の安心感と共存する反発を繰り返す自尊心、迫り来る『大人』という来て然るべき通過点に脅え、後にも先にも進めず、ただ逃げていたのだ。


屋上の青空はいつも眩しかった。流れる風は爽やかで、小説の文字の羅列は恐ろしい程に美しく均衡がとれている。日差しは温かく、昼寝の与える癒やしはとても素晴らしかった。


けれど、俺はそんな日々を重ねる事に、その温度差の不快感に潰されそうなほどの暗い感情に冒されていた。たった、半年ほど前までは。


一筋の光が、差し込んだあの日から。逃げるのを止めたあの日から、俺は確かに変わった。


「あのさ」


ひとしきり過去の自分と向き合ってから、俺は切り出した。2人は相変わらず口論を展開していたようだったが、俺の声にすぐさま口論を中断し俺に視線を向ける。


「ちょっと、変なこと聞いていい?」


頷くだけの簡単な返事を寄越す2人を確認して、俺はかねてからの疑問を口にした。


「メランコリック症候群、なんて病気あるの?」



馬鹿馬鹿しい質問だ。自分でも十分分かってはいる。ただ、それが実在する病名なのか彼女の造語であるのかを以前から知りたいと思っていた。もちろん調べれば分かることだけれど、そうしないでいたのは偏に冷たい文字で知らされるのが恐かったから。


自分でもそんな病気は存在しないと思っていたし、実際宏にも無いと伝えた。その思いが揺るぎ始めたのは、割と最近の事だ。


もしも、メランコリック症候群が存在しなかったとしたら。俺が精神的に健常者であったとすれば、カウンセリングの必要など無い。俺と彼女を繋ぐものは、存在し得ないのだ。


何故、それがこんなにも怖いのか。それは、明らかに俺の理解の範疇を越えていた。


「あるけど」


「……あるのか?」


それがどうしたとばかりに言ってのけた姉さんに、早鐘のように心臓が打ち鳴らされる。緊張をする体とは逆に、緊張を続けていた心は急速に弛緩していった。


「うん。知り合いの人が困ってるとか?私、専門分野だから相談のれるけど」


「いや、その……俺なんだけど」


姉さんが放った言葉に若干の違和感を覚えながらも素直に答えると、何とも怪訝そうな顔をされた。兄さんはマグカップを片手に静かに耳を傾けている。



「誰に言われたの?」


「うちの学校のカウンセラー」


兄さんがちらりと視線を移して俺の目を射抜いたのを感じながら、俺は眉をひそめる姉さんに真剣な表情を向けた。何故か兄さんの視線は俺から離れることなく、意識せずにはいられないほどに鋭い。


「カウンセラーに?……何って言われたの?」


「何って……。屋上でサボってるの見つかって、別に何てことない話をしたらいきなりメランコリック症候群にかかった重病人だなんて、言われた」


真剣に返した言葉に、今度は何やら笑いを必死で堪えているように肩を小刻みに揺らして、姉さんの口元は歪な線を描いている。ああ、何だかとてつもなく嫌な事が起こりそうだ。


「何?」


「ぷっ……あ、あはは!か、楓がメランコ、リックしょ、症候群?け、傑作だわっ!」


少々不愉快になりながら首を傾げた瞬間に、姉さんは盛大に噴き出した。息を上手く吸えないほどに大爆笑をして、涙まで浮かべている姉さんに、何が何だかさっぱりな俺は途方に暮れる。視線で兄さんに助けを求めると、彼も彼でにやにやと嫌な笑みを浮かべながら見つめ返してきた。


視線の鋭さは、いつの間にか跡形もなく消え去っている。


「……何」


「ちょ、と待って!く……苦しっ」


ひいひい笑う姉さんは、酸欠で顔を真っ赤にしながらも、必死で落ち着こうと瞑想をしたり深呼吸を繰り返している。


普段からよく笑う人ではあるが、何がそこまで彼女のツボにはまってしまったのか俺には皆目見当がつかない。自分の発言を振り返ってみても、別段可笑しい事は言っていないはずだ。


「姉ちゃん。俺が言おうか?」


しばらくはにやにや笑いで見守っていた兄さんも、なかなか落ち着きを取り戻さない姉さんを見かねたのか、呆れたように声を出す。


なんだ、兄さんも知っているのか。ちらりと兄さんに目を向けても、彼は気が付いていないのか、意図的かは定かではないが、溜め息とともに目を閉じた。


俺だけ置いてけぼりの空間で、妙な不安だけが俺を縛り付ける。さっきの姉さんの言いよう、良い事なわけがない。出来ることなら、逃げていまいたいのに。


「……ふう。やっと治まった。ごめん、取り乱したわね」


「全くだよ。姉ちゃん、絶対に今ので愛しの楓君からの好感度がた落ちだろ」


「あら。下がるだけあるから良いじゃない。あんたはこれ以上1ミクロンも下がれないでしょうに」


またもや口論を始めようとした2人に聞こえるように、わざと深くついた溜め息は驚くほどに部屋に響いた。


少しだけ開いた窓は、心地良い澄んだ空気を迎え入れ、見慣れたグリーンを基調としたチェックのカーテンは、風を纏って音を立ててはためいている。


俺の心と反比例している完璧な秋の午後は、分厚い壁で仕切られているかのように別次元の事に思える。


「さっきから、何なわけ」


「ごめんごめん。まあ、怒らないで聞いてよ」


姉さんは苦笑をしながら、すっかり冷めているだろうマグカップに手を伸ばした。案の定不味いのか、一口口に含んだだけで顔をしかめると、またテーブルに置く。


「多分ね、そのカウンセラーさんは悪気があって言ったわけじゃないと思う」


するりと彼女の口から滑り出た言葉は、思いの外冷たく冷えていた。俺を不快にさせないようにと言葉を選びながら、ゆっくりと告げられる言葉は、余計に俺を不安定にさせる。


「黄昏泣き。別名、3ヶ月コリック。生後3ヶ月前後の赤ちゃんが午後から夕方にかけて突然激しく泣き始める、至って健康的な行動のこと」


マニュアルを読み上げるように淡々とした話し方に、内容が上手く飲み込めなかった。たそがれなき、あかちゃん?


「別名の1つに、メランコリック症候群があるわ」


姉さんが話すのを止めても、俺は暫く頭が正常に活動をしないままで硬直していた。赤ちゃん、だと?


「何それ」


零れ落ちた言葉は一体何に向けられたものだったのか、自分のことのはずなのに全く分からない。不満やら怒りやら、安堵やら何やらでぐちゃぐちゃになった気持ちは、恐ろしい程に不快だった。一体、何にそんな気持ちにさせられているのか、今の俺にはそれさえも分からない。


姉さんの機械みたいな喋り方に?

不味い紅茶に?

甘ったるい口の中に?

メランコリック症候群の本当の意味に?


それとも、彼女に?


「知らなかったんだと思うよ。多分、メランコリックと症候群の意味をそのまま訳したような病気として名付けたんでしょ」


随分と、病んでたのね。


ふと小さく息を吐いて、姉さんが立ち上がる。ソファーが立てる音に、馬鹿みたいに驚いた。窓が閉められ、必然的にカーテンが踊るのをやめて、耳が狂ったように思えてしまうほどに部屋が静かになる。


「悩み多き青春時代って感じなのかしら?」


相談ぐらいはのるからね。


ふわりと優しく俺の髪を梳くように撫でて、姉さんはリビングから出て行った。スリッパがたてる小さな音が遠ざかり、やがて途絶える。


静かな部屋に兄さんと2人、先程の意味を汲み取れない視線の鋭さが気にかかり、少しの気まずさが漂った。俺は意識をし過ぎているというのに、兄さんは姉さんも俺も不味いというレッテルを張ったティーバッグのダージリンを美味しそうに飲んでいる。


変な気分だ。少し、いや、俺にとってはかなり衝撃的で、一向に思考がまとまらない。


「お前をメランコリック症候群だなんて言ったカウンセラーって、白石 由香里だろ」


紅茶を全部飲み干したのか、兄さんはマグカップをテーブルに置いて、真っ直ぐに俺を見てきた。シライシユカリ。彼の声で紡がれる言葉に、はっとする。一瞬、誰なのかがさっぱり分からない。


「あ、ああ。うん、そうだよ」


8月だったか、彼女と喫茶店で食事をした時に兄さんと同級生だと教わった事を今更ながらに思い出した。


「やっぱり。白石さんからもメールきてたしな」


「……メール?」


こくりと1度小さく頷いて、彼はテーブルの上に乗せられた姉さん手作りのフィンガービスケットに手を伸ばした。


チョコレートが艶やかにコーティングされたものばかりを摘んでいるくせに、その口で甘い物が苦手だなんていえるものか。今日のケーキとの戦いを思い出し、俺は非難がましい目を向けたけれど、彼は全く意に介さないようだった。


「どんな?」


俺の質問に兄さんは小首を傾げ、もごもごとビスケットを咀嚼しながら、何かを思案するように天井を眺めている。俺は恐らくはチョコレートよりは甘くないプレーンのビスケットを山から抜き取り、意味もなく半分に折ってみた。軽い感触、乾いた音。きっと丁度良い堅さなんだろう。


「弟さんと知り合いになりましたって、それだけだよ。俺も弟を宜しくとしか返してない」


しばらくしてから、彼はそう返した。それだけの内容なのに何をそんなに思案する必要があったのかと思ったりもしたが、追及してややこしくなるのも嫌なので突っ込みはしないことにする。取り分け、兄さんの話に無駄に首を突っ込んで良い結果を得られた試しがない。


「……そう」


気の無いような感情のこもらない返事を返して、俺は短くなったビスケット口に放り込んだ。レモンか何かの皮を入れているのだろうか、優しい甘さの中に微かに感じる酸味はとても心地良い。


「なあ、楓」


「何?」


何故こんなにも心臓が激しく打ち鳴らされているのか。初めてかち合う兄さんの真摯な視線に、耳の奥で警笛が鳴り響く。早く、早く、姉さんが帰って来てくれたら。


小さく開かれた薄い唇は、何かとても知りたくない事を紡ぎそうで。怖い。


とても、怖い。


「お前、気付いてる?」


「……な」


何を。そう続けるはずだった言葉は、兄さんにより遮られてしまった。彼の声が俺の鼓膜を揺らす、脳がその言葉を理解する、その言葉をリカイスル。


いきが、できない。


「……え?」


思考回路が停止し、周りの音がなくなった。この感覚を、体が、心が、密かに震える皮膚が覚えている。そう、あれは確か――


「 好 き な ん だ ろ 」



はっきりと放たれた言葉に、目を見開く。聞き間違いであって欲しかったその言葉、俺の願いは無情にも切り捨てられてしまった。体が、強張る意識とは真逆に、弛緩する。


「な、んで?なんで、そう思うわけ?」


射抜くような視線に耐えられなくなり、口から滑り出た言葉は、思ったよりも情けなく震えていた。不自然に笑みを形どる唇が、自身のものではないように思えてしまうほどに温度差を感じる。


「やっぱり気付いてないんだな」


ふと優しく微笑んで足を組み替えた兄さんは、冷めたマグカップの縁に指を這わせた。滑らかに滑る指を視線で追って、その男らしく骨ばった指にちんまりと収まった銀の細い指輪に初めて気が付く。


「お前、白石さんの話になってから露骨に表情豊かになってたぞ」


ひょうじょうゆたかになってたぞ。


耳の奥で繰り返される彼の声はとても穏やかで、恐怖を感じた。リフレインを止めようとも、その止め方も耳の塞ぎ方も何もかも、俺は知らない。この恐怖から逃れる手だてを、俺は知らない。


「怒ってるんじゃないんだよ。寧ろ、嬉しいんだ」


余程暗い顔でもしていたのか、兄さんは苦笑して頭を掻いた。うれしい?言葉の意味を計り兼ねて、俺は眉間に皺を寄せる。


こんなにも優しい言葉を、責められているように感じてしまうのは、何故?


自分で答えを出してしまうのが怖くて、何度も無理矢理思考を中断していた。その答えは簡単すぎて、すぐに手に届く範囲まで辿り着いてしまう。


曖昧な言葉で遠ざけて、他人からはもとより自分自身を責める声から逃れていた。答えを出して、罪の意識に浸るのが怖くて堪らなかったのだ。


そんな答えを他の誰かに言葉にされて、耳に届く。塞ぐ手だてを知らない俺は、その言葉を受け止めた。頭が長らく結論を出さないでいた問いの答えを、パズルの最後のピースを嵌め込む。


知りたくなかった。


本来は美しいはずの感情、何がこんなにも俺を責め立てるのか。その答えも、驚くほどに簡単で単純だ。


先生と生徒。


彼女と俺の前にある大前提の関係では、この感情は禁忌である事を、俺は良く知っていた。


「もしかしなくてもさ、お前、初恋だろ」


「……なんで」


「今まで浮かれた話何もなかったし、そんなお前を初めてみたし」


はつこいだろ?


繰り返される言葉を聞きたくなくて、俺は俯いた。穿き慣れたジーンズの上で自分の手が所在無く小さく動いているのを、凝視する。


彼女の手によって変えられていく自分を、俺は受け入れることが出来ないでいた。それは明らかに今までの『自分』とはかけ離れていたし、根本的な部分から揺らいでしまったように感じたからだ。


こんな感情、俺は知らない。


「白石さんは良くしてくれてるみたいだな」


耳に届く彼の声は限りなく優しさを含んでいて、益々気持ちとの温度差が開いていく。


「良い変化だと思うよ、楓。お前は昔から必要以上に『大人』だったから、そういうお前が見れてすごく嬉しい」


乾いた目を痛く感じて初めて、まばたきを忘れていたことに気が付いた。瞼を閉じて控えめに香るユーストマの芳香に集中する。もうこれ以上聞いていたら、痛みで自分が壊れてしまいそうで。


「楓、良いことを教えてやるよ」


良いことを教えてやる。その言葉に半ば反射的に顔を上げたが、彼は相変わらずの怖いくらいに優しい笑顔で俺を見つめるだけだった。長い黒々としたまつげが細められた目を覆い隠し、その闇は底無しのように思えてしまう。


一向に良いこととやらを口にしない彼に痺れを切らし、俺は急かすように首を傾げた。


「勘違いだよ」


カンチガイ。カンチガイ?

兄さんは笑う。


「よくあることだ。カウンセリングにおいてはね」


この美しさと醜さという相反するものを同時に孕む激しい感情でさえ、よくある勘違いだというのか。


「自分のことを何でも分かってくれる。話をすると気持ちがとても軽くなる。ほっと一息つける場所。でも、それは恋愛感情にはなり得ない。いや、そうであるわけにはいかないんだ」


その場所の提供が、『仕事』である限り。


彼女の瞳に癒される。彼女の声にほっとする。彼女と話して笑みが零れる。視界の隅で彼女を探す。彼女をもっと知りたいと思う。彼女を独り占めしたいと思う。彼女に、会いたいと思う。


初めて湧いたこの感情を、勘違いで済ましてしまうのか。


「勘違いだよ」


繰り返された言葉に、胸が鈍く軋んだ音を立てた。


何も言えずに混乱した頭を持ち余していた俺は、いつの間にやら兄さんが部屋にいないという事に、ドアが開く音で気が付いた。


風呂上がりなのか肩にタオルを掛けた姉さんが、不思議そうに小首を傾げている。


「……何でもない」


小さく笑って発した声は、消え入りそうなほどにか細く、虚しく響いた。何か思案をするように気難しげな表情で髪を拭く彼女の隣を、俯きすり抜ける。


落ち着け。


後ろから追いかけてくる姉さんの声を聞こえない振りでやり過ごし、階段を駈けるように登る。自室のドアを勢い良く開いて飛び込み、見慣れた本だらけの空間で荒く呼吸をした。


落ち着け。


白い壁に幾枚も貼っている母さんが撮った花の写真。木製の丸テーブルの上に無造作に置かれた、冷たくストイックな参考書。壁に掛けたドライフラワーの深紅のミニバラ。ありふれた日常が、そこにはある。


落ち着け。


力が入ったままドアノブを握った手のひらは、じっとりと汗が滲んでいる。その不快感に、頭が急速に冷えていった。


後ろ手にドアを閉め、そのままドアに体を預けてみる。カーテンの隙間から鮮やかなオレンジが差し込んでいるのをぼんやりと眺めて、俺は耳を塞いだ。


延々とリフレインを繰り返す兄さんの台詞は、震える指の間をすり抜けて、俺を罪の意識に沈ませる。


今までずっと答えを出さないでいた、単純明快で否定の仕様がない事実。言葉にされた事で突きつけられた、揺るぐ筈もない現実。


「……そんな事、言われなくたって分かってるんだよ」


彼女が先生だという事。俺が生徒だという事。この感情が何なのかという事。その禁忌も、全部。全部分かっているんだ。


俺は、そんなに馬鹿じゃない。


小中学校で周りが恋愛に現をぬかす姿を、どこか冷めた瞳で見ていた。馬鹿な奴らだと、そんな事よりも大事な事は腐るほどあるのに呆れた奴らだと、頭ばかりが先に大人に成りきった俺は嘲笑っていた。


なのに、どうだ。今の俺は一体何だ。


その冷めた瞳すら、羨望を孕んだものだったのか。背伸びをしても見えない、手を伸ばしても届かない場所で煌めく何かに、ただ憧れていたのか。


降って湧いたような初めての感情、前にも後ろにも進めない位置で立ち竦む。


「……どうしろっていうんだ」


全部分かっているんだ、事実として。けれど、対処法が分からない。この感情は、どうすればいいモノ?行き場のない思いは、どうすればいいんだ。


これが勘違いで済まされるような感情であれば、世の中の恋愛感情はその殆どがカンチガイだろう。


「あんたは、どうするの?」


俺のこの感情、どうするの?


先生。




外はもう、秋の色を深めていた。








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