執事、メイド、文化祭
「……はぁ」
壁にもたれ廊下から響いてくるざわめきに耳を傾けながら、俺は本日何回目かも定かでない深い溜め息をついた。
昨日夜遅くまで残って、どこぞのホテルかレストランのように見事に模様替えした教室は、最早日頃のクソ真面目な授業風景など跡形もない。
白いレースのカチューシャや、丈の長い正統派の清楚な黒のメイド服を着込み、食事を運ぶ女子。紅茶やらケーキやらをワゴンに乗せて、燕尾服を翻す男子。頭痛がする。
「こらっ。高橋君!一番人気の君が働いてくれなきゃ困りますっ」
「もうやめてくれ……」
溜め息ばかりをつく俺に、メイド服を着て忙しなく動いていたクラスメートの朝倉が小声でど突いてくる。しかし、なんでこんなに繁盛してるんだ?
高校生活最後の文化祭。俺達のクラスは朝倉をはじめとする女子の面々のほぼ強制に近いごり押しに負け、今流行りの……かどうかは知らないが、メイド喫茶をする事になった。
この高校の文化祭では、売り上げの一番多かったクラスが1ヶ月分の食券を校長から贈られる。そんな馬鹿げた賞品、弁当派の俺からすれば全く興味がないのだが、やはり小遣いの節約になるからと多くの生徒は体育祭並みの熱意で出し物に臨むのだ。そのお陰で、毎年ここらの地区では一番この高校の文化祭が盛り上がる。
売り上げを伸ばすためには客の幅を広げるのが何よりも重要。女性からも指示してもらえるようにと、執事喫茶も取り入れる事となり、俺を含む8人の男子が女子により選抜され執事役をする事になったのだ。
「大体、何の基準で執事役選んだんだ?」
女子手作りの、割と手触りの良い黒いリボンタイを鏡を見て定位置にずらしながら、俺はかねてからの疑問を腕組みをし睨みを利かす朝倉に問うた。
「そんなの、見た目に決まってるじゃない」
さも当然のように言い切った彼女に、俺は言い返す言葉も思いつかないまま、背を押され入り口に追いやられる。何だ、そのとんでもなくストレートな理屈は。
最後の最後まで執事役がやりたいと粘った宏も、幸か不幸かお菓子作りが上手だったため有無を言わさず料理班に引きずられていった。なおも食い下がった宏は数名の女子にメイド服のほうなら可という、男として屈辱的な言葉を浴びせられて見事に撃沈。ご臨終となった。
代わってやると言うと女子から猛反発をくらい、渋々俺はこの黒い燕尾服を着込んだのだ。それにしても、なんだこの気合いの入れ用は。カップやワゴンや、更にはどこで用意してきたのか謎な銀の3段トレーまで、兎に角備品に凝りまくっている。
質素な蛍光灯にはシートを被せ落ち着いたオレンジの光に変え、並べた机に上から丸いアクリル板を取り付け無理矢理丸いテーブルにし、趣味の良いレースをあしらったテーブルクロスをかけてある。
椅子も見慣れた木とパイプのそれではなく、喫茶店を営むクラスメートの家からアンティーク風の小洒落たもの借りてきて、呼び鈴の金のベルまでどこかで調達してくる始末。
極めつけには、8種類の紅茶と5種類のサンドイッチに、シンプルなショートケーキをはじめとしチーズケーキ、モンブラン、ミルフィーユ、シュークリームなどなど有り得ないほど充実したメニュー。ちなみに、それらのケーキは宏が指揮って製作中との事だ。腐れ甘党のくせに、手作りのお菓子の甘さは大人向けである。世の中は不可解な事ばかりだ。
「金掛かり過ぎじゃないか?元とれるのかよ」
予算として学校側からおりた1万円で、ここまで本格的に備品やらメニューやらを充実させるのはやはり不可能で、さらに1人につき500円も徴収されたのだ。未だに俺の背後で監視する朝倉に問えば、またもやさも当然のように返される。
「倍にして見せますとも。と言うか、もう元とれてるわ」
3日ある文化祭の2日目の今日は土曜日とだけあって、昨日とは比べ物にならないほどに活気で満ちていた。全く客が途絶えないことを些か疑問に思って廊下の様子を伺うと、最後尾が見えないほどの長蛇の列。何でこんな店にそれ程需要があるのだろうか。
「さ、休憩はおしまい。高橋君、次のお客さんの相手、頼んだわね」
そう言い捨てて、隣の教室に料理を取りに向かった朝倉を横目で見送って、俺はまた溜め息をつく。俺の幸せは全力疾走で逃げていくばかりだ。
無駄に凝ったのは見た目だけじゃない。演出まで実際に出向いて研究したらしく、はっきり言っていちいち面倒くさい。客の出入り口とは違う、教室の後ろ側のドアから出て、大きく深呼吸をする。マニュアル通り何度も頭に叩き込まれた言葉を、白石に鍛えられた笑顔も添えて。
「おかえりなさいませ、お嬢様方。お待たせしてしまい、誠に申し訳ありません」
見ると、客はバドミントン部の後輩達だった。にやにやと笑ったり、口を開けたまま会釈をしたり、慌てて顔を背けたりと三者三様の態度を示したが、女子バドミントン部では有名な2年の仲良し3人組だ。あぁ、羞恥で死ねそうだ。
内ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。慣れてないせいで、白いグローブが鬱陶しくてたまらない。
「こちらへどうぞ」
荷物を受け取り、空いているテーブルに案内する。その間背後から聞こえてくるひそひそ話に、笑顔が歪むのが分かった。半分が優しさで作られた某頭痛薬が恋しい。
椅子を引いて彼女達を座らせてから、次は何をしなければならないのか頭の中のマニュアル本のページを捲った。次は、お冷やとお絞り、それとメニューだったか?
朝倉達のお怒りをかう前に何とか仕事を終え、俺は彼女達が見える位置で背筋を伸ばして突っ立った。流石正統派を目指しているとだけあって、教室の中は上品な静けさが漂っている。
流れるようなピアノの旋律に耳を傾けながらぼうっとしていると、それを断ち切るようなベルのすんだ音が俺を呼んだ。
「如何いたしましたか?」
メニューを広げて長いこと思案をしていた彼女達だったが、やっとの事で注文するものを決めたようで、小さな金のベルを鳴らしたのだ。俺の一時の安らぎが邪魔されたようで思わずへの字に口が曲がるが、悟られないように小さく息を吐いて気を引き締めた。
「あ、頼むもの決まりました。えっと、紅茶はアールグレイとカモミールとミルクティー。あと、このケーキセットを3つお願いします」
メニューを指差しながら顔を綻ばせて注文する後輩に、少し微笑ましさを感じながら、俺は胸ポケットから出したメモにそれらを記入した。
「かしこまりました。すぐお持ちいたします。それとお嬢様、差し出がましいようですが……」
「はい?」
わざと言葉を区切ると、3人の視線を一気に浴びることになり、意味もなく緊張する。マニュアルには確か書いてあったはずだ。
「私どもへ敬語をお使いになられては、大変恐縮でございます。ここはお嬢様方の家なのですから、私どもとしては羽を伸ばして楽にしていただきたいのです」
そんな馬鹿な、と言うような台詞ではあるが、何故か女性には喜ばれた。今回も例外ではなく、彼女達も邪気のない笑顔で返してくれる。言わずとも『お嬢様』になりきる客には、正直若干引き気味になってしまうけれど。
それでは、失礼します。
そう言ってテーブルを後にし、宏達のいる戦場と化した隣の教室へ入り後ろ手にドアを閉めると、一気に疲れが押し寄せてきた。もちろん精神的な意味で、だが。
「やばいやばいやばいやばい、俺が俺じゃなくなりそう。人格崩壊級の拷問だ、いじめだ、差別だ、迫害だ。なんだよ『お嬢様』って。きっとあんたも一般中流家庭の娘さんだよ!」
思いつく限りのことを息継ぎなしで垂れ流しにしながら壁にもたれると、慈愛に満ちた表情でメイド服を着た女子に肩を優しく叩かれた。彼女も相当精神的にきてるのか、若干やつれて見える。
「あ、おかえりー。で、注文は何?」
至極幸せそうにメレンゲだかホイップクリームだかを作りながら、エプロン姿の宏が歩み寄ってきた。その笑顔が無性に腹立たしくて、その頬を思いっきり抓りたいと妙に冷静な頭で考えてしまう。
「アールグレイ、カモミール、ミルクティー。ケーキセットを3つだ」
近くにあったパイプ椅子にリングで燃え尽きた某ボクサーよろしく座り込み、深い溜息をつく。俺の言葉を聞いて3段トレーに色鮮やかなケーキを鼻歌交じりに並べる宏を心底羨ましく思いながら、俺は文化祭が後何時間あるのかに思いを馳せた。明日も後夜祭まで入れると、せいぜい折り返し地点を通過したところだろう。
1日で過ぎ去ってくれる体育祭がまだましだ。何で、文化祭ばかりこんなに大々的にするんだよ。どうやら世間という物は、俺の理解の範疇を越えた遙か彼方でまわっているらしい。
ふと窓の外に視線を移すと、グラウンドで様々な露店が立ち並んでいるのが見えた。この3階からでも、派手な看板のお陰で何をやってるかが一目瞭然だ。
そう言えば、まだ昼食をとってない。疲れた頭で他人ごとの様にぼんやりと考えながら、焼きそばやら焼き鳥やら、たこ焼きやらホットサンドやら、やたらと食べ物ばかりが目立つ色とりどりの露店を見つめた。
「か、え、で!ほら、出来たぞ!」
「あ、あぁそうか」
いきなり肩を叩かれびくりと体を強ばらせると、宏に苦笑いで返された。目を細め、口端を緩く持ち上げるその笑い方は、宏が人一倍優しい穏やかさを明るさの中に隠し持っているということを、いつも俺に実感させる。
「慣れないことやってるから、やっぱ疲れるよな。俺は好きなことやってるだけだけどさ」
ワゴンに紅茶のポットやカップ、ケーキセットの乗った3段トレーを乗せるのをさり気なく手伝いながら、宏は俺を心配するように言葉をかけた。小さな気遣いが素直に嬉しくて、自然と口元が笑みを形作るのがわかる。
「2時から吹奏楽部のコンサートで客足も落ち着くだろうから、今楓が相手してるお客さん帰ったら昼飯食べに行こ。悠里のクラスが露店でたこ焼きやってるらしいし」
買いに来いって言われてるし。
そう言って楽しげに笑う宏が、何故だか眩しい。 あぁ、コイツは美月の事が好きなんだろうな。宏の態度を俺がそう解釈したのは、いつのことだったか。1年の時、美月がまだ大人しかった時からコイツが見せる態度は他とは違う好意を彼女に向けていたように思う。
そこまで真っ直ぐに純粋な好意を持つということ自体、俺には別世界の話のようでどうしても現実味が感じられない。俺が持つ感情は宏と比べると、くすんで曇ったガラスのように透明感のない不安定なものばかりだ。
あの日、白石と山下に感じた気持ち。軋んだスチール缶。じわりとカッターシャツに滲む汗。彼女が俺の肌に残した、淡い微熱。
きれいな感情など、俺には無縁なのだろうか。湧いた感情の名前も、理由も知っている自分が汚く思えて仕方ないのだ、宏を見ていると。
「そうだな」
短くそれだけを返して、俺は最後にミルクのポットをワゴンに乗せた。頑張れよと宏が背後で微笑みかけてくるのが、気配で感じられたが俺はそれに気付かない振りをして、教室のドアを開いた。
ハンドル越しに感じる振動に意識を向けながら、俺は仲良し3人組のテーブルを目指した。ポットから香ってくる芳しい紅茶の香りに、紅茶中毒者の俺は舌があの独特の苦味と甘さを求めて疼き始めるのが分かり、何故だか面白いと感じてしまう。
「お待たせいたしました、お嬢様方」
ソーサーに乗せたカップに1人ずつ紅茶を注ぎながら彼女達を盗み見ると、皆が皆目を輝かせて3段トレーのケーキセットに見とれていた。その様子を見て零れ落ちた俺の小さな笑みも、彼女達は気が付いていないのだろう。
「どれからお召し上がりになりますか?」
惚けている彼女達にそう問えば、3人組の中でも特に賑やかな平川が我先にと手を挙げた。
「そうね。じゃあ私はミルフィーユから頂こうかしら」
俺の注文通りにお嬢様になりきる平川に、残りの2人が笑った。口に手をやり肩を震わす東山と、あははと口を開けて愉快気に笑う七海。
仲良しの癖にどこまでも似ていない彼女達は、ことごとく行動に差が出る。一緒にいると仕草や言動が似てくるものだが、全くそんな様子もない。元気で明るい犬のような平川、大人しく控えめで猫のような東山、少しばかり豪快で男勝りな七海は熊のようだと俺には勝手な位置づけがある。
「じゃあ、私はチーズケーキを頂くわ」
「わ、私はガトーショコラで」
どもる東山と七海の所望の品も盛り付け、それぞれ手渡す。後は後ろに控えて、紅茶を注いだりケーキを盛ったりの繰り返しだ。出口まで案内して荷物を渡して、笑顔で「いってらっしゃいませ」と告げて終わり。
小さなデザートフォークと、細かい模様が彫られた白い皿が静かに乾いた音色を奏でる。幸せそうにケーキを口に含みながら微笑み合う彼女たちを横目に、腹が鳴りそうだと変な焦りを感じながら、俺はもうすぐで訪れる至福の時に想いを馳せた。
「おかえりー!じゃあ、グラウンド行こっか」
早々とエプロンを脱ぎ捨て、見慣れた間服姿になっている宏は、待ち切れないとばかりに俺の燕尾服の裾を引っ張った。9月とはいえ真夏のように暑いグラウンドを思うと、俺は涼しげな半袖のカッターシャツで爽やかに笑う宏を大変羨ましく感じてしまう。
俺は上着を脱いでパイプ椅子にかけ、隅に置いてあるリュックから財布を取り出した。休憩にはいることを告げて教室を後にすると、廊下は随分と落ち着きを取り戻しているようだった。行列も微々たるものとなり、人通りも少ない。
「大分人通りも落ち着いたな」
それでもぽつりぽつりと出来ている人だかりを避けながら、昇降口までの道のりを軽く駆け足で通り抜ける。廊下や各教室は普段のストイックな勉強のみを目的としたものではなく、無法地帯並に変貌を遂げていた。
「だなー。全く、吹奏楽部様々だよ。昼飯食えないかと思った」
さっきまでの元気はどこへやら、珍しく溜息まで付いて肩を落とす宏の背中は、幾分小さく見えた。好きなことばかりをするのも、そう楽ではないらしい。
靴を放るように落とすと、そこだけ別世界のように静かな玄関に乾いた音が響いた。中に入って涼めばいいものを、何人かここらの地区の女子高生達がアイスを片手に木陰に寄り集まっているのが見える。
案の定、ドアを開けると真夏真っ最中と言わんばかりの熱気が俺の頬を掠めながらすり抜けていった。思わずドアを閉めそうになるのを堪えて体を支えると、突然に鮮やかさを増したセミの騒ぎに汗が滲む気がした。
「あっちー……こんな中で焼き鳥とかたこ焼きとか、拷問だよなー」
「そうだな」
でも、何故こんなにも暑いのに冷たいアイスやかき氷じゃなくて、火傷するほどに熱いたこ焼きや焼き鳥が食べたくなるのだろうか。冬にこたつの中でアイス、夏に扇風機をかけながらの鍋が食べたくなるのと同じ心理か?
我ながらに非生産的な疑問にエネルギーを費やしていることを馬鹿らしく思いながらも、考えることをやめられない。脳内麻薬が出ているかどうかは知らないが、何故か楽しいのだ。
駆け足になりながら視界をちらつく3年D組の看板を目指す宏の背中を見失わないように早歩きで前進しながら、俺は隠しもしない周囲からの好奇の視線を一身に浴びているのを感じていた。
余程この燕尾服が目を引くらしい。着替えてくれば良かった。恥ずかしいし、暑いし、重いし、ろくに良いことがないじゃないか。
「よーっ!悠里、来たぞ〜!」
恥ずかしげもなく大声で叫ぶ宏に思わず他人の振りをしたくなりながらも、俺は彼の隣まで足を進めた。露店の奥からしかめっ面で出てきた美月を見れば、額に玉の汗が浮かんでいる。クラスで統一したらしい水色のTシャツには、一体何があったのかは分からないが、裏番長と太く書かれていた。
「……いらっしゃーい。A組は儲かってるんだって〜?」
随分と覇気がなく疲れの色を滲ませて、美月は目の前のたこ焼きをくるりと器用に回した。食欲をそそる音と香りに腹の虫が騒ぐのを感じ、何となく恥ずかしくなる。
「儲かってるぞ〜!ダントツ1位決定だもん。な、楓」
ほくほくと嬉しそうに顔を綻ばせながら言う宏に軽く頷くだけの返事を返して、俺はベストの内ポケットから財布を取り出した。腹が減っては戦はできぬ、とはよく言ったものだ。現に俺は美月が回すたこ焼きや、その隣で香ばしい香りを撒き散らす焼きそばに完全に現を抜かしている。恥ずかしいくらいに食欲が湧いてきて、まともに返事をするのも嫌になるほどだ。
反応が気に入らなかったのか口を尖らせる宏は軽く無視をして、俺の頭の中では激しい葛藤がそれこそ戦のように繰り広げられていた。
さて、どうしたものか。
焼きそばもたこ焼きも出来立てのアツアツ。そのまた隣では焼き鳥も焼かれている。たこ焼き大きいな。焼きそばもソースが物凄く良い香りだ。あー……焼き鳥は丁度大好物のつくねが焼かれているし。ん、チーズたこ焼き?すげー旨そう。
優柔不断が祟って、胃は食べ物を求めているのに一向に食べ物にありつけない。次から次へと考えが浮かんでは消え、混乱した。俺って、こんなに食欲に対して強欲だったのだろうか。
「えーっと、高橋 楓さん?……全く、優柔不断だなぁー」
「黙ってろ」
呆れたように声を吐き出す宏を軽く睨みつけて、俺はまた思案の渦に飲み込まれていく。考えれば考えるほど駄目になる、まるで底なし沼だ。目の前で美月が困ったような笑顔で俺を眺めているのが分かったが、ひとまずそれもスルーする。
「良いか?こんな時は、こうやるんだよ!」
いきなり隣で宏が大声を上げたかと思うと、視界に男にしては細く長い指がびしりと指差しの形をとって現れた。驚いて彼の方を見ると、何やらニヤリと得意気に口元を歪めている。
「今出来てるの全部下さい!!」
「全部きた〜っ!お兄さん太っ腹ぁ。よっ!社長、王様、天皇様っ。まいど〜」
すかさず元気に合いの手を入れる美月に、俺はしばらく絶句して固まった。遅れてお馴染みの頭痛がやってくる。あぁ、このバカをどうしてやろうか。
「バカかお前。そんな金どこにあるよ。ちょ……待て待て!本気にするな」
本気で全部を包装しようとする美月を慌てて止めると、何とも不満そうな目でじとーっと見つめられて思わず息が詰まった。何故だか俺は女子のこういった表情がすこぶる苦手なようだ。女子に責めるような視線を向けられると、非常に居たたまれなくなる。
大体、今ざっと見ただけでもたこ焼きだけで10パック以上はあるんだ。文化祭の露店であったとしてもやっぱりそれなりに値はするものなので、焼きそばや焼き鳥を入れると軽く5千円は越えるだろう。一般的な男子高校生には痛すぎる出費だ。なんてバカバカしい。
「ん?もちろん、楓ん財布のなか」
「ふ ざ け ん な」
当然の如くのたまう宏に笑顔で返すと、若干周囲の温度が下がったのを感じた。けれども流石の新居 宏と言うべきか、俺の自称精神ダメージ中の上攻撃『冷笑』は全く効果を見せなかった。せいぜい地球温暖化の感覚的な対策になっただけだ。
全部というのは兎も角として、全種類を買うという発想が俺の凝り固まった頭には出てこなかった。非常に魅力的で欲求を満たし、さらに優柔不断ド真ん中人間に優しい発想だ。経済的ではないけれど。
「取りあえず、全種類1パックずつくれ。焼き鳥は2本ずつで」
全部よりは遥かに経済的な注文に訂正して、俺は財布を覗いた。勿論、割り勘だろうから850円だ。
多少不満気にしながらも素直に包装し始めた美月と、その様子を柔らかな笑顔を口元に浮かべて眺めている宏。俺はそんな2人の間に挟まって、慣れきった暖かく複雑に絡んだ雰囲気に静かに身を沈めていた。
2年になって何があったのかは知らないが、彼らは急に仲良くなった。まるで宏の性格が移ったかのように明るくなった美月が俺達の仲に加わったのは、夏休みを過ぎてからだっただろうか。彼の美月を見る目の優しさに気付いてからは、俺は感覚的にただの仲良し3人組じゃ居られなくなった。
「はい。お待ちどうさま。アツアツだから火傷しないように食べてね」
ビニール袋を受け取って勘定も済ます。美月の気遣いにも軽く頷いて返しながら、何か場を繋いで長く2人が居られるように配慮をするべきなのか頭の片隅で言葉を探すが、上手く見つからない。不安定な関係で上手く自分の立ち位置を見定めるのは、非常に難しいことのように感じる。
「あ、ところで悠里。見ての通り楓は執事役なんだけどさ、時間あれば来なよ。俺は裏でひたすらお菓子作ってるんだけど、楓はずっと店で執事役やってるし、一応指名できるみたいだしさ」
この機会逃したらもう確実にみられないよ。
2人のために配慮した言葉を頭が見つけ出す前に、宏は難なくその場を繋いだ。自分のアピールなら作った菓子を食べに来いとだけ言えばいいものを、美月を俺で釣ろうとしているような言葉に少し違和感を感じたが、別段彼は自らをアピールする目的があったわけではないらしく、へらへらと笑っている。
「んー……勿論魅力的なんだけどね、なかなか空き時間ができないんだ」
私も宣伝にまわれば良かったな。
溜息混じりに汗を拭いながら、美月は苦笑した。露店には10人前後の人数しかいないらしく、他のクラスメートは皆宣伝や出し物巡りに行っているようだ。テントの奥で数人の男子がベンチで伸びているのが見える。俺もそう変わらない立場のため、沸々と同情の念が湧き出てきた。
「残念だな。せっかくの文化祭なのに」
「ううん、良いんだ。わりと楽しいし?」
そよいだ生暖かい風が彼女の頬に掛かる髪を揺らして、泣き黒子がちらりと覗いた。ふわりとした幼さを残した笑顔は、知り合った頃と何も変わりない。ふとした瞬間に、あのもじもじと奥手で気弱な美月を垣間見て、安心をしている自分がいた。
意味もなく互いに口元に笑みを浮かべながら、煩く喚くセミの声に耳を傾ける。暑さを加速させるこのセミの声でさえ、恐らくは本来の彼女の特徴でもある心地よい穏やかさは乱せない。
「……高橋君は、さ」
急に沈黙を破った美月に、俺ははっとした。1年の時には良くあった、美月が作り出す沈黙の暖かさ。黙っていることに気が付かないことも、しょっちゅうだった。しかし、俺が記憶しているそれはいつも、途切れるときでさえ柔らかいのに、何故こんなにも鋭利な感覚がしたのだろう。
美月の声色が変わったから?
いつの間にやら宏が隣にいないから?
セミの声が、遠くなったから?
それとも、何か他の理由だとでも言うのだろうか。分からない。
「……どうした?」
動揺している自分に気が付き、妙に焦りを感じた。美月が突然雰囲気を変えるのは別段珍しいことではないし、それにより動揺や焦りを感じる要素など何一つ無いはずなのに。どうしてか。それは分かっているのだ。
隣に宏がいないからだ。
3人で成り立つ関係は、果てしなく脆い。支え合い、補い合うからこそ存在していられる関係。宏という要素を欠いた今、バランスは保たれることは有り得ない。
分からないのは、何が彼女に彼女自身を切り裂く鋭利さを与えたのかだ。
「後夜祭、どうするの?」
壊れた雰囲気を元に戻すかのように彼女はにこりと微笑んだ。声色も明るさを取り戻し、手は再び鮮やかにたこ焼きを回す作業を開始する。その様子が、ピッチワークを連想させるほどに継ぎ接ぎで不自然に思えて、緊張してしまう。
「こうやさい?」
別のことばかりに気を取られ、上手く聞き取れなかった彼女の言葉を反復すると、彼女はうんと頷いた。
後夜祭とは、文化祭終了後グラウンドで催される生徒会主催の催し物だ。店の部門では売上競争を制したクラスへ、劇や映画では来客数で表彰をされ、その後は有りがちにフォークダンスで締めくくる。
1年の時には参加したが、今年は止めておこうと考えていた。明日は休みだし残っても構わないと言えば構わないのだろうが、フォークダンスをする体力すら残っていないだろうと推測をしている。
一昨年は文化祭の劇の王道ド真ん中、ロミオとジュリエットでナレーションをしただけで大して体力を使いもしなかったのだが、今年は無理だ。寧ろ日給を払って欲しいぐらいだ。精神的にも身体的にも、この労働は俺を蝕んでいくのだから。
「今年は参加しないつもりだ。今日だって今すぐ帰って眠りたい気分だしな」
明るく笑って言ったつもりだったのに、何故だか彼女はとても複雑な表情をした。安堵と悲しみ。そして驚きを孕みながらも、その一方ですでに予想をしていたような。読み取れない彼女の表情をどうとらえて良いか思案している内に、複雑さは溶けて消え、彼女は自然な笑みを口元に浮かべた。
「あはは、やーっぱりっ。そうだと思ってた!だって顔が疲れてるもんね」
明るく話しながら笑う美月に、空気はいつものバランスを取り戻そうとしていた。見れば、宏がこちらに向かって走ってきている。
だろ?だなんて返しながら、俺は聞こえないように安堵の息を小さく吐いた。近くに聞こえ始めたセミの声に、まるで自分は今まで異世界にいたのではないかと、本気で考えてしまう。
「ただいま〜!」
息を切らしながら戻ってきた宏に、都合のいい俺の頭は感謝の念を感じながらも、その一方で一体どこに行っていたのかと責めるような気持ちを視線に乗せてみる。
「どこ行ってたんだよ。たこ焼き冷めるぞ」
「ちょっと後輩に絡まれちゃってさ」
絡まれたのではなく絡まれに行ったというのが正しいところなのだろうが、あえて指摘しないことにした。宏がこんなに突然な行動をとり、小さな嘘をつくときは深入りしない方が良いと俺は学習している。首を突っ込んで良かった例がない。
へらへらと苦笑いで返しながら、彼は美月に視線を移した。もう既に、俺と彼女の間に流れていた違和感のある空気は跡形もなくなっている。けれども、そんな事には良く気が付く宏は何かを感じたかのように目を細めた。
「じゃあ、俺達も昼飯食べなきゃだし、帰るね」
「あ、うん。買いに来てくれてありがとう!頑張ってね」
にこやかに別れの挨拶を交わす彼らに、俺も右手を軽く振るだけの挨拶をして美月の店を後にした。白いポリ袋からの熱気がゆるりと俺の指を撫でる。吹奏楽部のコンサートが終わったのか、瞬く間に校内外に人が溢れてきた。
騒がしい廊下を抜け、人をかわしながら階段を上る。こんなに暑くても、屋上の日陰は随分と涼しく風も心地よいものだ。今日は特別に彼を屋上に招待して、そこで昼食をとることにした。本来屋上は1人でだらだらと時間を過ごすための俺だけのオアシスであり、その事を重々理解している彼は大層驚いていた。
財布に忍ばせている2本の針金を鍵穴に差し込み、慣れた要領で鍵を外す。その間約10秒。良くここまで慣れたものだと自分に呆れてしまう。
重い扉を押して外に出ると、強い風が髪をかき混ぜた。何ヶ月か前までは毎日感じていたこの感覚、いつの間にこんなにも遠くなってしまったのだろうか。
「わー……何この爽やかさ!屋上ってこんななんだな」
小さな子供のように目を輝かせて、宏は嬉しそうに笑った。俺自身も忘れかけていた感覚が体に染み渡るのを感じ、自然と笑みが漏れる。
日陰に腰を下ろし片っ端からパックを広げると、微かに香る食欲をそそる香りに腹の虫が疼いた。どうやら余程空腹らしい。早速とばかり口で割り箸を割り、ソース焼きそばに箸を付ける。口に広がる香ばしさに、一気に唾液が湧き出てくるのを感じた。
「……普通に旨い」
気の利いたコメントをする気もないので頭に浮かんだ言葉をそのまま述べながら、俺はチーズたこ焼きに手を伸ばした。実はチーズ大好き人間な俺には、商品名にチーズとつくだけで衝動買いをしてしまう癖がある。他の乳製品が好きではないので、主に俺の骨はチーズで構成されているのだろう。
「普通って、本当に便利な言葉だなぁー。まぁ、確かに普通に旨いよな。普通のお祭りの普通の屋台の普通の値段の焼きそばって感じ」
宏は魚介類が目立つ塩焼きそばを咀嚼しながら、そんな事を言う。腐れ甘党がまともな食事をしているのを見るのは、どれくらいぶりだろう。俺の骨がチーズで出来ているなら、こいつの体はチョコクリームで出来ているだろう。きっと血液はいちごミルク。不健康過ぎる。
馬鹿げた事を考えながら、チーズたこ焼きを期待を膨らませて口に運ぶ。まだまだ熱い生地の中からとろりと零れてきたチーズと、舌を刺激する辛めのソースが絡み合って、堪らなく俺好みの味に仕上がっていた。まさに俺のために作ったんじゃないかと思わせるほどの、どストライク。
「……尋常じゃなく旨いな」
満足感に顔が綻ぶのを必死に隠しながら、2個目に楊枝を突き刺す。明日の昼飯はチーズたこ焼きで決定だな。
「楓、お前チーズなら何でも良いわけ?」
呆れた視線が向けられるのを感じたが、俺は構わず神聖たるチーズたこ焼きを口に含む。俺から言わせれば、お前甘いものなら何でも良いわけ?、だ。普段あれほど偏食具合を見せつけているくせに、人の好みを非難がましい目で見ないで欲しい。
「別に、何でも良いわけじゃない。これが特別好みだっただけだ」
へいへい。
宏の馬鹿にしたような表情に少し苛立った。よし、今度は宏お気に入りの食堂限定10個とろけるクリームプリンに、からしを混ぜ込もう。醤油をかけてやった時の怒りを通り越して放心状態になっていた彼を思い出し、我ながら非常に人の悪い本心からの笑みが零れる。人の好みを非難したことを後悔させてやる。
「ちょ、極悪人っ!今とんでもない事考えてただろ!」
「何の事だよ」
俺の雰囲気の変わり具合を感じ取り声を上げる彼に、にこりと微笑んで見せた。
「お疲れ様でしたー!!」
「したー!!」
文化祭最終日、遂に待ちに待った午後5時がやってきた。1分刻みで時計を確認して、余りの不真面目な態度にど突かれもした。そんな嫌で嫌で堪らなかった日々も、やっとの事で終わりを告げたのだ。
余裕で売り上げ1位決定だということで、皆テンションが上がりまくっている。朝倉の掛け声に教室中が沸き立ち、その大声に地面が揺れた気がした。大声が疲れた体に響くのに眉を寄せながら、俺はリボンタイを緩める。着替えるのも億劫なほどにだるい。
「指名数1番はダントツで高橋君でした。女子はうっちーね」
特に表彰はありませんけど。
ないのかよと心の中でツッコミを入れて、四方八方から飛んでくる労いやら冷やかしやらに小さく頭を下げるだけの返事を返す。うっちーこと内田 桃香は、女子に囲まれちやほやとされて恥ずかしそうにはにかんでいた。
「お疲れ様。もうそろそろで後夜祭始まっから、お前ら早くグラウンド行けよー」
首からデジカメを提げた山下の言葉に、女子はもちろんの事普段はいい顔をしない男子でさえ、はーいと小気味のいい返事を返した。どうやら相当機嫌が良いらしい。
「よっ。お疲れさん」
不意に左肩をぽんと叩かれ心臓がリズムを崩したが、頭がその声の主を認識した瞬間にいつもの穏やかさを取り戻し始める。嫌に思わない程度の柑橘系のフレグランス、少し歯切れの悪い舌足らずさを感じさせる低めの声。
「いきなり肩叩くなっていつも言ってるだろ」
「そんな固いこと言わなぁい。いいじゃんよ、可愛らしいスキンシップだろ?」
へらへらと隣で笑う宏に溜息を1つついて、俺は靴箱から履き慣れて擦り切れてきたスニーカーを取り出した。興奮したままグラウンドへと急ぐ波に流されるのに任せて、外へと出る。幾分か涼しい風が頬を撫でた。
「後夜祭、出るんだ?」
余り物のサンドイッチやらスコーンやらを、腕から提げたビニール袋から取り出しては口に運ぶ彼を何となしに見ていると、小首を傾げて口元まで食べかけのサンドイッチを持ってこられた。
「出るつもりは無かったけど。ただ人の波に流されただけ」
言わずもがな彼のビニール袋から新しいサンドイッチを拝借して咀嚼しながら、ざわめくグラウンドの中心付近まで人を避けながら進む。どうやら開始時間が迫っていたようで、丸太を規則正しく積んだキャンプファイヤーにはもう点火されていた。
「ダンスさ、お前誰かと約束してんの?」
1人とか寂しいよ?
今度はズボンのポケットからいちごミルクの見るからに甘そうなチョコレートを取り出して、ぺりぺりと包装を破がしながら、彼はその明るい声とは裏腹に真剣みを帯びた視線を寄越した。
赤とピンク、それに白。よく彼の手に握られているいちごミルクの商品の配色。あからさまに少女じみた味と、舌に残る気だるい甘ったるさが容易に想像できるのに、今は何故か甘そうに見えない。
「まさか、そんなの居るわけないだろ。大体、もう帰ろうかと思ってるんだけど」
わざと輪を広げたリュックは背中には沿わず、不安定に腰の辺りで揺れる。変に負担が掛かって痛む肩を、ぐるりと回して息を着いた。肩が凝ろうが痛かろうが、周りの学生が皆輪を広げ背負っているので、自分1人だけ登山家のようにぴったりと背中に着くように背負うと目立ってしまい嫌なのだ。
「帰るのか?せっかく高校最後の文化祭なのにー」
そう言うお前はどうなんだよ。口には出さずに視線に乗せると、彼は苦笑いを浮かべてスコーンを1つ口に放り込んだ。
美月とはどうなわけ?とは流石に聞けず、俺は宏が差し出してきたスコーンを指で摘んだ。あくまでも俺は彼の美月に対する好意には気付いていない設定なのだから。
テンションハイな生徒会に、これまたテンションマックスな全校生徒、加えてテンションが怪しい校長によって表彰式は異常な熱気を孕んだまま着々と進められていく。俺は1人置いてきぼりを食らったまま、ぼんやりと校舎側を眺めていた。
締め切られたカーテンから、淡く光が漏れている。北校舎3階の一室。
「ではでは、皆さんお待ちかね!!これより生徒会主催、後夜祭を開催しますっ」
ここまでくれば逆に清々しいと思えるほどに近所迷惑な副会長のマイク越しの声に、呆れを通り越して、心配になってくる。何がって、もちろん彼らの頭の状態がだ。集団催眠にでもあったのか?
沸き立つグラウンドで俺は1人冷めていた。隣では宏が楽しげにけたけたと笑っている。
「高橋君!新居君!」
こんなに人が大勢いて騒がしいのに、どうやって俺たち2人の場所が分かったのか美月がひょこっと顔を出した。
美月が好きな宏+美月+フォークダンス+お相手が決まっていない宏
よし、明らかに邪魔だな。
「悪い、俺ちょっと用事できた。やっぱ帰るわ」
美月が人混みに悪戦苦闘している間に、俺はにこりと微笑んで宏にそう告げた。上手くやれよ、と口を動かすと、彼は焦ったように短く息を吸い込む。
俺がいたら彼は満足に彼女にアプローチできないのは目に見えているのだ。邪魔者は退散するに限る。
あ、あ、と意味の無い言葉を発しながら、どんどんと表情が強張っていくのがはっきりと見て取れた。なんだ、そんなに2人にされるのが怖いのか?
「じゃあな」
俺を求めて伸ばされた手が何だか可笑しくて、笑いながら駆け出した。いやはや恋のキューピットになるって、こんなにも気持ちの良い事なのか。気分が晴れ晴れして、ミントのように清々しい空気が胸をいっぱいに満たすようで。
駆けて
駆けて
駆けて
駆けて
会
い
た
い
く
て
立ち止まる。
階段を2段とばしに上がって来たせいか、肺が空気を求めて激しく喘いだ。麦わら帽子を外し、オレンジのギンガムチェックのリボンが巻かれたテディベア。ドアに掛かったcloseの文字。
小さく3回、ドアをノックする。たった4ヶ月前にはノックするのもとてつもなく勇気が必要で、何分もドアの前に立ち尽くしていた事もあった。今ではこの3回のノックで彼女は俺だと分かるようにまでなった。俺の叩き方は、とても部屋に響くのだと笑った彼女は、いつものように眩しかったのを覚えている。
「高橋君?」
ドアを開けるなり俺を確認せずに名を呼ぶ彼女に、何故だかとても嬉しくなった。そうです、と急いで整えた息で平静を装い告げると、彼女はにこりと微笑んで俺をカウンセリング室へと通す。今日も表のテディベアとお揃いのカチューシャとスカーフを巻いていた。
いつの間にか慣れきってしまっていた甘い香りを、今日ははっきりと感じた。見れば、デスクの照明だけが点いた暗い部屋の真ん中で、可愛らしいグラスに入ったオレンジのキャンドルがぽつりと置かれている。
「これから私のお楽しみタイムなのよ」
すっかり俺の定位置となったソファに座ると、彼女も正面に腰を下ろした。
アロマキャンドル、好きなの。
そう言って笑った彼女に、なる程と1人納得をしてしまう。この甘い香りはアロマキャンドルのものだったのか。
「……アロマキャンドル」
意味もなくつぶやくと、ライターを手にした彼女が不思議そうに首を傾げた。俺とフラワーアレンジメントぐらい、彼女の口からそんな単語が出るのは意外のような気がする。生徒に蹴りを食らわすような人のくせに女性らしい、なんて馬鹿げた思考だ。彼女は女性なのだから。
確かに、彼女は線が細く端から見れば繊細さを纏っているが、あくまでもそれは見た目だけなのだとこの数ヶ月で嫌と言うほど思い知らされた。アロマキャンドルよりテコンドーの方が数段似合いだ、彼女には。
「ねぇ、キミ失礼なこと考えたでしょう?」
「……いえ、別に」
真珠色のグラスはオレンジ色を纏い、美しく光る。ぼんやりと広がる視界で、彼女は確かに『女性』だった。ほのかな甘い香りが鼻孔を掠め、俺を染めていく。
「何か、花の香りですか?」
閉め切られたカーテンの隙間から漏れるように耳に届くざわめきが妙に現実味を帯びていて、俺は深く息をした。切り離したい、今は。
「んー……知りたい?」
オレンジ色に照らされた彼女は、いつになく真剣な眼差しを俺へと向けていて、ざわりと胸が波打つ。
何を勿体ぶる必要があるのかと、俺は黙り込んだままで彼女の目を見つめ返した。その瞳に映る自分と、初めて目が合った気がする。それ程に俺は彼女を見つめたし、彼女もまた然りだった。
「イキシア」
「……イキシア」
彼女の言葉をオオム返ししながら、俺は視線を外した。甘い甘い、香り。酔いそうな程に。赤、白、黄色に紫。色鮮やかな美しい花。
「アロマキャンドルにするにしては、マイナーなんじゃないですか?」
「どうなのかな。でも私、好きなんだ」
揺れる炎は瞳を閉じてもちらちらと踊り続ける。ダンスが始まったのか、グラウンドからは軽快な音楽が響いてきていた。無事に宏は美月と踊れているのだろうか。
俺は一体何をしに来たのか、彼女と『お楽しみ』の時間を共にしている。彼女は嫌がらなかったし、俺も今思えば大した用もなかったので、ごく自然に始まった時間。なのにとても、不自然で不安定で脆い。何故俺は息を切らして、彼女に会いに来たんだろう。一体、この関係は何なのだろうか。
あんたって、俺の何?
視線に乗せた問に彼女が応えるはずもなく、ただ穏やかな笑みを口元に浮かべているだけだった。
「ねぇ、踊ってくれませんか?」
いつものように突然な彼女の発言に、いつものように俺は思考が停止する。俯いていた顔を上げると、にこやかに微笑んでいる彼女と目が合った。おどってくれませんか?
頭が理解をする前に、彼女は苦笑しながら同じ事を繰り返した。踊ってくれませんか?俺とあんたが、何を?
「フォークダンス。私も踊りたいなぁ……。ね?」
ふぉーくだんす。あぁ、なんだ。そういう事か。やっと働き始めた思考回路に反比例して、俺の口はみるみるうちに渇いていく。フォークダンス、彼女と、どうして。まだまだ正常ほどは繋がらない思考が、意味もなく単語を並べては、俺を混乱させた。
差し出された手を、何も出来ないまま見つめる。相変わらず細く長い指、丸みを帯びた女性の手。確かに、彼女は女性だ。本日何度目かも分からない確認をしながら、俺はどうしたものかと内心頭を抱えた。
彼女は、俺の何だろうか。ただのスクールカウンセラー、単なる年の離れた友達、むしろ赤の他人、それとも。そこまで考えて、俺は緩く頭をふった。
彼女が何だって構わないんだ。少なくとも俺は、この関係が嫌いじゃな
い。それで良いじゃないか、それだけで。答えを出してしまうのが怖くて、俺は思考を断ち切った。残された宙ぶらりんの思いだけが、俺を現実に引き戻そうと躍起になっている。
彼女の手は、とても温かかった。