陽炎、陽炎、アスファルト
終業式の日には、全部の教科を総復習するぞなんて意気込んで臨んだ夏休み。結局、何も出来ないまま折り返し地点を通過してしまった。
世間一般に言う進学校な上に進学クラスのため、夏休みなんて名ばかりで、毎日毎日補習漬けにあっていた。下手すると、普通に学校のある日の方が楽なのではないかと思うほどだ。
休みには入ってからは白石も出勤時間を遅らせたから、花の水やりを口実に毎朝行っていたカウンセリング室には、宏と美月と三人で昼食を食べに行くようになった。白石も自前の弁当を広げて俺達との昼食を楽しんでいる。
今日は3週間ぶりの、そして最初で最後の1日中休みの日。本当は、家でゆっくりと休むなり勉強をするなりして過ごしたかったのだが、予定が入ってしまい学校へ行かないといけなくなった。……その予定というのが、家でゴロゴロするよりは遥かに魅力的なものだった為、誘いを断ることができなかったのだ。
英語の過去のセンター試験の分厚い問題集と、物理の難易度が高めのおさがりの参考書、ノートや筆記用具云々だけをリュックに詰めて家を出る。肩にかかる重みがいつもより随分と少なくて、変な感じがした。
「……くそ。いよいよ地球温暖化で人類は滅びるのか?」
まだ午前中なのに黒いアスファルトは陽炎でゆらゆらと輪郭がぼやけている。周りに誰も居ないことを良いことに、思ったことをそのまま口にした。
それにしても、暑い。
蝉が耳がイカレてしまう程煩く鳴いて、鬱陶しさを加速させている。視力が落ちてしまいそうに白い入道雲が、青い空に浮かんでいる。白すぎて、暗く見えるのは俺の気のせいか?
暑さのせいで思考が可笑しい方向に向き始めながらも、やっとの事で学校に到着した俺は、校門を抜けて校舎に入る。流石に俺のクラスの奴らは誰も来ていないようだ。
床に落とした上履きの音が、やけに大きく校舎に響いた。
渡り廊下を通って西館に入り、階段を上り最短コースでカウンセリング室目指して歩く。生徒とも教師ともすれ違う事なく部屋の前まで来た。
看板はcloseとなっていて、テディベアは赤から涼しげな青系統のギンガムチェックへと替えられていた。夏仕様なのか、手作り感溢れる小さな麦わら帽子も乗っかっている。
こんこんとノックをすると中からすぐに白石の声が返ってきた。中から鍵をかけていたらしく、慌てて走ってくる足音と、ロックの外れる金属音が聞こえてくる。
「おはよう!」
「おはようございます」
「ひぇ〜今日はまた、一段と暑いね。むわっと来たよ、今」
彼女は今日は、表のテディベアと同じ様な涼しげな青の水玉模様のスカーフをしている。……暑いのなら、着けなければいいのに。そう思うのは、俺だけか?
「早く入れてください。中、涼しいんですよね」
「あぁ、ごめんごめん」
そう言って入り口から寄ってくれた。1歩踏み出すだけで冷気が夏服で露出した肌を包み込む。一体外は何度あったのだろうか。27度と設定されたエアコンの冷気が鳥肌が立つほど冷たく感じる。
「こんな暑い中外に出るなんて嫌ですよ」
「分かってる分かってる。私も嫌だもん。午後になって日が陰り始めてから行こ」
すっかり俺の定位置になったソファーに腰を下ろすと、冷たいコップを手渡された。なみなみとオレンジジュースが注がれていて、数個の氷が涼しげな音をたてる。
「ありがとうございます」
「いえいえ」
一口嚥下すると爽やかな甘さのジュースが乾いた喉に心地良く、冷たい物が滑り落ちていく感覚に思わず感嘆の溜め息が漏れ出た。
「今日はお昼、持ってきてる?」
「いえ、持ってきてませんけど。近くのコンビニか何かで買ってこようと思ってます」
「そうなの。じゃあ丁度良かった。近くにホットサンドが美味しい喫茶店が出来たって女の子達が教えてくれてね、今日はそこでお昼ご飯食べようと思ってるんだけど、一緒に行かない?1人だなんて寂しいし」
「……別に、良いですけど」
俺の返事に心底嬉しそうに笑って、彼女は俺の正面に腰を下ろした。どうやら俺が来るまで生徒からの相談の手紙を読んでいたようで、机の上には10通余りの便箋が散らばっている。
「じゃ、それで決まり!私もまだ仕事残ってるから、1時間ぐらいしたら出よう」
「はい」
散らばっていた手紙をまとめて仕事用のデスクに置くと、彼女はノートパソコンに向かって何やら作業をし始めた。仕事を始めたら彼女は一言も喋らなくなる。まあ、それが当たり前なのかもしれないが。
「……」
急に訪れた静寂に、窓から蝉の鳴き声やキーを叩く音が混じる。夏休みに入って以来朝には来ていなかったので、彼女と2人黙り込んだままカウンセリング室で過ごすのが随分と久しぶりのように感じた。
さて、俺も勉強するか。
小遣いを叩いて買ったiPodをポケットから取り出して、イヤホンを耳に着ける。勉強用だと人には言いながら、ただの好みでクラシックばかりを入れたiPodは、俺の勉強には欠かせない物になっていた。
雑音一つ聞こえてこないような大音量でラフマニノフのピアノ協奏曲を流しながら、俺は英語の長文読解を解き始めた。
俺の集中は、白石の突然の行動でブツリと途切れた。お気に入りの1つであるG線上のアリアをBGMに問題を解いていると、彼女がいきなりイヤホンを引き抜いたのだ。
驚いて顔を上げると、白石が不機嫌に此方を見ていた。……いや、不機嫌になるのはこっちなのだが。
「何なんですか……」
「何度も呼んだのに返事しないんだもん。それに、こんなに大音量で聴いてたら耳が悪くなるよ」
イヤホンを彼女から取り返しながら時計を見ると、もう12時をまわっていた。恐らく、これから昼食に行くから呼ばれていたのだろう。
「お昼食べに行こ。また戻ってくるから財布持っていくだけで良いよ」
そう言った彼女も、金のチェーンが付いたバッグ風の財布を持っただけで身軽な様子だった。少女趣味の入ったような赤い財布を見ていると、あんた一体何歳だよという感じなのである。
あえて、それにはつっこまないようにして、俺も財布を腰のポケットに入れた。
「その店って遠いんですか」
「んー。徒歩10分ってとこかな。車の方が良い?」
「歩きで良いですよ」
2人で昼間のくせに薄暗い階段を下りながら思った。……たかが1時間そこらの散歩に、何でこんなにも心惹かれたのだろうか。散歩の場所がフラワーフェスタを開いている公園だからか、それとも相手が白石だからか。知りたくもないが。
一昨日久しぶりに休講になった数学の時間を利用して、カウンセリング室に花の世話に行った時に白石に誘われたのだ。それはもう、これ以上なんて無いんじゃないかと思うほどの満面の笑みで。
ねぇ、高橋君。2人で散歩しない?
そう突然言われた時には理解が出来なくて、しばらく口を半開きで停止してしまっていたように思う。
何でこう次から次へと予測不可能な発言をしてくるのか。半ば呆れてはいたが、もう1度同じ台詞を聞いたときには何故だか頷いていた。
今考えても、分からない。何で折角の休日を、散歩なんかのために埋めてしまったのか。あの時の俺は、気が確かだったとは思えない。
校舎を出て、相変わらず陽炎で境界線がぼやけたアスファルトの上を白石と歩く。ハンカチでしきりに滲む汗を押さえながら、彼女はウンザリしたように溜め息を付いている。
「あっつー……。一体何度あるのかなぁ、もう」
「1日中エアコン効いた所に入るから、弛んでるんですよ」
「キミだって、エアコンは教室に付いてるんだから似たようなもんでしょ」
汗をかく事なく歩く俺が恨めしいのか、彼女は口を尖らせて反論してくる。
「じゃあ、若さの差ですかね」
「なにをーっ!私だってまだまだ若いわよ!高橋君は、私を一体何歳だと思ってるの!?」
そうからかってやると、店が目の前に迫ってきたというのに彼女は憤慨だと怒り始めた。まさかこのままの状態で店に入るわけにはいかず、これ以上機嫌を損ねないような返事を考える。
「……さぁ、26歳ぐらいですか?」
俺の兄さん、もとい正臣兄さんが今年で26歳だ。男女の差はあるだろうが、大体若さ的にも似通った感じだったのでそう答える。
「おー……一発正解。キミってば勘も良いわけ?」
感心したような彼女の表情に一安心する。……公衆の面前であんな大声を出されたら堪らない。彼女なら平気でやってのけそうなのだ。
ドアを引くと、カランカランという軽いベルの音と、バイトらしき大学生くらいの店員がいらっしゃいませと爽やかに出迎えた。
「こちらへどうぞ」
挨拶をした店員に、窓際のテーブルへ案内される。窓からは外のテラスが見えているが、この真夏の真っ昼間に熱気が立ちこめているような外で優雅にランチなんてしようとする人は流石に居ないらしく、5つ程の白い清潔感の溢れるテーブルはがらりと空いていた。
「オシャレなお店だね」
席に着くと店員がメニューとお冷やを置き会釈をして、店の奥へと消えていった。彼女が言う通り、こういう事には疎い男の俺から見ても、女性が好みそうな洒落た内装をしている。外装も赤い屋根と蔦が程よく覆った白い壁が印象的だった。
ピアノの曲が静かに流れ、周りから聞こえてくる話し声や食事をする音も優雅な雰囲気を醸し出している。丁度俺達が着いた時間からが混み時だったらしく、もう何人もレジ付近の椅子に並んで座ってテーブルが空くのを待っている。
「わぁーピザ美味しそう!んー……私はこのシュリンプサラダと、3種のチーズとフレッシュトマトのピザってやつにしようかな」
彼女はメニューを見てキラキラと目を輝かせている。数分間あれこれ悩んだ結果、そう言って笑った。
「……ホットサンド食べるんじゃなかったんですか?」
「あー……じゃあ、高橋君がホットサンド頼んで、半分こしようよ」
「はぁ」
俺だって頼みたい料理があったわけだが、嬉しげな彼女の表情にそんな事は言い出せず、渋々次回にまわす事にした。
俺は、メニューにおすすめと書いてあったホットサンドのセットとレモンティーを頼み、彼女は先ほど言っていたピザとサラダ、それからミックスジュースを店員に注文した。
「ところで、高橋君のお兄さんの名前って何ていうの?私と年もあんまり変わらない感じ?」
注文するわけでもないだろうにメニューのデザートの欄を幸せそうに眺めながら、彼女は話しかけてきた。
「高橋 正臣っていいます。年は、同い年みたいですね。今年で25なんで」
『正臣』という名前が俺の口から出た途端に驚いたようにメニューから顔を上げて、間の抜けたような表情で見つめられた。……そのアホみたいな半開きの口を何とかして欲しい。
「ひぇ〜キミって正臣君の弟さんだったんだね!スッゴい偶然。正臣君と私ね、大学時代の友達なんだよ」
「そうだったんですか?」
「うんうん。……にしても、似てないのね。タイプが全然違う」
確かに似ていると言われたことは一度もない。俺は母親似で兄さんは父親似だからだろうか、顔も体格も全くもって似ていない。兄さんは健康的に日焼けしたスポーツマン的な容姿だし、俺は室内に居ることが多いからか色が白くて体質上細い。
唯一の共通点と言えば、うなじにある黒子だが、そんな事に彼女が気が付くわけもない。
「どちらかと言うと、俺は姉さんと似てます。兄さんみたいな容姿には、凄く憧れるんですけど一向に近付いてくれません」
食べても食べても肉の付かない薄っぺらい体は、俺にとっては1つのコンプレックスだ。この頼りなさげな体型のせいで、風が吹けば倒れてしまいそう、などと女子に言われたこともある。その度に、筋肉は割とついてるんだ、とか何とか言い訳をしながらやり過ごしてきた。
「そう?確かに正臣君もモテてたけど、キミのその容姿もモテる部類でしょ」
「……はぁ、そうですかね」
青いグラスに入れられたお冷やを飲んでから、彼女は俺を見て微笑んだ。氷が涼しげな透明な音を立てる。
「私は、キミの方が好きだよ」
「……」
見た目はね。
ご丁寧にもそう付け足して、彼女はグラスを置いた。何と返して良いかが分からなかった俺は、ただ黙って後ろのテーブルから聞こえてくる女子高生のはしゃいだ会話をぼんやりと聞いていた。
「お待たせいたしました」
10分ほどして料理を運んできた店員を見て目を輝かせながら、彼女は机の上で白魚のような指を踊らせている。
ピザとサラダ、それからミックスジュースを彼女の、俺の前にもホットサンドとレモンティーが置いて軽く会釈をすると、店員は店の奥へと消えた。
「ね、早く食べようよ」
お預けをくらった犬のように並べられた料理を凝視していた彼女は、待ちきれない様子でそう言った。……俺の目には、涎を流す犬の様にしか見えない。
「はい」
「じゃあ、いただきまーすっ」
「……いただきます」
丁寧に手を合わせてから嬉々としてピザに手を伸ばす彼女を暫く見つめて、俺もホットサンドを1つ手に取った。格子状に焼き目のついたパンの香ばしい香りが鼻孔を擽る。
切り口から溢れんばかりに詰められている卵の黄色と、横に添えられたピクルスの緑に食欲をそそられ一口食べてみる。口いっぱいに広がる卵の甘さと、パンの香ばしさ。遅れてやってきたマスタードのピリッとした刺激。
真夏でサッパリとした物を求めている舌でも、このタマゴサンドは拒否をしない。シンプルでありながら、洗練されたその味に素直に感動をした。なるほど、人気が出るのも当然だ。男の俺でも毎日来ても良いかな、と思えるほどに素晴らしかった。
「……おいしい」
不意に口からもれた感想に、彼女は本当に嬉しそうに笑った。食べている様子を見られていたという事にその時初めて気が付いて、少し複雑な気持ちになる。
「良かった!もっとあっさりした感じの物食べたかったんなら申し訳ないなって思ってたけど、大丈夫そうでホッとした」
「まぁ、外もこんなに暑いし本音を言えばあっさりした物が食べたかったんですけどね」
その返答に彼女は苦笑して、ミックスジュースを飲んだ。それから俺もピザを分けてもらったり、幸せそうに食べる顔を眺めたりしながらゆっくりと昼食を楽しんだ。
「本当においしくてびっくりしました」
しっかり、がっつり、食後のデザートまで頂いてから会計を済ませ店を後にした。彼女はといえば、レジの横に並べてある手作りのパンやらクッキーやらを購入して、上機嫌だ。
「ほんと!デザートのジェラートも美味しかったし、満足満足。また来ようね」
「そうですね」
陽炎で揺れるアスファルトの道を急ぎ足で歩き、学校に帰る。また来ようだなんて、そんな決まりきったような言葉にも期待を寄せる自分が気持ち悪い。彼女に変えられていく自分が嫌だと心底思った。
カウンセリング室の冷気は少し生温くなっていた。とはいえ、外の蒸し暑さとは比べ物にならないほどに心地良さ。部屋に入った瞬間に香る、あの花でも香水でもない芳香とコーヒーの香りは、いつの間にか俺を安心させる要素の1つになっていた。
「ぷはーっ生き返る!」
彼女は部屋に入って開口1番そう叫んで、その勢いのままエアコンのスイッチを叩くように押す。
「……スイッチ壊れますよ」
「え?あぁ、ごめんごめん。これ、癖なんだよね」
どんな癖だよ。笑う彼女に腹の中でツッコミながら、俺はソファーに腰を下ろした。物理の問題が激しく中途半端なところで解きかけになっている。
「やっぱり外はまだまだ暑いから、夕方になったら行こうか」
「そうですね」
彼女はそう言ってデスクの上からチラシを1枚つまみ上げ、ひらひらと揺らして見せた。
この学校の近くにある市立の公園で毎年開かれているフラワーフェスタ。ちょとした有名行事で、多くの観光客が県内外から集まる。
俺も密かに毎年通っているのだが、今年は止めておこうと考えていた。何だかんだ言っても、俺はやはり受験生。いくら好きだといっても、そういった事に現を抜かしている暇はないのだ。しかも、何分この御時世、この時期の野外はまるで蒸し風呂状態。行く気も失せると言うものだ。
2人で散歩しない?これ、一緒に行こうよ。
しかし、だ。たった二言の誘いの言葉。それだけなのに、彼女からの提案に何の抵抗もなく俺の気は変わった。
だって、仕方がない。頭で考える前に首が縦に動いてしまったのだ。それに嬉しげに笑った彼女を目にして、やっぱ無し何て言えるわけもなく、この有り様だ。
この暑いのに学校に出て来て、そう、あまつさえ実質的に最後の休日だというのに、カウンセラーと2人きりだなんて。全く、酷すぎる。
まぁ、少なくとも表面上はそう装おう。
内心は嬉しいだなんて、そんな気色悪い事は伝わってしまわないように。
「じゃあ、もう少し勉強してて。私は仕事してるから」
「はい」
そう言うが早いか、デスクでパソコン作業を始めた彼女を横目でちらりと見てから、俺もシャーペンを握った。
全く。今日は毎日毎日グラウンドで汗を流している野球部でさえもいないのか。静かだ。怖いほどに。
こんなに静かだと、俺の心の中も彼女に知れ渡ってしまいそうだと、意味もなく不安な気持ちにさせられる。
「じゃあ、行こっか」
4時ぴったりに彼女はそう言ってデスクから立ち上がった。パタリとノートパソコンが閉じる音がする。
「もう帰ってこないから、忘れ物無いようにね」
「はい」
俺も問題集やらペンケースやらをリュックに入れて、カウンセリング室を後にした。
「へぇ。大人気なんだね。人がたくさんいる」
やはり涼しくなってから見に来ようと考える人は多いらしく、公園は人で溢れかえっていた。気温はうだるような暑さとはいかないが、夕方になっても汗で肌がじっとりと濡れる程度には暑かった。それに加えて、この人口密度。嫌気がさす。
「毎年全国に呼び掛けてるみたいですからね」
赤、黄色、青、白、紫にピンク。公園に所狭しと並べられた煌びやかな花達は、未だ空高くに陣取る太陽に照らされて、きらきらと美しく輝いている。
人とぶつかってしまわないように周りに気を配りながら、歩幅も狭くゆっくりと前へと進んだ。
「ねぇ。この花は何て名前なの?」
彼女は上機嫌に声を弾ませながら、足元の花を指差した。ピンクで豪華な見た目の可愛らしい花。夏から秋にかけての花の中でも、俺の好きな種類だ。
「ジニアですよ。百日草といって、冬頃まで花を咲かせます」
「へぇ。じゃあ、これは?」
今度は1mほど向こうの赤い花を指差した。
人口密度のせいなのか、それとも昼間に散々温められたアスファルトからの熱のせいなのか、それは定かではなかったが肌がじっとりと汗で湿り、少し張り付くカッターシャツが不快だった。しかし、彼女の太陽のようなと比喩したくなる笑顔は、あきれるほどに爽やかだ。
「グロキシニアです」
へぇ、と短く返事をして、彼女はクスクスと肩を密かに揺らしながら笑った。何が面白いのか皆目見当がつかなかったが、取りあえず彼女が楽しそうなのは俺にとって少なからず嬉しいことではあるので、大して気にもとめずに俺の方のあたりでひらりひらりと揺れるスカーフを意味もなく見つめてみる。
「じゃあ、あれは?」
笑いの混じった声は歌うように明るい調子で、爽やかだ。その様子は、早朝にさえずる小鳥、あるいは繊細な細工の施された金の鳥かごで歌うカナリアを連想させた。何故かは分からないが、俺が彼女を動物に例えるならば、小鳥なのだ。か弱いイメージではないが。
「あの薄紫の花ですか?」
「そう。あの花」
「あれは、アガパンサス……だったと思います」
その答えに彼女はまた肩を揺らしながら笑った。今度はクスクスどころじゃない。あはは、と何とも愉快そうに笑っている。俺を笑っているのは明確だったので、少しばかり腹が立った。理由も分からず笑われるというのは、断じて良い気分ではない。少なくとも、俺にとっては。
「……さっきから、何なんですか」
「え?あ、あぁごめんね。何だか、面白くって」
だから、何が。
「本当に何でも知ってるんだなぁって。キミが趣味を教えたがらなかったの、何となく分かったよ。私もお花は好きで割と種類も知ってる方だと思ってたのに、キミに比べたら全然なんだもの。キミと同年代でそんな人は、やっぱりなかなかいないだろうから、キミはある意味特殊に見られるかもしれない。だから躊躇ったのかなぁ、なんて、そんな事考えてた」
俺が彼女に趣味を教えるのを躊躇ったのは、主に彼女の想像通りだ。というより、他に理由はない。
人付き合いにおいて、ある程度同じ事柄に興味を持ち、同じ視野で物事を考え、似たような物を好むというのは、割合大事な事のように思う。勿論、それが全てという訳ではないが、俺達の年代において共通した興味や趣味を持つ友人がいないというのは案外辛い事でもあるだろう。
音楽の好みも俺はクラシックで、最近の流行の曲など知りもしない。テレビドラマを習慣的に見ることも、ファッション雑誌を購読することもない。大体においてその様な話は噛み合わないし、無駄に口を開いてボロが出るのも嫌なので、俺はそういった話題では聞き役に徹している。
短い沈黙の後、そうですかとだけ素っ気なく返しても、彼女は笑っていた。ざわざわと混雑した公園で、彼女のくすくすと笑う小さな声が、やけに大きく耳に届く。
しかし、そんな穏やかな時間も長くは続かなかった。公園を半周したところであんなに元気だった彼女が、溜め息とともに疲れただるい足が痛いを連呼し始めたのだ。
「どんだけ体力無いんですか、あんた」
「毎日毎日空調の効いた部屋で机に向かってるもんですからね、体力も衰えますとも」
昼の時のように俺の文句に言い返す気力もないのか、彼女はまた溜め息をつく。歩くペースを緩めた俺達の横を、人の流れはどんどんと通り過ぎていった。
俺の肩ほどの位置でだれた顔をしている彼女に呆れながらも、元気がない彼女とこのまま散歩を続けるのは躊躇われたため、休憩をとることにした。
せっかくの休日を彼女の溜め息で埋めてもらいたくなんて無い。大体、この人は本当にカウンセラーか?
近くにあったベンチに座らせると、途端に彼女は足先の丸いデザインの白いミュールを脱いで、足をぶらぶらし始めた。
「俺、なんか買ってきますよ」
「あ、なら私ソフトクリームがいいな!」
俺の言葉に、疲れたなんて嘘じゃないのかと思うほど明るい返答に、頭痛がする。わかりましたとだけ返して、視界の隅にある屋台へと歩みを進めた。近くの自動販売機で冷たいコーヒーでも買って飲もう。そんな事を考えて始めた瞬間に渇きを訴える体が、鬱陶しい。
少々急ぎ足で歩きながら考える。
あの人は自分がカウンセラーだということを忘れてるのか?
これじゃあ、まるで……まるで?
そこまで考えて、俺は弱く頭を振った。最近思考が可笑しな方向に傾きがちで、困ってしまう。
これじゃあまるで、デートかなにかのようじゃないか。俺も彼女も、医者を目指す高校生とスクールカウンセラーという退屈な肩書きを脱ぎ捨てて、男と女として過ごしているようで。
遅くなってしまった。
ソフトクリームを買う前に自動販売機を探していたのだが、なかなか見つからない。ほんのり方向音痴がはいっている俺は、自動販売機を探してあちこちしている間に、目印にしていた屋台を見失い、どこを向いても同じように花と人で埋め尽くされているこの公園で1人途方に暮れていた。
さて、どうしたものか。
やっとのことでコーヒーを買い時計を見ると、もう彼女と別れてから20分も過ぎている。
帰ってこない俺に口をへの字に曲げながら、ソフトクリームの冷たさに思いを馳せ、ベンチでだれている彼女の様子が目に浮かぶようだ。
屋台の側には何があっただろう。洒落た作りの街灯、赤いレンガ造りの手洗い、確か近くで噴水の涼しげな音が聞こえていた。
眉間に皺を寄せながらキョロキョロと辺りを見渡せば、手洗いを示す看板が目に入る。俺の手の中で急速に冷たさを失っていく小さなスチールの缶に焦りを覚えながら、踏み出す足は自然と駆け足になった。
やっと購入ができたソフトクリームと、すっかり温くなってしまったコーヒーを手にベンチへ戻ると、脱力し密かに不機嫌なオーラを発しているだろうとの俺の予想は外れ、彼女は誰かと楽しそうに談笑していた。
背の高い、男だ。色素が薄めの焦げ茶の髪を、軽く立たせてある。白いワイシャツを羽織り、色落ちの良さそうな青いジーンズを履いている。
いつもの翻る白衣がなくたってわかる。あれは、山下だ。化学教師兼俺の担任の、白石とできてるとかいう噂の、兎に角嫌いな男。
女子からの人気は絶大だが、男子からは毛嫌いされている。あの男子にとる高圧的な態度や、変にフェミニストで女子に好かれているところも何もかもが気に入らない。主に前者が嫌いな理由だが。
なんで、ここにいるんだ。
どうして、彼女と話してる?
左手に持ったソフトクリームに密かに力が入り、紙越しにコーンが小さく軋みをあげるのが感触でわかった。
湧き上がる悶々としたイライラを、肌に滲む汗と張り付くワイシャツのせいにして、俺は2人に近付いた。
「あ、おかえりー」
遅くなった俺に文句を言う様子もなくにこやかな笑顔を見せる彼女に、何故か不満が湧いた。別に文句を言ってもらいたかったわけじゃないけど、気に入らない。
手を振る彼女に、男が振り返る。思った通り、山下だ。健康的に日焼けした肌を濡らす汗をハンカチで押さえながら、目を丸く見開いた。
「おぉ、高橋。なんだ、白石さん1人じゃないんだ?」
「2人で散歩に来てたんですよ」
嬉々として俺の手からソフトクリームを受け取って、彼女は幸せそうに顔を綻ばせる。俺は無言でスチール缶のプルトップを上げて、ブラックコーヒーを口に含んだ。案の定、温い。
「カウンセリングの一環ですか?最近、カウンセリング室に新居と美月も一緒に入り浸ってるみたいだし。なぁ高橋」
なんだと。カウンセリングの一環かなんて、そんなデリカシーの欠片もない質問があるか。プライバシーを保護してこそのカウンセリングだろうが。
山下の言葉に眉を寄せながら、彼女がどう返答するのか耳をすませた。彼女の方も山下の言葉には引っかかるものがあったようで、いつもの笑顔の中に一握りの歪みが感じられる。しかし、その歪みはすぐに最初から無かったかのように、溶けていった。
ちろりとソフトクリームを一口舐め、ふと俺に視線を移す。その流れが余りにも自然で、どきりと心臓が波打つ。
「違いますよ」
彼女の返答に俺の眉間の皺は溶け、山下も興味深そうにその続きを待っている。彼女が俺の目を寸分違わず見つめる。その直ぐな視線に、急に周りの音が聞こえなくなった。
深い海の中に沈み、鼓動だけが頭に響くようだった。
「私が、高橋君を選んだんです。休日を一緒に過ごす人に」
彼女は笑う。出会った時のように、太陽そのものの笑顔で俺だけを照らし出す。真夏の空高く輝く太陽、肌をちりちりと焼くほどに熱いくせに、見てくれだけは爽やかな。
彼も、私の誘いに乗ってくれましたし。
俺から視線を外し、彼女は山下に微笑みかけた。
山下からちらりと驚いたような視線を向けられたが、俺からは何も言い出すことはできなかった。あんたも驚いてるだろうが、こっちだって十分予想外で驚いてるんだ。飛び跳ねすぎて口から出てきそうな心臓を無理やり押し込めて、平静を装うだけで俺のキャパは満杯なんだから。
口をへの字に曲げながら飲み干した生温いスチール缶を握り締める俺と、何も言えずに目をぱちくりさせている山下をそっちのけで、彼女は目の前の溶けかけたソフトクリームに夢中になっていた。
「今の私は、スクールカウンセラーの白石 由香里じゃありません」
別れ際彼女が放った言葉は、俺の肌に淡い微熱を残したまま、夜の闇に飲み込まれていった。