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お茶会、お茶会、サボタージュ


『メランコリック症候群』と診断をされたあの日から、今日で丸1週間が経つ。


明日から行くだのなんだの帰り際に宏に宣言したものの何となく気恥ずかしくて決心がつかず、カウンセリング室の前まで来ては引き返してを繰り返していた。


……格好悪いな。


今日こそはと教室を出たは良いが、カウンセリング室のドアをノックできず中途半端に腕をあげたまま俺は固まっている。


ドアに掛けられている『open』と筆記体で書かれた木の看板。その下にはテディベアが取り付けられていて、腕には『お悩み相談BOX』なる赤い郵便受けを抱えている。


大きな赤いギンガムチェックのリボンを首に巻いたテディベアはにっこりと口端を上げて俺を見上げてくる。


入らないの?


そうコイツに言われているようで、何となくイラつく。軽く握り上に上げたままの腕はそのままにテディベアを睨みつけてみた。


授業が始まって10分ほどは経つのだろうか。授業が終わればすぐにカウンセリング室の前に来て、休み時間の終わりを告げるチャイムの前には諦めて授業に戻る。そんな事を繰り返していたが、今日は授業に戻るつもりはなかった。


途中から入っていっても相手を納得させられる程の理由も思いつかないし、やおらカウンセリング室に行ってましたなどとバカ正直に言った日には、痛い視線が向けられるのは目に見えている。


授業をサボらなくなった俺を宏が怪しんでカウンセリング室へ行くよう催促をしてくるし、担任の山下が担当の化学に出る気もさらさら無かったし。


……屋上、行くか。


はぁ、と深い溜め息をつき腕を下ろした。テディベアから視線を外し何となく天を仰いでみる。


ドアをノックする勇気すら俺にはないのか。第一、それを『勇気』と呼ぶのかどうかも定かではないが。

「なぁ〜にしてるの?」


「……っ!!」


突然声と共に肩に衝撃がきて、しばらく上を向いたまま考え事をしていた俺の喉奥からはひっと小さな悲鳴が漏れた。驚いて振り向くと、1週間前と変わらずニコニコ笑っている白石が立っていた。


毎日色違いを着けてきているのだろうか、今日は青と白の水玉模様のバンダナとスカーフをしている。


「……一体何なんですか」


「しばらく前から見てたけど、ドア叩こうとしてたよね。来てくれたんだ?」


不機嫌を隠しもせずに眉をひそめてみても、彼女は微笑んだままだった。嬉しそうに小首を傾げて尋ねられて、どう言葉を返したら良いのかわからなくなる。


「……」


「ほら、入って入って!誰か先生が来たら面倒でしょ」


白石はドアを開けて、黙り込む俺の背中を押してカウンセリング室に入りご丁寧にもドアに掛かった看板を『open』から『close』にひっくり返して、後ろ手で鍵を閉めた。


部屋に入った瞬間、香水とか芳香剤とかとも違う甘い香りが俺を満たす。なんだ?濃いが、嫌な匂いじゃない。甘いがどこかスッキリとしていて、なんとも形容しがたい香りだった。


「いやぁ、1週間待っても来てくれないからこっちから会いに行こうかと思ってたよ。屋上にもあれから1度も来ないし」


この不思議な香りは何だろうと部屋をキョロキョロとしてはみたが、特に何もわからなかった。わかったのは、原色や如何にも目に悪そうなショッキング系の色ではなく、パステル調の色で小物類が統一されているという事だけだ。


彼女は向かい合った奥側のソファーに腰を下ろし、俺に向かいに座るよう手で指し示した。

「あっ!そうだそうだ、私ね本当にお菓子とお茶用意して待ってたんだよ」


俺が向かいに腰を下ろすと代わりに彼女は立ち上がって、やたら嬉しそうに小さな食器棚からティーポットやティーカップ、ソーサーやら何やら引っ張り出し始めた。


食器棚の隣のポットからカップとティーポットを入れた鍋に湯を注ぎ、コンロに水を入れたケトルをセットしながらご機嫌そうに鼻歌を歌っている。


「私の手作りだったりケーキ屋さんのだったり、毎日準備してたんだけど高橋君来てくれないから、仕方なく放課後に遊びに来る女の子達とか、化学の山下先生とかとお茶してたんだよ」


「……そうなんですか」


「うん。お陰様で少し体重が増えちゃいましたよ?白石先生は」


にっこり笑顔を崩すことなく彼女は頬を膨らまして此方を見てきた。……いい年した大人が何て顔してるんだ。そんな事を頭では考えながら無言で見返す。


「で、今日はね、家庭科の奈緒ちゃん……じゃなくて吉川先生が今度の調理実習で作るシュークリームを試しに作ってみるって言ってたから手伝いに……というか遊びに行ってたの。そしたら10個もお裾分けして貰っちゃってね!私が買ってきたcradle.のラングドシャもあるから、一緒に食べよ」


「……はぁ」


妙に高い彼女のテンションに、俺は多分性格上なんだろうが警戒したままカチャカチャと準備をする背中を見つめた。


「アールグレイ、飲める?もしかして紅茶飲めない人だとか?」


「いえ、紅茶は好きです」


「そ。じゃあキミも紅茶ね。もうちょっとだから待ってて」


小型の冷蔵庫から先程言っていたシュークリームを取り出し、カップやソーサとお揃いの柄の皿に盛り付け、ラングドシャが入れられた小さなカゴと一緒に俺の前に置きながら彼女は言った。


コンロにセットしていたケトルが独特の笛のような音を立て始めると、彼女はカップとポットを入れた鍋から湯を捨ててタオルでその水滴を拭った。


「高橋君、すまないけどコンロからケトル外してくれないかな」


はい。素直にそう返して立ち上がると、俺はコンロの火を止めて淡いピンクのケトルを持ち上げる。


ずっしりと手にかかる重みと湯気。最近は気温も幾分夏らしくなってきて温かい飲み物は避けていたんだが、えらく力が入った彼女の紅茶の入れ方に何も言い出せなかった。


俺でも知っている有名紅茶メーカーの袋からアールグレイをスプーンで量り入れていた彼女の元に行き、別段話しかけるわけでもなく横に立ってみる。


カーテンの隙間からトラックを走っている男子生徒が見える。プールからも女子の高い声や体育教師の笛の音が聞こえてくる。屋上の上でサボるときとは違う自分だけが日常から切り離されたような感覚、変な気分だ。


「ほら、高橋君。ぼーっとしてないでティーポットにお湯入れて」


せっかくカップも温めたのに冷めちゃうよ。そう言ってにこにこ微笑んだ。いつの間にかアールグレイの茶葉が入った銀の袋をしまい、彼女はソファーに座っていた。


「……どこまでですか?止めて下さいね」


「んーとね……はい!そこまででいいよ」


ポットの横にあった蓋を被せ、俺も彼女の正面に腰を下ろした。……そのにこにこ顔を止めてもらえないだろうか。どんな顔をしたらいいかわからなくなってしまう。


「……」


笑顔で見つめてくる彼女の方をできるだけ見ないようにしながら、ラングドシャに手を伸ばした。薄く焼かれたクッキーは大して抵抗することもなく口の中で崩れる。バターと砂糖が原材料の大半を占めるラングドシャは、体に悪そうだと思いつつも摘む手が止まらない厄介者だ。もちろん、大好物だという意味で。


「おいしい?」


「はい」


甘さを抑えてあるのだろう。その近所で有名なcradle.という洋菓子店のラングドシャは、コンビニなんかで買ったり、宏にもらうチョコレートを中に挟んであったりする物よりもずっと『大人向け』な味がした。


「良かったぁ。キミって甘いもの好きそうじゃないから」


食べてくれなかったらどうしようって思ってた。そう言って笑うと、彼女もクッキーの山から1つ摘んで口に入れた。ポットからほのかにアールグレイの香りが香ってくる。


「そんなに甘いもの苦手そうに見えますか?」


「好きそうには見えないかな」


笑う彼女に、そうかも知れないなと少しおかしくなった。大抵の人は俺に寡黙で冷静沈着なイメージを持つらしいから、甘いもの好きには誰も思わないのだろう。自然に口に笑みが浮かぶのが自分でも分かった。その時、俺は初めて自分から彼女と目を合わせた。


「あ、やっと笑ってくれた」


どうして彼女の方を見ないようにしていたのに、勝手に顔が上がってしまったのだろうか。彼女は驚きと喜びの両方を孕んだ表情をしている。しまった。思わずそう思って視線を外した。しかし、もう手遅れで。


「ははっ。何だか、ホッとした!」


「……何がですか」


「だってキミ、そんなに優しい顔で笑えるだなんて思わなかったんだもの」


俯き膝を見るのを止めてゆっくりと視線を元に戻すと、彼女ははにかんだような笑顔でティーカップに紅茶を注いでいた。途端に強くなる香りが鼻孔をくすぐる。茶葉を取り出し、カップの7分目まで紅茶を入れ終えると、ソーサーに乗せて手渡してくれた。


「ありがとうございます」


「あ、お砂糖とかミルクとかシロップとか、入れる?」


「……いいえ、紅茶は甘いの好きじゃないんで」


甘い物は好きだが、甘い紅茶は苦手だ。ジュース感覚で皆が好んで買う紙パックの紅茶なども、甘過ぎて飲めない。体が受け付けないほど嫌いじゃないんだが、求めている物が違いすぎる。


湯から出して大分時間が経ったのに、カップの持ち手はまだ温かかった。軽く息を吹いて紅茶の表面が波打つのをしばらく見つめた後、ゆっくりと口に含む。アールグレイ独特の強い香りが心のわだかまりを隅々まで洗い流していくようで、心地よい。口一杯に広がる苦味を楽しみながら嚥下した。


クラスの皆も教師も誰も、俺がカウンセリング室で優雅にお茶をしているなんて思ってはいないのだろう。こういう状況を作っておいて何だが、余りにも非常識すぎる光景ではないだろうか。耳にとどく体育の笛の音が妙に現実味を帯びていて、異様さ具合を加速させる。


「さて、飲み物も準備できたことだし、早速本題に入りますか」


カタリと小さな音を立て、彼女はカップをソーサーの上に置いた。膝の上でゆったり手を組んで俺を見据える。口元には笑みを浮かべたままだが、明らかに違うのは穏やかさの中に力強さを持った視線。


「じゃあまずは、キミの事教えて?何でも良いから沢山。私、キミの事まだ全然知らないし」


「俺の事?何でもって……」


何を答えたらいいのか全く見当もつかない質問だった。俺の趣味?友達付き合い?家族のこと?返答に困って微笑む彼女を眉を寄せて見つめ返した。


「んーやっぱり話しにくいか。えっと……そうだなぁー、じゃあYESかNOで答える質問ね。ズバリ、キミが悩んでる原因は家族の事ですか?」


YESと答えなくてはいけないのか?しばらく頭の中でそんな大して重要でもないことを考えてから俺は、はいと答えた。彼女は俺が『YES』と答えなかったのが不満なのか、唇を少し尖らせた。


何故かはわからないがやたらと喉が渇く。ソーサーごとカップをテーブルから持ち上げて紅茶を一口口に含んだ。


「家族とぎくしゃくしてるの?」


いいえ。俺は紅茶で潤した喉で即答していた。


ぎくしゃくはしていない。たまにしか家族が全員揃わないというのは確かだが、会話も笑いもあるし、何らかの記念日などには一緒に食事さえできないもののプレゼントやらを皆が用意し合う程度には家族円満だ。


「両親の仲が上手くいっていないとか」


いいえ。それも違う。


おっとりしている母と、その母の穏やかさに完全降伏で惚れ込んでいる父。2人の間には喧嘩と呼べるほどの争いもなく、お互いに50半ばを目の前にしても仲睦まじく上手くやっている。


「じゃあ、兄弟はいる?」


「……一応。産婦人科医の姉と整形外科医の兄がいます。」


姉とは10歳、兄とは8歳も年が離れている。2人共とても優しくて、年が離れているせいか大分甘やかされていた気がする。


幼稚園から小学校、中学校、高校大学、はたまた塾や愛用の参考書まで優秀な姉と兄が辿った道のりを追いかけるように自分も選んできた。進学する度に姉や兄の恩師に2人の優秀さを熱く語られ、尊敬と同時に対抗意識も芽生えてきて、気が付けば、その高橋兄弟歴代の模試云々の成績を塗り変えていた。


「へぇ!お医者さんの家族なんだね。そっか、ならキミもお医者さんにならなくちゃいけないって事、それが悩みなんだね?」


「……」


多分、と言うよりも、俺の悩みのかなりの割合をそれが占めているのだろう。コクリと頷いて、俺はラングドシャの入ったかごの横に置かれたシュークリームに手を伸ばした。


下に敷かれたアルミケースごとカスタードクリームが溢れそうに詰まった見るからに甘そうなそれを手のひらに乗せる。……宏に1個ぐらい持って帰ってやるか。飛び上がって喜ぶ姿が目に浮かぶようだ。



「医者になれって強制されてるの?」


いや、そうじゃない。


何にでも好きな職業に就け、と家族は言う。誰も強制しようとはしない。強制しているのは、高橋 楓はこうあらねばならないと言う自分。心に巣くった、もう一人のカエデ。


「将来、やりたいことが他にあるの?夢とか、そういうの」


……分からない。分からない。


自分が分からない。


今まで、自分の前に敷かれたレールを辿ることに微塵も疑問を持たないでいた。そうする事で自分は周りから誉められたし、何より、楽だったのだ。


昔は自由時間を与えられると困ってしまうような子供だったように思う。自由は、俺にとっては苦痛だった。自由である時間を少しでも減らすためにお下がりの問題集を解く。親や先生に薦められた本を読む。それはとても、楽だった。ずっと、ずっとそんな考えでいられたのなら何の問題もなかったのに。


初めて疑問に思ったのは、2年に進級したばかりの頃だった。ホームルームで配られた進路調査表。いつものように第1希望の欄に大学名を、学部の名前を書いているときだったか。


医学部医学科。大して筆圧は濃くないし、滅多に無いことなのに、そう書いていた時にシャーペンの芯が折れた。ポキリと小さな乾いた音をたて、折れた芯が飛んでいくのが視界に入る。


それがいけなかったのだ。


書きかけた文字を見下ろして、気が付いてしまった。


何が『第1志望』だ。


これは、本当に俺の意志なのか?


イガクブイガクカ。そう書くのが当たり前のことのように思っていた。


姉が、兄がそうであったように。そうあらねばならないと決めつけていたのは、自分であったのだと気が付いてしまった。


書け。


後ろからオレが俺の背中を見ている。


書け。


俺の背中を、冷たい色を帯びた瞳で。


背中に一筋流れ落ちた汗を感じた。


後ろから用紙を回収に来た生徒が、俺から紙を受け取り教師の元へと提出しに行く。


第3志望まで全て、『医学科』で埋められた用紙を持って。

「……医者には、多分、なりたいんだと思います。今更進路を変えたいとも思わないし、他の職業に惹かれているわけでもないし。ただ」


分からないんだ。『夢』だとか『希望』とかそういう事が。


今まで明確な意志など自分に無かったから、こんな事を思い始めてしまった自分が分からない。


「……そうなんだ。未来の自分ってのを、考え辛いって感じ、なのかな?」


医者になってからの自分はどんなかと、考えてみようとしたことは幾度となくあった。


でも、ぽっかりと穴が空いたようにそこには何もなくて、深い闇が広がっているだけだった。


姉や兄は、毎日がとても有意義そうだ。……自分がそうなれるとは、思えない。


「まずは、なりたい自分っていうのを探さないとね。そんなに何年も先じゃなくても良いから、例えば今日1日はこういう自分でいよう、明日はもっとこうしようって。そんなちょっとした事でも、きっと、将来自分はこうなりたいって思う事に繋がるんじゃないかな?」


「……なりたい自分?」


こうでなければいけないと、そう言ってくる他者のような自分は存在したが、今まで自分自身がこうありたいと思ったことは無かったような気がする。結局俺は、もう一人の自分に遠隔操作されている操り人形かなにかのような物でしかなかったのかもしれない。


俺が授業をサボるのも、操り人形が必死になって命令に逆らっているようなものなのだろうか。


手の中で中身を失って冷えていくカップをテーブルに置いて、俺は顔を上げた。


「夢が出来るっていうのは、実は凄く難しい事なんだよ。……チャンスは沢山あちこちに転がっているんだけど、なかなかそれに気づけない。まずは『今』の自分が満たされていないと『未来』の自分のことを考える余裕なんてないし……そう、だからきっと、夢がある人っていうのはとっても幸せな人なんだよね。そうだ、高橋君は、趣味とかあるのかな?」


つらつらと喋り続ける彼女はシュークリームの上蓋を外し、クリームを掬いながら笑いかけてきた。相談者よりも喋っているカウンセラーというのは、どうなのだろうか。本当にカウンセリングになっているのかが、失礼ながら些か疑問だ。


「……趣味?」


「趣味ってのは、少なくとも自分がやりたくてやってる事でしょう?誰かから強制されているものを普通は趣味だなんて言わないし、高橋君はどんな事に興味をもてるのかなってね」


俺の空になったカップに新しく紅茶を注いでくれた彼女に軽く会釈をして、手に持ったままだったシュークリームの上蓋を外した。正しい上品な食べ方なんて分からなかったから、見よう見真似で上蓋にクリームを掬い、口へと運ぶ。


さっぱりとした甘さのクリームとサクサクと固めのシュー生地がとても美味しい。

趣味、か。


無いわけではないのだが、人に教えるのは少なからず抵抗がある。あまり高校生男子が持つような趣味ではないのだ。


「趣味はありますけど……」


「どんな事?」


「……言って、変な人だと思わないのなら教えますけど」


思うわけないでしょ。人体解剖のビデオ集めが趣味ですなんて言われたら、ちょっと考えるけどね。


そう言って彼女は苦笑いをした。……知り合いにそんな趣味を持った人間でもいるのだろうか。


人体解剖のビデオ集めなんかが趣味の人間を見たことはないが、俺と同じ趣味の男子も見たことはない。


「そんなんじゃないですけど、ちょっと普通じゃないかも知れない」


「ちょっとやそっとの事じゃ、驚かないから。ばーんと暴露しちゃいなさい!」


「……」


食べ終えたシュークリームのアルミケースを小さく畳んで、新しく入れられた紅茶に手を伸ばす。彼女は、居心地が悪くなるほど俺を凝視している。


「……先生は」


「ん、何?」


先生は、花が好きですか?


俺のその問いに、彼女は少し固まっている。数秒間俺を見つめたまま固まって、はっとしたようにまた動き始めた。


「お花?」


俺は花が好きだ。小学生の頃、学校の通学路にある花屋で、色とりどりに咲いている花々を見るのがとても好きだった。


毎日飽きもせずに花屋に通い詰めていたため、店の主人の女性といつの間にか親しくなり、長い休みには何回かフラワーアレンジメントを教えて貰った。


気が付けば、俺の部屋の本棚は医療の本と同じぐらい花の本が占めるようになっていて、休みの日には花屋から何種類か買ってきて小さな花かごを作ってみたり、ドライフラワーにしてブーケを作ってみたり、はたまた庭に自分専用の花壇を作り、種や球根から育ててみたりと、かなり自分の小遣いもつぎ込んでしまっている。


自分の部屋はさることながら、リビングのテーブルや壁、柱などあらゆる場所が俺のフラワーアレンジメントで飾られている。


「……フラワーアレンジメントが趣味なんです。変でしょう?」


ぶんぶんと頭を強く左右に振って彼女は否定した。細くて長い髪の毛が肩を滑り落ちる。波打つ黒々と光るそれは、カーテンの隙間から漏れる光に輝いてとても綺麗だった。


「変じゃない変じゃない!すごいなぁ〜びっくりした。スッゴく素敵な趣味じゃない。じゃあお花にも詳しいんだ?」


「ある程度は分かると思いますけど」


そう答えると、あの時屋上で見せたような好奇心が溢れている瞳をして立ち上がり、窓際に置いてある花瓶を持ってきた。


何種類ものカーネーションが色とりどりに生けられている。この時期はカーネーションが店によく出回るから、家にも幾つか置いてあったはずだ。


「カーネーション好きなんですか?」


「うん。カーネーションってひらひらしててフリルみたいで可愛いし、結構日持ちするから。……本当は、春だからバラもいっぱいあったんだけどお金が無理っぽくて、買えなかったんだよね」


そう言うと彼女は苦笑いをしてラングドシャに手を伸ばした。それにしても食べるペースが速い。俺の2倍か3倍くらいの速さでお菓子を口に運んでいる。


「バラは安くはないですからね。俺もなかなか手を出せません」


「でも、あれだね。カーネーションもこんなに一緒に生けたら、豪華に見えるよね」


そうですね。そう答えて白い花びらを深紅で縁取ったような模様の花に手を伸ばした。まだ新しいのか、それとも世話が行き届いているのか、とてもみずみずしい美しさを保っていて、元気そうだ。


「もしかして、名前とかわかったりする?」


「……この縁が赤いのが、アリア。白いのが、ホワイトキャンドル。これが、ライトピンクバーバラ。それと、グエンシーイエロー」


彼女は感心したように小さく息を吐いて、クスリと笑った。少し、むっとする。やっぱり教えなかった方が良かっただろうか。


俺の表情の変化に気が付いたのだろうか。彼女はごめんごめんと言って苦笑した。


「本当にすごいんだね。私なんて全然わからないのに」


「……別に大したこと無いですよ。よく、小さい時愛読書は百科事典で物凄い知識量の人とかがテレビで取り上げられたりするじゃないですか。それと同じですよ」


「キミの場合は愛読書が植物図鑑なだけで?」


クスクスと笑う彼女に、自分も笑顔で頷いた。


先程彼女が言っていた『なりたい自分』を念頭に置いておくこと、宏にも指摘されたが、多分俺はもっと表情を柔らかに、作りものでない笑顔で人と接する事が出来るようにならなければいけないのだろう。……出来ればそうなりたいと、思わないでもないし。


「笑顔の練習!」


思いついたように突然に大声を出した彼女に驚いて、思わず持っていたカップを落としそうになった。ざわざわとアールグレイの表面が波打つ。


「……いきなり何ですか」


「ん?キミは、笑顔の練習もしなくちゃいけないなって」


何でこんなにも急に話題を変えてくるんだ。少々どころか、かなり理解不能すぎる彼女の思考についていけない。


「笑顔の練習?」


「そ。良く言われるんじゃない?さっきの笑顔、すっごく作りものっぽかったよ」


「……そんなこと」


そんなつもりは無かったのだが。癖付いてしまっているのだろうか。宏以外に見抜かれたのは、初めてだ。


「うそ。さっき甘いものが好きそうじゃないっていう話してたときに笑ってくれたのと全然違うから。」


目が笑ってないんだもん。


そう言うと彼女は空になったカップに新たにアールグレイを注いだ。


「目が?」


「そうそう。口だけで笑ってる感じ。私は、こういう職業してる中で似たようなケースをいくつも見てきてるから、あんまり長く一緒に居なくても分かるんだ。……友達とかで気付いた人がいたなら、大事にしないとね。きっと、その人はキミのことを本当の意味で見てくれている人だから」


ふと、宏の八重歯の覗く特徴的な笑顔を思い出した。彼には、支えて貰ってばかりいる気がする。


「笑顔の練習って、具体的に何をするんですか?」


「簡単な事よ?鏡の前でね、まずはこ〜んなにしたり、こ〜んなにしたりしながら顔の体操をするの」


言いながら彼女は、子供がするにらめっこの変顔のように顔を歪めながら俺に説明してくる。おちょぼ口を上下左右に動かしたり、手で頬を摘んだり、すごい顔だ。……この人、年はいくつだよ。


鏡の前でそんな事してたら、ただの変人だろ。口から出かけた言葉を紅茶で流し込んだ。


「……で」


「顔の筋肉解したらね、こうやって、にっこり鏡に向かって笑うの。最初はひきつっちゃうかもしれないけど、段々柔らかく笑えるようになるよ。ま、自分の顔に可笑しくなって笑えるのかもしれないけど」


「……先生は、実際やってるんですか?」


「もちろん!綺麗に笑えるようになるし、表情も増えるから初対面の人には好印象を持ってもらえるようになるよ。是非試してみてね」


自信たっぷりに笑う彼女に、はいと頷くしかなかった。ポットの残りの紅茶を俺と自分のカップに均等に注いで、彼女は立ち上がった。



「もうすぐチャイムが鳴るね」


もうそんな時間なのか。時計を見ると残り五分足らずで5時限目の終わりを告げるチャイムがなる時間だ。


ちょうど2個残ったシュークリームを持って帰りたいと言うと、彼女は大笑いをしてタッパーに詰めてくれた。結局毎日放課後にやってくる美月と狂い甘党の宏の分だ。


「甘いもの、そんなに好きだったんだ?」


「俺の分じゃありませんよ」


笑い続ける彼女を半ば呆れながら眺めていると、じゃあこれがキミの分ね、と言いながらラングドシャもおまけで包んでシュークリームを入れタッパーと一緒に渡してくれた。


「ありがとうございます」


「いえいえ。受験生の原動力はあまーいものなんだら、ばんばん食べて勉強しなさいね」


前に、同じセリフを宏からも聞いた気がする。カップやポットをシンクに移して、彼女は窓の近くでカーネーションを見ていた俺の元に近づいてきた。


「じゃあ、おさらいね。」


「は?」


可憐に咲いているライトピンクバーバラを見つめながら、次はカーネーションを買ってきて飾ろうかなどと考えていた俺は、彼女が何を言っているのかすぐに理解できなかった。


「これからのキミの課題。やることリストのおさらい。まず第一に、毎日寝る前に紙に明日はこんな自分でいたいっていうのを書いて、制服の胸ポケットに入れること。第二に、毎日お風呂上がりに鏡の前で笑顔の練習をすること」


「……わかりました」


それが本当に効果があるのかは知らないが、やらないよりはましだろう。俺は素直に頷いた。


「じゃあ、また来てね」


部屋のドアの近くまで、カウンセリング室を出た俺を見送りに来た。


「はい。あの」


「何?」


教室に戻ってしまうのが惜しい。もっと、この人と話していたい。そんな感情が帰るときになって湧いてきた。初めて話したときの、何となく神経にさわるような不快感はもうない。むしろ、この人との空間は心地よいと感じるようになっていた。


カウンセラーという職業上なのか、彼女はとても俺の心を静めてくれる。何度も言うようだが、彼女との会話に本当にカウンセリング要素があったかどうかは、定かではないが。


「毎日、何時ぐらいに学校に来てるんですか?」


「んー?学校が開いたらすぐかな。事務員さんが学校開けるのが早いか、私が校門で仁王立ちするのが早いかって感じかな」


彼女はそう言ってクスクスと笑った。


「……じゃあ、毎朝、ここに来ても良いですか?」


「もちろん良いけど、何しに来るの?」


花の世話がしたいんです。


不思議そうな顔をして小首を傾げる彼女にそう答えると同時に、チャイムがなった。彼女は俺の言葉に納得したように頷くと、教室に戻っていく俺に手を振った。


「明日から、何時に起きようか」


花の世話を口実に毎日彼女に会いに行く。気恥ずかしさはあったが、取りあえずは明日の朝の約束ができて良かったなどと廊下を歩きながら思う。


家から何か花を持ってきて、カーネーションと一緒に生けようか。


シュークリームの入ったタッパーを手のひらで隠すようにして、俺は教室の戸を開けた。







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