甘党、騒音、自由人
戸を開けると、昼休みで皆が食堂や中庭に出払うせいで数人しか教室には残ってはいなかった。
「おっ。帰ってきた帰ってきた。おかえり、楓」
椅子の背もたれを前にして俺の机に突っ伏していた親友の宏が、戸を開けた音で振り返る。
宏は中学からの付き合いで、高校に入ってからは同じバドミントン部で一緒に活動してきた。中学の時はあまり進んで話すような仲では無かったのだが、クラスも同じになり接点も増えたのでよく話すようになった。
なかなか周りと打ち解けられない自分とは違い、宏は所謂ムードメーカー的人種ですぐに新しい友達を作りクラスの人気者になったが、何故かそうなってからも俺の側にずっと居てくれている。高校でできた友人も殆どが宏繋がりで、俺が根暗ガリ勉男化しなかったのは九割方コイツのお陰だ。
宏はどうやら今日も俺が帰ってくるまで昼飯を食べずに待っていたらしい。パンやら飲み物やらが入ったビニール袋をガサガサと俺を急かすように揺らして、手招きをしてくる。
「どう?ちゃんと寝れたか?」
「………まぁな」
席について鞄から弁当箱を出し机に広げる。蓋を開けると相変わらずうんざりするぐらい凝ったおかず類が詰められていた。
うとうとしただけで大して寝れてもいないのだが、俺は肯定した。あの白石とかいうカウンセラーのせいでとても寝られる状況じゃなかったし、気分もあまりスッキリしなかったのだが。
美月 悠里。彼女は先月の引退の日までバドミントン部女子の部長をしていた。俺は男子の方の部長だったから2年になってからは話す機会も増えて、仲良くなった。
彼女は最初はもっと、どちらかと言えば控え目な雰囲気をしていた。俺は賑やかな人物よりは物静かな人物との方が親しくできる人間なので以前の美月はとても居心地が良かったのだが。どういう訳か夏休みを過ぎた頃から別人格になったかのように持つ雰囲気が激変。怖いくらいに明るくなった。まぁ、今の美月が嫌いなわけではないが、温度差に疲れるんだ。
「悠里は毎日元気だなぁ」
「元気元気!新居君は?」
「元気元気!」
ニコニコと笑顔を振りまきながら楽しそうに話す宏と美月に若干頭痛をおぼえた。なんで俺の周りの人間はこんなにはっちゃけてる奴ばっかなんだ。進んで仲良くしようとしているわけでもないのに、こういう人種ばかりが集まってくる。
「で、一応聞いておくけど……今日は何の用?」
「今日はですねー。お勉強を教えてもらいたくて来たんですよ〜」
またか。
美月は何故かは分からないが俺に勉強を教えてもらいたがる。毎日毎日放課後にやってきて、教えてくれとせがむのだ。
「勉強勉強って、美月は教えてもらうと言うより教える側の人間だろ」
「そんなことないってば!」
そんな事言いつつ毎回テストで校内10位に入ってるくせに。心の中でそんな事を思いながら、ぼんやりと美月の泣き黒子を見つめた。
「それに、毎回毎回言ってるけど……教えてもらうんなら先生の方が良いだろ」
「やーだ。だから毎回毎回高橋君が良いって言ってるでしょ?」
ニッコリ微笑みながらそう言った彼女に思わず頭痛がした。
「悠里さぁ〜頑張るよなー。楓相手にそこまで言える女子は悠里ぐらいだよ」
宏が腕を組んで感心気に呟くと美月はふふんと鼻を鳴らして親指をたてた。
「教えてやれば?こんなに頼んでるんだから、3日に1回ぐらいはさ」
「そうだよねー。じゃないと私可哀想だもんねー」
「ねー」
顔を見合わせて満面の笑みで首を傾けた2人は、その笑顔まま俺を見てくる。
似たような人種同士相性が良いのかどうかは知らないが、阿吽の呼吸で俺を責めるのはやめてほしい。対処に困るんだ。
「……わかったよ」
俺が渋々と了解すると美月は本当に嬉しそうに柔らかな笑顔を向けてきた。
あの頃からは性格は勿論、体型やら髪型やらまるで美月 悠里という人間は存在しなかったのではと思ってしまうほどに変わってしまった彼女。
はにかむような笑顔は大人しかった頃の彼女と全く変わっていなくて、何故か安心をする。
「良かったなぁ悠里……!母さん今日はお赤飯炊かないとねっ」
「お母さん!私、私……嬉しい!」
「悠里!」
「お母さん!」
「………」
宏と美月はがしっと強く抱き合って、俺は放置のまま俺の理解の範疇を超えたテンションまで行ってしまわれた。
仕方ない。3日に1回、何とかなるだろ。美月と2人きりじゃなければ。
夫婦漫才を視界に入れたまま、俺は溜め息をつきながら背負ったままだったリュックを机に下ろした。
「おい、勉強しないのか?漫才やり続けるんだったら、俺は帰るぞ」
「やだやだ!やりますやりまーす」
ガタガタと椅子を引いて俺と向かい合わせに座った美月はニッコリと俺に微笑みかけた。
「……疲れた」
閉館時刻も既に大幅にまわった7時45分30秒ごろ、警備員に追い出されるように学校を出た俺達は校門で帰路が反対方向の美月と別れて、宏と2人暗い夜道を歩いていた。
「お疲れ様。……もう、なんだか悠里も楓も俺とは次元の違う話するから訳わかんなかった」
宏は肩を竦めてから、持っていた傘をぐるぐると振り回した。
今朝の天気予報では午後から雨になると言っていたのだが、その予報は大幅に外れ空にはうっすらと星が見えていた。
「俺が美月に教えてたのに、いつの間にかお前に2人掛かりで教えてたな」
「わかんないんだよー対数。微積とか別に全然出来ないわけじゃないけどさ、logとか入ったら即お手上げだもん」
「ビビりすぎてるだけだよ。基礎が出来てない訳じゃないんだから」
結局俺が美月に教える事なんて何もなくて、ひたすら二人で彼女が持ってきた難易度の高い問題集を解きまくっただけだった。
途中までは着いてきていた宏が対数を交えた問題になった途端に唸り声をあげ始め、10分と経たないうちにその唸り声はすすり泣きに変わり、あまりの鬱陶しさに集中できなくなった俺は仕方なく宏に解法を説明することにした。
俺が手取り足取り、反吐が出るほどやさし〜く丁寧に教えてあげても一向に自力で問題を解けないコイツを見かねて美月も加勢。
そのまま2人掛かりで説明をして小一時間が過ぎ、校舎を見回りに来た鬼警備員に学校を追い出された、という訳だ。
「少しは理解できたか?」
「ん〜まぁね。教えてもらう前よりは」
「当たり前だろうが」
前より分からなくなってたら困るんだよ。半ば呆れて宏を見ると苦笑いを浮かべた見慣れた顔が街灯に照らしだされた。
家までは徒歩約15分。家の近くの十字路で宏とは別れる。俺は左に、宏は右に。宏は両親と兄弟達が待つ暖かな家へ、俺は家族全員出払って空っぽの家へ。
もう随分と長い間家族全員で食事をしていない。いや、食事どころか顔を合わすのでさえ珍しい事なのだ。比較的よく会う兄も、もう1週間は顔を見ていない。母には毎日会うけれど、看護師だってそう暇じゃない。
皆それぞれ忙しく、寝るためだけに帰ってきているような我が家だ。仕方ないのかもしれないが。
「……メランコリック症候群か」
見慣れた十字路が間近に迫ってきたとき、宏は独り言ではないかと思うほどに小さな声でそう呟いた。
あの白石とかいうスクールカウンセラーの馬鹿みたいな診断結果。強ち間違ってもいないのだろうが。
「どうしたんだよ」
「んーどうしたのかな。よく分かんない……」
困ったように笑ってガシガシと頭をかいている。俺に向き合った宏は昼休みと同じように心配そうな顔をしていて、少し戸惑った。
そんなに気にしてしまうほど病んでいるようにでも見えるのだろうか。それとも、白石の言った『メランコリック症候群』という病名がしっくりきてしまうような態度を俺が宏にとったことでもあったのだろうか。
よく分からないというコイツの方が、俺にはよく分からかった。
「お前には分からない事ばっかなんだな」
嫌味っぽくニヤリと笑ってそう言うと、ムスッと不機嫌そうに悪かったなと小声で返してきた。
「心配してんの。わかるだろ?」
「まぁ、そりゃわかるけど。……何?」
十字路までやって来て宏に背を向けるとがっしりと腕を掴まれた。街灯がジジと鈍い音をたて、俺たち2人を照らし出す。
「カウンセリング室来いって言われたんだろ?」
「……あぁ」
「行けよ、カウンセリング室。俺には良く分かんないんだけどさ、やっぱり由香里ちゃんはそう……その、なんだ、心のことに関してはプロだろ?その由香里ちゃんが言うんだからさ、やっぱ心のどっかが病気なんだって。由香里ちゃんに話聞いてもらって、楽になった方が良いと思うんだ」
心の病気、か。楽にしてもらえたなら、どんなに俺は救われるのだろうか。俺に手を差し伸ばしてくれた彼女。彼女なら俺を変えられるのだろうか。あの時に感じた感覚。俺は……期待して良いんだよな?
一生懸命という表現がぴったりの言い方をする宏に思わず笑いが漏れる。クツクツと喉の奥で笑うと宏はまたムッとした。
「さっきから、『分かんない』ばっかり言ってるな」
「うっさい!真剣なんだってば!」
「うん、そうだな。…行くよ、カウンセリング室。待ってるって言われたんだ。授業サボるとき来いって」
そう言うと、少し驚いたように宏は目を見開いた。それ程俺がそう返事をするのが意外だったのだろうか。腕を掴んでいた手がゆっくりと離れていった。
「ん?」
「え、いや、その……カウンセリング室なんか行く訳ないだろって言うと思って、そこを何とかーって説得するつもりだったのに」
そうもごもごと喋る宏にニコリと笑ってやると、怪訝そうな顔をされた。貼り付けたような笑顔、何故だか知らないがコイツには見抜かれてしまう。
「その笑い方も矯正してもらってきなよ。目、笑ってないし。愛想笑いバレバレ。そういうとこ、嫌い」
そうですか。
「そうか?今んとこ、お前にしかバレないみたいだけど」
第一、声を出して笑う以外、特に微笑みとかそういう類の笑顔はどういう深層心理の元で生じるのか理解不能だ。その時点で心が異常をきたしているのだろうが。
「俺がどれだけ楓の顔見てると思ってんだよ。分かるし」
「そう、分かる事もあるんだな」
「うっさい!」
こんな会話も家に帰ったらできない。宏と別れるこの十字路にやって来るのが、正直いつも惜しいと思ってしまう。
1人にはなりたくない。孤独を纏うのは俺の見かけの雰囲気だけで十分だ。
「ところで、そんな物知りの宏に質問」
「何?」
「カウンセリング室って、何処にあるんだ?」
そう、誰かに聞こう聞こうと思っていたこと、宏がメランコリック症候群とか言い出したお陰で思い出せた。危うく忘れるところだった。
「楓ー……お前何年俺らの学校の生徒やってるわけー?」
呆れたように苦笑してポンポンと肩を叩かれる。何年居ようが無駄だと判断した事は徹底して頭には入ってこないような脳の構造をしている俺には、3年になっても校舎には知らない部屋がいくつもある。
「はぁー……っとね、北校舎の3階の階段の近くだよ」
「北校舎の3階……。あぁ、生物実験室の近くか」
「そうそう。明日から行くの?」
携帯を開くとちょうど8時と画面に表示された。そろそろ帰らなければ。宏の家族が心配をし始めるだろう。
「サボりたくなったら行くつもり。山下の授業とか」
「そっか」
そう答えると、宏は程々にしとけよとにっこり白い歯を見せて笑ってクルリと向きを変えた。
「じゃあ、また明日!」
「あぁ。お休み」
走り去っていく姿を見えなくなるまで眺めてから小さく息を吐いた。
何か、疲れる1日だったな。
早く帰って風呂に入って、夕飯もすませて勉強をしよう。物理と化学、数字3Cに英語に日本史。やる事はまだまだ山積みだ。
グッと気合いを入れ直し、俺は十字路を後にした。