モノクロ、ストロボ、青い春
「見てよ楓、これなんか俺超バカっぽくない?」
ケタケタと実に愉快そうに笑う宏の指が指す方に目を向けると、どう見ても不自然な顔の倍ほどあるアフロのかつらをかぶり、アニメのキャラクターのセーラー服を着てダサい決めポーズをとっている宏の姿を写した写真があった。
昨年度の体育祭の応援合戦で、応援団が化装した時のものだ。ふざけ切ったその姿も、いっそ気持ちいいほどに爽やかで笑える。
「お前、こんなのばっかじゃないか」
女装、着ぐるみ、コスプレ。その馬鹿馬鹿しさに呆れるけれど、俺の心はとても静かで暖かな気持ちで満たされていた。
2月下旬。国公立大学としては珍しく、独自日程により入試が行われる俺達の志望校は、皆より1週間ほど早くに前期選抜の合格発表が行われた。
センター試験は目標として設定していた点数を10点ほど上回り、幸いぎりぎりの合格ラインからは大分余裕のあるスタートを切る事が出来た。
しかし、センター試験の結果に一喜一憂してもA判定が落ちB判定が合格するという事などよくあることで、それまで持っていた多少の自信もいざ運命の瞬間を目の前にすると消え去り、合格者の受験番号が並んだ掲示板の前に立った時には情けないほどに体が震えた。
上着の内ポケットに入れた携帯が俺の体を密かに揺らすのと、8410の数字が目に入ったのはほぼ同時だったように思う。
携帯のスピーカーから大音量で耳に突き刺さる、別のキャンパスの掲示板を見に行った宏の興奮した声を聞きながら、どくどくと血管がはち切れそうなほど拍動する心臓を怖いと思った事をぼんやりと覚えている。
耳元で鼻を啜りながら子供のように泣いている彼の不安定な呼吸音は、張りつめた緊張の糸をばらばらに切りほどいて、俺の心を重みから解き放つ。
つんと痛む鼻の奥、輪郭が歪みぼやけた視界、うるさく打ち鳴らされる心臓の音。それを感じたのは一昨日なのに、嘘だったんじゃないかと思うほど現実味のない曖昧な記憶となってしまっていた。
嬉しい事にそれは嘘や夢の出来事なんかじゃなく、俺達2人のもとには一足早く春が訪れたのだった。
「それにしても、お前は生真面目そうな顔ばっかだよな」
昨日には二重の瞼が一重になるほどぱんぱんに腫れぼったくなっていた宏の瞼も、今日は通常運転中のようだし、こんな真昼間に授業を受ける事無く明るい教室で駄弁っている事に違和感を感じでしまう。
宏は新しくパッケージが変わり練乳入りとなったらしいイチゴミルクのパックを片手に、推薦やAO入試で早々と合格を決めたクラスメート作のアルバムをまた1ページ捲った。
完成品に最終のチェックを入れるだけなんて、素晴らしく楽で楽しい仕事だ。
「俺は生まれつきこんな顔なんだよ」
「分かってる分かってる。カメラ前にしたら上手く笑えないだけだよね、楓くんは」
宏に肩を抱かれぎこちない笑顔を向けている写真の中の自分に、我ながら救いようもなく不器用な人間だと溜め息が出る。
大げさなピースサインと直立不動のコントラストは、とても滑稽だった。
自然と持ち上がった口角に、ほんのり胸の辺りが暖かくなる。
「それにしても、楓は表情筋ゆるゆるになったよね」
目敏くそんな俺の顔を見た宏は、突然真顔で感心したようにそう言った。
「ゆるゆるだと? 鍛えられたの間違いじゃないのか」
かれこれ、もう8ヶ月間も風呂上がりに鏡の前であの馬鹿馬鹿しい『笑顔の練習』をしているのだから。
始めた当初の頬の筋肉が引きつる痛みと、情けなさから湧いてくる自嘲の感情はとてつもなく不快で何度も心が折れそうになっていた。
鏡の前に立っただけで、条件反射のごとく笑んでしまう今の自分からすれば、もう随分と昔のように思えてならない。
そんな事、彼が知っているはずなどないのだけれど。
頬に感じていた痛みは筋肉痛そのもので、緩くなったというより鍛えられてがちがちになったような気がしてしまうのは仕方のない事だ。
がちがちの筋肉でできた素敵な笑顔なんて、正直拝みたくないのだけれど。
「いや、やっぱりゆるゆるになったんだよ。絶対そう」
「……どうしてそう思うんだ?」
頑なに意見を曲げない宏にそう問うと、彼は絶対という言葉を使ったにも関わらず困ったように口をへの字に曲げ、ちらりと視線を窓へと移すとイチゴミルクを一口口に含んだ。
つられて窓の方へと視線を向ける。
ほんの少し前までは窓際の席に座っただけで冷たさが肌に刺さるようだったのに、3月を目の前に窓の外は随分と春の気配を感じさせる暖かな色調へと変化していた。
「……変な硬さが消えたっていうかさ、とにかくやわらかくなったんだよ。憑きもの取れた感じって、この事?」
みたいな。
やや遅れてそう付け足すと、彼は苦笑いをする。
何だそれは。俺は幽霊かなにかに憑かれていたのか。
幽霊ではないものに巣くわれていたのは確かなので、強ち間違ってもいないのかもしれないけれど。
いつの間にか、本当に気付かないうちに俺の心から姿を消していた憂鬱な感情。
重くじめじめとして、ぬめった負の感情は、それこそ憑きものがとれるといった風に跡形もなく消え失せて、今はその変わりにそれを消し去る方法を教えてくれた人に植え付けられた別の悩みだけが残っている。
当人がそれを意識してなのかどうか、それは定かではないけれど、確実にその種に水を与え、栄養を与え、太陽の光をさんさんと注いで、育ててしまった。
「前みたいに口元だけで笑ってる気持ち悪い笑顔もなくなったしね」
ほら、これ。
そう言って指し示された写真には、確かに今鏡の前で見る自分の笑みとは違う、まるで別人であるように無機質で何の温度も感じさせないような自分がいる。
「へえ。そりゃ嬉しいな」
あえて興味がないように返した言葉に、彼は笑った。
まだ彼や俺を含め、ごく少数の人数にしか訪れていない小さな春は、とても穏やかで暖かだ。
その訪れが早く来るように、今は願う事しかできないけれど、最後まで共に走っている事が少しでも実感として皆に伝わればいいと思う。そんな事を思いながら彼と卒業の日まで毎日通うと決めた。
薄い壁を1枚隔てた向こうで、最後の最後の追い上げが行われている。時折聞こえる教師の声と、染み渡ってくる静けさを背中に感じた。
「……卒業ももうすぐだなー」
しばらくの間流れた穏やかな沈黙の後、宏は悲しみとも喜びともつかないような小さな溜め息をついて、そう呟いた。
「そうだな」
次の春の訪れは、別れの時。それも、あと残すところ丁度1週間でやってくる。
振り返ってみれば本当に色々な事があった、そんな事を考えて哀愁に浸ってしまうは仕様のないことだ。
通学路、教室、グラウンド、図書館、食堂、屋上の青い空。意識せずとも、沢山の場所に転がっている思い出のカケラを感じ取り、様々な事を思い出す。
いつも俺を笑顔で出迎えるテディベア、ふわりと香るアロマキャンドルの甘さ、その先にいる人。アールグレイの芳しさ、ラングドシャの軽さ、彼女が置いてくれた俺のためのマグカップ。
別れが来ようとしている。
「早いなー」
「そうだな」
彼女は、今何をしているのだろう。
センター試験当日、家の前の道を走り去った後姿を見て以来、1度も会っていない。
色濃い思い出がつまっているはずのカウンセリング室のドアには、もう1つの職場でのカウンセリングで多忙なためしばらく休む事を告げる張り紙があった。
俺はまだ、マフラーの礼も、カウンセリングの礼も、何も伝える事が出来ないでいる。
「もうこの制服も着れなくなるんだなー」
「そうだな」
入学当初には少し大きくて、硬い繊維が肌をちくちくと刺していたのに、いつの間に馴染んだのか。その境目は、一体どこにあったのか。
「みんなとも、なかなか会えなくなるんだろうなー」
「そうだな」
初めて言葉を交わして、笑い合った日。ふざけ合って、小さな口論も沢山重ねて、日々を共に過ごしてきた。当然のようにやってきた明日に終わりがあるなんて事を、一体誰が感じていたのだろうか。
「……そしたらさ、普通だった事も普通じゃなくなるんだろうなー」
「そうだな」
馴染んだ制服はクローゼットの奥にしまって、ぼろくなった教科書は段ボールに詰め込まれて、いつか湿ったカビの臭いを纏って思い出になってしまう。
毎日歩いた通学路は有り触れた道に変わり、机や椅子は他の誰かが座るのだろう。
日常は日常であるさえ事を忘れて、見えなくなってしまう。突然に、唐突に、その瞬間は訪れてしまう。激しいはずの衝撃はすぐに消え去って、融けて馴染む。
だから、今回の春は未だかつてないほどに大事に過ごす事を俺は心に決めていた。
「それってさ、やっぱりさびしいのかな」
「……どうだろう」
きっと今までそうだったように、別れの悲しみはすぐに薄れていって慌ただしい新しい日々の始まりに飲み込まれていくのだろう。
そこに寂しさを感じさせるだけの時間は無い。そのような気がしてならないのは、子供でいられる時間が残り少ないからなのだろうか。
「俺さ、この季節ちょっと苦手なんだよね」
宏は右手に持ったイチゴミルクのパックのパッケージを目を細めて眺めると、そう言った。
すぐ近くを見ているはずなのにどこか遠くを見つめているようなその表情は、時折彼が見せる彼らしくない表情だ。つられて、自分も真剣な表情になってしまう。
「……いつだったか、先月にも言ってたよな。冬よりは夏、春よりは秋、だったか?」
そう言うと彼は顔を上げて、にっこりと笑った。いそいそとショルダーバッグを漁ったかと思ったら、ピンクの包み紙の飴玉を投げてくる。
「ご褒美ご褒美! 心して食え!」
少しも頭を働かせる事なく、その味の想像ができてしまう。自然と苦笑いになりながら、礼を言ってありがたく頂いた。
それにしても、ただ単にイチゴミルクが好きだからという単純な理由だけでは片付けられないほどの彼の依存具合は、少々異常ではないかと思う。
自分だって紅茶やチーズには煩いが、ここまでの執着はないような気がするし、四六時中そればかりを口にしているわけではない。
何故かと言えば答えは単純明快、味に飽きてしまうからだ。
彼もイチゴミルクの商品ばかりを購入しているわけではないけれど、決まって飲み物はイチゴミルクの紙パックだし、懐に忍ばせている飴玉は全てイチゴミルク味。
それは、果たして普通の事なのだろうか。
「なあ、お前どうしてそんなにイチゴミルクに執着してるんだよ」
口に放り込んだ瞬間広がるやわらかな甘さは心地よいけれど、舌先が痺れる程の甘味は正直眉を寄せずにはいられない。
「先月も言っただろー? 初恋の人が好きだったからって」
彼自身も飴玉を取り出し口に放り込むと、先程とは対照的に不服そうな表情で机に頬杖をついた。
「いやそれは聞いたけど、その執着具合を見てると、もっと何かあるんじゃないかと思って」
会話が途切れると無音に限りなく近づくこの空間での沈黙は、彼の放つ雰囲気によっては緊張を伴うものでもある。
俺に目を合わせたまま何かを思案する彼の瞳はどこか真剣な色を帯びていて、ほんの少し、時間の流れが緩やかになったような気がした。
そんな事、あるわけはないと分かってはいるけれど。
「……いや、それだけだよ。ただ、さ」
すごく、好きだったんだ。
彼は目を細めて笑った。
「小学生が抱く恋愛感情なんて、憧れの延長線上でしかないのかもしれない。でも、確かに好きだったんだ」
彼の指先で折りたたまれていく包装紙は、静かな空間に似付かわない鋭利な音をたてる。
小さく小さくなったそれを、彼は右手で握りしめた。
「……近所のお姉さん、だったか?」
空気の泡を含み薄くなった飴玉が欠け、俺の舌先に痛みを残す。ちくりと俺を刺す飴玉を、左の頬へと舌で寄せた。
その彼の表情と舌先の痛みに彼女の事を連想してしまう自分は、どうかしているとしか思えない。
そう。
殆ど呼気のような返答と共に、彼は小さく頷いた。
「そのお姉さんとは、どんな関係だったんだ?」
「はは。何? 楓くんはそんな話題にも耐性が出来たんだ?」
少し前まではあからさまに避けていたくせに。
そう言ってにやりと人の悪い笑みを口元に浮かべた彼に、思わず眉が寄る。
人を小馬鹿にしたような口振りにむっとするけれど、それよりもずっと、彼が俺に対してそのような表現をする事が増えた事が気掛かりだ。
一体、どのような心境の変化があったというのか。
「楓の御所望とあらば、俺のほろ苦ーい思い出を語ってあげてもいいけど?」
「……はいはい。じゃあそのほろ苦い思い出とやらを聞かせてもらおうか」
俺は、修学旅行の旅館の寝室で撮ったどことなく幼さを残したクラスメートの姿をしばらく眺めてからアルバムを閉じた。表紙には山下のトレードマークの、ウルトラマンのアップリケ。
どこから話そうか。
そう一言呟いて小さく息を吐いてから、彼は穏やかな表情で語り始めた。
「俺んちはさ、両親が共働きだし、幼稚園から帰った後はいつも家でお留守番だったんだよ」
彼はアルバムに付けられたフェルトのウルトラマンに手を伸ばし、指先で頭を撫でる。
その表情は簡単には読み取れないほど複雑な思いが絡んでいるように見えて、俺は黙っていようと口を固く噤んだ。
「上に兄弟もいないし、親戚とかも近くにいないから親は困ってたらしいんだけどさ、丁度2軒隣の家に子供好きの中学2年のお姉さんが住んでて、子守りの相談を持ちかけたら快く了解してくれたそうでさ」
「ああ、それで知り合ったのか」
小さく折りたたんだ包装紙を机の上に広げながら、彼はにっこりと微笑んで数回頷く。
「そう。俺が4歳の時ね」
「……4歳」
意味なくそうオウム返しをして、俺は口の中で小さくなった飴玉を奥歯で噛み砕いた。
細かい粒をペットボトルのストレートティーで流し込む。ジュースのような紅茶ではなく、お茶として飲む事が出来る甘味を抑えたストレートティーは、口の中の粘つく甘さを洗い流した。
「俺さ、小さい頃から甘い物が大好きだったんだ。口の中で溶けるチョコレートとか、ショーウィンドウの中できらきら光るケーキとか、とろとろふわふわなプリンとか、さ」
想像だけで糖分摂取でもできているのか、彼は次々とお菓子の名前を挙げながら情けなく緩んだ笑みを俺に向けた。
過ぎた比喩ではなく、目がバカでかい少女漫画の女の子のように瞳を輝かせる彼は、もう否定のしようもなく病的で危険だ。
正直なところ、彼が女子に可愛がられるような位置づけにいる事も仕様のない事だと思う。
「それなのにさ、母ちゃんが物凄い倹約家でさ、お菓子とか全然買ってくれないわけ。買ってくれても煎餅みたいな乾物のお菓子ばっかり。しかも、甘い砂糖が乗っかってるやつじゃなくて、醤油とかが香ばしーい、ばりばり噛み砕きながら渋茶を啜るような感じの。学校帰りに寄ってってくれるお姉さんとのおやつもそんな感じでさ」
可愛げの欠片もないと思わない?
そう言う彼は心底うんざりといった様子で肩を竦めたけれど、その口元は相変わらず優しい笑みを浮かべていた。
「おやつが……じゃなくて、お姉さんとの話だな。それで、いっぱい色んな事を2人で話したよ。一体何を話したのか忘れちゃうくらい、いっぱい。すごく良くしてくれたんだ」
その表情が本当にやわらかで、彼の寄せていた好意が純粋であたたかな、きれいな感情であったという事が伝わってくる。俺はその微笑ましい様子に目を細めた。
「お姉さん、すごくやさしかったんだな」
うん、とだけ彼は頷いて目を伏せた。
「今思えば、本当のお姉ちゃんみたいな感じで憧れたのかもしれないけど、2人で過ごす時間はすごく楽しくて、たくさん笑って、幸せだった。別に人見知りとかする方じゃないけど、びっくりするくらいすぐに仲良くなれたよ」
授業の終わりを告げるチャイムが、いつもより幾分トーンを下げて話す彼の声に被さる。
一気に騒がしくなる上の階からは机や椅子が立てる金属音が響いてくるけれど、隣の教室は緊張した静けさを崩さない。
俺はなんとなしに背後を振り返って、ちらりと空間を隔てる壁を見た。
「初めてお姉さんの家に遊びに行ったのは小1の時。お姉さんは高校に入って平日に遊ぶのは難しくなったんだけど、いつも土曜日だけは一緒に遊んでくれた」
「へえ。……お姉さん、余程の子供好きなんだな」
約3年前の自分を振り返っても、そのお姉さんのような事ができるだけの余裕はなかった。
何より、遊びたい盛りに自分の自由な時間を割いてまで子守りをするなど、相当の精神力を持っていないととてもじゃないが無理ではないだろうか。
それだけ、彼女にとっては意味のある事だったのだろう。
それを凄いと賞賛しても、彼女には呼吸するように自然で当たり前の事で、首を傾げてしまう程の位置付けなのかもしれない。
「だよな。俺だって近所のガキの相手するくらいなら家で1人でごろごろするよ」
それもどうかとは思うが。
ただ、自分も子守りと家でごろごろを天秤にかけると断然後者を選ぶので、自分を棚に上げてそう口に出すのはやめておいた。
「でさ、お姉さんはお菓子作りが趣味らしくて、遊びに行った時にはいつも手作りお菓子でもてなしてくれたんだ」
初めて行った時には可愛いプチタルト。
そう言って指で輪を作りながら、彼は笑ってみせる。
「……それはそれは。甘い物大好きな宏少年は、さらに餌付けされたわけだな?」
「まあ、確かに目は釘付けだったのかもしれないけど……」
口をへの字に曲げ言葉を濁した彼に、俺までも口がつられてへの字を描く。
今でも甘い物で餌付けができそうなのに、小さい子供の頃の彼に甘い物への欲求より強い理性があったとは考え難いではないか。
「じゃあ、餌付けされたわけじゃないのか」
「いや、そういうわけでも……」
「じゃあどっちだよ」
宏はまだ口の中で飴玉を転がしていたのにも関わらず、もう1つ袋から取り出して口に放り込んだ。
困ったような笑顔で眉間に皺を寄せて、彼は首を捻る。
「うーん、まあ、最終的には餌付けされたのかもね」
「だろうな」
そのお姉さんだって、彼の隠しきれない甘い物への愛を感じ取って手作りのお菓子でもてなしていたという面もあったのだろう。
小さい子が好きな物を目にしたときのあの瞳の輝きは、母性本能云々は別として暖かい気持ちにさせられるし、嬉しくなるものだ。
「小1の時に流行った戦隊もの、覚えてる?」
「……戦隊もの? 何とかジャーとかがつく、ロボットがしゃがしゃみたいなやつか?」
「そうそう。ロボットがしゃがしゃみたいな」
無駄にがしゃがしゃと言いながら、彼は腕をぶんぶん振り回すという意味不明なジェスチャーをしてみせる。
食堂へと向かう人々が廊下からちらちらと視線を向けるのを背中に感じながら、俺は紅茶を一口口に含んだ。
「あー……なんだ、ぼんやりとしか覚えてないな」
ぼんやりどころか、これっぽっちも覚えてはいないけれど。
知らない事でも、なんとなくだとか少しならなんて言葉で見栄を張ってしまうのは、俺の悪い癖だ。
「だろうね。だって楓はちっちゃくても楓だろうから、そういうの興味なさそうだし」
なんて失礼な言い草なんだ。
決めてかかる彼にむっとするけれど、実際そういった類のものにハマった時期なんてなかったように思うし、テレビの前で噛り付いて番組を見たという記憶もないので文句を口には出さないでおいた。
そんな時期から冷めていたなんて、いかに自分が可愛げのない子供だったのかを思い知らされる。
しかし思い返してみればロボットアニメよりはジブリ映画、熱血少年漫画よりは絵本、ドラマよりはドキュメンタリーを好むような子供であったし、俺という人間の基盤となる部分がもうその時期には確立でもされていたのかもしれない。
三つ子の魂百までというように、それが自分の本質だとするならば今更一般的な男子高校生に方向転換をする必要もないし、何より、そんな自分が今は嫌いじゃない。
むっと唇をへの字に曲げたままぐるぐると思考を続ける俺に、彼はふっと微笑んだ。
「ヒーロー戦隊ものってさ、ブラックがすごくカッコイイだろ? 熱血男のレッドにはないミステリアスな雰囲気というか、なんかあるじゃんか」
「あー……。まあ、それは分からなくもないが」
そういったものに疎い俺にも理解が出来る程の、ある一種の概念のようなもので人々の中に定着をしているから不思議だ。
チートな強さでリーダーよりも目立ち、孤高を貫く寡黙な大人の男。馬鹿馬鹿しいけれど、登場した瞬間に人気を奪っていかれる熱血キャラの不憫さといったら。
ああ。
「俺さ、子供心におっとなーなブラックに憧れててさ、色んな事真似してたわけ」
「ほう」
決め台詞やポーズを真似たくなるのは、純粋で真っ白な子供だからなのかもしれない。それは男子に限らず、女子においてもよく見られるし。
小学校の時だったか、女子の間で意味のわからない疑問詞が流行っていたのを思い出した。
あれは一体何だったのだろうか。
「それがお姉さんの話とどう関係があるんだ?」
お姉さんがブラック役の俳優が好きだったとか、実は戦隊ものの大ファンだったとか、そんなありがちな関係性なら思い浮かびもするけれど、それをどうねじ曲げたら初恋に転じるかがさっぱりだ。
「それがさ、ブラックは甘い物が嫌いだったわけ」
「……なるほど」
カッコイイ大人の男に憧れて真似を始めたけれど、高く険しい壁が待ち受けていたといったところか。
マズローの欲求の階級に分類するならば最下層の欲求に当てはまるであろう彼の糖分への執着は、尺度を現実的な物で当てはめた場合エッフェル塔や東京タワーを遥かに凌ぐエベレストに相当するだろう。
まず無理だ。
「カッコイイ男は、甘い物が好きじゃいけないんだと真っ白な宏少年は思ったわけだよ」
「……その真っ白な宏少年は、折角のお姉さんの手作りお菓子をカッコよくなりたいがためにやせ我慢で無駄にしてしまった、そんなところか」
そうそう。
彼は数回頷いて、机の横に引っ掛けたコンビニのビニール袋を机の上に置いた。
どうやら、幾分染まってしまった宏少年は昼食に取り掛かるらしい。
がさがさ音をたてながら中身を机に並べていく彼の様子をしばらく眺めてから、俺も弁当をリュックから引っ張り出した。
「初めてお姉さんの家に行った時のプチタルト、男は甘いお菓子は食べないんだぞって言って断ったんだ。飲み物もお姉さんと同じイチゴミルクで、飲んでみたらって勧められたけど男が飲み物じゃないって飲まなかった」
「へえ。今のお前からは考えられない状況だな、それは」
まあね。
そう言って彼は笑った。
机の上に並んだクリームパンとチョココロネは彼がいつも食べる組み合わせで、そこに食堂の限定プリンが足りない事にわけの分からない哀愁を感じてしまう。
あの華麗なスタートダッシュは、センター試験を境に拝めなくなってしまった。
「そしたらさ、お姉さんは不思議そうな顔してからわざわざポテチとウーロン茶取ってきて、タルトの横に置いたんだ」
彼はイチゴミルクのパックを指先で持ち上げて、苦笑した。
「今思えば、お姉さんは俺が甘い物好きだって事知ってたんだなあ」
「どうしてそう思ったんだ?」
「だって、わざわざタルトを小皿に取り分けて、イチゴミルクもコップに注ぐんだよ? 俺の分も」
諦めろ、宏少年。それは新手のいじめだ。
残酷すぎる。
彼が千切ったクリームパンから覗く黄色いカスタードと純白の生クリームを見ただけで、一気に胃の辺りがむかむかと不快になる。
俺は眉をしかめて弁当の蓋を開けた。
「目の前にはきらきらで宝石みたいなプチタルト、かわいいピンク色したイチゴミルク。飲み込んでも飲み込んでも湧いてくる唾と格闘しながら、ひたすらポテチを食べた」
欠片が喉に刺さって痛いくらいにね。
白米に梅干し、出汁巻き卵と花の形に巻かれたハム、わざわざタコにしたウィンナー、昨日のポテトサラダ、ブロッコリーにトマト。
チーズも入ったアスパラの肉巻き。
目の前に並んだ食べ物と、周囲の静けさ。机を向かい合わせて、彼と食べる昼食。
デジャブだ。
肉巻きを箸でつまみ上げ、俺は小さく息を吐いた。
今日はあの日のように好物を奪われてしまわないよう、初めに食べてしまっておこう。
彼も、デジャブを感じているだろうか。
「そわそわして落ち着かなくて、半泣きになってたら、お姉さんがトイレに行くからって席を外したんだ」
大きく口を開けて千切ったパンを放り込み、彼はゆっくりと咀嚼する。
その顎の動きを眺めながら、俺は丁度一口大に作られた箸の上の好物を口に詰め込んだ。
俺にとっては特別でも、彼にとっては取るに足りないありふれた日常に埋もれてしまうあの日は、当然のごとく彼の意識に上るはずがない。
口の周りに付いたクリームも、塩こしょうのシンプルな味付けに混じるチーズの味も、全てがあの日に被る。
「それは、チャンスだな」
「そう! 俺もそう思ってさ、お姉さんが帰ってくる前に少しだけ食べちゃおうって。でも、やっぱり我慢しなきゃって頭をぐるぐるさせても、お姉さんなかなか帰ってこないし」
「誘惑に負けたわけだな」
そう。
へらりと覇気のない笑顔で彼は笑う。
幼き彼の葛藤を容易に想像する事ができて、そのボケそうな程平和な様子に俺の表情筋も勝手に微笑みを作り出した。
「まずはプチタルト。色々種類があって散々迷った結果、チョコクリームの上にイチゴとバナナがのっかったやつを食べたんだ」
「へえ。で、どうだったんだ?」
「すごく美味しかった! 飲み込んじゃうのがもったいなくて、いっぱい噛んだの覚えてるよ」
口に付いたクリームを指で拭いながら幸せそうに破顔した彼は、よっぽど美味しかったのか興奮したように幾分高いトーンで話す。
甘い物が特別好きというわけではない自分でも、洋菓子店のショーウィンドウに陳列された彩りの美しいケーキやタルトを見ると無条件で幸せな気分になるし、味は分からずともその素晴らしさは十分に理解ができた。
それにしても、好きだという感情がここまで表面に表れる彼をとても羨ましく思う自分が腹立たしくて堪らない。
好意を前面に出して、誰に何を伝えるというのか。
「次はイチゴミルク初体験! 気付かれないように猫が水の飲むくらいにしか飲めなかったけど、何て甘くて美味しい飲み物なんだろうって思ったよ。やさしさだけでできてるみたいな、そんな印象だった」
某頭痛薬のような成分だな、それは。
暖かな雰囲気ではあるけれど、そんな馬鹿げた発言をするのは躊躇われて、俺は頷くだけの返答をした。
残りのクリームパンを口に詰め込み、イチゴミルクで流し込むという荒技をやってのけてから、彼はチョココロネに手をつける。
「大皿から同じタルトを取って並べ直して、気が付かれないようにイチゴミルクの入ったコップも元通りにして、冷や冷やしながらお姉さんとお話しした。でも、全然気付いていない風だったんだ」
「……ほう。上手くやったんだな」
「と思うだろ? それがそうじゃなかったみたいでさ」
コロネの口の開いた部分からかぶりつき、何とも不服そうに頬杖をついた彼は眉を寄せて目を閉じた。
ついこの間までのように時間に追われているというわけでもないのに、それが癖であるのか彼は口いっぱいに頬張ってもごもごと顎を動かす。
俺は、いつもなら一口で食べてしまう出汁巻き卵をわざわざ半分に割って、ゆっくりと時間を掛けて咀嚼した。
「ボロが出てたのか?」
「……何と言うか、あの頃にはそんなに深く考えてなかったから分からなかったんだけど、今思えばお姉さんには最初からなんでもお見通しだったみたいでさ」
渋い顔をしたまま閉じていた目を開けると、彼は俺と視線を合わせる。
「お姉さんの家に遊びに行くと、いつもいつもウーロン茶と一緒にイチゴミルク、ポテチみたいなスナック菓子と一緒に手作りお菓子を出してくれたんだ。しかも俺の分までコップに注いであるし、お菓子も1個だけじゃなくてタルトの時みたいに種類があって、食べても簡単に修正可能な状況というか……」
「……ああ、モロばれだったわけだな?」
はは、と彼は弱ったような笑顔を見せる。
考えの至らない小さな子供であれば目の前の状況にしめしめと思うかもしれないが、恐らく中学生にもなればその本当の意味を感じ取り冷や汗をかく事だろう。
それは嫌がらせではなく、確かにお姉さんの優しさによるものではあるけれど、妙に怖い。
「お姉さんはさ、毎回毎回10分くらいトイレとか他の用で席を外すんだ。で、俺も毎回毎回お姉さんがいない時を見計らってお菓子食べて、イチゴミルクも飲んだ」
その後の隠蔽工作も忘れずにね。
彼はコロネを完食して満足そうに口元を緩めた後、いそいそとミルクプリン、別名食堂とろとろプリン代理を取り出した。
俺もブロッコリーの最後の一口を飲み込み紅茶で口の中を洗い流して、箸を置く。
「でもさあ、何でかお姉さんが用事を済ませて帰って来るのがやたら早い日があってさ」
「食べてるところ見られたのか?」
「そうなんだよー……」
先程のようにがっついた食べ方ではなく、カップの周りをスプーンでちくちくと突っつくようにしてプリンをすくい、彼は小さく溜め息をついた。
いつだったか、食事を早く食べるのはデザートをゆっくり楽しむための時間を稼ぐためだと彼が言っていたのを思い出す。
プリンやゼリー、カップのアイスのような食べ物を、平らになるようにスプーンでちまちまと均等に食べ進めていく様子は、正直イライラしないわけでもないのだけれど。
「その日は確かアップルパイだった。形までりんごに似せて作っててさ、やたら手が込んでて印象的だったからよく覚えてるよ」
「……アップルパイにイチゴミルク、ね。まあ、人の嗜好をどうこうはいえないが」
そのうち彼の口の中で砂糖の結晶が作られるんじゃないか?
これで虫歯なし、BMIと体脂肪率は痩せ型なんて、女子に殺されそうな男だ。
「どうせ英国紳士な楓くんは、アップルパイには優雅に紅茶なんだろー? ちょっとぐらいイメージ崩したっていいじゃん。完璧人間よくない!」
「英国紳士に完璧人間だと? 俺の紅茶とチーズ好きもデフォルトだ、初期設定だ。それこそ、俺個人の嗜好であってイメージ作りのための紛い物なんかじゃない」
彼の言葉にむっとして、思わず頭に浮かんできた言葉を並べてはみたけれど、完璧人間というイメージを持たれていたという事には些かショックを受けた。
好意的にとられない事や、変に周りから一線を引かれてしまう場合が多いような人間に付く、決して誉め言葉ではない評価じゃないのか、完璧って。
大体、イチゴミルクより紅茶派が大多数に決まっている。
洋菓子には紅茶かコーヒー、和菓子には日本茶というルールが社会には存在するはずだ。
イチゴミルクはそれ単体でデザートとして完結している飲み物であって、上品なお菓子の甘さを楽しむための飲み物としては主張が強すぎてだな。
……いやいや、そうじゃないだろ高橋 楓。
「まあ、それはそれで置いといて、ほろ苦い初恋の思い出話の続きを頼む」
「嗜好だって言ってくれてるのに否定されてる感が否めないんだけど……」
「そりゃお前も一緒だ。いいから続けてくれ」
ようやく3分の1程食べ進めたミルクプリンを、彼は腑に落ちないといった表情で少しだけすくう。
口に入れたプラスチックのスプーンの柄をがじりと噛んで右の頬を膨らませると、はいはいと適当感が溢れる返事を返してきた。
どうやら俺の発言が余程気に入らなかったらしい。
帰りに喫茶かどこかで機嫌取りのパフェでも奢ってやることにする。
「で、イチゴミルク片手にもぐもぐアップルパイを食べてますって状況を見られちゃった俺は、必死に言い訳を考えたわけ。でもさ、ダメだったね。なーんにも思い付かなくてさ」
「……白状したのか?」
「散々大泣きした後にね。お姉さんが困った顔して理由を聞くもんだから、わんわん泣きまくってるわけにもいかなくて」
大体、もう小学生だし。
彼は苦笑いをして、イチゴミルクに手を伸ばした。残りが少なくなってきたのか、パックを傾けてストローの位置を調節している。
「そんで、泣き疲れて静かになった俺に、お姉さんは優しく話し掛けてくれたわけ。その時は殆ど意味が分からなかったけど、小さい頃の記憶の中でも1番って位に事細かに覚えてるよ」
いくよ?
彼は現実を閉め出すように瞳を閉じ深く深呼吸をした後、ぽつりぽつりと語り始めた。
甘い物が好きなヒーローになればいいのよ、ひろくん。
甘い物が好きな男の子もいれば、嫌いな女の子もいる。サッカーが嫌いな男の子もいれば、好きな女の子もいる。
私は、甘い物が大好きでかっこいいひろくんが大好き。
世界中の悪者が甘い物が好きなあなたをいじめたって、あなたはヒーローなんだもの。
甘いお菓子とイチゴミルクで元気になって、悪者なんてこてんぱんにしちゃうでしょう?
好きな気持ちが、一番大切なのよ。
「その時は意味を理解しないで、ただ認められた事を喜んでいたけど、今なら分かる。好きな事を諦めたらいけないんだって。好きな自分を嫌いになったらいけないんだって」
目を開けた彼の視線が寸分違わず俺の目を捕らえ、心臓がテンポを乱す。
「好きな自分を諦めちゃいけない」
そう言うと、彼は真剣な色を帯びた瞳をすっと細め、いつもの穏やかさで微笑んだ。
空気がいつもの調子に戻っても未だに速く拍動を続ける心臓。
彼の言葉に含まれたある答えを感じ取り思考が乱れている自分には、落ち着くように深呼吸する事もままならず、むしろ浅い呼吸で緊張を加速させている。
俺はたった今、したくもない確信をした。
「で、しばらくして子守りの必要がなくなって遊ぶ機会も減って、お姉さんはあっと言う間に受験生あっと言う間に大学進学。引っ越しの日には、わざわざ俺の家に挨拶しに来てくれてさ。泣かなかったけど、何か胸にぽっかり穴があいたような気がした」
春は別れのイメージの方が強いから嫌いなんだよ。
飲み終えたイチゴミルクのパックを丁寧に潰し、プリンのカップとビニール袋へと詰め込む彼の様子を黙って見つめてから、俺は目を閉じた。
「……良い話じゃないか」
滑り出た言葉は馬鹿みたいに月並みで面白みもないものだったけれど、彼は小さく笑う気配と共に自慢気に鼻を鳴らしただけだった。
「俺は楓も悠里も、由香里ちゃんも山下も、みんなが大好きだよ。2人のこと、応援してる」
それはどの2人の事だ。
そう口に出す事は出来ず、俺はただ目の前の腐れ甘党を見詰めた。
彼は立ち上がりゴミ箱にビニール袋を捨てると、アルバムを広げにっこりと笑う。
「さあ、昼飯もすんだし続きをしますかね」
一体、いつからだ。
どうやら、この脳内甘味狂い腐れ甘党は俺の彼女に対する想いを知っているらしい。
俺は小さく溜め息をついた。
* * *
「……卒業式には来るだろうか」
学校の近所にある小洒落た喫茶店で、1番値の張るパフェを奢って彼の機嫌を取ると、俺はすぐさま家へと帰りベッドに沈んだ。
携帯を片手に無意味な思考をぐるぐると続け、今まで向き合う事を避け続けてきた大問題と対峙する。
もう、逃げるのはやめると決めた。
引き金になったのは、何だかんだで親友という立ち位置の宏の言葉。
けれど、これは他の誰でもない自分の意志だ。
卒業を境に、俺と彼女の間に存在する前提条件は消えてなくなる。俺が最後の最後まで気にしていたつまらない世間体云々は意味をなさなくなる。
「……でも、どうすればいいんだ」
こんな状況に直面した事など今までの人生の中で皆無で、経験値は果てしなく底辺の部分をさ迷っている自分にとって、これは一大事だった。
アドレス帳から彼女のアドレスを呼び出し、メールの画面にしたのはいいものの、何と送ればいいのかさっぱり見当がつかない。
卒業式に来てくれませんか?
マフラーのお礼がしたいんですけど?
お礼の挨拶をさせてくれませんか?
お話ししたい事があるんですが?
「バカか俺は。今時、中学生でももっと上手くやるぞ」
今更自分の恋愛に対する無知や常識のなさを嘆いてもどうなるわけでもないけれど、嘆かずにはいられない。
俺は大きく溜め息をついた。
一定の間隔を守り真っ暗になる携帯画面を、ボタンを連打して元に戻しながら文章を考え続ける。
彼女とどうなりたいのだと聞かれたら、分からないと答えるしかないのかもしれない。
ただ俺が求めているのは、彼女に想いを伝え、自分の中で区切りをつける事。それだけだ。
その先は、俺の一存でどうこうなるようなものではない。
「……好きな自分を諦めたらいけない、ね」
メールを送信して携帯の電源を落とし、クッション目掛けて投げる。
小さく跳ね、鈍い音をたててカーペットの上に滑り落ちた携帯は、暗い部屋の中ですぐに見えなくなった。
自分の将来も、選択肢のない現実も、全て諦める事でしか受容できなかった高橋 楓はもう過去なのだという事を思い知らせてやろうじゃないか。
自分自身に。
「俺は変わったんだよ」
小さなメモ帳を切り取り、近くにあったサインペンで決意を書き記す。彼女に言われて始め、とっくの昔に生活の一部となってしまったこのおまじない。
端を揃えて丁寧に折り畳み、ハンガーに掛けた学ランの胸ポケットに押し込んだ。