泣くも、笑うも。センター試験
何だろう、この状況は。
俺の頭は家を一歩出たところで、早々と活動を停止した。
目覚まし時計はいつもの1時間前のアラーム設定。ぱちりとスイッチで切り替えたように眠りの時間は終わりを告げて、無意識に自分の手が時計を殴る。
時計の針は4時59分50秒。アラームよりも10秒早く起きた自分だが、不思議と緊張感はなくて、寧ろ不自然なまでに心は澄み渡っていた。
「……ちゃんと寝れた」
体調も悪くはないし、昨日風呂に長く浸かって気まぐれにストレッチをしてみたせいか、体が軽いような気がする。
いつものように窓に引いたカーテンを開いても、日頃親しんだ明るさはなく、深夜とは違う闇が広がっていた。
窓に手をつくと、ぴりりと肌を刺す冷たさが脳天まで突き抜けるような感覚がする。
「……第一関門、か」
溜め息混じりに呟いた言葉が、窓を白く曇らせた。
足先や手先のような末梢から、どんどんと体温が奪われていく。
照明をつける気にはならず、闇に慣れてきた目で無意味に自分の部屋を眺めてみた。
ハンガーに掛けた着古した学ラン、暖かいけれど少し重たいコート。
鉛筆3本と鉛筆削りに消しゴム、祈願成就のお守り。馴染んだ参考書が数冊、来るべき決戦の時に備えて買ったチョコレート菓子数種類と2枚のカイロが入った、いつもより随分と軽いリュック。
ローテーブルの周りに散らかっているはずのプリントの裏を再利用した粗末な解答用紙も、昨日拾い集めてゴミ箱へと捨てた。
別に汗や涙が詰まっているわけではないけれど、今までの人生の中で最も真剣な1年間だったように思う。
「……準備するか」
哀愁にも似た妙な感覚に襲われて、活動停止している体に言い聞かせるように、溜め息混じりに呟いた。
指先で手すりをなぞりながら階段を降りる。無意味な癖も軋む床もいつも通りなのに、どういうわけだか慣れないような感じがした。
「おはよう」
「あ、おはよう、かえでちゃん。朝ご飯今できたところよ」
ダイニングへと続くドアを開けると、幾分緊張したように表情が強張った母さんに出迎えられた。
どんなに子供が年を重ねて大人になろうが、成人をして職に就こうが、ちゃん付けで呼ぶ事を止めない母さんは、相も変わらずゆっくりとした動作で料理を盛り付けている。
父さんと姉さんは当直で帰ってきていない。ダイニングテーブルには俺と母さんの分のランチョンマットだけが敷かれていた。
「兄さんは?」
「まさおみちゃんはね、後で1人で食べるんですって。ゆっくり寝たいらしいから」
こんがりと焼けたトーストと紅茶、ハムエッグに温野菜、ポタージュスープ。並べられる料理がどこまでもいつも通りなのは、母さんなりの配慮なのだろうか。
朝からカツ丼やカツカレーが出てきたり、気合いの入った料理が並んでいたら調子も狂ってしまうから。心底よかったと思う。
「いただきます」
「はいどうぞ」
料理への配慮は完璧でも、普段よりずっと固い声と表情を隠しきれていないのが母さんらしいけれど。
トーストにバターを薄く塗り口を付けると、母さんは向かいの椅子に腰を下ろした。ちらちらと向けてくる視線に、思わず笑いそうになる。
「調子は良いよ。ありがとう、母さん」
ありがとう。やけにその一言が伝えたくなったのは、自分がこの場から巣立つ日を感じ始めたからなのだろうか。
照れくさくて、唇が不自然に震えて、恥ずかしくて堪らないけれど、俺はそう言って笑った。
もう、すっかり変えられてしまったんだな。
「……あ、うん。どういたしまして」
まさに豆鉄砲を食らった鳩のように間抜けな表情をしたまま、母さんは俺を見つめている。
「どういたしまして、かえでちゃん」
そう繰り返した母さんの声が密かに震えているのには気が付かない振りをして、俺は馴染んだティーカップに手を伸ばした。
母さんが大好きな手作りの練乳バターに手を伸ばし、トーストにたっぷりと乗せる。
目尻に光る水滴、弧を描いた口元。その様子をほんの少し悲しい気持ちで見つめてから、完璧に俺好みの固さに焼かれたハムエッグへとフォークを伸ばす。
とろりと零れるオレンジ色、その甘さを俺はいつもの何倍もの時間をかけて味わった。
* * *
「じゃあ、いってきます」
「気をつけてね。いってらっしゃい」
コートをしっかりと着込み、軽いリュックを背負う。マフラーを巻き、まだまだ冷たいカイロを1つ詰め込んで、洗い物をしている母さんに声をかけた。
いつも通り座り込んでから靴を履いて、食器のぶつかる小さな高い音と水音が響くキッチンを振り返る。
漏れ出る光がとても暖かくて、今すぐにでも走り込んでしまいたいけれど、手を握りしめ目を閉じてやり過ごした。
そのまま俯いてドアを開けて、途端に襲ってくる冷たい風に首をすくめながら後ろ手にドアを閉める。
まだ星は明るく見えているだろうか。
そう、何となしに空を仰ぎ見ようとして、そこで頭が停止したんだ。
「高橋君、おはよう」
瞬きさえも出来ない。目の前で微笑みながら控え目に手を振る人物を凝視した。
自分が吐き出す息も、彼女が吐き出す息も白く溶けて消えていく。
「……は?」
やっと動き始めた体で初めに呟いたのは、挨拶でも文句でもなく、ほとんど意味をなさない一文字だった。
「おはようって言ったのよ、高橋君」
長い髪は高い位置でまとめ、首元にファーの付いた白いロングコートを着込み、彼女はくすくすと笑っている。
何で、彼女がここにいるんだ。
どうして今日のような日に限って、こんな事が起こる?
一体何のためにこんな朝っぱらに。
大体、彼女に住所を教えたつもりもないが。
何から問えばいいのかさっぱりで、酸素を求める金魚のごとく口を開閉する事しか出来ない。
「家庭訪問って言って、山下先生に住所を教えて頂きました」
にこにこと笑う彼女の口から山下の名前が出る事も十分不快だけれど、それ以上に意味不明な彼女の行動に頭痛がした。
「……おはようございます」
「はい、おはようございます。いよいよだね」
タイミングを逃しまくった俺の挨拶に律儀に返してから、彼女はこつりとブーツのヒールを鳴らして1歩前に出た。
思わず体が後退しそうになるのは、どうしてだろう。
「一体、どうしたんですか」
驚きと呆れ、色々な意味で焦る心が展開に着いていかずに、ない交ぜになる感情。思うように笑顔を向ける事が出来ない。
「あらら、やっぱり迷惑だった?」
申し訳なさそうに眉を寄せた彼女に違うんだと伝えたいけれど、上手い言葉が思い浮かばなかった。
2人で黙り込んだまま立ち竦む。
見慣れた景色に居るはずの無い人物が混じる。その様子は、本当に奇妙だ。
居心地が悪くなったのか少し俯いた彼女に、俺は慌てて否定の言葉を紡ぐ。
「いや、迷惑とかじゃないですけど……びっくりした」
「あ、本当に? 何だ、怒っちゃったのかと思ったよ」
俺の言葉に風を切る勢いで顔を上げた彼女の表情は心底安心したといった様子で、この妙な緊張がほんの少し解けたような気がした。
「で、一体どうしたんですか?」
「あの、ちょっと渡したい物があって、ね?」
ちらちらと視線をずらしながら話す彼女は、とてもじゃないが俺より7つも8つも年上のようには見えない。
いつもの自信に満ち溢れた生き生きとした喋り方を、どこへやってしまったんだ。
いつか彼女が日頃の練習の賜物だと豪語した完璧な笑顔が、口元だけ歪に歪んで見えるのは気のせいか。
「渡したい物?」
「そう、渡したい物があって、来ちゃいました」
これ。
背中にまわしたままだった左手を胸元へと引き寄せて、彼女は小さく呟いた。
普段見る事のない弱々しいその様子に、心臓が完全に本来のペースから逸脱している。
こつり、こつり。コートを着ても細いその両腕で、淡い緑の水玉が散りばめられた紙袋を抱いてこちらへと近付いてきた。
こつり、こつり。
心臓がうるさい。
「はい、どうぞ」
彼女の腕では抱いているように見えた紙袋は俺には随分と小さくて、柔らかい感触のそれを潰してしまわないように優しく手を回した。
「これ、何ですか?」
彼女が持っていた時にはそれなりに重そうに見えたのに、大きさの割に随分と軽い紙袋。一体何が入っているのか。
小さく首を傾げると、それを合図にしたように俺から視線を外すことなく元の位置へと離れていく。
踊るようなステップが目の奥に白い残像を作り、消えた。
「遅すぎるクリスマスプレゼント、早すぎるバレンタインデー。きっと、そんな感じ」
何だそれは。
反対側へと首を傾げると、彼女は満足げに微笑む。きっと、そんな感じ。そう繰り返して頷いた。
その微笑みに先程までの歪みはなくて、どこまでもどこまでも暖かく眩しいあの輝きを取り戻している。
「1人の時に、開けてね!」
俺の問いには答える事無く、自分が言いたい事ばかりを並べて、彼女は俺が向かおうとしている駅の方向に背を向けて走り出した。
「おい! 先生!」
慌てて前へと踏み出した足は想像以上に冷たく冷えていて、絡み、もつれ、倒れそうになる。
門に手をつき声をあげた時には、彼女はもう随分と遠くまで行っていて、その表情を確認する事さえ叶わなかった。
「がんばってなんて、せんせーは言わないから!」
静かな住宅街に響く声は、冷たい空気を震わせて俺の耳に突き刺さる。ぴょんぴょんと上に跳ねながら手を大きく振って、彼女は走り去った。
白い後ろ姿が闇に紛れ見えなくなるまで、俺は唖然としてその様子を見つめ、何度か瞬きを繰り返す。
さっきから頻繁に頭が活動を停止してしまっている。こんな調子でセンター初日を乗り越える事ができるのか。
彼女の行動の意味も、手の中の柔らかさも、耳に残る声も、何もかもが理解の範疇を超えている。
非現実。
「……近所迷惑な人だな」
コートの裾を捲り腕時計に目をやると、丁度予定していた出発時間になったところで、まだまだ電車の時間までは余裕があった。
すっかり暖かくなったカイロをポケットから取り出して、握り締める。
「……今度こそ、出発しよう」
このまま立ち止まっていたって、進むのは周りの時間だけだ。平常心を保て。
露出した耳朶は痛いくらいに冷たく冷えて、俺の頭を正常まで戻してくれる。
ぽつりぽつりと家々の灯りが漏れる道を1人で歩きながら、俺は数分前彼女が叫んだ言葉の意味の解釈のために頭を働かせた。
がんばってなんて、せんせーは言わないから。
「がんばってって、言ってくれないのか」
一体どういう意味だ。俺には分からない。
遅すぎるクリスマスプレゼント、早すぎるバレンタインデーの贈り物というこの手の中の存在も、俺には分からない。
開けてしまっても、良いのだろうか。
「……もらったからには、俺の勝手だよな?」
彼女の言いつけ通り周囲に人が居ないかどうか確認をしてから、俺は紙袋の口を閉じているpresent for youと書かれたシールへと手を伸ばす。
ぴりりと乾いた音をたてて、シールは綺麗に剥がれた。簡単に開いてしまった紙袋に緊張してしまう。
俺は歩む足を止めて、紙袋の中へと手を入れた。
指先に触れた柔らかい感触、滑らかに肌に馴染む感覚は最近いつも感じている物。
じんわりと冷えた手を温めるそれを、引きずり出す。
「……マフラー?」
細い黒い毛糸で編まれた、長いマフラー。折れそうに細い針で小さな音をたてながら、彼女がせっせと編んでいたあのマフラーだ。
毛羽立つ繊維が肌を刺す事もなく、優しく俺の手を包み込むマフラーに心臓辺りがちくちくと痛んで、片手でコートの胸元を握り締める。
一体、彼女は何を考えているのか。
何を考えながら、この細い糸で長い長いマフラーを編んだのか。
どんな表情で、編んだのか。
同じ空間にいたのに、勉強に集中してろくに見もしなかった事を少し後悔した。
左側の家に灯りが灯る。立ち止まったままであった事に気が付いて、再びゆっくりと歩き出した。
朝っぱらからどんな表情をしたらいいのか、心をどう落ち着けたらいいのかさっぱり分からない。
「お礼も言えなかったな」
ただ怒涛のごとく過ぎていく時間に流され、唖然とする事しかできなかった。
いや、寧ろあの状況でどれだけの人間がまともな反応ができたというのだろう。
玄関を1歩出たら自分の住所など知っているはずのない想い人がいて、明らかにいつもと違う仕草と表情で理解のできない言葉を並べる。
贈り物を押し付け、非常識にも早朝の静かな住宅街で大声で叫びながら走り去る。あまつさえ、その贈り物の中身は手編みのマフラー。
まともな反応を示す方が異常なのではないか。
「……どうして、だろう」
何故俺に、こんな事を。
あの人は、自分の生徒の為にそこまでするのか?
何百という生徒の中の1人に過ぎない自分に、どうしてここまで。
万人に対してまめなのか、それとも……
「バカか、俺は」
すっかり俺を変えてしまったのは、他でもない、彼女だ。尖り、歪に歪んだ俺の角を削り取り、丸くしてしまった。
ぬるく平和ボケした頭は、ろくな答えを導きはしない。都合の良い解釈ばかりが思考を遮る。そんな自分にイライラとして、俺は唇を噛んだ。
それとも、俺が彼女にとって特別だとでも、いうのだろうか。
乾いた唇に細い亀裂が走り、鉄の味が広がった。
* * *
「あ、おはよー!」
「おはよう、宏。早いな」
駅の東口に着くと、待ち合わせ時間5分前きっかりだった。電車の発車時間まではまだ10分ほどある。
案外時間にはちゃんとしている宏は、すでに切符売り場の前で寒そうに首を竦めていた。手袋をしているのに何度も何度も手を擦り合わせ、心なしか肩が震えているように見える。
手の中のカイロを差し出すと、彼は情けない弱ったような笑顔でそれを受け取った。
「あれ? 楓、マフラー新しく買ったの?」
マフラーという言葉に、少しだけ心臓がリズムを乱す。下唇を舐めると、ぴりりとした痛みが走った。
「ああ、前のはもう大分ボロくなってたからな。丁度俺好みのやつが安売りしてたし、替え時かと思って」
とっさに考え付いた理由は何とも有りがち、無難すぎて逆に怪しいものになったけれど、宏はふんふんと何度か頷いてからセンスが良いなどと少しむず痒くなるようなコメントを返す。
彼が指先でマフラーの裾をいじるのを、どこか落ち着かない気持ちで見つめた。
「……なぁーんて、ね」
宏はにやりと嫌味に片方の口角だけを上げて笑い、俺の耳朶を摘んで引っ張った。
冷えた上に乾いた肌は密かな痛みを伴い、カイロで温められた彼の不自然な体温は鋭利で刺すような感覚を残す。
何の事だ。
そう声に出してしまったら動揺が現れそうで、眉を寄せて視線にその言葉を乗せた。
冷や汗が伝う背中、消し去れない背徳感に顔から血の気が引いていく気配。
「さて、そろそろホームに行くとしますかね」
俺の視線をするりとかわして、宏は改札へと歩いていく。彼の態度により一層ざわつく胸は、引いた血の気を一気に引き上げた。
「おい、宏!」
駆け足で追いかけて肩を叩こうとしたところで、大きな音をたて電車がホームへと入ってくる。
持ち上げかけた腕が不自然な位置で止まり、俺は小さく溜め息をついた。
付き合いは長いはずなのに、未だに彼の位置付けがはっきりとしない。
いつもはふざけたような明るさを纏っているのに、ふとした瞬間に大人びて見えたり、何も知らないような顔でいるくせに含みのある発言をしてみたり。
その事がとても恐いと思うのは、俺がまだまだ彼を知らないという事を暗に示しているのだろうか。
「ねえ、楓。今日何時起き?」
親友と呼べるだろう人物との空間でさえ、緊張を感じてしまう程に脆い俺の心は、彼の明るい声色ですぐに浮上する。
がらりと空いた車内で、逆に自分の居場所を見つけられない。ぽつりぽつりと座っている乗客が目線だけをこちらに寄越して、すぐに反らしてしまう。
そんな事を考えているという事まで、全てを知り尽くしているんだとばかりに彼は薄く笑った。
「今日は5時起き」
「俺も俺も! でも実質4時かな。布団の中でさ、いろんな事を考えたんだ」
荷物置きに見慣れたショルダーバッグを投げ込んで、宏はどしりと座席に腰を下ろす。緑のシートのスプリングが鈍く軋み、静かな車内に吸い込まれるようにすぐ無音になった。
リュックを彼の荷物の隣に置いて、首に巻いたマフラーを取る。
肌を撫でた柔らかな感触に不安定になる心臓に、もうこの感情はとっくに戻れない位置まで来ているという事に気が付いて、俺は眉を寄せた。
宏の隣に腰を下ろし、マフラーを畳んで膝の上に乗せる。
「どんな事を考えてたんだ?」
「本当にいろんな事だよ。入学式の時のお前の新入生代表の挨拶から始まり、昨日のセンター激励会まで全部。部活も修学旅行も苦手な対数も」
今思えば、logだってそんなに嫌いじゃなかったのかもしれない。
そう言って目を閉じすっかり感傷的になっている彼に、思わず笑いそうになった。
今日もその強ち嫌いじゃないらしいlogに出会うだろうに、宏の中では既に過去の記憶として認識されている。
まだまだお世話になるかもしれないんだぞなんて言葉は、今日という日が終わってから言えばいいものだ。
俺は小さく喉の奥で笑う事で留めて、そうだなとだけ短く相槌をうった。
「楓にはさ、本当にお世話になったよね」
「おいおい、いきなり何言ってんだ」
彼の感傷は思わぬ方向に向き始めて、着いていけない。そんな俺にはお構いなしに、真剣な表情を向けてくる。
感謝や愛情などの好意的な感情を隠しもしない彼の視線に、くすぐったいような少し落ち着かない気持ちになった。
「ダブルスもそう、勉強もそう、楓が相手だから話せた事もある。全然周りと違うタイプで、正直最初は苦手だったけど、楓と仲良くなれてよかったよ」
「……お前な、そういう言葉は後々のために取っておくもんだ。志望校まで同じくせに、こんなタイミングで言うなよ」
恥ずかしいやつ。
つくづく自分には一生真似できないと思ってしまう。
傍目から見ると恥ずかしいけれど、良い意味で図太い神経の持ち主である彼を羨ましいと感じるのは、少なからずそんな彼に憧れている自分がいるからなのだろうか。
自分がそんな風になってしまったら、もうそれは既に自分ではないような気がするけれど。
車掌の車内アナウンスと共に発車を告げるブザーが鳴る。
「分かってないなぁ、楓くん。言える時に言わないと、ずうっと伝えられなくなる事だってあるんだからな。出し惜しみなんかしてるといつか後悔するぞ」
「……恐い事言うなよ」
全く笑えない。
膝の上で俺を温めるマフラーを、鷲掴んで引き寄せた。
* * *
会場となっている私立大学のロータリーは、俺達が到着する頃にはもうすでに人で溢れ返っており、縦横無尽に行き交う人々の間を縫うように時計台を目指して歩いた。
取材に来たのか、メモを片手に歩き回る記者の後ろを重そうな機器を肩に担いで着いていくカメラマン、地方のニュースで何度か見た記憶のあるアナウンサーといった集団が何組かたむろしているのが見える。
参考書を手に焦ったようにページを捲る者から、友人たちと笑顔で語り合っている者、円陣を組む集団に、菓子を広げてリラックスを努めている女子の集まり。
浪人生なのか、コートやマフラーなど厚着した少々年上に見える人もちらちらと混じっている。
「お、山下いたぞ!」
「……なんだ、俺達最後の方なんだな」
時計台の文字盤が大きく見え始めた頃、俺の少し前をいそいそと歩いていた宏が先に山下を見つけて声をあげた。
この化学教師も、流石に今日は白衣を翻したりはしていない。フードがファーで縁取られた黒いダウンジャケットを着て、お馴染みの出席簿を手に女子生徒に囲まれていた。
「おっ。みんな快調そうだな」
昨日まであれだけガリ勉モードで刺々しい空気を醸し出していたクラスメート達は、皆笑顔で語り合っている。
その手の中にいつもの付箋で重そうな参考書は無く、代わりにコーヒーやココアなどの湯気をあげる缶があった。
おしゃべりに没頭していない何人かの男子が、俺達2人を見つけて駆け寄ってきては肩を叩いて激励の言葉をくれる。ほとんど言葉を交わした事のない数人の女子にも、柔らかな笑顔と共に挨拶をされた。
皆の吹っ切れたような明るい表情は、俺の心で大きくなりつつあった不安な思いを掻き消してくれる。
「そんじゃ出席とるぞー。みんな静かにしろー! 新居、新居 宏!」
「はいはーい!」
山下はいつものように、園児位の子供が好みそうなウルトラマンが先に付いた太いペンをジーンズのポケットから取り出して出席簿を広げた。隣で宏の腕がぶんぶんと振られるのが視界に入る。
後何回、彼はこのようにクラスの全員を前にして出席をとるのだろうか。
入学した時には何百回とあったその機会も、もしかしたらもう片手で足りる程しか残されていないのかもしれない。
石本、梅田、岡崎、木下、小島、次々と呼ばれていくクラスメートの名と、教室で聞くよりもずっと大きく元気な声で返される返事に耳を傾けながら、俺は山下の手元で円を描いているウルトラマンを見つめた。
「高橋ー」
「はい」
「角田ー」
いつもよりほんの少しだけ明るい声で返事をしても、山下は特に気に留める事無く出席簿にチェックをして次の生徒の名を呼ぶ。
自分自身にしか気づかないほどの変化に彼が気がつかないのは、至極当然の事ではある。俺にとっては不快で嫌な教師であったとしても、彼にとって自分は愛想の悪い男子生徒の1人にすぎない。
少々のサボりや態度の悪さがあったとしても、俺は教師を煩わせるような問題児でも、家庭の事情云々で悩みの多い生徒でも、ましてや登校拒否に陥りそうないじめられっ子でもないわけだ。
俺は何百といる生徒に埋もれる程に良くも悪くも特徴のない一生徒であって、彼が特別視するような要素はただの1つもない。
彼と自分、そして彼女との間にある関係も、同じ『先生‐生徒』という関係であるのに。
自分の首元を温める存在を、一体どういう風に解釈したらいいのか。
目の前の事に集中しなければならないのに、そう思うものの、今の俺には処理できない難題を彼女は投げ捨てていったのだ。
何でもかんでも思考が彼女へと繋がる事に、溜息が漏れるのを止める事が出来ない。
「よっし、全員いるな。みんな昨日はちゃんと寝れたか?」
最後の1人まで呼び終えてから、山下は腕を組んで俺達を見渡した。じわりじわりと胸の奥から緊張とはどこか違う張りつめた感覚が喉元へと上がってくる。
彼の問いかけに、誰一人として声に出して返事をする事はなく、狙ったかのように皆が同時に頷いた。山下に向いたクラスメートの頭を、後ろからぼんやりと眺める。その1人1人の色の違いに、今更気が付いた。
「いいか?」
山下は、いつもの調子で強い調子で言葉を紡ぐ。
「泣き言や言い訳は、明後日死ぬ気で受け止めてやる。お前らが今やらなくちゃいけないのは、目の前の事に全力になる事だ。全力でシートにマークしろ。雑念は捨てて、頭を空っぽにしてこい。教室を出たら、全部忘れろ。前だけ見てろ」
いいな?
その言葉を合図に、空気はやわらかな暖色から澄んだものに色を変えた。
薄暗さを感じさせる空の青、視界に入る吐息の白さ、痺れる指先。冷たい空気に、鼻がツンとした。
* * *
「じゃあ、ここでちょっとお別れかな」
人の流れる広い渡り廊下で、俺は宏と向き合った。彼は北校舎、俺は南校舎。こんな時にまで手の中にあるイチゴミルク味のチョコレートの淡いピンクのパッケージが彼らしくて、少し笑える。
「健闘を祈る!」
「お前もな」
無駄に爽やかな笑顔を残して宏は俺に背を向けた。自分が冷めきっている事を知っているからか、こんなにも自分の心が周囲と同調して流されている事が不思議に思える。
そんな事を感じてしまうほどに、現実味のないようなふわふわとした感覚が俺を包んでいた。
こんなにも周囲は騒がしいのに、頭に響く鼓動の音がうるさい。決して階段を上っているからというつまらない理由だけではなくて、もっと別の何かがそこにある。
ドアを開けると、神経質そうな試験監督と目が合う。ちらりちらり向けられる視線を感じながら、俺は小さく会釈をして何度も確認した自分の席へと歩いた。
俺が試験を受ける教室には、クラスメートはただの1人もいない。それが良いのか悪いのかは分からないけれど、妙に寂しい。
席は窓側、葉を落とし寒々とした様子の背の高い木がすぐ横に見える。窓ガラスに映った自分と目が合って、少しだけ鼓動が落ち着いた。
ペンケースから鉛筆と消しゴム、鉛筆削りを取り出して机に並べてみる。
当然俺はその硬さも、冷たさも、木目も知らない。普段なら意味のないものにまで、心を乱されている。
何度か深呼吸をした。
「開始時刻が近付いてきましたので、荷物を指定の場所に移動させて下さい。ハンカチやティッシュ、膝掛けなどが必要な方は申し出て下さい」
静かな空間に試験官の声が響いて、いよいよだという消し去れない圧迫感が胸を締め付ける。ぞろぞろと席を立ち荷物を移動させる受験者に倣い俺も席を立った。
教室は程良く空調が効いているというのに、人々の放つ緊張した冷たい空気も相まって肌がぴりぴりと痛むほどに冷たい。
なかなか平常心に落ち着かない胸の辺りだけが熱く、その温度差に手が震える。
「これ、膝掛けとして使いたいんですが」
目の前に鎮座する本物の試験問題を、睨みつけた。表紙に大きく書かれた『倫理』の2文字を何度も視線でなぞる。
開始を告げる試験官の言葉と共に、俺は膝の上のマフラーを右手で握りしめた。