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追って、追われて、夢・理想


「高橋君、ちょっと質問」


 俺の正面で百面相をしていた美月は、諦めたように小さく息を吐いて手を挙げた。


 日課の勉強会の前から相当疲れが溜まっているように見えた宏は、案の定開始5分で夢の中。プリントの上に突っ伏しているため、安物の藁半紙には何本もの線が入っている。


「どうした?」


「これ、ここの英文の解釈がどうしても分からなくて……」


 普段から線や円でしるしが沢山入っている美月の英語の長文読解問題を見ると、彼女の指先が指す文章だけ何の書き込みもされていない。何故か反比例するように周りは沢山のクエスチョンマークで賑やかだ。


「……答えはあってるのに、気になるのか?」


「もちろんもちろん! 当てずっぽうなんかで通用するのなんてセンターだけだし、自分で自分を許せないよ」


「それはそれは」


 彼女はこんなに完璧主義者だっただろか。


 少し眉間にしわを寄せたままコースターの上のマグカップに手を伸ばす美月の表情は真剣そのもので、負けず嫌い精神がオーラとなってほとんど可視状態になっている。


 そう言えば彼女はバドミントンの試合でも負けず嫌い精神を発揮していたっけ。勉強面でもそうなのかと今更のように気が付いて、少しおかしくなる。


「何? 今笑ったでしょー?」


「いや、何でもない。……で、これの解釈の話だろ?」


「あ、うん」


 ソファーに座り直して上体を前に倒すと、さっき彼女が飲んでいたミルクココアの甘い香りがふわりと鼻孔をくすぐった。


 俺のマグカップも一口も口をつけられる事もないまま、周りにその暖かさを奪われていく同様のもので満たされている。


「ああ、なるほど! そっかそっか、よく分かりました」


「そりゃ良かった」


 一通り納得してくれるまで自分なりの解釈を説明してからちらりと視線を窓際に移すと、デスクを隔てて手元に真剣な眼差しを向ける先生が目に入る。


 最近の彼女は、何やら編み物に夢中になっているようだ。


 かちゃかちゃと控え目に響く軽いリズムは、新学期が始まりカウンセリング室に勉強会の場所を移した俺達のお決まりのBGMになっていた。


「っはぁー、飽きちゃったな」


「もう止めるか? 後少しで閉館だし」


 宏を起こすのにも時間が掛かりそうだし。


「センターまで後3日かぁ」


「早いもんだな」


「そうだねぇ」


 大きなパステルカラーの花がプリントされたマグカップを両手で包むように持って、美月は小さく溜め息をついた。


 壁に掛けられたカレンダーのはなまる印に、どんどんと迫ってくるバツ印。その事が心にもたらす圧迫感は、少なくとも俺の想像を遥かに上回るものであった。美月や宏の様子を見る限りでは大多数の生徒も相当のストレスを感じているのだろう。


「ついこの間まで後100日だかなんだか言ってたのにな」


「ほんと! もう、私一体何してたんだろ」


 うんざりしたように頭を振って、彼女は受験生お決まりのセリフを口にした。


 今日1日で10回は聞いたような気がする。とは言っても、彼女はそのセリフを吐き出したどの生徒よりも真面目に勉強していたような気がしないでもないのだが。


 それを言ってしまっては、謙遜と自己否定が混ざり合った非難がましい視線を受けるのは目に見えているので、思うだけに留めておく。


 最近よく聞く自重というやつだ。


「後3日で少しは気が楽になると思えば、さ」


「うーそばっか! それからが大変なんじゃない」


 はい、ごもっともです。


 センターが終わるとすぐに2次対策の開始だ。進学が決定しないと3月末まで続く受験戦争、早いこと合格して推薦や指定校組の仲間入りを果たしたい。


 早く、解放されたい。


 色んな事に神経を張り詰めて生活するのは、いい加減疲れてしまった。


「3日かぁ。そろそろ眠れなくなるんじゃない?」


「由香里ちゃーん! それがさぁ、私もう1週間位前から寝不足なんだぁ」


「あらあら。体調の方は大丈夫なの?」


 いつの間にやら編み物を止めて、先生は立ち上がっていた。デスクの上にはライムグリーンというのか、やわらかな緑色の水玉模様の膝掛けが綺麗に畳まれて置かれている。


 きゅぽんと間抜けな音を立てて黒いマジックの蓋を外すと、几帳面な直線でカレンダーにバツを書く。ああ、また距離が縮まってしまった。


「ベッドに入っても緊張しちゃうし、すっごい胸がドキドキしてるのが分かるの。それに、寒くて……」


「美月さん、冷え症なの?」


「そう! 熱めのお風呂にゆっくり入ってるし、あったかい飲み物飲んだりもするんだよ? でも全く効果なし!」


 きゃいきゃいと高い声でおしゃべりに夢中になっている彼女達には、最早無口な俺など居ないも同然。このまま空気になっていても仕方がないので、俺は宏を起こしにかかる。


「……おい宏、帰るぞ」


 ゆさゆさと肩を揺さぶると、彼の腕の下でプリントが少し破れて乾いた音がした。全く意味の分からないミミズの這ったようなふにゃふにゃの線が何本か引かれている。


「んー……まだ……ねむ、い」


「おい、腐れ甘党。閉じこめられたいのかよ」


「……べっつに腐ってないしー!」


 がばりと起き上がった彼の顔には、端の破れた藁半紙が張り付き、吐く息で小さくはためいた。


 ひらりとテーブルの上に落ちたプリントに、額に赤く跡がついた寝ぼけ顔。ああ、益々情けない。色々と台無しになっている。


「さ、帰ろ!」


「じゃあ、そろそろ私も帰ろうかな」


 カーテンの隙間から覗く外の世界は完璧な闇で、吸い込まれそうに深い黒が広がっていた。


 荷物を背負いマフラーを巻いて、外へと続くドアを開く。特別教室しかないこの階には生徒は残っておらず、来るときにはついていた廊下の照明もすでに消されていた。


「うわぁ、暗いね!」


「俺、階段で転けそう」


 何故か楽しそうに明るい声を出す美月と、未だに覚醒し切れていない宏は俯き加減で明るいカウンセリング室から出てきた。


 ゆっくりと暗さに慣れ始めた目で廊下を見渡すと、昼間見るときとは明らかに雰囲気を変え、途方もなく長く延びているように感じてしまう。


 正面のガラス窓が、カウンセリング室から伸びた光で鏡のように俺達3人の姿を映し出していた。


「ゆーかりちゃん! まだ?」


「あ、ちょっと待ってね」


 窓に部屋の奥でいそいそと動く彼女の様子が映っている。


 ワンテンポ遅れて着いていく長い髪をぼんやりと目で追って、堅く冷たいガラスに指を這わせた。白い手が黒い毛糸玉を捕らえて、胸元に抱き寄せる。


「お待たせお待たせ」


「ううん、大丈夫。由香里ちゃん、私が鍵閉めるよ!」


 そう?


 元気に手を挙げた美月に穏やかな笑みを目元に浮かべながら、彼女はちらりとこちらを見た。


 窓ガラスの上で目がかち合い、反射的に目を反らす。間近に映った己の顔は、不自然に口元を曲げて俺を睨んでいた。


 何が楽しいのか、美月は彼女の小指に引っかけてあるカウンセリング室と名前が書かれただけの飾り気のないキーホルダーを右手でつまみ上げる。


「……あれ? 鍵は入んない」


 腰を曲げてごそごそと動く美月の背中から発せられる空気の色が焦りを含んだものに変わり始め、隣で宏が小さく笑うような息を吐いても、タイミングを逃した俺は窓から目が離せずにいた。


 見ていたの、気が付かれただろうか。


「あー。由香里ちゃん、懐中電灯貸して」


「はいどうぞ」


 明らかに人工的な冷たさを秘めた懐中電灯の白い光がやけに眩しく感じて、俺は瞼を閉じた。途端に研ぎ澄まされる聴覚が美月の作り出す金属音を捕らえて、律儀に鼓膜を揺らす。


「ほら悠里、見える?」


「見える見える、がっつり見えるよー」


 彼らは、少しは進展をしたのだろうか?


 お馴染みの音楽に合わせて揺れる2人の影を思い浮かべて、俺は口端を上げた。


 軽く添えられた自分よりも幾分暖かい手。揺れるロングスカート。リズムを刻む低いヒール。


 鼻孔を擽るのは、甘いイキシア。


「……高橋君?」


 オレンジ色に溶けるように柔らかく微笑んだ彼女の口元を思い出したと同時に、背後から声を掛けられて、俺は反射的に振り向いた。


「は、い」


 いつの間に近くへと寄ってきていたのか、想定外に近い彼女の顔に動揺し揺れた声は、情けなく響いて消える。


「んー、いや、特に用はないんだけどね」


「はあ」


 じゃあ、何で声を掛けたんだ。


 彼女は俺の頬に毛糸玉を押し付けるという意味不明な行動をとってから、小さく笑った。


 その行動の意味を汲み取ろうと脳細胞をフルに活動させても、如何せん、あくまでも一般人の思考力しか持ち合わせていない俺には全くもって理解できない。


「お、できた!」


「下手だなぁ。鍵閉めるくらいで時間掛かりすぎだよ」


「うるさいなー。ここ閉まりにくいんだよ?」


 頬を膨らませる美月と微笑む宏の横顔は、どこか遠くで煌めいている夢のような、手の届かない遠い場所でくすぶっているような、俺とは比べ物にならない程に爽やかで年相応の男女の美しさを纏っていて、無意識に羨望とも自嘲ともつかない視線を送ってしまう。


「ありがとう、美月さん」


「どういたしまして。さあ、帰ろう帰ろう!」


 底が見えない美月の明るさは、俯き気味の思考をすくうように優しく持ち上げる。


 責め追い詰める様々な物事から逃げ隠れたい俺の弱気な感情を笑うように、しかし、手を引く穏やかさを纏って、救い出してくれる。


 その優しさは、彼女とリンクするものがあって、不思議と心の奥深い所が暖かくなった。



 何故、彼女を基準に思考が働くのか。



 最後尾に落ち着き、前で揺れる長い髪をぼんやりと眺めながら俺は小さく息を吐く。


「ねえ、高橋君」


 暗い階段で彼女は振り返ることなく俺に声を掛けた。ほとんど独り言のような響きをもって耳に届く彼女の言葉は、酷く儚げで輪郭が薄い。


「タイムアップは必ず来るのよね?」


「……はい?」


「んー、やっぱりいいや。ごめんね」


 彼女の言葉が何を意味しているのか、どんな表情でその言葉を紡いだのか、一体何に対する謝罪なのか。


 突飛で理解不能な言動は今に始まったわけではないが、訳の分からないうちに自己完結をする事が増えた気がする。


 恐らくは、あの大晦日の日を境に。


 どんな心境の変化があったのかは分からない。けれど、何かが違う。それだけは確かだった。


「なーんでもないのよ」


「……はぁ」


 長い髪を揺らして俺を振り返った彼女は、それまでとは違う、どこか吹っ切れたようなすっきりとした笑顔をしていて、俺はざわりと胸が騒ぐのを感じた。


 この人は、一体何を考えていたんだろう。


 想い人に向けられた笑顔に揺れたというだけではなく、そこには何か、何か嫌な予感のようなものが含まれていて、俺はその複雑な感情を処理しきれずに黙り込んだ。


 *  *  *


「じゃあ、さようなら。気をつけてね」


「バイバーイ、由香里ちゃん!」


「……さようなら」


 彼女はにこやかに挨拶をしてから、生徒用の昇降口から丁度反対側にある教員用の玄関へと向かって歩いていった。長い廊下の途中で闇に紛れ、狭い頼りなげな背中が消える。


「ねぇ、今日も2人はコンビニ寄るの?」


 靴箱をいくつか隔てて、美月がほんの少し大きな声で俺達に話し掛けてくる。周りが静かなせいか随分と響いて、彼女はOhと見事な発音で驚いた。


「俺は行くよー。甘いもの無いと勉強はかどらないし」


 宏を知る人間であれば、誰もがなるほどと納得するであろうカンペキな理由を腐れ甘党は述べる。


 ミルクココアだけでなく、チョコレート菓子か何か準備をしたら、彼が今日のように眠りこける事は無くなるのだろうか。


「高橋君は?」


 きちんと靴を履かずに爪先に引っ掛けてひょこひょこと回り込んできた美月は、俺に話し掛けながら靴を履きなおしている。


 彼女が動く度に、携帯につけられた鈴がちりちりと鳴った。


「別に買いたい物はないけど、取りあえず、行こうかと思ってる」


「そっか」


 美月は何故だか楽しげに弾むような調子で相槌を打つ。


 何がそんなに彼女を嬉しくしているのか、特に意識したわけでもなく自然に浮かんできた疑問にちらりと彼女の方へ視線を向けても、周囲が暗いせいでその表情すら確認することはできなかった。


「悠里も一緒に来る?」


「うん、私も行く!」


 俺が靴を履き体勢を整える頃には、先に準備を終えた2人が開かれたドアの前でこちらを向いて待っていた。


 もともと目が悪いことも手伝ってか、大して身長差がない彼らは体格や制服の影でしか見分けがつかない。


「くーっ。さぶい!」


「ほんと! 寒いねぇ」


 並んで歩く俺と美月の前を、宏は振り返り振り返りしながら歩いている。別に3人並んで歩けないほど道が狭いわけでもないし、人通りも全くと言っていいほどに少ないのに、何を気にしてか彼は進んで前を歩いた。


 自転車の人の邪魔にならないようにという配慮なのだろうか。


 大袈裟に体を震わせながら情けない声をあげる彼に、美月も楽しそうに隣で笑う。


「高橋君は、寒いの平気なの?」


「……俺か?」


「うん」


 高橋君は君しかいませんよー、だなんて鬱陶しい事この上ない発言をする腐れ甘党はしっかりちゃっかり無視をして、俺は少し彼女の方へと顔を向けた。


「どちらかといえば、平気な方かも知れないな」


「じゃあ、暑い方が苦手?」


「まあ、夏よりは冬の方が好きだな」


「ふーん」


 言いようによっては悲しくなるほどに興味関心が薄い事を表すその返答も、彼女の明るい調子ではそんな事を微塵も感じない。


 疲れているように見えたんだけれど。まさか、無理なんかしていないよな。


 心配になって表情を確認しても、街灯に照らされた彼女の顔は穏やかで、無理や我慢は感じ取れなかった。


「あのね、高橋君」


「うん?」


「私は、夏よりは冬、秋よりは春が好き」


 春が1番好きだよ。


 そう言って笑った彼女の声は、以前の彼女と同じ暖かさと緩やかさを纏っていて、ほわりと心が優しく暖められるのを感じた。


 そういえば、前はよくこうやって俺の冷めた心を暖めてくれていたっけ。


 あくまでも、それは俺が勝手にそう感じているというだけの話なのだけれど。


「かーえーでー! 俺は、冬よりは夏、春よりは秋が好きだよ!」


「へえ。そりゃあ初耳だな」


「覚えといて!」


 覚えておいて何になるのか。素直につっこんでも、冷たく拒否しても面倒な事になりそうだったので、俺ははいはいと適当な返事をした。



 *  *  *



 今日も今日とて24時間営業、手作り弁当が売りの行きつけコンビニエンスストアは、自動ドアの前に不良がたむろする事も成人向けの雑誌のコーナーに中年男が蔓延っているわけでもなく、いたって平和な様子だった。


「えーっ。悠里、買い物しないわけ?」


「来る途中考えてたんだけどさ、何にも思い付かなくて」


 苦笑する美月に、宏は不思議そうに首を傾げて器用に片方の眉だけをあげてみせた。


「美月、宏と一緒に入って甘いものでも買ってきたら?」


 これはチャンスだ。


 2人の恋路には邪魔者の俺は、外でにやにやしながら観察をしている方がいい。


 いや、やっぱりここで退散する方がいいか?


 ちらりと宏の方へ視線を向けると、彼は口をへの字に曲げて何とも形容しがたい微妙な表情をしていた。


「えー? でも、高橋君は外で待ってるんでしょ? こんな寒い中ひとりぼっちなんて寂しくない?」


「……いや、俺は大丈夫だ」


 このままだと宏がひとりぼっちだぞ?

 宏がひとりぼっちなのは良いのか、美月。


 美月は何が不満なのか口を尖らせて小さく唸る。宏も宏でさっきの微妙な表情のまま俺を見ていて、何かまずい事でも言ってしまったのかと不安になった。


「そうだね。全員入っても邪魔かもしれないし、楓1人じゃ可哀想だし、やっぱり悠里が相手してやってよ」


「うん! 行ってらっしゃーい」


 何故だかすっきりしたような表情でコンビニの中へと入っていく宏の姿をバカみたいに口を開いて見つめながら、俺はぐるぐると頭の中で考えた。


 何だそのとってつけたような理屈くさい理由は。


 この腐れ甘党、俺が折角チャンスを作ってやってるのに!


 宏だけを通して閉まる自動ドアに手を振りながら、美月は俺の隣でにこにこと笑っていた。


「美月、よかったのか?」


「何が?」


 いつまでも中で商品を物色する宏を観察するのも気が引けて、俺は自動ドアに背を向けた。美月も相変わらずにこにこしながらそれに従う。


「だって、美月の家とは反対方向じゃないか。時間も遅いし親御さんも心配するんじゃないか?」


 折角来たのに買い物もしないとなると、受験生の天敵、時間の無駄遣いになってしまうのではないか。


 自分に厳しい美月の事だから、後々その事を思い出して悔やんだり自分を責めたりなんて事も、可能性は十分にある。


 まあ、そういう自分も受験生なんだけれど。


「えぇー? 大丈夫だよ、ちょっとくらい」


 そんなに過保護じゃないよ。彼女は小さく首を傾げて苦笑した。


 一人娘の帰りを待つ親からすれば、そのちょっとの時間が大変重要なのではないかとも思うわけだが。


 きっと、この様な感覚のズレから反抗期だかなんだかに発展していくのだろうなどと、頭の片隅でぼんやりと考えた。


「じゃあ、送っていこうか?」


 勉強会が日課と化してからは、美月を家まで送っていく事も別段珍しい事ではなくなった。


 俺1人だけで送るのには性格上慣れないけれど、大抵は宏も一緒に行くので大して苦にもならない。


 宏が嫌がるようなら適当に理屈でも並べたら良いだけだ。むしろ、俺は1人でさっさと抜け出して、彼らを2人きりにしてしまうという手もある。


 ステキな恋のキューピット様、我ながら素晴らしい考えに内心にやにやしながら、美月を送っていく事前提で計画を進める。


「いやー、でもやっぱりそれは迷惑だよね……。大丈夫、迎えに来てもらうよ」


「……そうか?」


「うん!」


 ああ、すまん宏。


 残念ながら、隣で電話番号をプッシュする美月を体当たりで止めるだけの勇気を俺は持ち合わせていないんだ。


 家族の前では声の調子が落ちてしまうのは万人共通の自然現象なのか。携帯を耳に当て短い受け答えをする美月の声は、いつもより若干声が低い。


 その様子をまじまじと見つめているわけにもいかずコンビニの中へと視線を移すと、あろうことか雑誌のコーナーでゲーム誌を読みふける宏の姿が目に入った。


 ……この、脳内甘味狂い腐れ甘党が。


「……で、どうなった?」


「ん。大丈夫だって」


 パチリと携帯を閉じる音に、小さな鈴の音が混じる。美月は店内にちらりと視線を移してから、眉を下げて苦笑してみせた。


「高橋君はさ、医学部希望なんだよね?」


「ああ、うん」


「どうして、お医者さんになろうと思ったの?」


 美月はガラス張りの壁にもたれて、微笑みながら足下へと視線を移す。


 左側にサイドテール、白いレース地のシュシュとかいう髪飾りをつけるのが彼女のお決まりの髪型だが、その結われていない横髪の隙間から弧を描いた唇だけが見えた。


「……医学部を希望したのは、一応家族の影響なんだけど」


「一応?」


 きっかけは家族、でも今は何かが違う。そんな気がする。


 少なくとも、このような質問をうけて嫌な気分になることが無くなったという事を考えれば、約1年前の自分とは何かしらの変化があったのは確実である。


 その境目がどこにあったのか、それは定かではないけれど。


「そう、一応」


「今は何か他の理由があるんだ?」


 ああ、とだけ短く返事を返すと、彼女は見るからに興味津々といった目で顔を上げた。


 射抜くような視線は俺の鼓動を乱れさせるが、その後味は想い人に向けられるものと大分違うものがあるような気がする。


「今は、なりたい自分が見つかった。多分、だけど」


「多分、なんだ?」


 彼女はくすくすと控えめに笑って、す、と自然なタイミングで視線を外した。


 その視線の外し方は自然だとしか形容ができない程に違和感を含んではいなくて、そういった仕草の1つ1つが彼女の纏う雰囲気を優しいものにしているのだななどと考えてしまう。


「そう、多分」


「どうして?」


「……なりたい自分の隅っこが見え始めた段階であって、まだまだ確固たる何かを見つけたわけじゃない、から。……ごめん、わけ分からないよな」


 自分でも何が言いたいのかさっぱり、あまりにも考えが曖昧で、何となく居心地が悪くなる。けれど美月は緩く首を振って、呟くような小声でもっと聞かせて欲しい言ってきた。


「……えっと、何から話せばいいんだ?」


「全部聞かせて! 高橋君の事、もっと教えて欲しい」


 楽しげな声とは裏腹に、向けられる視線は真剣そのものの彼女。不思議と、洗いざらい全てを語ってしまいたいというような気にさせられた。


 何故だろう。


 俺の歪んだ思考回路や曲がりくねった生き方を、彼女は肯定も否定もせずにそのままの形で受け入れてくれる。


 そんな気がした。


「俺の家は、医者の家系なんだ」


 今まで誰にも話してこなかった事。


 どんなに仲良くなった友人でも、親身になってくれた先生にも、もちろん家族にも打ち明けられなかった悩み。


 ただ1人、彼女を、先生を除いては。


 それを今、宏のように砕けた友人関係でもない美月に話そうとしている。いや、むしろ話したいと思っている。


 感じたことのない感情にわけが分からず、恐怖しながら発した声は密かに震えていた。


「俺は、周りからの期待の声や無言の圧力、自分の義務のような意識に操られて生きてきた事に、気が付かなかった」


 本当に、最近になるまで。


 どうしても彼女の方を向くことができなくて、俺は遠くに見える信号を睨むように見つめた。


「気が付いたのは、いつ?」


「最初は、志望校調査の紙が来たとき。2回目は、親に志望校を聞かれたとき」


「お父さんやお母さんに?」


 そう。


 俺は短く返して、瞳を閉じた。


 チカチカと寸分違わず規則的に光を発して、人間の命令の通りに動く信号機の姿は、昔の自分とよく似ている。


「聞かれたんだよ。志望校はどうするんだって」


 どこの学科に、行きたいんだって。


 その時の、胸を駆け抜けた冷たい感覚や襲いかかる空虚感は、決して忘れることができないんだろう。


「その質問は、本来、あの人達から向けられる事は有り得なかった。信じてたんだ。当然の如く、俺は姉さんや兄さんと全く同じ道を辿る事を望まれているんだって」


 少なくとも、家族からの圧力は単なる思い込みで、強制されているわけではなかった。むしろ、どんな道を選んでも見守ってくれるのだというその暖かい言葉は、鋭利な凶器のように俺を引き裂いた。


「俺は、意味を無くしたんだ。医者の家系だからとか、そんなつまらない理由でさえも失った。俺は、自由だったんだよ」


 すでに敷かれたレールを周りの大人達に従いながら辿る事ほど、楽な事はない。言うとおりにすれば、全てが上手くいく。そこに間違いは有り得なかった。


「誰かのコピーになる事は、本当に楽チンだった。大人達は、テストで良い点数をとれば喜んだし、ほめてくれたよ。俺は、その楽チンな生き方に味を占めるようになっていたんだ」


 美月にちらりと視線を移すと、彼女は真剣な表情のまま小さく頷いてみせた。


「でも、高校生って、もう限界なんだ」


「限界?」


「自分の意味の無い行動を、自分自身が許せなくなる。少なくとも、俺はそうだった」


 美月は眉をひそめて小首を傾げた。


 ああ、この気持ちを上手く伝える事ができたらいいのに。


 もどかしい気持ちは俺をせき立てて、余計に上手く言葉を紡ぐ事ができなくなる。


「コピーでいるのが、辛くなってきたんだ。さも当然のように志望校調査に医学部と書く自分に、俺は意味を求めた」


「高橋君は、その意味が、医者の家系に生まれたからって事や、家族から望まれてるという事にあるんだって思ったんだ?」


「そう。そう思って、医者を希望する事に意味を見出して、変わっていく自分の心から元来の自分を擁護しようとしたんだ。きっと」


 瞼を閉じて、真っ青な空と浮かぶ雲に思いを馳せる。


 ストイックな小説の文字の配置、緩やかに頬を流れていく優しい風。感じたことのないスリルと、不思議な安らぎ。


 授業をサボるという自分の行動は、以前はただ単にだるいからだとか、山下が気に入らないからという事から衝動的に起こっているものだと思っていた。


 けれど、今ではその行動の本当の意味が分かる。


「このままではいけないと変わり始めた自分と、このまま楽をしていたいという自分がいて、混乱していたんだ」


「楽をしていたい自分を正当化するために見つけた意味を、無くしてしまったって事?」


 小さく頷くと、彼女は目を細めてどこか遠くの方へと視線を移す。


「ぎりぎりの均衡を保って自分というものが存在していたのに、家族からの圧力や医者になる事を余儀なくされているからなんていう意味付けができなくなった」


 俺は、変わっていく自分に対抗できるだけの力を失った。


 内側からの攻撃は、元来の自分を破壊していく。少しずつ少しずつ、けれど確実に。


 周りの言うことには従い、必要ならばいくらでも努力する優等生面をした自分に、どうにかして変革をもたらさねばならない。


 そう、それがきっと授業をサボるという形で現れていたのだと思う。あれからまだ1年も経ってはいないけれど、今ではそう思う事ができる。


 あの憂鬱な日々も、空回りする全ても、未来の俺に必要だった事。


「でも、今の今までコピーで生きてきたんだ。オリジナルになるのは難しかった」


 難し過ぎて、失ってしまった家族からの圧力や強制という理由を無理矢理に取り戻そうと足掻いた。


 まだ、誰かに望まれているからと思い込むことで、コピーであり続けようとした。


 ずっと辿ってきたレールが途切れて、目の前に広がる世界に怯えていた。


「進路を変えようとしても、思い付かなかった。自分がどんな事になら興味を持てるのか、どんな道に進みたがっているのか分からなかったんだ」


 美月は時折小さく頷きながら、無言で俺の話に耳を傾けている。その静けさが心地よくて、するすると気持ちが外に出ていくのが分かった。


「分からないから、結局は医者を志望する事になった。でも、誰かのコピーで通用するような職業じゃないだろ?」


「命を預かる仕事だもんね」


「そう。その人の後ろには、俺が知る由もない様々な人生や家族、友人関係、守りたいものがたくさんあるはずだから。対象は怪我や病気じゃなくて、生身の人間なんだ。……俺は、」



 恐かった。



 今まで秩序を乱さない生き方をしてきたのに、誰かの秩序を乱す可能性を十二分に孕んだ世界に踏みだそうとしている、その事実が。


「でも、俺は医者という職業がそんなに嫌いじゃない。家族の姿を見て、俺はその素晴らしさも十分理解しているんだ」


「じゃあ、やっぱり少なからずお医者さんに惹かれる部分もあったって事なんだ?」


「ああ。前は分からなかったけど、きっとそうなんだと思う」


 父さんも、姉さんも兄さんも、恐怖に怯えながら毎日を過ごしているわけではない。


 もちろん、その危険性を十分理解した上で、それでも余りある充実感と達成感を得ている。使い古されくたくたになった布のような姿を見た事は、一度たりとも無い。


「誰かに望まれているからという意味付けを、自分が望んでいるからとするためにも、俺には自分と向き合うための時間が必要だった」


 そういった意味ではあの授業をサボるという行動も、方法は間違っていたとしても、大きな役割を果たしていたといえる。


 考え方が凝り固まっていたせいで、ずっと立ち往生していたけれど、俺には必要な時間だった。


 先生がそれを止めずに、むしろ積極的にその時間を作ろうとしたのは、そのためなのではないだろうか。


 なりたい自分を見つけるための彼女のカウンセリングは、確実に俺を突き動かした。


「自分と向き合う?」


「そう」


 彼女は斜め上に目線を移動させて、何か思案するように口をへの字に曲げてみせた。


 自分でも理解不能なこんな思考にも、何とかしてついてこようとする彼女の態度に、それだけで嬉しくなってしまう。


「俺は、そもそも自分がどんな人間なのかがよく分からなかったんだ」


「それは、誰かのコピーとして生きてきた自分しか知らなかったから?」


「そう。だから自分を知るところから始めなくてはいけなかった」


 宏よりも随分と後にコンビニへと入っていった疲れた表情の若いサラリーマン風の男が、頭を掻きながら出てきた。


 自動ドアの音に反応してちらりと視線を移す美月には気付かないまま、こちらに背を向けてゆっくりと去っていく。


 俺よりは幾分広いだろうその背中も、猫背で随分と頼りげなく見えた。


 果たして彼は、なりたい自分になる事ができたのだろうか。


「だから、手始めに大学の特色を知って、自分が興味を持てる物はないか探そうとしたんだ」


 今、高橋 楓として存在している自分を全否定して1から作り上げていくには、残された時間があまりにも少な過ぎた。


「医学部志望は変えないとして、志望大学を変更する事は考えなかったの?」


「……なんというか、それが出来るほどの勇気が無かったというのが本当のところなんだろうけど」


 変えるも何も、俺は志望する大学の事を自分で調べてみようともしなかったし、姉さんや兄さんからの情報しか頭になく、入試を目の前に控えた受験生にはあるまじき状況にあったわけだ。


 変えるための理由すら、分からない。変えようがない。


「基本理念や求めている人材、教授の研究内容、その他諸々。勉強はそっちのけで資料を集めてみた」


「まずは受験のスタートラインに立ってみたんだ」


「そう。今までの俺は、当てもなく走っていただけだったから」


 無駄な努力。若しくは、ただの自己満足。非生産的な見せかけのユウトウセイ。

 

 以前の自分の姿を思い出して浮かべた笑みは、自嘲のはずなのに随分と気持ちが軽やかになった。


 台風が淀んだ空気や灰色の雲を綺麗さっぱり連れ去って、嘘のように澄んだ空気を肺一杯に吸い込んだ時のような、そんな爽やかさ。


 すでに過去になりつつある自分は、最早他人事のように遠くに見える。


「で、高橋君は新しい自分を見つけたわけだ」


「ああ。もう医者の家系だからとかいうつまらない理由なんて投げ捨てたって揺らぐ事のない、オリジナルの理由を見つけた」


 すうっと冷たい風が俺の方を撫で、耳元で髪が細かく揺れた。


 その冷たさを何故だか心地良く感じる程に、心の奥深い部分がぽかぽかと暖かい。


 心は、どこにあるのか。


 そんな事は分からないけれど、じんわりと胸を中心にして広がる感覚に、俺はほとんど無意識に胸に手を当てた。


「……よかった」


 ふわり。


 吐息と間違ってしまいそうに微かに響いた柔らかな声に、俺は美月へと視線を移す。


 俺のこの心の暖かさが伝染して、彼女にも流れ込んでいるのではないか。


 真剣にそんな事を考えてしまう程に、彼女は穏やかな笑顔を俺に向けていた。


 その穏やかさに、一瞬確かに思考が停止する。


「よかったね」


「……ああ」


 もう1度、今度ははっきりと鼓膜を揺らす明るい声色で彼女はそう言った。


 明るさに陰るように消えていった穏やかさに、俺の心臓は不自然に震える。



 夢を見ていたようだ。


 そう思ってしまうのは、仕方のないことのように思う。


 ぺらぺらと饒舌に語り続ける己の唇。コンビニから漏れ出る光だけが、俺達を照らし出していた。


 自動ドアが開き宏の声が耳に届いた瞬間に、急速に世界が現実味を帯びていく。


 その様子が、あまりにも鮮やかで。


「おっまたせー」


「もー、おっそい!」


 聞き慣れたビニール袋が擦れる音、目の前で笑い合う仲の良い2人。



 何故、こんなにも『自分』が外へと溢れていくのか。



 頭と口が直結したような奇妙な感覚。いつの間に、こんなに自分は変わっていたのだろう。


「楓?」


「あ、ああ。何?」

 

 思考の渦にのまれ、言葉を発する事なく突っ立っていた俺に、宏は怪訝げな表情を向けてくる。


 ずいっと差し出された彼の手には、ほかほかと湯気をあげるキツネ色のコロッケがあった。


「……コロッケ?」


 反射的にそれを受け取り首を傾げると、彼はチーズ入りだよと笑ってみせる。


「結構長い間待たせちゃったしねー。お詫びのつもり」


「新居君! 私には? 私には?」


「悠里には、おでんだよー」


 何だよそのチョイスは。


 がさごそとビニール袋を漁る宏を半ば呆れて見つめてしまう。指先に感じるコロッケの温かさが、妙に馬鹿げたもののように思えた。


「ほら、板こんにゃくと糸こんにゃく」


 にっこりと笑っておでんの容器を美月へと差し出す彼に頭痛がする。


 何故、おでん。

 どうして、こんにゃくばかり。


 美月の好みがどうだかは知らないが、この腐れ甘党が好むような物の方がずっと無難なのではないだろうか。


「うっはー、ありがとう! さっすが私の事よく分かってるねっ」


 女の子には甘い物を、というのはただの偏見なのか。


 本当に嬉しそうに小さく跳ねた美月を見て、つくづく一般論は当てにならないものだと実感してしまう。


 彼女は顔を綻ばせて、両手で容器と箸を受け取った。宏はいつもの優しげな笑顔を向けている。


 同年齢だというのに微笑ましいななどと感じてしまうのは、すでに自分がその若々しい爽やかさを失ってしまったからなのだろうか。


「自分には何を買ってきたんだ?」


 ほくほくと幸せそうな空気を発している2人に微妙な疎外感を感じて、俺は適当に思い浮かんだ言葉を口にした。


「俺はねー、これ!」


 じゃじゃーんという安っぽい効果音と共に、彼は袋から見慣れた中華まんの紙袋を取り出す。


「……ああ、あんまんか」


 ビニール袋からお馴染みのイチゴミルクの紙パックが透けて見えて、俺はその味覚破壊的な甘さに胃がもたれるような気分になる。


「ぶっぶー。今日は違うの買ったんだ」


「え、新居君あんまん以外の中華まん食べたりするんだ?」


 大したことではないのに心底驚いたという風な反応を見せた美月に、宏はふふんと鼻を鳴らして得意げに笑った。


 一体、どこに得意げになれるような要素があったのだろう。


「ほら見ろ! 今日発売の新作商品っ」


 包装紙を少々乱暴に開けて中身を取り出した彼の手には、見た事もないピンク色の物体があった。


 大体味の想像はつくが、そんな物を考え付く食品業界の頭の柔軟性に度肝を抜かれる。


 この腐れ甘党の手にあるピンクの食べ物なんて、他にあるわけがない。


「いちごみるくまん!」


 ああ、こっちの血糖値にまで異常をきたしそうだ。


 彼以上にイチゴミルクの商品の売上に貢献している人間がいるとしたら、是非とも見えたいものだ。


「わあ、すごい可愛いね!」


 若干引き気味に少女じみたピンク色の物体を見つめていた俺とは真逆に、美月はすごいすごいと楽しそうに笑う。


 ああ、その優しさが腐れ甘党をますますつけあがらせるのに。


「お前、甘党も大概にしないとメタボまっしぐらだぞ」


「大丈夫大丈夫。今は頭で糖分消費してるしプラマイゼロだし!」


 嘘こけ。今日の勉強会だって寝こけていたくせに。大方その過剰な糖分は腹へと蓄積されているはずだ。


「前から思ってたんだけど、新居君イチゴミルク大好きだよねえ」


 どこがそんなにいいの?


 美月はおでんの容器の蓋をうんうん唸りながら苦労して開けて、全く棘を感じさせない調子で宏に問う。


 途端に立ち上った白い湯気に彼女の顔をぼんやりとぼやけた。


 そう言えば、彼とはすでに6年目となる付き合いだが、イチゴミルクを好きな理由を聞いた事はない。


「それは俺も気になるな」


「だよねだよね!」


 そう言って同調すれば、美月は嬉しそうに上下に体を揺する。


「気になる?」


 何を勿体ぶっているんだ。


 冷ややかな視線を送りながら、俺は小さくいただきますと頭を下げてチーズ入りのコロッケとやらに口を付けた。


 さくりと歯に心地よい感覚を残して温かいコロッケが口の中で解れる。お馴染みのポテトの具の中に、とろりととろけるチーズ。


 うまいじゃないか。


「気になる気になる! なんで?」


 思わずにっこりと弧を描く口元に何となく恥ずかしくなりながら、めんどくさがる事なくしっかりと腐れ甘党のニーズを満たしてやっている美月へと視線を向けた。


「俺の初恋の人がさ、イチゴミルクが大好きでさ」


 初恋、その2文字に思わず肩が小さく揺れる。突然に反応をする制御不能な己の体に、冷や汗が背中を伝った。


 幸い、瞼を閉じて思い出に浸っている宏とその話に夢中になっている美月は俺のそんな様子には気が付いていないらしく、ほっと胸をなで下ろす。


「それまではイチゴミルクなんて女の子が飲む物だって決めつけてて飲んだ事なかったんだけど」


「じゃあ、その子が飲んでたから飲んでみようと思ったんだ?」


 不審極まりない反応をする俺とは真逆に、美月は宏から『初恋』という言葉を聞いた途端興奮気味に早口になっている。


 その様子に気を良くしたのか、宏は笑みを深くして首を横に振った。


「飲んでたの分けてくれたんだ」


「へえ! それで美味しくて好きになったんだっ」


「うん」


 はにかんだ笑顔を見せる腐れ甘党に、心なしか美月の頬も赤くなっているように思う。


 俺はただ黙ってコロッケを咀嚼しながら、その様子をぼんやりと眺めた。


「どんな子だったの?」


 思い出したように割り箸を割って糸こんにゃくをつまみ上げながら美月は問う。


 黙々とコロッケを食べる俺にちらりと視線を向けてから、宏も手に持ったままのいちごみるくまんとやらに口を付けた。


「もう随分と昔の話だよ。俺と10歳も年の離れた近所のお姉さんなんだけど」


 とっくの昔に成人して、今は2人の子持ちの専業主婦。


 そう言って笑った宏の表情は、どこか遠くを見るように心ここにあらずといった様子で、どういうわけか随分と大人びて見えた。


「へえ……。何だか新居君からそんなお話が聞ける日が来ようとは、って感じだな」


 くくれた糸こんにゃくを箸で器用に解いてから、麺を食べるように音もなく啜って美月は感心したようにそう言う。


「だな。俺もびっくりしたよ」


 中学時代からクラスと言わず学年の中心人物といった風な奴だったのに浮いた話など皆無で、部活が恋人だと笑っていた宏。


 何人と付き合った、誰それと付き合っている、何人に告白された。


 そんな事ばかりに夢中になる中学生という時代に、中心にいながらその手の話にちょっとの引っ掛かりを見せる事なく上手に生きていた。


 俺はただ彼のそんな様子を変わった奴だと思いながら遠巻きで見ていただけだったが、嘘か本当かも分からない色恋沙汰に現を抜かす周囲の人間よりはずっと俺よりだと感じていた。


 もっとも、彼はクラスの中心で俺は縁の人間だったが。


 俺よりはずっと、経験が伴った現実主義者であったらしい。


「あはは。そうかな?」


 俺がチーズ料理を食べた時に生じる現象が宏でも確認できる。彼は湯気を上げるピンクの中華まんをもごもご頬張りながら、幸せそうに情けない笑顔で笑った。


「ね、どんな味?」


 その笑顔を見てか糸こんにゃくを完食した美月が興味津々といった表情で宏に問う。


 俺も少々冷めてチーズも無くなってしまったコロッケの最後のひとかけらを口に放り込み、所々油の染み込んだ包装紙を握りつぶした。


「んー……中華まんというよりは、あったかいケーキみたいな感じかな。ちょっと酸っぱいイチゴジャムとミルクカスタードが入ってる」


 美味しいよと笑う宏に、美月は少しだけ引きつったような笑みを向けてから首を傾げる。


 あまり甘い物が得意ではないのだろうか。


「でも中華まんの皮なんだよね? すっごい不思議な味がしそう」


「そんなに違和感ないよ? あんまんの時とそんなに変わらない」

 宏はそう言うけれど、あんまん自体食べる機会は皆無に近く、寧ろ肉まんやピザまん、カレーまんといったものを総菜パンの感覚で食べる俺からすれば、あのモチモチとした食感の皮の中に甘い具が詰まっていると考えただけで喉がイガイガする。


「へえ、そうなんだ……」


 彼の言葉に美月は口をへの字に曲げた妙な笑みを向けた。非甘党2人に引き気味の態度をとられても、腐れ甘党は大して気にする風でもなくハムスターのように口を膨らませながらピンクの塊を咀嚼していく。


「甘い物はこの世の真実。正義だよ」


 にこにこと本当に幸せそうに、糖尿病まっしぐら腐れ甘党は笑った。


*  *  *


 ゴミはゴミ箱に。人は家庭に。


 それぞれの包装をビニール袋にまとめてゴミ箱へと捨ててから、ぐだぐだと愚痴じみた世間話を続けていたところで美月の迎えがやって来た。


 車の窓からこちらに手を振る母親らしき女性に、何故だかほんのりむすっとした表情を浮かべながら美月は大きく手を振り返す。


「じゃあ私迎え来たから、帰るね」


「おう! また明日なー」


 糖分補給で元気を取り戻した宏ははきはきとした声で挨拶をして、全く意味の分からない無駄に美しい敬礼を向けた。


 それにしっかりと乗ってあげて笑顔で敬礼を返す美月を見ると、どうしても息の合った仲良し夫婦のようにしか見えないのだけれど。


 仲が良いというものと、恋愛感情とはやはり別物なのだろうか。


 少なくとも、宏の方は美月に恋愛的な想いを寄せているように見えるのに、当の美月はそのような風ではないし。


 本当に、分からない。


「ねえ、高橋君!」


 手を振り返すだけの挨拶を返しながら2人の関係の解釈のために頭を働かせていた俺は、美月の突然の大きな声に驚いて小さく肩が揺れた。


 どうも疲れがたまってきているのか、同時に2つの事をするだけの集中力がなく、注意が散漫になっている。


 いつの間にか助手席に乗り込んだ彼女は窓から大きく体を乗り出して、殆ど叫ぶように大きな声を出していた。


「あのね、今日はありがとう! お話、また聞かせてね!」


 何がありがとうなのか。


 ただ、自分でも訳の分からない複雑に歪んだ精神世界の解釈を思いついた言葉で紡いだだけだったのに。


 寧ろ、ありがとうと言うのは、俺であるべきなのに。


 また明日と手を振る彼女に、俺はただの条件反射的な動作で手を振り返した。


 彼女のありがとうの意味を探す事に、脳が躍起になっている。そんな脳とは裏腹に、走り出した車が視界の隅から消えてもなお俺の外側は静かな沈黙を守り続けていた。


「お話って、何話してたんだ?」


 袖を小さく引っ張られる振動と宏の声に、思い出したように思考が通常運行を始める。何故だかにやにやと嫌な笑みを口元に浮かべながら、宏はぱきぱきと腕の骨を鳴らした。


「……別に大した事じゃない。進路とか将来の話」


「へえ。珍しく随分と長い間話してたみたいだからさ」


 長い間話さなくちゃいけない状況下に俺を放り出したのはどこのどいつだ。


「寒い中待ってるのに、中で悠長に雑誌なんて読みやがって」


「本当におバカだな楓。俺だって迷惑かけたくてやってるわけじゃないっての」


 冷たい風がマフラーの隙間を通って俺の首を撫でる。


 おバカなどと不名誉な形容詞を付けられ不愉快になるけれど、そう言う宏の方がずっと不愉快そうに眉を歪めていた。


「何でおバカなんて言われなくちゃいけないんだ」


「おバカはおバカなんだよ」


 まあ、悠里が嬉しそうだったから良いんだけどね。


 そう言って笑った宏は、すっきりしたような表情でショルダーバッグの肩紐の位置を直した。



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