憂鬱、憂鬱、青い空
俺は今、激しく憂鬱中だ。
勉強も人間関係もこの頃全く上手くいかない。やる事なす事全てが空回りして、周囲と自分の心を掻き乱す。
「……はぁ」
俺は今日も絶賛溜め息増量中でかったるい授業を屋上でサボっていた。キノコでも生えそうなほどに陰気な自分の心とは裏腹に、何にも邪魔されずに視界一杯に広がる空は青く澄み渡っている。
俺は医者の家系に生まれ、自らも医者となる事を余儀なくされて育ってきた。周囲からの期待、プレッシャー。他人からだけでなく、自分の中にある多大な自尊心、責任感までもが俺を雁字搦めにして離さない。
「……何なんだよ」
成績が悪いわけではない。医者という職業が嫌いなわけでもない。友達が居ないとか、運動が出来ないとか、そんなんでもなくて。
「俺は……誰なんだよ」
初めから決められていた未来、自由だといいながら選択肢のない現実。俺はただ足元に敷かれたレールに従い前に進むだけで、他の誰かに与えられた道を辿っていくだけで、そこには何の感情もなくて。
こうでなければいけないという無言の強制。他人の中にある自分の理想像。
誰か、助けて欲しい。
沈み込んだ思考に空の青が痛すぎて、俺は眉間に皺を寄せた。
壁にもたれて座り込み、瞼を閉じて爽やかすぎる青を遮断した。風が優しく髪を撫で、グラウンドからは体育の授業の声が聞こえてくる。後俺の心の中さえ晴れ晴れしていたら、こんなにも良い天気、どんなに心地よかっただろう。
「……寝るか」
読みかけの小説を顔に掛けて、俺は深く息をついた。眠気は無かったものの、静かに目を閉じていると段々と意識が遠のいていくのがわかった。 微睡みの中で授業の終わりを告げるチャイムが耳にぼんやりと響く。
と、それと同時にガチャリと戸が開き、俺は驚いて肩を震わして乗せていた本を落としてしまった。
「あれ、おかしいな。何で開いてるんだろ」
戸を開けた人物は不思議そうに首を傾げて手元の、恐らく屋上の物であろう鍵を見つめていた。
……こいつ、誰だっけ
長い髪とスカートが風に揺れて、ザッと白いサンダルが床を蹴る。緑と白の水玉模様のカチューシャ、カチューシャとお揃いの模様のスカーフ。
確か、この学校のスクールカウンセラー。そう、何やら俺の担任の山下とデキてるんじゃないかっていう噂の。
生憎、全くカウンセリング室に縁がない俺には名前が思い出せなかった。
「あら?……キミ、どうして屋上にいるの?」
「………」
気付かれない内に退散しようと、落ちた本を拾ったらタイミングが悪くカウンセラーが振り向いた。
マズかっただろうか?
一応この人だって先生なんだろうから、問題になるかもしれない。
「キミ、3年生だよね?……ね、どうやって入ったの?いつも鍵掛かってるし、生徒は立ち入り禁止だから鍵貸してくれないはずだよね」
チャラチャラと鍵を振って座り込んだままの俺の顔を覗き込んできた。
「……別に、ピッキングしただけですけど」
俺は前でカウンセラーがしているように、ポケットから安全ピンを取り出し揺らして見せた。
普通に考えて挑発。怒るだろうと思ってしてみたのに、カウンセラーは好奇を込めた瞳で驚いた。
「へぇ〜!本当に?すごい!」
カウンセラーは目をキラキラ輝かせて感心したように俺を見つめてくる。
怒らないのか?
何だか、拍子抜けした。
「ねぇ、ピッキングってどうやるの?」
「どうやるのって……。そんな事より、何で怒らないんですか。」
「怒るって、何を?」
首を傾げて笑う彼女に何故かイライラした。眠りを妨げられたからだろうか、それとも、この青空のように俺の目に痛いほどの笑顔を見せるからだろうか。
早く、どこかに行って欲しい。
「俺、授業サボったんですよ。立ち入り禁止の屋上にピッキングして入って」
「そうなんだ?」
イライラする。笑うな。俺を見るな。
「何で怒らないんですか。先生なんでしょ?」
「キミは怒ってもらいたいの?」
「………それは」
俺は彼女のその言葉に少し考えてしまった。
怒ってもらいたいのか?
確かに、他人に自分を否定してもらいたいという気持ちはあった。悪いことをして、それで他人が失望してくれるのを心のどこかで望んでいた。授業サボって、屋上に忍び込むぐらいの事しか、出来もしないのに。
「何で此処にいるのとか、此処で何してるのとか、私はキミに色々質問したり、勿論怒ることも出来るけど、キミはそうして欲しいの?」
「……別に」
俺にはそれ位の返事しか返せなかった。俯いて何となく彼女のサンダルを見つめていると、クスリと笑う声が聞こえて、彼女は遠ざかっていった。爽やかな青い風が、俺の頬を撫ぜ、消えていく。
フェンスをガシャリと掴んで爪先立ちでグラウンドを眺めている。首のスカーフが風に涼しげに揺られ、ロングスカートがはためく軽やかな音。授業の開始を告げるチャイムが響き、騒がしかった校舎が静まり返った。
「キミもさ、屋上好きなの?」
「……は?」
思いもよらなかった質問に俺は眉間に皺が寄るのがわかった。
「私は屋上好きだよ。毎日風に当たりに来るんだ。キミは?」
「……別に、サボりに来てるだけで、好きとか考えたことないです」
好きか嫌いかと言われればもちろん好きだが。
「ふ〜ん。でもまぁ、サボりに来るんだから嫌いじゃないんだよね。…ねぇキミは、しょっちゅう授業サボってるわけ?」
彼女はフェンスから手を外し、俺の隣に腰を下ろした。雲が太陽を遮って、ほんの少し視界が暗くなる。
「さぁ。毎日1回はサボってますけど」
しかも、単位を落とさないようにどの教科も平等にだ。教師はそんな俺に呆れるどころか、器用だといって笑う。そんな姿にさえ、俺の神経は逆なでをされ、いちいち腹が立った。
「毎日、屋上で?」
「大体は」
なんで早く何処かへ行ってくれないんだ。出ていくタイミングを見つけられないで、俺は壁にもたれて座り込んだままでいるしかなかった。
「じゃあさ、私の所においでよ」
「どうして。別にカウンセリング室行く必要なんて……」
大体、何が『じゃあ』なんだ。カウンセリング室に何か行って、どうなる。
この人は俺を、救ってくれるのか?
「必要ならありますよ。白石先生の診断の結果、キミは心の病気です!」
「はぁ」
白石っていうのか、この人。
心の病気って、俺はそんなに病んでるように見えるのか?いつも一緒にいる親友の宏からでさえ、そんな事言われた事ないのに。
それに、何だよこの変なテンション。
「名付けましょう!キミの病気は」
メランコリック症候群
「はぁ?……メランコリック、症候群?」
腕を組みフフンと鼻を鳴らして、俺の目の前で仁王立ちしたカウンセラー、もとい白石先生はそう言い放った。
「そうです!キミは『メランコリック症候群』にかかった重病人。私のカウンセリングを受ける義務があります!この病気は空気感染するから、今すぐにでも措置しなければなりません」
俺は白石先生とのテンションの差に半ば呆れて溜息をついた。空気感染だと。まさか。する訳がない。大体、そんな病気だってないだろう。
それに、メランコリックの意味は
「melancholy。憂鬱」
「おぉっ。すごいね、キミ!」
憂鬱、症候群。
「……症候群は、ある病気に現れる一群の症状の意。病名に準じたものとして使う」
「……うわぁ。ちょっとキミ、頭どうなってるの?」
彼女は感心したように俺を見つめ、テンションは先程までの異常な高さから平常心と思われるあたりまで下がった。
俺はまたもや好奇の視線を送ってくる彼女に深く息をついて立ち上がった。
イライラ、イライラ。
「別に、すごくも何ともない。俺をメランコリック症候群にしてる原因と、こんな事知ってる原因は同じなんですよ」
そう、どれもこれも全部。俺が、宿命に逆らえないから。親に言われて医療の専門書なんか読むから。理想像の俺が、頭に入れろと命令するから。
「……そう。じゃあ、私の診断は間違ってないんだね?」
屋上を去ろうとドアノブに手を伸ばした俺に彼女はそう言って、俺の学ランの裾を掴んだ。
「何なんですか……」
イライラ、イライラ。
早く、1秒でも早くここから去りたい。
離せ!
「その原因のせいで、こんなにも優秀なキミは授業をサボりたくなったり、自分を否定してもらいたくなったり、色んな症状が出て来ちゃうんでしょう?憂鬱な気持ちは知らない間に滲み出て、周りも暗くするものだし」
だからなんだ。
仮に、俺がその『メランコリック症候群』とやらに発病や感染しているとして、俺に治る見込みはあるのか?
現に俺は医者への道を順調に歩んでいるんだ。それは、周りも自分の理想像も望んでいること。俺は、逆らえない。
「だから、ね?治そう?」
「……治らない」
「どうして」
イライラ、イライラ。
「治ろうとする気持ち、俺には微塵もないから。周りにもないからだ」
俺は学ランを掴んでいる彼女の手を振り払って、目を合わせた。
嘘ばっかり。本当は彼女の手を取って、助けてくれと縋り着きたいくせに。
「駄目」
「……」
「駄目よ。仮にも私は医者。キミを救う義務がある。救ってあげたいのよ。だって、そのために私はここに居るんだから」
救いたい。その一言が俺の心をこじ開けた。救ってくれる。この人は、俺が周りに蔓延らせている『理想像』というフィルター越しに、俺自身が見えている。
そう、直感でわかった。
「……」
「カウンセリング室。私、いつもそこに居るから、授業サボるなら来て?一緒にお話しましょう。おいしいお菓子もお茶も準備して、私キミのこと待ってるから」
明るい彼女の笑顔は、この青空よりもずっとずっと、俺の深い深いところに入り込んでくる。
あぁ、何故だろう……苦しい。
「……そうですか」
「うん。待ってるから」
ドアを開けるとほぼ同時に、授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。騒がしさを取り戻した校舎は、彼女と二人だけの状態から解いてくれて、何故だかほっとしてしまう自分がいる。
「ねぇ、キミ!名前は?」
後ろから明るい声が飛んできて、俺の背中にぶつかった。俺は振り返らずに深く息を吸う。すぅっと肺に流れ込む大量の新鮮な酸素、少し気分が晴れた気がする。
「高橋。3−Aの高橋 楓」
背中越しにそう大声でそう言って、階段を降り始めるとすぐに俺は六階の廊下で人混みに飲み込まれた。なんだ。今、昼休みなのか。
人混みの流れに逆らって、宏達が待つ教室までの道を歩いた。途中挨拶をしてくる後輩達に、慣れきった愛想笑いをして答えながら。
「……メランコリック症候群、か」
最後に彼女が見せた俺には明るすぎる笑顔が脳裏にうかんできて、特に意味もなく小声でそう呟いた。
カウンセリング室、どこだっただろう?
調べておかなくては。
今度からはカウンセリング室が俺の逃げ場になりそうだから。