プロローグ
『――――…アンタなんか、産まなきゃよかったッ……。』
「………。」
…ひもじくてひもじくて、カサカサの唇をしゃぶる様に噛みながら。何時も霞がかってハッキリとしない意識の中、唐突に悲しくて辛いあの言葉がよぎり。一層、辛くて辛くて今にも消え入りそうになりながら。今日もまた、異臭振り撒くゴミ山の隅で骨と皮ばかりの体を折り畳み。膿んだ様に濁った瞳で、目の前の"恐ろしい者達"の酷く醜い争いを盗み見みながら。「少女」は独り、ただ息を潜めそれを耐え忍ぶ……。
「――――……!!………!?……ッ!!!」
「…っ……!……ッ!!…………!!?」
「……。」
…"彼等"が何と言ってるかも分からぬ程の空腹に苛まれ。それを「不幸中の幸い」と朧気に捉えながら。少し動かすだけでも億劫で、キシキシと軋む異常な節々の痛みにさえ表情一つ変える事も出来ず。その小さくか細い手指で耳を塞ぎ、その荒れ狂う怒声と罵声を遮るというよりは……。
ただ、その"恐ろしい者達"の関心を引かないよう。ただ、無駄だと分かっていても。もう既に乾き干乾びた心が擦り減り、破けないよう。一種の、精神の防衛本能を働かせ。只々、ただただ虚ろに耐え忍び続ける「少女」の"日常"は。………たった今日、ようやく終わりを迎える――――…。
「ッ!!?」
突如、よれよれで薄汚れた黄ばんだ服の胸倉を掴まれ。声も上げる暇もなく乱暴に、力任せにゴミ山を蹴散らし引き倒され。背中と後頭部を襲った痛みに、初めて僅かに表情を動かす「少女」は。…ふと、横目に映ったあの"恐ろしい者達"の片割れ――――"母"の姿を目にし……。
何故か「少女」と同じく、ゴミ山の上に仰向けに倒れている母の。…異様に生気のない、何の感情も示さない綺麗な顔と。この部屋には不似合いな、小綺麗な服を身に纏った母の胸元に滲む。赤い大きなシミに目を見開いた「少女」は。今まさに、自身に圧し掛かり引き倒した人物――――悍ましい、僅かに泡を吹き血走った眼をぎらつかせる"父"の姿を目の辺りにし。
…「少女」は怯え、恐怖する……。
「…ひ……あぁ…ッ。」
「少女」へ振りかざされ鈍く輝く、鋭い包丁の切っ先…。ただ無言で"娘"である筈の「少女」へ、あらん限りの殺意を剥き出し。それを押し当て、決して逃がそうとしない狂った父の暴虐に。何一つ、抗う術のない「少女」は。…何時も、心の何処かで待ち望み。愚かにも希望とさえ思った事もある"ソレ"に、今はただ恐怖と後悔しかない…。
一体どこにあったのかと思う程俊敏に、痩せこけた腕が父の顔や腕を掻きむしるが。それは父の狂気に拍車を掛けるだけで、無駄に終わる…。細い腕を容赦なく切り裂かれ、激痛に身を捩ろうにも。圧し掛かった父がそれを許さず、いよいよギラリと光る包丁が逆手に振り上げられ落ちてくる。薄っぺらい服を容易に裂き、下の薄い体を突き、刃が奔る衝撃に息が止まり。先程とは比べ物にならない激痛が襲い、体が引きつり痙攣する中。
…何度も、何度も執拗に包丁を「少女」へ叩きつける父だった存在の。血しぶきに塗れた、まさに"鬼"のような姿に……最早恐怖は湧かない…。
「………ッ…、………。」
最後に上げた心の叫びは、結局言葉にも悲鳴にもならず掻き消され。その発されようとした言葉を知る者は、もういない…。夥しい血溜に沈む「少女」は、ようやくあらゆる痛みから解放され。生まれて初めて、"心地良さ"を感じながら。深い深い、眠りに就く……。
後、妻娘を刺し殺したこの狂った男はその後自決し。異常な騒音と悲鳴を聞いたアパートの隣人らが、警察へ連絡。警察が押し入ったその部屋の惨状に、多くの刑事科捜研等が揃って「…あれは酷い事件だった」と暫く語り草しながらも…。その惨劇はテレビにも報道されたが、直ぐにそれも瞬く間に風化し無きものとされてゆく。
「少女」と、その父母の亡骸は預かり人が来なかった為。共同の墓地へと供養され、その他大勢の人々の名が羅列される名簿へと埋没し。その「少女」の名前は、もうわからない―――…。