8.“赤い羊”
午前11時30分。平日とはいえ、お昼時の市街地はそれなりに賑わっている。周回を繰り返すうちに人との対面にはそれなりに慣れてきていたハルトだったが、街を行き交う人混みとなると流石に落ち着かない。
「あの立てこもり犯と接触していたとしたらこの辺りなんだろうけど……」
辺りを見回してもそれらしい人間は居ない。そもそもテレビの映像でも服の色程度しか判別出来なかったので、探すといってもかなり無理があるのだが……。
“昨日”はバス一本分早くこの商店街の入り口に到着し、市街中央にある市役所前公園に向かって歩いたはずだ。その間に俺が接触した何かしらが、“今晩”の立てこもり犯の武器を拳銃からナイフに変えた……かもしれない訳だ。
「いやいや、分かるわけがない……水平思考の推理問題みたいだ。あれってヒントありきのゲームだろ……」
だがその男が、ハルトを除けばこのループの中で確認した最大の変化であるだけに、やはり調べてみない訳にはいかないのだった。
アーケードの屋根の下をしばらく歩くと、横丁の向こうにコンビニが見えた。
「あー、あそこでお茶を買ったんだっけか」
ポケットの中には120円がある。部屋の外に出た最初のループ、36周目でブドウジュースを買ったのと同じ120円だ。
「無限の有限の財産……うーんフクザツだな……すごく面白い」
手の平で120円を転がしながらコンビニに入る。そのとき、1人の男が入れ違いでコンビニを出て行った。
「ん?今の男……なんか変だったな?」
白いセーター、手提げ鞄。見覚えのない男だった。ハルトにとってはその時点で既に違和感を感じて然るべきではあるが、それだけではない。
「コンビニから出てきたのに息を切らせていた……よな?そんなことあるか?過呼吸?」
いや、違う。ハルトが入ったコンビニには別の通りに面した入口があった。つまり男はコンビニを通り抜けただけなのだ。異常な行動、という程ではないが、ハルトが知らないうちに干渉していた犯罪の一部に関わっている、というようなことを疑えないでもなかった。
急いでコンビニから出ると、まだ男は横丁の向こうに見える。先ほどまでハルトが歩いていた商店街に向かっているようだ。
「……ちょっとついて行ってみるか」
果たして尾行のど素人の自分にどこまでやれるかは分からないが、やってみよう。
男は商店街を駅の方向に曲がると、街で1番大きな交差点へ向かって歩いて行く。そこは歩道が地下通路で交差していて、信号を使わずに行き来ができるようになっている。併設された地下駐輪場とも繋がっていて、謎の男は迷わずそこへ入って行く。
「参ったな、自転車かバイクでも使われたら見失ってしまう」
だがまたしても男は、駐輪場を通り抜け、反対側の通路から地上に出て行く。
「もしかして、誰かを撒こうとしてる?……っていうか俺を?」
その割にはこちらに気づいたそぶりは無かった。脇目も振らずに男は歩き続ける。
20分ほど歩いただろうか。ハルトもいい加減歩き疲れてきた頃、男は市街地の端の地下鉄駅へ入って行った。
「ま、また階段か……頼むぜマジで……こっちは昨日までヒキニートだぞ……」
体感では1ヶ月以上前だが、ハルトの肉体は間違いなく1日前まで部屋から出なかった男のそれなのである。むしろ今日これ程までに動き続けているのが奇跡だと言っても過言ではない。
息を切らしながら階段を降りると、男はいなかった。
「くそッ、マジかよ……ここまでの努力は一体……」
膝に手を当て、壁に寄りかかる。周囲の目など気にしている体力の余裕は無かった。
「はあ、はあ……」
顔を上げると、地下鉄駅の構内、廊下の端の公衆トイレが目に入った。男子トイレの蛍光灯が切れかけて薄暗く明滅している。
「はぁ、はあ……あそこに入ったとか、あるかな……一応探しとくか。一応な」
これ以上地下鉄に乗ってまで男を探す元気は残っていなかった。もし目の前のトイレで男を見つけることができなかったら、今日は創作を打ち切って部屋に帰ろう、そういうつもりだった。
だがその心配は必要なさそうだった。
ハルトは薄暗いトイレに踏み入ってすぐに心から後悔する。
1番奥の個室の開いた扉から、倒れた男の上半身がのぞいていた。さっきまでハルトが追っていた男だ。見開いた目がこちらを見据え、虚ろな表情が張り付いたような顔をしている。ゆっくりと広がっていく血だまりの中で、男は明らかに、息絶えていた。