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舞妓さんと歩く都街  作者: 橘樹 啓人
第一章 古都の花町
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花見小路通

 ――四月九日、入学式。


 佑暉は高校の制服に袖を通すと、居間に行った。テーブルの上には白飯と吸い物、焼鮭が皿に載せて置かれてあった。部活動のある彩香は、一時間近く前に家を出ていったと正美は彼に話した。


 夏葉の中学でも今日が始業式だった。彼女は鞄を持って玄関に走っていき、靴を履くと、


「行ってきます」


 と、恵比寿の木彫人形の鼻筋を指で軽く撫でてから、ガラガラっと戸を開けて出ていった。


 佑暉も感謝の念を胸に刻みつつも早急に朝食を済ますと、忘れ物がないか確認しに部屋に戻った。初日からポカをやらかすわけにはいかない。大丈夫だと分かると鞄を肩にかけ、玄関に向かった。旅館を出ていこうとすると、宿泊客の男性が彼の近くを通りかかった。


「おぉ、今日から学校か。しっかりやりや」


 突然知らない人から声をかけられたので、佑暉はやや戸惑った。見た目は五十歳前後といったところで、優しそうな目をした男だった。


「はい、行ってきます」


 佑暉は男性に軽く会釈をし、旅館を出た。


 彼が通うことになった四条高校は、旅館の最寄りの地下鉄東山駅から一駅、そこから私鉄に乗り換えて一駅先で降り、徒歩で数分というところにあった。しかし、旅館から歩いても三十分かからないのだ。そのため佑暉は運動もかね、通学手段に徒歩を選んだ。


 佑暉は通学路である東大路通を歩きながら、こんなことを考えていた。


 ――中学時代はクラスでも影が薄く、友達も多くなかった。そんな自分を、できれば高校生活に反映させたくはない。幸い、これから行く学校には僕を知っている人はいないのだから、積極的に同じ学級の人に声をかけてみよう。


 特に問題なく学校に着き、教室に行くと佑暉は前方の黒板に掲示された座席表を見た。そうして、指定された席に着く。彼の席は、窓側の列の一番後ろであった。


 教室の中にはもう友達ができたのか、あるいは中学校からの知り合いなのか、近くの席の者と会話している生徒もいる。しかしそれはほんの一部で、殆ど生徒は静かに自席に座り、周りを眺めたり本を読んだりしていた。


 しばらくして担任の教師が来ると、出席をとった。その後、体育館では入学式が行われた。式は滞りなく進み、無事に終了した。教室に戻ってくると皆、式の前とは一転し、前席や隣席の生徒に話しかけるなどして、友達を作り始めている。その様子を見た佑暉は、自分もその波に乗ろうと考えた。その矢先、彼の席の側を偶然、二人の男子が駄弁りながら通りかかった。


 佑暉はそれに気づくと、思いきって彼らに話しかけてみることにした。ここで変わる努力をしなければ、いつまでもあの頃を引きずってしまう、そんな危惧もあった。


 立ち上がると、彼は後ろから二人に呼びかける。


「あ、あの……」


 佑暉の声は他の生徒の声に霞んでしまい、男子たちも聞こえないのか振り向かない。


「あの!」


 咄嗟に大きめの声を出すと、ようやく二人のうち一人が振り返った。


「うん? 呼んだ?」


 不思議そうに彼を見つめる。


 だが、声をかけてみたものの、佑暉はこの先を考えていなかった。それにより、どう続けて良いか分からずに言い渋る結果になった。


「あ、いえ。何でもないです……」


 結局、そう言って椅子に腰を下ろす。男子たちは怪訝そうに佑暉を見つめていたが、また話を再開させながら彼から離れていった。最初から大失敗をしてしまった、やはり話しかけなければ良かった、と佑暉はひどく後悔をした。


 帰り道は登校時に比べ、足取りは重かった。四条通を歩きながら、佑暉は深い溜息をつく。数時間前に抱いた決心が萎んでしまい、明日からの日々を鬱々と感じてしまう。


 佑暉は気晴らしに、一人でまた京都の町を歩くことにした。祇園の街は、歩くだけでも十分観光したような気分になるのだ。四条通には菓子屋やカフェなどが多く並び、多くの観光客を惹きつけている。また、バスや車も絶え間なく走っており、昼夜かかわらず賑やかだった。


 珈琲店の角を右折すると、花見小路はなみこうじという名の通に出た。そこには古そうな家屋が立ち並び、江戸時代の京都の町並みを踏襲したような雰囲気がある。


 四条通に比べると車も少ない。昔にタイムスリップしたような気分になり、東京とはまるで別次元に思われた。何気なく曲がっただけだったが、佑暉はここに強い感動を覚えた。古い町並みが、彼の心を癒やしたのかもしれない。


 歩けば歩くほど、四条通の喧騒が遠のいていくようだった。その時、どこからか楽器のような音が聞こえてきた。弦を弾くような音――これは三味線の音だろうと佑暉は思った。それは分かれ道の角に立っている、一軒の家から聞こえた。


 小さい造りの二階建て日本家屋で、戸は開け放たれ、玄関には抹茶色の暖簾が垂れ下がっている。歴史が漂う風景の中に、さらにアクセントの役割を果たしているその外見は、彼の好奇心をより一層掻き立てた。佑暉は殆ど無意識にその家に近づき、暖簾を見ると「祇園茶屋」と書かれてあった。佑暉は興味本位のまま、その中を覗いた。


 暖簾をそっと捲り、中の様子を窺う。緋毛氈の掛けられた縁台が四列に二つずつ並べられていて、そのうちのいくつかに和服を着た男性が腰掛けている。奥には舞台のような六畳ほどの畳が敷き詰められたスペースが設けられ、着物を着て日本髪を結った芸者らしき女性が座って三味線を弾いていた。その音色に合わせ、舞台では一人の舞妓が踊りを披露していた。


 妖艶な緋色の着物を身にまとい、日本髪も美しく結い上げられている。歳は外からはよく分からないが、十代ほどの若い芸者であることは確かだ。その姿は佑暉の心の琴線に触れ、彼は呆然とその舞いに見とれていた。なんて美しいのだろう、と知らぬ間に瞬きも忘れて見入っていた。佑暉はこれまで、テレビや雑誌などでしか舞妓を見たことがなかった。それが今、眼前で踊っている。


 踊りが終わると、それを観覧していた客らしき男性たちは舞妓に拍手を送った。舞妓は舞台の中央に正座し、手をつくと客に向かって一礼した。彼女が舞台袖へ下がっていっても、佑暉はその場を動けなかった。筆舌に尽くしがたいほどの感動が、彼の心を侵していく。


 しばらく恍惚としていたが、帰ろうと立ち上がった男性と目が合ったことで、佑暉は現実に引き戻された。慌てて場を離れ、花見小路を抜けて再び四条通へ出ると、旅館までの道を走って帰った。


 部屋に帰った佑暉は、腰を下ろすとあの茶屋で見た光景を思い出した。あの舞妓は毎日、厳しい踊りや稽古に耐えているのだろうか。そのような疑問が、無意識のうちに彼の脳裏にどんどん浮かび上がってくる。


 いつの間にか、明日もあそこへ行けばまた見られるだろうか……などと考えていた。

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