京都府立四条高等学校
目を覚ますと、眼前に襖があった。その隙間から朝陽が射している。佑暉は瞼をこすりながら起き上がって、周りを見渡した。
一瞬、彼にはここがどこなのか分からなかった。襖の白い紙には、黄ばんだシミのようなものが斑模様になってついている。しばらくそれを眺めていると、徐々に昨日の出来事を思い出していった。
ああ、ここはもう東京の家ではないのだ、と佑暉はようやく悟ることができた。ここは京都市左京区の古い旅館。父親の収入が落ち着くまで、ここで生活しなくてはならない。
佑暉は立ち上がると障子窓を開けた。が、目の前のビルが邪魔をして陽光を遮ってしまっている。
彼は落胆しながら欠伸をこぼすと、また布団のところへ戻った。枕元にはスマートフォンが転がっている。昨夜、メールをしている最中に睡魔に負け、眠ってしまったのだ。彼女には悪いことをしてしまった、と佑暉は深く反省しつつ、それを手に取った。
昨晩、夕飯を食べた部屋で朝食をとった後、佑暉は中学の頃から使っている通学鞄を持ち、旅館を出ると高校に向かって歩き出した。
父親の話によると、四条高校は京都の公立高校では上位の偏差値を誇り、毎年の志願者も多く、特色選抜入試では倍率が十六倍になる年もあったという。一般入試でも多い年には二倍近くにもなるほどの人気校なのだが、しかし二年前の冬、一人の男子生徒が暴力団関連の事件を起こし、その影響で昨年には志望者が激減してしまったため、異例の定員割れを来したという。
東大路通を五百メートルほど南に下れば、そこはもう東山区である。さらに足を進めると、左手には八坂神社が見える。神社の楼門前の交差点を渡り、四条通に入るとそこは一般に祇園と呼ばれる場所だ。その四条通を直進して鴨川沿いの川端通の二筋手前で右折し、大和大路通というやや細い道を百メートルほど進むと、鴨川から東に引かれた白川筋に架かる小橋がある。そこを渡れば、もう目の前には高々とそびえ立つネットフェンスが城壁のようにグラウンドを取り囲み、その向こうに校舎や体育館と思しき建物群が見える。
佑暉は念のためスマートフォンの地図アプリを呼び出し、ガイドに頼って試験開始時間までに高校に辿り着いた。高校における敷地自体の面積がそれほど広くはないため、校舎や体育館、プールといった施設がひしめき合うように建ち、よく言えばコンパクトな構造になっている。そのためか、あるいは生徒の数が多いからか、各学年の教室がある校舎も高校では珍しい四階建てである。
教室に入ると、佑暉は担当の監督教師に名前を尋ねられた。彼は、緊張しながらもはきはきとした声音で名乗り、自分の受験票を見せた。
その後、試験問題が配られ、監督教師によって開始の号令がかかった。教室には、二人以外には誰もいない。一般の入試とは違い、特別入試は本来通う予定だった高校に通えなくなった生徒のために、各学校で用いられる救済措置だ。だが、それを取り入れている学校自体が極めて稀なため、佑暉が身を安置することになった旅館から徒歩圏内にあるこの高校は、まさに彼にとってのユートピアであった。
試験が無事に終了すると、佑暉は監督教師にぺこりと頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「はい。じゃあ、一週間くらいしたら、合否通知が書いてくれた住所のところに届きますからね」
「ありがとうございます、それでは失礼します」
佑暉は監督教師に丁寧に礼を言ってから、教室を出た。この時、一気に肩の荷が下りたような気がした。慎二から聞いた話では、特別入試で受験しにきた生徒は余程のことがない限り不合格にならないような感じだったが、まだ安心できないのは誰からも明白だった。
それでも、試験は終わったのだという安堵感が佑暉の中にはあった。学校を出た佑暉は、少しだけ祇園を歩いてみたい気分になった。よくテレビでこの辺りが映ると、決まって舞妓や芸者が歩いている様子が映し出される。しかし、いくら歩いても、それらしき人には出会わなかった。
少し期待していた分、佑暉は肩を落とした。所詮はこんなものか、と内心でため息をつくと、彼は旅館に足を向けた。
教師は一週間後と言っていたが、試験日の二日後には学校から「合格」と書かれた通知書が届けられた。佑暉は早速パソコンを立ち上げ、喜びをブログに綴った。試験の翌日、正美に頼んでパソコンをインターネットに繋いでもらっていたのだ。佑暉はキーボードを叩きながら、自分の指がいつもよりもリズミカルになっていることを自覚した。
そうして記事を投稿した数分後には、彼のもとにまた新しいメールが届いた。
『ブログ見ました。合格、おめでとうございます!』
やはり、「抹茶ぷりん♪」からのものだった。佑暉も即座に「ありがとう」という返信を送っていた。
入学に関する手続きなどはほとんど正美に手伝ってもらった。佑暉の保護者は慎二ではなく、表面上は正美ということになっていた。そちらの方が面談などがある際に何かと融通が利くため、電話で慎二に相談してみたところ、父も喜んで承諾してくれたのだ。