中城佐希
サキは顔を上げ、振り返った。その瞬間、佑暉は彼女と目が合った。彼女の頬は濡れていた。何故か佑暉は目をそらせず、ただ彼女の目を見つめていた。しばらく見つめ合った後、彼女は長椅子のところに戻ってくると、彼の隣に座した。彼女は、折り目に合わせて畳んだ手紙を佑暉に返すと、そのまま貝になってしまった。
数分間の沈黙を、佑暉は一時間以上に感じた。すると、やがてサキの口が開く。
「佑暉君は、知ってたの? ……ここに書かれてあること」
「今日、初めて知ったんだ。お母さんが亡くなる前にお父さんに送ったものらしいんだけど、お父さんが今日、僕宛に郵送してきたんだ。君に渡してほしい、っていう意味で送ったんじゃないかな」
佑暉は淡々とそう答えると、そこで己の役割は終わったと自覚した。ここからは彼女の気持ち次第なのだ。真実を受け入れるか、拒絶するか、彼には選ぶ権利がない。彼女からの返答を、佑暉は黙って待つことにした。
しかし、サキは口を閉ざしたままだ。俯き、長椅子に敷かれた緋毛氈の触感を確かめるように、それを右手の人差し指で撫でている。佑暉も無言でその様子をただ見守っていると、
「雪……止んだみたいだね」
不意に、サキが暖簾の外を見やりながら言う。佑暉も彼女の視線を追うと、つい数分前までの雪国のごとき激しい雪は、嘘のように降り止んでいた。
次に、サキは佑暉に笑顔を向けて語りかけた。
「知ってる? 金閣寺って雪が積もるとすごくきれいなんだよ。昔、雪が降ったらお母さんといつも行ってたなあ。お化粧したみたいに見えるから、金閣寺の雪化粧、って言い方をしたりするんだよ。佑暉君のお父さんも、雪は好き? あとは、そうだね……他に雪がきれいな場所といえば、大原三千院の……」
サキの言葉が止まる。そう思うと、彼女の目からぽろぽろと豆粒のような涙がこぼれて椅子の上に落ちる。
「あれれ、おかしいな……」
そんなことを呟きながらサキは笑おうとするが、砂でできた塔が波にさらわれて崩れるように、彼女の笑顔は忽ち崩れた。
「サキ……」
佑暉がサキに手を差し出そうとした時、彼女が胸に飛びつくような勢いで彼にすり寄った。両手でぎゅっと彼の肩を掴み、
「私にはずっと、家族なんていないって思ってたのに……! 君が私の家族だったら良かったのにって何度も思って……そうしたら何故か胸が苦しくなって……気がつけばドキドキしてた。好きだったの。早く伝えなきゃって思ってたけど、なかなか勇気が出なくって……でも、君が私の……、私の…………って知って……、嬉しくて、悲しいよ……」
という、絞り出すような声を出す。佑暉もその瞬間、きゅんと胸が小さくなったような感覚に襲われた。サキは顔を伏せたまま、「なんで、なんで」と繰り返していた。複雑なジレンマに遭い、ひどく混乱しているのだろう。それは佑暉も同じだった。未だに、眼前の現実を受け入れられずにいるのだ。
胸の底で熱い何かが生成され、それが熱を帯びたまま蒸発し、感情となって脳を抉る。気がついた時には、佑暉の窪みにも涙が浮かんでいた。そして、
「……僕も同じ気持ちだったよ」
という本音が自然に漏れる。サキはそれに反応したように、静かに顔を上げる。佑暉は彼女から目線を外すことなく、続けた。
「僕も、君のことが好きだったんだ。もっと前に言っていたら、こんな気持ちにはならなかったかもしれない。でも、もうお互いの関係を知っているから、恋人にはなれない。君を……妹として見てしまうから……。たった一人の、妹として」
サキの瞳からは怒涛のような涙が溢れ出し、佑暉の首に抱きついた。彼女の髪から立ち上る花の香りが、彼の鼻腔を刺激する。目を閉じると、まるで蓮華畑の中を歩いているような錯覚に陥りそうになる。
「私、嬉しい。君と会えたこと、一緒に色んなお話ができたこと。全部、全部。お母さん以外の家族がいてくれたことが、すごく嬉しいよ。ありがとう、お兄ちゃん」
彼女は佑暉から身を離すと、にっこりと微笑む。いきなり馴れない呼び方で呼ばれ、佑暉は気恥ずかしくなった。顔面にカイロでも押しつけられたように顔中が熱いので、微笑み返してわざと取り繕う。だが、サキは彼の心を見透かしたようにまた笑うと、立ち上がった。そして舞台の方へ歩いていき、そこに手をついて舞台上に腰掛ける。
佑暉は椅子に座ったまま、彼女に呼びかけた。
「どうしたの」
「こうしてると、なんか落ち着くの。佑暉君も、こっち来る?」
サキは、「ここに座って」と言うような感じで、左手で自分の隣を叩く。その意味を理解した佑暉は、多少の躊躇はあったが立ち上がって彼女のところに行き、舞台によじ登った。
サキは足を下ろしてぶらぶらさせているが、佑暉は彼女の隣まで来るとその場に正座した。それを見ると、彼女は可笑しそうに顔を綻ばせる。
「高校は楽しい?」
サキが突然、天井を見上げながら佑暉にそんなことをきく。脈絡のない問いかけに彼は当惑したが、数秒経たずに彼女が受験生だということを思い出した。現役生から高校の情報を聞いて吟味することも、志望校を決めていく上で必要なことなのかもしれない。
「うん、楽しいよ。どこを受けたいとか考えてるの?」
サキは少し間を空けると、恥ずかしそうに目線を伏せて話し出した。
「実はね、ずっと迷ってたんだ。高校には進学せずに、舞妓修行に専念しようかなって。でも今日で吹っ切れた感じがする」
「どういうこと」
素できき返す佑暉の方を見ると、サキは赤い頬をさらに染めた。
「私、四条高校を受けようと思うの」
「えっ……」
彼女の口から思いがけず自分の通う高校の名が出たので、佑暉は絶句しそうになる。その顔が可笑しかったのか、サキはまた両手で口を押さえながら肩を振動させた。それを見た佑暉は彼女の視線を避けるように、後ろの壁に目を向ける。
「ごめん、ごめん。あそこなら彩香さんたちもいるし、賑やかかなって思ったの。それにここからも近いし。最近は良くない噂もあるらしいけど、そんなことで私は志望校を決めたりしない。君と同じところがいい、って言ってしまえばそれまでだけど」
その理由を聞くと佑暉はまたもや、どきんと胸が脈打つのを覚えた。
「そ、そうだね。確かに、優しい人が多い気がするよ」
動揺を隠すように、佑暉は壁を見つめ続けながら答える。すると突然、サキが舞台から飛び降り、体を半回転させて佑暉の方を向いた。そこで佑暉も初めて彼女に視線を戻すと、座ったまま少しずつ前進していき、同じように舞台を降りた。
「帰ろう」
と、サキが言う。その顔は明朗さに溢れていて、快晴の冬空のように晴れ晴れとしていた。佑暉も安堵しながら頷き、置屋まで送っていくと彼女に伝えた。今度の機会に、慎二に彼女を紹介しよう……というようなことを考えながら、佑暉はサキとともに茶屋を後にする。
暖簾をくぐって外へ出ると晴れ、夕方の弱く控えめな陽光が射していた。きっと、サキの涙と一緒に雲も飛んでいったのだろうと佑暉には思われた。けれども、やはり寒さは厳しい。サキは茶屋の施錠を済ますと、先に四条通に向けて歩き出した。佑暉も慌てて追いかけ、彼女の隣に並んだ。
雪の後にもかかわらず、四条通は賑わっていた。二人が並んで歩いていると、交差点の少し前で、サキはふと足を止めた。佑暉もそれに合わせて立ち止まると、
「ねえ、佑暉君のお父さんって何してる人だっけ」
と、サキは彼にきいた。
「プログラマーだよ」
またしても脈絡のない質問だったが、佑暉はこのくらいでは動じないようになっていた。というよりは、すっかり馴れてしまったのだ。それゆえに、驚くこともなく即座に返答できた。すると、彼女はさらに顔を佑暉に近づけると、突飛もないことを言った。
「春休み、会いにいってもいいかな」
覗き込むような視線で尋ねるサキの言葉を聞いた時、初めて佑暉は驚いた。つい先程、彼も同じことを考えていたのだ。だが、人の通りの激しい場所では言いにくいと感じたため、別れる直前にでも提案しようと思っていたのだった。
慎二もきっと会いたいに違いない。不貞とはいえ、自分の妻が生んだ子なのだから。佑暉はそれを強く信じている。だからこそ、彼女をできるだけ早いところ父と引き合わせたかったのだ。
「実は、僕も言おうと思ってたんだ。君の合格が決まったら、二人で東京に行こうって。お父さんも喜ぶと思う」
佑暉がそう伝えると、サキもほっとしたように口許を緩める。
「私、お母さんのこと、たくさん教えようと思うの」
「お母さんのこと?」
「お父さん、別れた後もお母さんと手紙で連絡取り合っていたんだよね? でも手紙では伝えられなかったこと、きっといっぱいあると思う。その頃のお母さんは、私が一番良く知ってるから。それを、伝えてあげようと思うの」
「お父さん、きっと大喜びするね」
「どんな人?」
「優しい人だよ」
歩道の脇で立ち止まっている二人の近くを、男性や子供の手を引く女性、様々な人が流れていく。まるで二人のことなど見えていないかのように、次々と足早に去っていく。
「そろそろ行こうか」
佑暉は、通行人たちの迷惑になっているのではないかと危惧し、サキを急かすように言った。彼女も自覚したのか、「そうだね」と返事をして再び歩を進め、横断歩道の手前から左手の路地に入っていく。その姿を見ると佑暉はさらに安堵を覚え、穏やかな心境で彼女の後に続いた。
置屋の前に着くと、サキは自分の首に巻かれていた赤いマフラーを外した。そして、それをまた佑暉の首に巻きつける。彼女の熱が残ったマフラーからは花の香りがした。サキは置屋の格子戸を開けると振り返り、
「ありがとう」
と笑うと、手を振りながら戸を閉めた。彼女の幸せそうな声は、彼の胸の奥にまでゆっくりと浸透していった。返してもらったマフラーのフリンジの付近を握りしめながら、佑暉は旅館「ふたまつ」へと足を向けた。




