君のために、僕は
深々と雪が舞う中、佑暉はコートのポケットに手を入れ、煙のように白い息を吐きながら祇園茶屋を目指して走った。
平日の夕方、彼女はいつもあの茶屋で踊りの稽古をしているのだ。きっと今日もいるだろう、そして自分を待っているだろう、という期待が、何故か佑暉の脳裏にはっきりと現れていた。
旅館を出た頃に比べ、雪は激しさを増している。佑暉はそれでも、速度を落とさない。
八坂神社の西楼門を少し通り過ぎたところで、ようやく足を止める。向かい側の歩道で信号を待っている殆どの人々は、手に傘を持っている。青になると佑暉は歩き出し、反対方向から歩いてくる傘を差す人々を避けながら、車道を横切った。
横断歩道を過ぎると、四条通には人混みができ、思うように進めなくなった。バスターミナルでは、大勢の人々がバスの来るのを待っている。キャリーバッグを手にした外国人や、たくさんの紙袋を持て余している女性などが多く見られる。多分、年末だから混んでいるのだろうと、佑暉は思った。
茶屋へ行くには、その人混みの中を通り抜けなければならない。途中、何度も観光客たちの背中や肩にぶつかってしまい、その度に佑暉は頭を下げる。怪訝そうな顔をする者もいれば、優しく微笑む者もいたが、その多くが急いでいるのか、落ち着かない様子で腕時計と時刻表を交互に見やっていた。
雑踏からようやく離れると、佑暉は再び歩く速度を上げる。
二つ目の曲がり角の前に来ると、小路の両脇に四角柱の標石が立てられていた。その上には細長く黒い箱のような街燈が取りつけられ、標石には「祇園町南側 花見小路」という文字が彫られている。
佑暉はそれを一瞥し、花見小路通に踏み入れる。右側の並びの角に祇園茶屋はある。茶屋に辿り着くと、格子扉は閉まっていた。鍵がかかっているようで、彼がいくら引っ張っても扉は開かず、入口の暖簾が寒風に切なく揺れているだけだった。
耳を近づけてみても、中からは物音一つしない。
サキは待ってなどいなかった。すべて自分の勝手な妄想だったのだと、佑暉は溜息をつく。それはまた白い吐息となって、空中に吸い込まれるように消えた。
風も出てきて、この時期にしては珍しく吹雪いている。サキは今、どこにいるのだろうか。ただそれだけを考えながら、佑暉は茶屋の前に立ち竦んでいた。雪が容赦なく、彼の頬に吹きつける。
――一度、帰ってまた出直そう。そんな思考が生まれた直後だった。
「佑暉君?」
意識するあまりの幻聴かと思われたが、それははっきりと聞こえた。まるで雪の精でも降りてきたのかと疑うほど、その声は彼の耳の奥へ滑らかに流れ込んだ。
佑暉がゆっくりと身を翻すと、制服姿のサキが立っていた。ショートの黒髪には雪が飾りのように積もり、澄んだ黒い瞳で彼を見つめている。
「……今日はどうしたの?」
まず、サキが問う。
「君も、どうしてここに?」
次いで、佑暉が問い返した。
「補習に行ってたの。一応、受験生だからね。今日はお稽古お休みだけど、習慣でこの辺ぶらぶらしてて、ついでにお茶屋さんにも寄ろうと思って。ここの店主さんから『いつでも使ってください』って、合鍵もらってるから。でも、君がいたから驚いたよ。どうしたの?」
「君に見せたいものがあるんだ」
佑暉はそう言いながら、彼女に歩み寄る。四ヶ月以上も音沙汰がなかったにもかかわらず、彼の態度は毅然としていた。ポケットに手を入れ、中から手紙を取り出そうとすると、サキの言葉が彼を制した。
「ねえ。雪も強くなってきたし、中に入らない?」
佑暉も、彼女の誘いに賛成した。サキは扉の鍵を開けた。彼女とともに佑暉は中に入った。当然、中には二人以外に誰もおらず、照明はすべて落ち、木製の格子窓から真冬の弱々しい光が射しているのみだ。しかし茶屋の中は思ったよりも寒くなく、雪を凌ぐのにはちょうど良いとも思えた。僅かだが、抹茶の香りも残っていていた。
舞台から見て最前列の長椅子の一つに、サキは腰かける。佑暉もその隣に腰を下ろす。サキは「あぁ、寒い」と独り言のように呟きながら、両手に息を吐きかける。白い吐息が、彼女の小さな両手に当たって消えた。
サキは黒いセーラー服以外には肌色のタイツを履いているのみで、マフラーなどの防寒対策は一切していない。どうしてこんな格好で外を歩いていたのだろうと佑暉は不思議がりながら、首に巻いていたマフラーを外し、それをサキに差し出した。
「これ、良かったら使って」
彼女は嬉しそうに頬を薄桃色に染めたが、遠慮したように首を振るのだった。
「悪いよ。それに、私は大丈夫だよ」
「けど、すごく寒そうに見えるよ。風邪、引くかもしれないし」
佑暉は立ち上がって長椅子に腰かけたままのサキに向かい合うと、彼女の首周りにマフラーを巻いた。正美が自分に巻いてくれたように、丁寧に巻きつけていく。その間、彼女も気持ちよさそうにじっと目を閉じていた。
「ありがとう」
巻き終わると、サキが目を開けて満面の笑みで言うので、佑暉は急に気恥ずかしくなった。そして、急いで彼女の隣に座り直す。
「それで、見せたいものって何?」
思い出したようにサキが話を戻した。佑暉もそれを聞いてハッとし、ズボンのポケットに右手を突っ込んだ。中のものを二本の指で摘まみ、それを慎重に引き出していく。彼の腸骨辺りから現れたのは、八つ折りほどにされた白い紙だった。
佑暉はそれを広げると、ぽつりとサキにこんな質問をした。
「君は……君のお母さんのこと、知りたい?」
「どうしたの、急に」
サキの口からは、当然の言葉が返ってくる。
「……ううん。でも君は、お母さんの影響で置屋に入ったんだよね」
佑暉は手の中の母の形見をぐっと握りしめる。
サキの「佑暉君……?」という、戸惑った声が聞こえた。沈黙が流れる間、四条通を走る車の音が妙に遠く感じられた。
黙り合ってから数分が経過したかという時、ようやくサキが口を開いた。
「私、お父さんの顔を知らないんだ。生まれた時から、私の側にいたのはお母さんだけだったから。でもお母さんね、自分のことをあんまり話してくれなかったの。だから、ちょっとだけ知りたい……かな」
舞台の方に目をやりながら、彼女は話す。その横顔は佑暉から見て、寂しそうに思われた。サキは舞台に焦点を合わせたまま、言葉をつなぐ。
「昔、私が生まれる前に、お父さんとは離婚したって話してくれた。でも、そうじゃない気がするの。お母さん、昔から嘘をつくのが下手な人だったから」
「じゃあ、嘘だと思ってるの?」
「分からない。ただ、そう思うだけ。もうお母さんはいないから、知りようがないけど」
弱々しい声で語るサキを見て、佑暉はここに来た本当の意味をようやく見出した。きっと、サキは今も果てしない淋しさと闘っているのだ。唯一の血縁者であった母親を亡くし、希望を見失い、地獄のような暗闇の中で沈痛な日々を過ごしているのだ。地上から救いの糸を垂らしてやり、彼女を少しでも光のあるところまで引っ張り上げることこそが、自分に課された使命なのだと。
再び胸の中に決意の熱が戻り、佑暉はそっと手紙をサキに渡す。
「これを、君に読んでほしいんだ」
サキもそれに目を向けると、戸惑い気味にそれを受け取った。が、すぐ何かに気づいたように立ち上がり、茶屋の入口の方へ駆け出した。
サキは暖簾を片手で少しめくり上げると、先程よりもさらに強さを増した雪が中に吹き込んだ。サキは構わず、もう片方の手に握られた手紙を読み始める。佑暉も振り返ってその様子を見守っていると、次第に彼女の肩が震えていくのを認めた。
黄緑色の暖簾の向こうで吹雪く、無数の雪の結晶。アスファルトのタイルを白く染め、その上を革靴やブーツを履いた人がしばしば通っていく。
サキは肩を小刻みに震わせながら、手紙を読み耽っていた。その「震え」の源流は寒さなのか、心情の変化なのか、佑暉には分からなかった。




