表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
舞妓さんと歩く都街  作者: 橘樹 啓人
第四章 美しき都街
52/62

知る勇気と認める覚悟

 佑暉はふと気がつくと、円山公園まで来ていた。すれ違う人は皆、暖かそうな服装に身を包み、マフラーや手袋をつけている。それらを見た瞬間、佑暉の全身に寒気が走った。旅館を飛び出す時、何かを考える余裕などなかった。でも、彼はせめてコートくらい着てくれば良かったと後悔する。


 改めて自分の今の格好を確かめてみると、紺色のジーンズ・パンツに制服の白シャツ、その上には灰色のパーカーを一枚羽織っているのみであった。


 街は年末に差しかかり、外の気温はめっきりと下がっている。じめじめとした暑さだった夏を鑑みると、凍るようなしつこい寒さの冬に佑暉は今さらながら驚く。立ち止まっていると、冷たい冬色の風が容赦なく彼の頬を突き刺してくる。


 前方から、二人の男女が歩いてきた。私服を着ていて高校生か大学生かは判別できないが、恋人同士のように肩を寄せ合っている。


 その二人とすれ違う際、佑暉の肩が彼女の方の肩と少し接触した。


「あ。す、すみません」


 先に佑暉が謝ると、彼女も軽く頭を下げ、一緒にいた彼氏と歩いていった。


 公園には、枝だけになった枝垂れ桜の木が生えている。葉が全て落ちても、それは反抗期の子供のように懸命に枝を伸ばしていた。佑暉はその下のベンチに腰掛けると、また冷たい風が彼の無防備な顔を嬲る。


 この格好のままこれ以上長くここにいれば、風邪を引いてしまうだろう。それでも、何故か彼は帰る気にならなかった。あれはきっと、父の悪い冗談に違いない。そう信じたかった。


 佑暉は、彼が物心つく前に母は父と離婚して家を出た、と慎二から何度も聞かされていた。それを、佑暉はずっと信じ続けていたのだ。無論、他に血の繋がった家族がいるなど、聞いたこともなかった。


 運良く、サキがここを通りかかって、「佑暉君、どうしたの?」などと声をかけてくれないかと彼は考えたが、そんなドラマチックなことが現実に起こるはずもない。


 佑暉は寒さと虚しさに耐えかねて、一旦旅館に戻ろうと立ち上がった。帰ってもう一度あの手紙を読み直し、それが事実なのかどうかを吟味しなければならない。佑暉はまた、来た道を急ぎ足で引き返した。


 晴れていた空はいつの間にか雲に覆われ、地上の人々に意地悪でもしているように太陽の光すら与えてくれない。交差点まで来ると、佑暉は自分の手を見つめた。寒さからか、真っ赤に染まっている。それに加えて、手があかぎれのようにじんと痛む。京都の冬も、一筋縄ではいかないようだ。


 信号が青に変わると佑暉は再び足を前に踏み出し、そのまま直進して神社の横を通り過ぎて旅館に帰った。正美から何か言われるかと躊躇し、静かに玄関の戸を開けて中を覗いた。


 すると、一人の仲居が玄関周りの拭き掃除に勤しんでいた。真紅の着物の着用し、両方の袖を肩まで捲り上げ、白い紐で縛っている。その仲居が、佑暉の帰宅に気づいて顔を上げた。


「あら、お帰りなさい」


 彼に笑いかけた後、彼女は拭き掃除に意識を戻していた。佑暉は仲居に会釈し、靴を脱いで中へと上がった。正美は見当たらなかった。多分、厨房の方にいるのだろうと佑暉は推測し、部屋に戻った。


 部屋の襖は閉められていた。そこに、僅かな戸惑いを覚える。部屋を出る時、閉めた記憶がなかったのだ。留守中に誰かが閉めたのだろうか……そんな考えを巡らしながら、佑暉はおずおずと襖を開ける。


 机の方に視線を向けると、そこに置いてあったはずの手紙が消えていた。咄嗟に佑暉は机の傍に駆け寄り、下を覗いたり右脇の抽斗を上から順番に開けたりして探してみたが、やはりどこにもなかった。


 その時、後ろから誰かに呼びかけられた。


「佑暉君?」


 彼は驚き、腰を上げずに振り返った。部屋の前で、正美が柔らかい表情で彼を見つめている。


「そこにあった手紙やけど、私が持っていったよ」


 正美の言葉を聞き、佑暉は安心した。しかしすぐさま、何故正美があの手紙を持っていったのだろう、という疑問が生まれた。


「これから、ちょっと私の部屋まで来てくれる?」


 不思議そうに見つめ返す佑暉に、正美は言った。咄嗟に彼も「はい」と首を縦に振る。正美は笑顔で頷き、背を向けて歩き出すので、佑暉も立ち上がって彼女についていった。


 佑暉は、廊下を歩く正美の後ろ姿を眺めた。玄関へと続く長い廊下を横切り、正美の部屋に向かう。正美が自分の部屋の襖を開けると、真っ先に佑暉の視界に入ってきたのは二つの手紙であった。


 二枚の便箋が、半畳程のダークブラウンの机の上にきれいに並べられている。正美は、その机の傍に腰を下ろした。


 佑暉も正美の前に正座すると、覚悟を決めたように彼女を見つめた。正美は、慎二の手紙のことで呼んだのだ。それは、佑暉には分かりきっていた。だが、正美はなかなか切り出さず、沈黙が続くに連れて彼はとうとう彼女から目線をそらしてしまった。今度は彼女の腰帯の辺りに視線を注ぐ。


 何分が経過しただろうか。突然、正美が佑暉の頭を撫でたのだ。佑暉が思わず前を見ると、彼女は彼に優しい眼差しを向けながらこう言うのだった。


「ごめんな。あの人も、悪気があったわけちゃうんよ」


「……父のことですか?」


 佑暉が不安げに尋ねると、正美は微笑みながら頷いた。両目尻に皺が寄っているが、温厚な柔らかい目は依然として変わらない。正美は、佑暉の膝の上で行儀良く重ねられている手に、さらに自分の両手を包み込むように重ねた。


「私も、あの人からあなたを任された時、いつか言う日が来るって思ってた。けど、先延ばしになっちゃって……堪忍な」


 正美の手の温もりが、心の温もりまでも彼に伝えた。母の温もりを知らない佑暉にとって、今は正美が母親代わりなのだ。高校でも、書類上の彼の保護者は正美であった。その手の温かさを感じながら、佑暉は自分の本当の母について考えた。


 ――僕の母親は、どんな人だったのだろう……。


 次第に喉の奥から熱い感情が込み上げてきて、涙がこぼれそうになるが、佑暉はぐっと我慢し、唾を飲み込んだ。


「すみません。詳しい話を、聞かせてもらえませんか」


 正美の顔を真剣に見つめながら、佑暉は頼んだ。正美は驚いたように一瞬だけ眉を動かしたが、また少しずつ穏やかな表情に戻った。


「うん、分かった。そのために呼んだんやから」


 正美はそう言ってまた微笑すると、佑暉の父と母の馴初めから語り始めるのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ