旅亭・ふたまつ
旅館の玄関口をくぐると、すぐに木の匂いが佑暉の鼻をくすぐった。佑暉は、これが京都の匂いだろうかという感動を味わうとともに、先程まで抱いていた不安がワクワクした気分に変わっていることに気づいた。
目の前にはロビーを兼ねた広い廊下。それが奥に続いていて、左を見ると客のものと思われる靴や、上履き用のスリッパなどが格子状の棚に収納されている。右手には木製の戸棚。その上に古い日本人形や招き猫、恵比寿を象った木彫りの人形などが置かれてあった。
廊下はくすんだ茶色をしているが、塵一つ見当たらず、毎日の掃除を怠っていないというのが一目瞭然であった。
佑暉は東京を発つ前、慎二からこの「ふたまつ」という旅館についても詳しく聞かされていた。創業は江戸時代後期で、先祖代々、連綿と受け継がれていったらしい。尚、現在は旅館主が五年前に他界し、子供も今は娘しかいないため、妻が女将として「ふたまつ」を切り盛りしているようだ。
佑暉は、これから自分の住まう部屋に案内された。彼のために用意された部屋は一階の一番奥にあり、彼の想像よりも遥かに広かった。十畳ほどの部屋には、時代劇などで度々目にする、畳に直接座るタイプの机がちょこんと置かれてあるだけだった。木製のその机は、かなり昔に製造されたもののようで、今は赤茶けてしまっている。
「何か困ったことあったら呼んでな」
女の子は言った。この時に佑暉は、この子は女将の娘で、ここに住んでいるのだろうという確信を持った。
佑暉は、彼女から旅館についての簡単な説明を受けた。一階には、大浴場と客が食事をする広間があるだけで、客室は全て二階にあるようだ。そのため、佑暉に用意されたのは宿泊客用の部屋ではなく、旅館主が生前に使っていた部屋だという。今は誰も使っておらず、余っていたからそこを譲ってくれたということだった。
女の子が部屋から出ていくと、佑暉は鞄を下ろした。次いで早速、中からノート型パソコンを出した。いつでもブログが書けるようにと、東京から持ってきたのだ。それを部屋の机に置き、画面を開いた。
しかし、インターネットに接続する方法が分からない。今時の旅館であれば、無線LANでも飛んでいそうに思われたが、幾分歴史の古い旅館だ。これは彼女に聞くしかない、と思った佑暉は、部屋から外に顔だけを覗かせた。
「すみません、あの……」
廊下に出て呼びかけても、誰の姿もない。佑暉は、旅館の前で彼女が「出かける」と言っていたことを思い出した。
佑暉は旅館の中を歩き回ったが、やはり誰とも出会わない。客も今はいないようだ。ロビーの広々とした廊下は、まるで時代を越えて別世界に来たように感じられた。佑暉は次第に、ちょっとした冒険心から旅館の中を探検することを思い立った。
玄関前ロビーの壁には、いつか見たことがあるような日本絵画が太い額縁に入れて飾られてある。また、造られてから百年は経っていそうな置物や、茶碗などが立派なガラスケースの中に整然と並んでいた。
天井を見上げてみると、蛍光灯が床を隈なく照らしている。板張りの床や壁は開業当時から張り替えていないのかと疑う程、一歩進むごとにミシミシという音が鳴る。
――この旅館は、過去と現在を混淆している。
佑暉がそんなことを考えていた時、玄関の戸が突然開かれた。佑暉はその音を聞くと、はっと玄関の方を振り向いた。着物を着た五十代くらいの女性が中に入ってくる。佑暉はその女性と目が合い、心臓が跳ね上がりそうなほどたじろいだ。
「あら、あなた……」
女性にまじまじと見つめられ、気まずくなった佑暉は返す言葉を探した。しかし、頭の中は真っ白だった。この女性は、自分のことを知っているのだろうか。もしそうでなかったら、何と説明すれば良いのだろう。見当もつかない。しかし、その女性はにっこりと微笑しながら彼にこう尋ねた。
「もしかして、河口さんの息子さん?」
この女性が慎二の知り合いであり、この旅館の女将をしている正美であった。
「はい、そうですけど……」
「まぁ、ごめんなさいね。夕方からお客さんが見えはるから、夕食の買い出しに行ってたのよ」
佑暉はそれを聞いて、申し訳ないという気持ちになった。せっかく住まわせてもらうことになったのだから、何か手伝わなければ失礼だ、と。
「あ、あの。何か、お手伝いできることはありますか」
彼の気遣いが嬉しかったのか、正美は優しく微笑んだ。
「おおきにな。でも、今日はええよ。受験、明日なんやろ?」
そうだ、明日は特別入試があるのだ。佑暉はそのことをすっかり失念してしまっていた。
「今日は勉強に専念して、うちのことは明日からやってくれたらええからね」
正美は表情を崩さないまま玄関から上がり、奥の方へ歩いていってしまった。
佑暉は心が晴れないまま部屋に戻り、持ってきた問題集を机に広げる。特別入試は一般入試と同様、国、社、数、理、英の五教科で行われる。
佑暉は勉強を始める前、何気なくスマートフォンでブログのページを開いた。すると、またコメントが一つ増えているのを見て笑みをこぼした。
京都に来る途中、更新した記事に鍵コメントがついていた。鍵コメントは投稿者と管理人にしか閲覧できないコメントで、ハンドルネームの隣に鍵のようなマークが表示されるシステムだ。
投稿者の名前を見ると、「抹茶ぷりん♪」とあった。『これが私のメールアドレスです』というコメントの下に、彼女のものと思われるアドレスが書き込まれている。思いがけない内容に佑暉はドキリとし、戸惑いを覚えた。時間が経つと少しずつ気持ちは落ち着いてきたが、そのメールに対してやはり逡巡した。
顔も見たことのない相手にメールを送るのは、さすがに気が引けてしまう。それでも、彼女が書いてくれたのだからと、お礼と簡単な挨拶を書いてそのアドレス宛に送信した。
彼女からの返信を待つ間、佑暉は勉強に取りかかった。特別入試とはいっても、必ず入れてくれるわけではないのだと父から聞いていた。だが勉強中、どうしても返信が気になり、数分おきくらいに携帯の画面を見てしまい、なかなか集中できなかった。
しかしその甲斐なく、二時間ほどが経っても彼女からのメールは来なかった。