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舞妓さんと歩く都街  作者: 橘樹 啓人
第二章 祇園祭
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鴨川の夜明け

 二人は四条から烏丸までをうろうろし、夜店を見て回った。朝、巡行していた鉾たちはみな解体され、これから蔵に運ばれて来年まで見られないと思うと、佑暉は寂しさを覚えた。後祭でも前祭とは違った鉾が見られるが、長刀鉾などは来年まで蔵の中で眠り続けるのだ。


 解体されつつある鉾を、佑暉は物惜しみするみたいな目で見上げていると、


「京都の夏の風物詩が、また一つ終わっちゃったみたいに感じるね」


 と、サキも彼の隣で言った。


「だけど、いい思い出ができたよ」


「良かった。来た甲斐があったね」


 サキは微笑み、佑暉の手を握った。佑暉は驚き、急いで手を引っ込めた。しかしサキは笑みを消さず、「次のとこ、行こう」と言って歩き出すので、佑暉もそれに従った。



 日が沈み、空は闇に包まれた。しかし、四条通は夜になっても賑やかさを保っていた。サキの希望で二人は四条大橋に行き、中央の辺りから鴨川を見下ろした。右手から、四条通の喧騒が絶え間なく聞こえてくる。川面は街の明かりをきれいに映し、水面に白粉をばら撒いたように燦然と白く光っている。橋の上は十時を過ぎても車の通りが激しく、二人の背後を河原町方面から流れてきた車が、前後をライトで照らしながら通り過ぎていく。


 橋の欄干に両手をかけ、紺色の夜空を見上げながら、サキは呟くように話し始めた。


「よくお母さんが連れてきてくれたんだよね、ここ」


 佑暉は、無言で彼女の横顔を見つめた。もはや、サキの予定とは結局何だったのか、そちらの方を優先させなくても良いのか、という疑問を抱いていたことすら忘れていた。


「下りてみようか」


 サキは佑暉の方を見ながら言った。橋の歩道脇に設置された街灯が、彼女の顔を照らし出す。それを見ると佑暉の胸の動悸は再び活発になり、彼は答えに窮した。しかしサキは佑暉の返答を待たず、左を向くと河原町の方角に歩み出した。佑暉も、静かに彼女の後に続いた。


 橋の袂に来ると、そこから階段で河川敷に下りた。北から南にかけて水が滔々と流れ、その音が橋の上よりもはっきりと聞こえた。近くまで行くと、少し水位が高いように思われた。この間の台風の影響だろうか……と佑暉は漠然と考えながら、川を眺めていた。


 サキはサンダルを脱いで水際に下りると、その場にしゃがんで川の水で手を洗い始めた。浴衣の袖が濡れてしまわないかと不安に思いつつ、佑暉は彼女の後ろからその様子を見守っていた。すると、サキが立ち上がって両手で裾を引っ張り上げ、川の中に入ってパシャパシャと足で音を立てた。


「佑暉君もやる? 気持ちいいよ」


 彼女は佑暉の方を振り向くと言った。


「いいよ、僕は。それより、もう帰らないと」


「まだいいじゃない」


 サキはそう言うと、また空を仰いだ。夜空には丸い月が浮かんでいた。彼女の短い髪が、南からの風によって後ろに流れる。彼岸に見える街の明かりに照らされた彼女の顔は、世界にたった一人残されたような、孤独に沈んだような顔だった。


 それを見て、何か悩みでもあるのかと思った佑暉は彼女に対し、呼びかけるようにきいた。


「どうしたの」


「……帰りたくないの」


 佑暉の問いかけに、サキは答えた。


「帰ろうよ。もうすぐ終電だよ」


「もう少しだけ、君と話していたい。それに、ここからだと歩いて帰れるから」


 ここから「ふたまつ」までの距離は一キロメートルほどで、歩いて帰れる距離ではある。


 佑暉は、頭の中に正美の顔が浮かんだが、葛藤に負け、「もう少しだけ」と自分に言い聞かせた。しばらく経てばサキ自身が帰ると言い出すだろう、という一縷の望みにかけたのだ。


 サキは水際に近寄ってくると、河川敷に立っている佑暉に向かって手を差し出した。それがどんな意味を示しているのか、佑暉は理解した。そして足許を何度も確認しながら水際に下りていき、彼女の手を握った。


 佑暉は引き上げると、サキと一緒に河川敷に上がった。サキが座り込むと、佑暉も彼女の隣に腰を下ろした。彼女の浴衣の裾は、鴨川の水によって濡れていた。前を向くと、対岸沿いの建物がライトアップされたように光り、どこからか電車の音が聞こえるような気がした。


「終電、行っちゃったかな」


 サキは徐に呟いた。その言葉が佑暉にはフラグに感じられたが、そんなはずないと心の中で首を激しく振った。


「あ、メール来てる」


 サキはそう言いながら、佑暉にスマートフォンの画面を見せた。彩香からのメールだった。佑暉がまだ帰らないので、何か知らないか、という文面だった。佑暉は、皆にこれ以上の心配をかけたくないという焦燥感を味わう。


 しかし彼女は携帯をポシェットの中に仕舞うと、黙してしまった。佑暉も閉口し、切り出すタイミングをすっかり失ってしまった。何と言えば彼女が帰るに気になってくれるだろう、という問題だけが、佑暉の頭の中をくるくると回っていた。


 佑暉が懊悩の渦の中で悪戦苦闘していると、近くから話し声が聞こえてきた。耳を澄ましてみると、若い男女のような声であった。周りに目を配ると、橋の真下あたりに二つの人影を発見する。カップルだろうか、と佑暉はそれを見て思った。


 その時、不意に佑暉は鴨川等間隔の法則を思い出した。慎二から聞いた話だが、鴨川の川岸に座り込むカップル同士の距離が、自然に等間隔になっていくのだという。慎二も京都に住んでいた頃、幾度か目撃したことがあるというが、佑暉には本当かどうかは分からない。


「あの人たちも帰れなくなっちゃったのかな」


 サキも、その男女の存在に気づいたらしい。


「結構いるんだよね。ここで夜を明かす人」


 その発言によって、また佑暉の頭の中でフラグが建った。まさか、という予感が僅かに彼の脳裏をちらつく。直後、サキが佑暉の方に顔を向けた。


「……君とお話したいな。佑暉君、自分のことあまり話してくれないから。大丈夫、もし女将さんたちに何か言われたら、全部私のせいにしてくれていい。だから、もうちょっとそばにいてほしい」


 彼女にそう言われると、佑暉は今までにないほど動揺した。感覚というすべての概念が心体から消え失せたかのように、何も考えられなくなる。彼女は、眼前を何食わぬ顔で流れる鴨川をただ眺めていた。


 日付が変わる少し前、佑暉はようやく落ち着きを取り戻した。激しかった鼓動も静まり、段々と状況が把握できてくると、ふと心に一つの疑問が現れる。そして隣にいる彼女を見ると、彼は尋ねた。


「サキ、何かあったの?」


「何かって?」


「その……帰りたくない理由、とか」


「……うん」


 サキは安心としたように微笑すると、


「お稽古が厳しくて」


 と語った。さらに、彼女はこう続ける。


「自分から始めたことなのに、情けないよね。この間、君に偉そうなこと言っておいてお稽古に行きたくないなんて……軽蔑されてもおかしくないのにね」


 サキは佑暉に対し、真っ直ぐな視線を送る。佑暉はその視線を受け、ただ首を横に振ることしかできなかった。その時、彼女の目に涙が浮かんでいるのに気づいた。すると佑暉は、あの心情が再び呼び起こされるのを覚えた。


 佑暉が初めてこの感情に気づいたのは、彼女と二人で東寺を訪れた日の夜だった。ただ、この持て余した慢性的な激情を、如何にして処理すべきか。そればかりが三ヶ月間、彼の心を蝕み、そして彼を悩ませ続けていた。恋心、と呼ぶにはあまりにも不出来であった。


 うまく恋心を扱うための取説があればいいのに、と佑暉がふと思っていると、急にサキが彼の肩にもたれかかった。きらきらと照り輝く鴨川はまるで二人のことを囃し立てるように、相変わらず清らかな音を立てながら、ゆったりと流れていた。


 佑暉は終電のことや、橋の下のカップルの存在など、とうに頭の中から飛んでいた。


 四時半を過ぎると、東の空が薄っすら明るみを増していく。朝陽に照らされた水面が、光を散らす。佑暉は夜が明けるまで、サキと色々な話をした。太陽が完全に顔を出した頃、サキは彼の肩にもたれたまますやすやと寝息を立てていた。


 佑暉は眠った彼女を起こさないようにしながら、じっと川面を見つめ続けていると、遠くで電車のアナウンスが鳴った。


 サキが目を覚ますと、川辺には白い光が降り注いでいた。「帰ろう」と佑暉が告げる。サキが「もう少しだけ」と言うので、佑暉はそこでようやく彼女を説得し、二人は四条通を花見小路通の方向へ歩いた。サキを置屋まで送ると彼女と別れ、佑暉も「ふたまつ」へと足を向ける。


 途中、帰るのが怖くなり、何度も足を止めた。旅館の前に着いても、戸を開けるのを躊躇った。正美や彩香の、失望しきった顔だけが彼の脳裏をよぎる。


 しかし他に帰る場所がないのだからと覚悟を決め、佑暉はそっと戸を開けた。すると正美が奥の方から激しい足音を響かせながら出てきて、佑暉に抱きついた。その時の正美の顔は動揺したように顔面蒼白だったが、彼を抱きしめると涙声で何かを呟いていた。佑暉にはその内容がよく聞き取れなかったが、ひどく心配をかけてしまったことは分かりきっていた。


 正美は、一睡もせずに彼の帰りを待っていたという。「ごめんなさい」と佑暉が頭を深く下げて謝罪すると、正美はぶんぶんと首を振った。


 先日、もう迷惑はかけないと決心したばかりだというのに、あれ以上の過ちを犯してしまったのだ。にもかかわらず、正美は彼を詰るようなことは一切言わず、涙で頬を濡らしながら普段と同じように微笑んでいた。


 もう二度と同じ失敗はするまいと今度こそ固く心に誓い、佑暉は浴衣を脱いだ。彩香と夏葉が起きてくると、彼女たちにも謝った。夏葉は「罰ゲーム」と称して佑暉の頭を数回叩いたが、彩香によって止められていた。


 その後、佑暉は自室へ行き、窓を開けた。隣の建物に日光が遮られて薄暗いが、爽やかな風が部屋になだれ込んだ。学校は終業式の日までしばらく休みなので、布団を敷いて寝ることにした。周囲の人々に感謝し、時にサキの笑顔を思い浮かべながら、佑暉は深い眠りにつくのだった。

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